梛の大妖(一)
建久年間、弥生の鴨川
二条大路は、京を東西に貫く巨大な道である。 その幅は朱雀大路に次ぎ、京を二つに分けている。 北は公家たちの邸宅ばかりであり、大内裏始め、政の府としての能力の中枢がある。
南は多くの京の民の住まう、行ってしまえば人間たちの街だ。 と言っても、右京はあまり栄えず、専ら左京が民衆にとっての京の中心だ。
寒い季節はもはや終わりを告げ、今や春、弥生の時頃である。
「いい季節になってきたわね……」
風は容赦無く吹き付けるが、身を刺すような冷たさはなく、いつもの直垂でも過ごしやすくなってきている。
「あら、私は冬もわりと嫌いじゃないわよ」
そう後ろから口を挟んできたのは、これまたいつもの黄色い水干に身を包んだ少女、若宇である。 まあそれは神様に寒さも暑さも無いわけで。
「あなたはそうかもしれないけど、私は動きたく季節なのよ」
そう言い返して、腰に差した太刀の位置を直す。
「まあ、私は雪遊びも花見酒もどっちも好きよ」
「まったく答えになってないんだけど」
往来は、それなりに人々が行き交っている。 多くの人間は、外出の要があれば日中に済ませてしまう。 最近は洛中でも夜になれば物騒な状態だ。
そんな事情で、二条大路は市女笠や直垂が、連れ合う者と喋ったりしながら、目的地に向けて歩を進めている。
「そういえば、宇治のあの二人とはどうしてんの? たまに遊びに行ってるみたいだけど」
あの夜以来顔を合わせていない、偉そうな神様と、死なないお付きを思い出した。 たしか、居心地がいいと言って、あそこの山に住み着いたというのは聞いていた。
「一緒に飲んだり、殴ってみたりとかかしら」
「殺し合いも神遊びのうちなのかね……」
なにか殺伐としているが、どうせ神様は死にもしないから、本当にお遊びに過ぎないのだろう。
「で、いまどこに向かってるの?」
二条大路の果てが見え始めた頃、若宇が退屈そうに腕を頭の後ろに回しながら言った。 十代前半にしか見えない容姿と合いまって、つまらない外出に連れて行かれる子供にも見える。
「鴨川の東あたりね。 どうも怪しいことが起きてるみたい」
「怪しいこと?」
「色々だけど、主に猛獣に襲われたみたいに、建物とか木が薙ぎ倒されてたり」
内裏さまからの情報だから、まさか嘘ではないと思うけど、ちゃんと見に行く必要があるだろう。
「今日は、狐は連れてきてるの?」
「いま五匹くらいそのあたりに行かせたわ」
やっぱり仕事が早すぎる。 どうやって今の一瞬で連絡付けたのかは知らないけど、たぶんまともな手段ではないだろう。
鴨川といえば、平安京の東限にあたる。 しかし社寺もあるし、右京の衰退から、それなりに人の移動もある。
「ま、力と暇を持て余した神様の仕業ってところかしらね」
おそらく、最も妥当だと思われる推量を口にする。 最近は仏教の浸透が強く、暇な神様は多い。 それが、何かの拍子に退屈紛れで暴れたりするのだ。
「そんなとこでしょうけど。 会ってみるまでわからないわ」
若宇はよく晴れた青い空を見上げて答えた。
やがて二条大路の長い道は終わりを告げ、洛東の鴨川が姿を現した。 鴨川は賀茂川とも、加茂川とも言う。 古代より氾濫の多い川として天下に有名であり、かの後白河院も思い通りに行かぬと嘆いたと言われる。
その源流は北の山間部の雲ヶ畑に求められ、鄙びたところである。
「…… 最近ここも氾濫とかないわよね」
賀茂川の神が暴れた可能性も否めない。 しかし若宇は、
「こないだ一緒に飲んだけど、暴れてるような様子はなかったわ」
と否定した。 それにしても酒の席が多すぎるような気もする。
河畔についてまずしたのは、川の渡し舟を探すことだ。 幸いなことに、暇そうな老船頭をすぐに見つけたので、少々の報酬で乗らせてもらった。
木造のやや古びた船が岸を離れる。 舳先に陣取った若宇は、川の水を掬ったり岸で拾った石を投げたりと、物見遊山でもしているかのようである。
風で乱れる髪を抑え、向こう岸の方へと視線を移す。 京の盆地を覆う山々が眼前に立ちはだかり、雲の流れ行く空を切り取っていた。
川幅は別段広くもなく、ほんの数分で東岸の桟橋へと降り立った。 船頭に幾らか銭を握らせると、船頭は笑顔で手を振って見送ってくれた。
「で、まずはどこへ?」
水滴のついた手を払いながら、若宇が訊いた。
「最初は、一番遠いけど若王子かしら。 被害が大きいらしい」
若王子は東の山の麓あたりであり、盆地の縁とも言える。
「へぇ、どれくらいやられてるの?」
「それがね、例のご神木の梛が折られたらしいわ」
熊野権現を祭る神社は、梛の木をご神木としている。 梛の葉というのは禊にも使われ、また、船乗りたちは凪として、願掛けのお守りにする。
若王子も梛をご神木として、注連縄をしたりしているが、それが一夜のうちにへし折られたという。 特段風雨などがあったわけでもないらしい。
「梛を折る、さぞかし梛倒し、もとい薙ぎ倒しね」
神様はおかしそうに笑った。
若王子は、およそ二条大路から真東にある。 と言っても、距離としてはなかなか歩かねばならないが。 道の脇には侘しい小ぶりな民家が並び、開け放たれた窓から、目新しくはない調度が覗く。
やや早足で歩くと、道の脇に、途中でへし折られた、太めの木の幹が転がっていた。
「どうも、やられたみたいね……」
折られた箇所は腰の高さくらいで、切り口からは猛烈な力で強引に倒されたらしき、乱雑な殴打の跡があった。 膝をついて口に顔を近づける。
「斧か縋なんかではないわね。 もっと胡散臭い力の残り香がするわ」
若宇が折れた口を触りながら言った。
「神力か妖力の類い?」
「でしょうね」
梢は道の方ではなく、道沿いの田んぼに向けて広がり影を落としている。 どうやら、ほんの行きずりに倒して行ったらしい。
特にこれ以上調べられそうもないし、立ち上がって鞘を差し直して、枝を手にしている若宇に行こうと促した。 特に反対するわけでもなく枝を手放して、道を再び歩き始めた。
「枝なんて要らないでしょ」
「さあ、もしかしたらなんか痕跡があるかも、なんてね」
どうせ触るための口実だったんだろうけど。 道にはやや人がおり、それぞれのんびりと歩いている。 目の前を歩いていた男の影から、一匹の子狐が姿を現した。
「あら、もしかして……」
驚きを口に出したところで、狐は駆け出して神様の足元に縋り付いた。
「いい子いい子」
若宇は背中を掴むと、抵抗しない子狐を抱きかかえた。 狐は小さく短い鳴き声を発した。
「羨ましい?」
「いえ、別に?」
自慢げというか、満足げに若宇が笑った。
二人が気にも留めず過ぎて行った、なんのことはない民家の茅葺き屋根の上に、一人の少女がいた。 古びてよれた緋色の深衣を身につけているが、体に比して余分に大きな袖などは、風を受けて旗のように波を打っている。
「割と腕の立ちそうな神と、それっぽい人間…… 暇つぶしにはちょうどいい」
過ぎ行く二人の背中を見て笑うと、次の風ががくるまでの間も無く、彼女は屋根上から姿を消した。