宇治の青神(ニ)
濁酒を含んで、やや顔を紅潮させている若宇を連れ立ち、宇治橋のさらに南へと足を向ける。 商家は途絶え、田んぼと農家が宇治川に寄り添って並んでいる。
百姓たちの日は短い。 灯りを洩らすところは無く、頭上の薄い雲を被った下弦の半月が、暗い畦道を辿る頼りだ。 もっとも、京でもこの時間まで明るいところは、ごく一部だろうが。
「うーん、この酒はね、私の村の百姓たちが何ヶ月もかけてこさえた濁酒なのよ」
「うん。 知ってる」
「私、最近はなんにもしてあげてないんだけどね、まだこうやって持って来てくれるんだから、そのうち帰ってあげないと」
「うん、飲む度に言ってる」
この少女、大層酒好きだが、けっこうすぐ回る体質らしい。 小さなお猪口をニ、三杯分含んだくらいだが、だいぶ酩酊しているらしい。
「それより、こっちで間違ってないわよね?」
「うん、祭りでもやってそうだよ」
橋の袂で亡霊を退け、纏わりつくような禍々しさは失せた、が、あの武者たちが、何者かによって操られただけの人形なのは、まず間違いない。 問題はその黒幕の場所が、私には皆目わからないこと。
「そんなに疑わなくてもいいのよ」
「あんたは疑ってないけど、酔っ払いを疑ってるの」
田んぼと言っても、もう米はとっく収穫されて、美しい金色の稲穂は無い。 剥き出しの土を見ながら、若宇は瓶子からお猪口に酒を注ぐ。 その足元に一匹の狐が擦りついている。
まだ仔で、毛は生え揃っているが、寒そうに体を震わせて少女の足に張り付いていた。
「ほら、たまには八千代に構ってあげなさい」
そう言って子狐を促し、盃を一気に干す。
「え? ちょっと、逆でしょ」
「んー?」
その意を解したらしく、遠慮なく私の足元まで寄って来て、頭を踝にぶつける。 思わずため息が漏れたが、仕方ない、腹を掴んで持ち上げ、抱えてやる。
「お似合いよ。 ふふ」
「はぁ?」
何言ってんのよ、ちょっとこっち向きなさい…… そんな心の声は届くはずもなく、鼻歌まじりに瓶子を投げ捨てる少女の横顔を見つめる。 子狐は、小さな顔を顎まで持ってきて、無遠慮に舌で舐めてくる。
両手は塞がってるし、無抵抗に顎や頬が舐めまわされる事となった。 後でこの借り返させてもらうわ……
しかし、少しの間攻撃を耐えて歩を進めていると、ぱったりと攻撃が止んだ。 疲れたのかは知らないが、腕の中で眠りに落ち、寝息を立て始めた。
「その子は、私に負けて山の支配者から下りた妖狐の孫よ。 可愛いでしょ?」
まだ手を付けていない瓶子を、ふらふらする手で取り出して、若宇が言った。
「……さあ?」
鼻から寝息を漏らす子狐の顔を見て、ありのままの感想で応える。
「あーん、なんでよー」
「あなたが愛情注ぐのは別に構わないけどさ」
別にそこまで動物好きでもないし。
やがて、道の脇には雑木の木立が現れ、その木立は南の山まで続いているのが見えた。 若宇はその山の方へと、足を踏み出した。黙ってそれに従い、木の根が絡みついた地面へと歩を進める。
飲み終えた瓶子が投げ捨てられ、月光を反射しながら、地面を転がる。 その転がった先から、狐がぬっと顔を覗かせた。 そして私と若宇の歩調に合わせ、間を歩く。
「……わざわざ死ににきたわけ?」
少女が俄かに足を止め、猪口を袖に仕舞って、来た道へと振り返る。 彼女のドスを利かせた声の後、連れ立っていた狐がそっちに吠えた。
「え? どうしたの?」
「あなたも鈍いわね」
殺気、苛立たしそうに言う彼女の体から、人をして畏怖せしめるなにか、便宜的には、殺気とでも呼ぶべきものが発露している。 そのピリピリした雰囲気に後退りしたが、それは自分に向けられたものでないのは確かだ。
彼女の視線の先に顔を向けると、そこには、赤旗を掲げた武者、正確には亡霊が立っていた。 そいつは、自分が持っているものより長い太刀を、私たちに向けて構えている。
目を引くのは、血に塗れた一匹の狐が、その足に食らいついていることだ。 しかし詮無きことで、それが亡霊に対して、何かしらの負担になっているわけではなさそうだ。
「三下の人形崩れが……」
吐き捨てるように言い、足元の小さな石ころを拾い上げた。 どうも、本気で殺すつもりらしい。 酔いは覚めたらしく、いつもの顔色だが、表情が険しい。
石を握り込んだ右手を、太刀を構えて仁王立ちしている亡霊に向けると、激しい音と共に親指で石を弾き飛ばした。 矢玉と化した石ころは、寸分狂いなく武者の左肩に命中、貫通した。
亡霊が揺らめいた次の瞬間には、少女がその目前まで肉薄、左の拳が古びた太刀を叩き折る。 次いで膝が鎧われた下腹部に突き刺さり、その兜を頭突きでかち割った。
「重傷ね…… でもまだ助かるわ」
一瞬にして無力化された武者は膝を着き、若宇はその破壊された像を無視して、息も絶え絶えの狐を助け起こす。
「えげつないわね……」
「興も冷めてしまったわ。 悪趣味な人形の持ち主に言ってやりたいことができたし、さっさと行きましょ」
石ころの発射音で目覚めてしまった子狐を、この隙に下ろしてしまい、山へと踵を返す。 まったく恐ろしい神様だこと……
それから、半刻ほど山を登り続けると、その頂きが見えてきた。 折しも、登っている間に現れた厚い雲が、月を閉じ込めてしまった頃だ。
袖を紐で縛り、古い樹皮に手をついて一息つくと、水滴が頬に落ち、肌を濡らした。 上を見上げると、疎らな枝の間から、雲に覆われた空が覗く。
「雨?」
地面に視線を落とし、怪我した狐を撫でる若宇のもとに、今日連れてきたという、もう一匹の大人の狐と子狐が集まっている。 彼女は、突然の雨については気にしていないようだ。
やがて雨は勢いを増し、初冬の山の土を本格的に濡らし始めた。 木陰に隠れて雨をやり過ごそうとするが、風に乗って吹き込んだ横雨が、一張羅の袴を濡らす。
「女子供が、我々を探っているとな……」
山の反対側の木立から、直垂姿の男が現れた。 身構えながら太刀の柄に手を掛け、一拳ほど刃を抜く。 すぐにその男の背後から、四人の弓に矢を番えた武者が現れる。 もちろん死した亡霊だろう。
「女子供、ねぇ。 気色悪い人形弄びしかできない死者に言われたくはないわ」
その男は、太刀を佩いてはいるが、まだ脅威ではなさそうだ。 むしろ、その後ろの武者たちの方が、今のところは危険だ。
「死者、確かに。 しかし、気色悪い人形とな?」
男は憤懣を覚えた表情で、しかし静かに言った。
「知らぬとは言わせぬ。 我ら伊勢平氏、一度滅びたりと言えども、郎党を人形などと愚弄される謂れはない」
平氏。 見てきた亡霊武者の赤旗で疑ってはいたが、どうやら合っていたらしい。 これでだいたいのことはわかった。 つまり、こいつをとっちめてやればいい。
「愚弄される謂れはない? ふん、それを言うなら私の郎党を傷付けられたことについては、なにかあるのかしら? 私の郎党を愚弄しているの?」
若宇が嫌味たっぷりの笑顔を浮かべ、男に言い返す。 子狐と狐の二匹は、牙を剥いて平家武者たちを威嚇する。
「宇治橋で先に我々の武者を攻撃したのは誰か、それについて考えてほしいものだ」
若宇と男は睨み合い、矢の狙いが彼女に向けられる。 若宇はそれを一瞥し、一笑に付す。
「こっちも忘れないでほしいわね。 いいこと、あんたが数ヶ月も前から起こしてる幽霊騒ぎで、宇治の民も大層迷惑してる。 話は院にまで聞こえてるし、さっさと海にでも帰りなさい」
童子切の太刀を抜き、男と武者に対して構えた。 間は数歩ほど、足場は良くないが、大股で踏み込めば刃の間合いだ。
「まあいいわ。 私の狐を傷付けた奴は始末しといたし、あなたの相手はそこの人間ね」
少女はそう言って、山の闇に姿を消した。 また見物に決め込むつもりだ。 しかし男は、少女が忽然と姿を消したことに、目を白黒させている。
まだ、今のようになって日が浅いから、奇妙な現象に慣れていないのだろう。
「さて、邪魔者はいないし、存分に死合うわよ。 私の名は一ノ鳥居八千代! あなたの名は?」
夜の闇に負けじと、朗々と叫んだ。 男は、山に鳴り響く声が止むと、楽しそうな表情で応えた。
「我が名は伊勢の桓武平氏、維衡流の平重盛であるぞ。 よろしい、受けてたとう!」