1話 駅に消え
まだ下宿の前の桜が小さく柔らかな蕾をつけ始めて間も無いころに発つ日が決まった。
5度も電車を乗り継いで旧伊之里町に着いた時には、別れの挨拶をした時刻から丸1日が過ぎて太陽がまた真上にあった。
肌寒いとはいえ春だ。長らく目にしていなかった辺りの山々の緑が、鮮やかに視界の中で萌えているのが眩しい。
送迎車の通るループ脇に立つ銀杏の木々が、客人をひっそりと迎え見守っているような、そんな気もするが、まぁこれは私の心の具合でそう見えるだけで彼らはそこに立っているに過ぎない。
ただ私はその見事な様にしばらくそこに突っ立って見上げていたが、用があってここまで来たことを思い出し、送迎車専用の道路に車の姿が無いことを確認した。
次にやったことはベンチを探すことだった。
目的の場所は地図で確認しただけなので明確な場所が分からないため、せめて迎えが来るまでの間は揺れないものに座って長旅で苦痛を訴える腰を休めようと、座る場所を探していたのである。
駅はとても素朴だった。木造の、昔の平屋の学校を思わせる造りで、それをコンパクトにした感じ、と言って伝わるだろうか。
無人駅なのが少し意外でそれにしては広い。
それがホームに降りたときに違和感だったが、駅舎をくぐったちょうど真中に駅員室と書かれたプレートを見たので、今は駅員の居る必要が無くなったと、そういうことなのだろう。
人がいなくなった場所は空っぽになるのだという当たり前は数年前に終わったかと思っていた。
ここまで辺鄙な場所となると影響が少なかったという風にも、また完全に逆の、つまりは『その必要が無くなった』という風にもとれるこの感想は、私の中では後者を示している。
赤く塗られた屋根は風化して流石にボロさがあるが、出入口の脇の「ようこそ伊之里へ」の看板は手描きのようでとても愛嬌がある。錆びれてはいるが寂れてはない。それが人の名残を感じさせて、少し心が安らぐ。
この町の名というのは、もともとは『伊之里』として知られていた。知られていた、というには辺鄙な場所であるので、そう名乗っていたと訂正すべきであるかも知れない。
それに『旧』がくっ付いて現在の『旧伊之里』になった経緯については、「新しく出来た伊之里に『新』を付けなかったから」というのが一番巷の同意を得やすい由来だ。が、諸説は様々で、「無用の町に新たな名前を付ける意味を見いだせなかった」というのや、「古い町の住人に対して人間が無意識に優越を感じるようにするため」というのもある。
何にせよ『感情』的な理由からは無関係ではいられない。
まるで最後に残った細い藁にすがり付くように人間はやたらとこの『感情』というものにこだわる。こだわる理由は分からなくはない。それが人と機械を区別するための最後の砦だと、人はまだ信じているのだ。
大学卒業と共に就職という形で下宿を出た私は、今日この日に就職先にて社会生活を始めることになっている。
寮がある会社。というわけではなく(こんな辺鄙な町にあるとは思えないが)、警備の仕事に就くという、そういうわけでもない(そもそもここは防犯という言葉と限りなく遠い町のように思える)。
そこは研究室だ。
人型アンドロイドを小さな町にばら撒き、監察し、社会に与える影響やその上で生じる問題を記録する、そのための言わば展望台のようなものである。
ただ研究員がウィンドウから見下ろすのが豊かな緑の山脈ではなく感情データの織り成す起伏の山脈なだけで、叔母に言わせれば50年前の低性能コンピュータでもできるような仕事...というか、本当にそれこそ『人間のする仕事』ではないように思えるか、これは『人間が管理する』という意義的なものが大切なようで、『仕事』としての働きは求められていない。つまり名目上、表面上、世間体としての仕事である。
まさに先ほど挙げた町の名前の由来にあったように『感情』面の問題なのだ。
木造の小さな無人駅舎の端を覗いてみると、あるにはあるが、先客が居る。若い男だった。
遠目にも目が合ったのが分かった。
私は咄嗟に自然な偶然を装って逸らせたが、あちらの視線は私の方に向いたままのようで、それだけでなく立ち上がってこちらに寄ってくる。
座っている時はとても高身長のように思えたが、視線はそれほど上げなくて済んだ。酷い猫背だった。
「久保トウヤさん?」
え?と声を上げる私に彼は笑みをみせる。
私はようやくそこで彼がとても整った顔の造形をしていることに気付き、知らずのうちに少し心内で身構えた。
「お迎えする予定だった牧さんに急用ができてしまって。同じ管理室の、夏木です」
迎えに来ると電話口で言っていた叔母の名前を出されて合点した。そもそも私がこの町に来たのは、研究室にコンピュータプログラマーとして勤務している叔母の紹介があってのことだ。
急用か。
暇だ暇だと言っていた割には忙しそうだ。
差し出されたのは黒い衣服によく映える白い右手だった。握手か?と同様に差し出す私の右手の軌道を躱し、白い腕は懐にすっと入り込む。
唐突に軽くなった左肩とは逆方向に大きく姿勢が崩れる。
「...荷物はこれだけで?」
気付くと手持ちにしていたボストンバッグが男の腕に抱えられていた。長身の男性が大抵そうであるように彼も肉付きの薄い体型のようなので、バッグは私が持っていた時より恰幅良く見えてしまっている。
ええと応じると、ではあの車に乗ってくださいとその指がどこかを示した。
指された方向を見ると、今まで気付かなかったが送迎用の駐車場を行き過ぎたあたりの車道に大型トラックが停めてある。
あれは車ではあるが、一般的に車とは呼ばないだろと思った。
車内は微かに新品の匂いがした。
何がどう、とは言えないが、購入して間もない車か長く乗られていない車に特有の、体に悪そうだがどうしても肺に吸い込みたくなるような。トラックでもこの臭いは車と共通なのか。
夏木さんがエンジンをかけるのと同時にぶるぶるとした振動がシートを通してダイレクトに伝わってくる。ここらへんが車とは違う。なんというか、スケールが?
横を見るともちろんそこは運転席で黒ずくめの彼が座っているのだが、私の頭の中でトラックを運転する夏木さんを俯瞰を想像すると、映像がとても奇妙に思える。
背筋をしゃんと伸ばしてさえいればアンドロイドだと誤解してしまっていたかもしれないと、そう危惧さえ覚えるくらいには、細面の中に均整に配置されたパーツのひとつひとつが精巧でそれが無機物を思わせる。それが私を身構えさせた要因でもある。誰でも初対面ではとにかく気を構えずにはいられないだろう。
黒髪や切れ長の瞳などの顔の造形からするに、もしかしたら生粋の日本人であるかもしれない。
だとするならばその顔貌が相まって実年齢より若い人間のものであろう外見と、彼の落ち着いた朴訥とした雰囲気のミスマッチも、不思議と奇妙には思えない。
まぁ偏見だが。
なんとなく気になったことがあったので尋ねてみた。
既にアクセルの踏まれた車体は駅の道路のループで向きを変え、駅の前を横切る坂を上向きに走っている。
夏木さんはぐねぐねとした道は中心の白線をかなり無視して、およそアクセルを踏みっぱなしにしている。
「免許ですか?もちろん持ってますよ、トラックだけじゃなくて小型ヘリの免許も」
何に使うんだ。小型ヘリ免許。
「あなたの叔母さんがね」
へぇ....。
可笑しそうなクツクツとした笑い声を聞くのと同時に、私は恐ろしいことに気付いた。
思わずダッシュボードに脚を突っ張ってシートベルトを握り締め、悲鳴をあげた。
みっともないとか行儀の悪いとかの文句を受け付けるのは命の安全が確保されてからだ。
「...トウヤさんはあまり叔母さんとは似てないですね。
嘘を容易に信じるところとか」
流石に無免許で他人は乗せられないですよ、と続けた彼は奇妙な動物を見るような目で私を見ている。
免許があるとはいえちゃんと前を向いて欲しい。
「スタンド寄りますね。ガソリン切れかかっていたので」
ガソリン車...。
未だに存在していたのかと驚く。そしてガソリンスタンドも。
伊之里が実験地として採用されたのはまだそんな時代だっのか。
夏木さんが歴史的遺物を操作して右側の車線に移った。
逆走だ、と一瞬ぞっとしたが先ほどからすれ違う車は一台もない。
車を運転する『必要がない』...車の運転を『必要とする人間がいない』のだ。
少しぞっとする。
この町はまるで、息をすることを忘れているようだ。