梛の大妖(二)
牛の刻を過ぎた頃、私たちはまた別の被害を受けた場所を調べていた。 やや道を外れたところに、暴風に潰されたような小屋があった。
しかし近づいて見れば、天候現象による災害などではないことがわかる。 厚くはない破られた壁には、人の拳のような形のものが貫通した跡が残されている。
「ここをぶち抜いて、そのあと柱を叩き折った感じかな?」
屋根が崩れ落ち、屋内に立ち入ることはできないが、どうやら、壁をある程度壊してから扉より押し入って、暴れながら柱を破壊したようだ。
「まあそんな感じっぽいわね」
時が止まったような廃屋を覗き込みながら、狐を抱えた少女は答える。
田んぼの中の孤独な廃屋を離れ、畦道を辿り元の道に戻る。 鴨川から離れるほど、被害は多くなっている。 どうもここらへんを縄張りにしているようだ。
通りの薙ぎ倒された民家に、祈りの文句をぶつぶつと唱えている坊主を横目にしたが、若王子への歩みは止めない。
「……八千代、気づいてる?」
「ん? なにが?」
ふと気付いたように後ろを歩く若宇が言った。尻尾を振っている子狐を撫でながら、少女は視線を落としている。
「……なんでもないわ」
若宇にしては珍しく、なにか気付いたけど判断がつかないようだ。 彼女でもよくわからないとはどういうことだろうか。
しかしその後はなんとも言わず、やがて道の先に正東山の麓の若王子が見えてきた。
若王子はごく最近の建立である。 熊野参詣を多くした後白河院が、禅林寺の鎮守として熊野権現を勧請し、隣り合って建立された。
そのため、神社としての日は浅い。 が、最近は武士たちの信仰を集めており、いつ来てもそれなりに人だかりのある場所だ。
しかし、本日は鳥居を潜る人の数も疎らである。
「まあ、仕方ないわよね」
不吉な事件が起きたとなれば、近づきたくないのが人の性だ。 むしろこうしてずんずんと境内を進んでいける、自分と若宇の方が異常である。
境内には、時期を終えて花を落とした桜の木が並んでいる。 しかし、いくつかは無残にも幹を折られ、地面に薙ぎ倒されている。
やがて並木が途切れ、参道の小さな橋が見えてきた。 小川ほどの流れの筋が道を横切っているのだ。 そしてその手前に、これまた折られた木があった。
「こいつが折られたご神木?」
注連縄らしきものが巻かれた木の残骸に触れながら、若宇が呟く。 木の幹は、ちょうど私の腹くらいの位置からぽっきりと折れている。
「この葉っぱは、梛みたいね」
地面に落ちている葉を確かめながら答えた。 しかし、道すがら見た被害といい、桜といい梛といい、どうにも何かの意図があるようには思えない。 本当に、単純に暇で暴れているのだろうか。
「やっぱり、下手人はさっきから見てきたやつと同じね。 どうもさっぱりした胡散臭さを感じるわ」
「さっぱりした胡散臭さ?」
少女の低い位置にある顔に視線を向けて、頭を傾げた。
「まあわからないならいいわよ。 どうも、面白いことになりそうよ」
彼女はいつもながらににこやかに笑う。
若宇がこんなことを言うのは、決まってとんでもなくまずい状況だということだ。 なにやら嫌な汗が額を伝い、気を紛らわすためにわけもなく太刀を差し直した。
橋の向こうから風が吹き、そっちに目をやると、一人の少女が道に立ち塞がっていた。
「面白いことがありそうっていうなら、混ぜてもらいたいところだね」
その少女もまた、笑っていた。 西の唐国風の緋色に染め上げられた深衣は、風で旗のように棚引く。 短く白い髪が巻き上げられ、その影は化生のような怪しさを醸し出す。
「あなた、ただの童じゃないわね」
これは間違いのないことだ。 こんなにも悍ましいなにかを感じる。 問題は、こんなにも近づかれていたのに気付かなかったことだ。
どうやら若宇も同様らしく、さっと真顔に戻って彼女を睨つける。
「なぁに、怪しいもんではないよ。 ただあんたらに面白い遊びを教えようと思って」
彼女が見下ろすように顔を振り上げると、髪に隠れた目が現れる。 瞳は血が満たされたように赤く、きりりと鋭い目尻は跳ね上がり、体躯に似つかわしくない攻撃性を示している。
身を固くして太刀の柄に手を伸ばすと、彼女はそれを見て鼻で笑った。
「いいよ、太刀を抜くといい。 私にとってはほんにおもちゃ、遊びに適した最高の」
少女は橋に向かって歩みだし、そして懐を片手で探り、盃と徳利を引っ張り出した。
「……酒?」
「酒無くして闘いは無し、よね」
若宇がずいと前に出、笑いを浮かべながら橋に向かった。 その手には、小さな猪口と塗りのない瓶子が握られている。
「ったく……」
「よい! 汝はそこで見ているがいい! 酒呑と酒呑で楽しませてもらう!」
深衣の少女が哄笑しながら叫んだ。 彼女は早速盃を口に運び、天を仰ぎながら喉を鳴らす。
「良さそうな盃ね。 私も一杯頂くわ……」
二人は橋の真ん中で落ち合い、互いに橋の真ん中で仁王立ちしながら、交互に酒を喉に流している。
「いったい、あんたらなにしてんのよ……」
呆れながら呟くが、そんな声が若宇と謎の酒飲みに届くわけがない。 足元に子狐がちょこんと座ったので、それに従って腰を下ろした。
「そろそろ、あんたの名前聞いときたい」
数杯を干したのち、ようやく赤目の少女が問うた。 対する若宇は、ひゃっくりをしながら頷き、いつもよりやや高い声で答えた。
「酒と狐の暇な神様、秦ノ若宇…… ひっ」
聞くなり若宇よりやや高い身長の少女は、大笑いして叫んだ。
「やはり神か! あたしはな、ちぃと500年ばっかしここらで飲ませてもらってる、仙人やら神やら人やらひっくるめての大妖怪、百目鬼一って言われてる! さあこい、楽しい闘いの時だ!」
直後、若宇と百目鬼の拳が交差し、互いに顔面を叩いた。 かに見えた。
「ん……く」
若宇の拳は刺さらず、頬を掠めて虚しく空を突いている。 相手の鋭い攻撃のみが若宇の頬を貫いていた。
瓶子と徳利が同時に地面に落ち、中の酒を地面にぶちまけた。 勝ち誇った表情の百目鬼は飛び下がり、同じように若宇も橋から下がった。 痛々しい打撃を受けた若宇を出迎えるべく、腰を浮かせて叫ぶ。
「大丈夫!?」
「なに言ってんのよ一発もらっただけじゃない」
地面に手をついて着地した若宇は、砂の上に唾を吐き捨て、やや赤くなった頬に触れた。
「さあ次だ次だ!」
橋の向こうからそんな声が聞こえたかと思うと、地面にしゃがむ少女の後ろに、胸で手を組んだ仁王立ちで出現した。 黄色い水干から伸びる袖が、振り返りざまに緋色の深衣の腹を叩く。
少女は仰け反り、若宇とほんの拳一つ分まで顔を付き合わせた。 二人は同時に頭を突き出し、互いの額をぶつけ合わせる。 次の瞬間には二人とも姿を消し、橋の上で無数に連打の応酬をしていた。
「いったい……」
百目鬼の木靴のつま先が若宇の脇腹にめり込んだかと思うと、その足を掴み、橋の手摺に叩きつけられ、木材が軋みをあげる。
それでも大して苦しみもせず、踏み込んで正拳を顔面にぶち当て、若宇は反対の手摺を越え、橋の下に転げ落ちて行った。
「さてさて、汝の名を聞いておこうか」
満足そうな笑みを浮かべて、百目鬼が口を開いた。 着衣の乱れ以外は先ほどと大して変わりない様子で、橋をこちらに歩き出した
「若宇が押し負けるって、いったいどんな馬鹿力してやがるのよ……」