ファンタジー
よく晴れた日の昼下がり、ぼんやりとした時間に、校舎に四方を囲まれた中庭で一番大きなブナの木の一番太い枝に彼は座っていた。その根元のベンチに座っていた私はそれを見上げながら、危ないなぁ、と言うでもなく思っていた。ふと目線を下げると彼はもう私の隣に座って、あっけらかんと笑っていた。
「声がする方に、ただ呼ばれるままに、顔を向けて、体が向いて、自然に歩いていた。気づいたらここにいた。何の記憶違いもなければ、僕はとても当たり前に、ここにいるはずだった」
彼はいつも抽象的なんだか具体的なんだか、よくわからない物言いをして私をからかった。そのことを思い出すたびに、私の心の端がぷくりと膨らんで、それが見えてしまったからにはむりやりため息をして、私は心をしぼませていた。それから少し冷えた頭でこんなことを思う。本気だったかもしれない、私が勝手にからかわれていると思ったのかもしれない、だとしたら彼は誰にも理解されていなかったんだ、と。私はそう思って少し気分を持ち直していたのだけど、今日はその続きがあった。なぜだろう、気が付いてしまった。あの子が彼をどうやって笑わせていたのかわかってしまった。それを言葉にしようとして、そこで私は夢から覚めた。
学生なんてとっくに辞めてる現実の私は、夜の事務所でデスクに俯せて体をこわばらせながら、つまらない大事な書類の上によだれをたらしかけていた。大事な。あ、やば。びくっと、気づいた時の衝撃で体全体が痙攣して、垂れる前にとあわててよだれをぬぐい白いYシャツの袖を少し濡らした。誰もいない事務所に誰もいないことを確認して、クリーニングに行かないといけないと思った。同じシャツを何枚も何枚も持っていて、アイロンがけの出来ない私はそれをすべて人任せにしてしまっている。クリーニング屋の営業時間のことを考える。20時まで、あと30分。デスクの端では画面の黒いノートパソコンが電源ランプをチカチカと点滅させている。電源プラグが抜けていた。それから、空のマグカップの底には渋が茶色くこびりついている。けどそれは、昨日もそうだった。もういいや。プラグを差し込んでパソコンをたたんだ。書類は寝てしまう前に大体目を通したと思う。ファイルに挟んでカギ付きの引き出しにしまった。上着を羽織り、鞄をもって、事務所を出る。重い扉がガタンとしまって、ピ、とオートロックがしまる電子音がした。
栄通りからキロで離れたちょっと街外れ雑居ビル三階に事務所はある。私はそれと同じ通りに2LDKの部屋を借りていた。二車線の道路沿いを歩いて10分もせずに部屋について、上着を脱いでから、倒れこむように一度ベッドへ沈む。スプリングがたわんで一瞬の浮遊感。足がじわっとして頭がぼーっとする。そのままの姿勢でシャツのボタンをはずしながら考える。クリーニング屋は道路を挟んで向こう側でここから5分。今は19時45分。20時10分までは大丈夫。大丈夫だから、でも、まぁいいや、寝よう。そして時計の音を聴きながら、300まで数えた。300で体がいいよと言った。「わかりました」と返事をする。起き上がり、脱いだシャツとたまったシャツとを合わせて、トートに詰める。お金を持って家を出た。マンションを出てすぐの交差点。青信号。歩きながら時計を見る。19時55分少し過ぎ。クリーニング屋の自動ドアが、57分ちょうどに開く。それを女性の高い声が出迎えた。
「いらっしゃい」
彼女は私よりも六つくらい年上だったけど、顔にはしわひとつなかった。クリーニング屋の顔にしわひとつないのは、出来すぎていた。出来すぎていたけれど、とてもきれいな顔をしたその人を、悪くいうことはとても難しい。
「次からはもう少し早くとりに来てくださるとうれしいんですけど」
「ごめんなさい。家から遠くて」
彼女は、ふふふと笑った。笑ったのに、しわができない。不思議だと思う。
五日分のシャツを受け取って、五枚の汚れたシャツを渡した。
「わたしね、」
前置きもなく切り出した。
「みんな服をここに預けていけばいいと思うの。ここで脱いで、ここで着ていけば、楽ちんじゃない?」
それはあなただけだと思った。
クリーニング屋を出た。もう時計は見ない。ぼんやりと空を見上げる。曇っていたけど月がどこにあるのかはわかった。雲はぼんやりと明るくて、それは中心を持っていた。視線を下げると、私が来るのに合わせて、信号は赤にかわっていた。車は通らない。人も歩いていない。見慣れた街景色で、それは、あんまり長すぎた。私は、さっき見た夢のことを思い出してしまっていた。失敗した、と思った。
少しお酒をのまなくちゃと思った。忘れなくちゃ。だって、いまさら気がついても、もうどうやっても追いつけやしない。