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神伝奇譚  作者: 雲仙嶽
10/15

門影

芥川龍之介氏に、無限の敬意と感謝を込めて。

「ああ、もう……」

 呻くようにぼやきながら、その門の下へ駆け込んだ。 ついでに吐き出された悪態は、もちろん京の空を覆う俄雨の雲へ向けたもので、ついでにそれを予測できなかった自分に向けたものでもある。

 昼下がりからのざんざん降りは、手待ちに雨具が無い私には手痛いものだった。 ここ最近なら当然空にあるはずの太陽も隠され、あまり出歩かない右京の端の端で雨に逢い、為す術もなくこんなうら寂れた門の下に駆け込んだわけだ。

「雨宿りできるだけいっか……」

 朽ちかけながらも、右京にしては珍しい巨大な門の下は、灰色の石畳が基礎になっている。 古い木の門を飾る朱も剥がれ、門というには役割を果たし得ないほどに崩れかかり、いまにも落ちて来そうである。

 しかし風が吹こうがびくともしていないあたり、由来頑丈に作られたのだろう。

「さて、どうするかな……」

 石畳に腰を下ろし、門の周りを見た。 雨に(かげ)る寂れた風景は、崩れかけた廃屋と、沼のような泥濘(でいねい)と化した田畑ばかりであった。

 人っ子などいるはずもなく、虫も鳥も姿を潜めている。 ただ遠くから、烏の哀しげな鳴き声が聞こえた。

 まずは体中を濡らしている水を落としたかった。 だけど拭く布などあるはずもないし、着替えだって持っていない。 第一持っていたとしてもそれもずぶ濡れが関の山だ。

「……ったく」

 濡れた髪をばさばさと払いながら、ちくしょう、と悪態をついた。 これじゃ犬っころだ。

 なんとかして我が邸で寝転んでいる二人の同居人を呼べないか考えてみるものの、そんな方法は土台あるはずもない。 それにあの二人なら呼んでもこないだろう。

 顔を上げても目の前は、雨煙の暗黒でしかなく、走って出るにも気力が要りそうだ。 石畳を這うきりぎりすが、やけに気になった。

 今日は楽な仕事だった。 西国へ旅する公卿さまのために(まじな)いせよということで、魔除けとされる種々の儀式をやってから、嵯峨野まで見送った。

 面倒ではあるが、胡散臭い連中相手に切った張ったするよりは随分マシなのは違いない。 そういうわけで昼ごろには、のんびりと左京に向けて出発した。 しかし間も無く俄雨に逢い、ご覧の様で門影にて雨宿りする羽目になった。

「……ここどこだ?」

 そういえば、嵯峨野まで行く道中で、こんなうらぶれた楼の載った、なりだけ大きい門を見た覚えはないのだった。 通ったのはもっとこぢんまりとしていて、しかし壊れてはいないものだった。

「行きはよいよい帰りは怖い、ね」

 きりぎりすを見捨てて立ち上がり、頭上の楼を見上げた。 降りしきる雨の瓦を滑る音が、楼上の屋根から聞こえる。

 石段から楼へ伸びる梯子を見つけたのは、雨がまた一段と強くなった頃だった。 うっかり屋の大工が下ろし忘れたのか、はたまた招かれているのか。

 人に見せて恥にならないほどには装飾された太刀の柄を握りながら、梯子に足を掛けた。 楼上は板敷きの床が張られていた。 所々朽ちかけではあるが、足場を選べば落ちることはない。

 そうして、楼の中への扉を見つけたのは、ちょうど梯子から正反対の方へ回ったところだった。 戸に貼られた風防の紙は、その中からの微々たる薄明かりを透かしていた。

 太刀の柄を一層強く握り、片手で戸を引いた。 開けてまず襲ってきたのは、猛烈な臭気だった。 鮮度を失った肉の腐った、嫌悪感を催す匂い。

 楼の中へまっすぐに向けた目に飛び込んできたのは、予想を覆さないもの、つまり腐乱しきった屍の類いであった。 折り重なって無造作に打ち捨てられた死体は、夏の熱と湿気で容易に腐っていったのだろう。

「これは……」

 さすがに眉を(ひそ)めながら、曲がりそうな鼻をつまんで楼へと足を踏み入れた。 部屋の真ん中に置き捨てられた燭台が、誰の求めか狭く臭い楼を照らす。 汚れた衣服の切れ端を踏んで、その燭台の元へと辿り着いた。

「誰かいるの?」

 遺骸の山を見回しながら呼びかける。 しかし応じる者はいない。 だがこの燭台に灯した者が、絶対にいるはずだ。 灯芯はまだまだ長い。

 すぐ足元に転がっているのは、裸に剥かれた老女の死体である。 しかし、それ以上を伺い知るには、あまりにも傷みすぎている。 その死体に重なっているのは、粗末な布を巻きつけられた骨と皮ばかりの男の体だ。

 衰えたきったその体に、人の命が付いているようにはとても思えない。 一際遺骸が多く積もった一隅に目を向けた。 二重三重に重なった屍は、相変わらず凄まじい臭気を出しながら、ただそこで腐り続ける。

 やがては骨となり土となりゆくのか、そう考えると、随分気が遠くへ行きそうだった。 この楼があり続けて、そこにはこうして、ひっそりと、隠れ報われず消えゆくものがある。

 雑念を振り払うのは得意な方だ。 そんなことは胸のどこかへ忘れて、再び屋内を見回した。

 誰が隠れていようが関係ないじゃない、こんな墓場も必要だ。 燭台は頂くことにして、蝋燭が括り付けられた銅の皿を拾い上げ、楼の扉へと鼻をつまみながら向かった。 私はただの雨宿りをしにきただけ、誰がいようが放っておけばいい。

 扉の取っ手に手を掛けたとき、雨音に紛れてくぐもった物音が、背の方から伝わってきたのである。

 燭台を掲げて振り返ると、そこには五尺五寸(約166cm)ばかりの背丈の、ぼろ切れを纏った男が、屍の山に立っていた。

「待て、俺の話を聞け」

 嗄れた不健康そうな声が、その男の喉から零れ出した。 痩せた体に土気色をした肌を見ると、もう先は短そうでさえある。

「なら俺は誰?」

 取っ手に手を掛けて、いつでも外に出られる姿勢で、骨張った腕を差し出す男を睨みつけた。 大変に衰えているが、顔の皮膚を見ると、まだ齢は若そうだ。

「俺は、いや名乗るほどのことはない。 どうせもう、すぐ死ぬだろう。 だがおまえに、警告しておこう。 俺の話を聞け」

 薄い瞼を眉の間に集めて、目をぎらぎらさせながら、そう執拗(しゅうね)く繰り返す。 これほど弱りきった男になにができるのか、そう考えると、取っ手から手を離していた。

「私はただの雨宿りの客よ。 こんな墓場の住人に用はないわ」

「ならその灯りは要るまい。 置いていけ。 碌なことにならないぞ」

 この燭台が最後の財産なのだろうか。 高く掲げた燭台を指差す手を見つめながら、こう言った。

「少し借りるだけだわ。 雨が止んだら返す」

「いいや駄目だ。 ここからなにかを持ち出してはいけない。 絶対だ」

 よほどに大事なのか、男は燭台について譲ろうとしない。 男の態度に気味の悪さを感じないでもない。 別に盗もうなどとは思っていないからだ。

「いいわ、じゃあわたしも代わりに持ち物を貸す。 これでどう?」

 代わりになるであろうもの、燧石なら持っている。 それを見せるのだが、男は存外強情であった。

「違う、決してここから物を持ち出してはならんのだ。 これはおまえのために言っているのだ」

 男の有無を言わせぬ口調は、少しばかりの怪しさを思わせた。 肉の落ちた顔を睨み、燭台の明かりを差し向けた。 男は、眩しさに目を細める。

「俺のような目に逢いたくないのなら、置いていくことだ。 そして、黙ってこの門を降りろ。 雨はいずれ止む」

「説明が足りないわね。 なにがあったというの」

 そう問いかけると、男は屍の山の上でもがきながら、訥々と語りだした。

「俺はほんの数年前まで、ある邸の奉公人をしていた。 しかし天変地異や台所の事情もあり、暇を出され、途方に暮れながらある門に雨宿りした。 それが、形も場所も違うが、この門だ」

 思い出すような、感慨を感じさせる言い方である。 しかし、形も場所も違うとはどういうことなのか、意味を掴みかねたが、彼は語る口を止めはしない。

「俺はここ、門の楼の内で、同じくこの楼にいた老婆と諍いをし、結局、老婆から引剥いで、去った。 俺はそれから盗人として過ごしたが、夜毎、恐ろしい化け物に追われるのだ」

「恐ろしい、化け物?」

 咄嗟に口を挟むが、男は気にする素振りも見せず、ただからくりのように語りつづける。

「化け物は言う、盗人止まれ、とな。 盗人死すべし、ともな。 命からがら逃げ続けたが、今日はもう無理だ」

 男の諦めの声が、蝋燭の火を揺らめかせたのか。 壁に写る男の影は、陽炎のようにぼやけて、化生のようである。 男の言葉は信じるに足るか、まだ図りかねている。 化け物とは、衰えた貧者の妄言ではないのか。 およそ正気の人間が、本気で口にする文句ではない。

「化け物なんて、そう簡単には現れるものじゃないわ」

「確かに、しかし、この門に棲む化け物は、この門にあるものは全て己の物と心得ている。 ここにある物を取って行ったとき、あの化け物はお前を許しはしないだろう」

 男は疲れたように足を曲げ、屍の山の上に腰を据えた。 衰えた足腰は見るも無残である。 それが長い立ち話を苦にしたのだろう。

「信じられないというのなら、いいだろう、まず燭台を置いて、その扉を出るがいい。 そして楼の周りを巡って、再び楼に入るがいい。 その時なにもなかったなら、その燭台を持って行けばよい」

 男の命ずるところに、別段の不満はなかった。

「いいでしょう。 そう滅多に化け物なんて出てこられるわけはないわ」

 燭台を足元に置き、揺らめく火を見捨てて戸を引いた。 無数の雫を集めた雨音は門の正面の小路を濡らしている。 戸を閉め、楼を巡る廊下を歩き始めた。

 頭上の瓦は雨を受け流し、廊下に雨の手が及ぶことはない。 それに少しの感謝を覚えながら、廊下の最初の角を曲がった。 楼の内からは、なんの物音もしない。

 次の角を曲がった時、頭上からの物音に気付いた。 やや立ち止まって見上げると、瓦が高い音を立てながら、滑り落ちていた。 瓦は雨に混じると、無間の闇に満ちた足の下へ落ちて行った。

 次の角を曲がると、楼の内でなにやら物音がした。 しかしあまりにも微かなその音は、雨音のなかで、か細く囁き声のようなものだった。

 最後の角を曲がったとき、雨のなかに稲妻が輝いた。 それは凄まじい音響とともに、はるか南方へと落ちて行った。

 戸を引いて、なんの疑いもなく屍の臭気に満ちた楼へと足を踏み入れた。 鼻を摘まむより先に、楼の異変へと気が向いたのは言うまでもない。

 灯明を失った楼は、死の匂いに満ちた暗黒、まさに墓場そのものであった。 そして、その中心では、微かな外光に照らされ、余りにも惨たらしく、腹を貪られた先の男の姿があったのだ。

「いったい……」

 語を絶し、部屋中を見回した。 そして、上からの、天井からの物音に気付いたのはやっと、数瞬のちのことであった。

「盗人死んだ、盗人食った」

 その乾燥した囁き声を背を押されながら、楼を飛び出す。 戸を閉め、さっき巡ったばかりの廊下へ……

 稲妻が照らし出すところ、梯子を駆け下る。

 夏の通り雨が止んだのは、その四半刻のちのことであった。 もうすっかり日は暮れ、ずぶ濡れになり、泥濘と化した小路をとぼとぼ歩く。

 この話は別にここまででいいはず。 その後、同じ門へ再び赴いたのだが、そんな門は存在しなかった。 昼に見た質素ながら実用に足る、西国への小門があるに過ぎなかった。

 墓場の門の化け物などいなかった。 なぜなら、そもそも、門自体が無かったからだ。

 聞くところによると、羅生門という、はるか昔に廃れてしまった大門には、死体を捨てられているらしい。

 墓場が足りぬなら、誰も見ない門の楼に捨ててしまえという。 別にそれでよいと思う。 おそらく、墓場の門の化け物は、そこで朽ちゆく死体を見つめながら、食らうべき盗人を待っているのだ。

今回は一話完結でございます。 この小説を始めた当初から、最も書きたかったタイプの話でした。

次回投稿は二月末日あたり、それまでどうぞ気長にお待ちください。 誤字脱字報告、感想などお待ちしております。

それではまた。

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