宇治の青神(一)
建久年間、京の宇治
京の都の夜は、今までになく暗い闇に包まれている。 ここ数年、連綿と続いてきた事が失われているのだ。
端的に言えば、それはみかどの衰微であり、鎌倉殿の興隆である。 西国における争乱は鎌倉殿の勝利に幕を閉じ、その立役者たる源の九郎判官も、その地位を追われた。
そんな激動のなか、みかどの権力は毟り取られ、京の都もその精気を奪われているのだった。
この辻もそうだ。 京の南郊、どちらかと言うと鄙びた宇治、その夕闇の濃さは、自ずと推して量れるだろう。
「寒いわね」
片方を歩く、黄色く染められた古風な水干姿の少女が、笑みを含んだ表情で言った。
「冬だからね」
適当にそう答え、動きやすい最近の直垂の腰に差した、ごく新しい太刀の位置を調節しようとする。 しかし面倒なので、それっぽい位置に留めて放っとくことにした。
「で、今日はどこに行けって?」
「さあ、もうすぐなんだけど……」
ここ何年も狂ってはいない方向感覚を信じ、この暗い中を歩いてきた。 思えば、出発したのは、まだ日が出ている時間帯だった。 つまり、早く片付いたとしても、帰れるのは丑の刻頃になるだろう……
周りを見回しながら、南に向かって歩いていると、隣の少女の後ろを、数匹の狐が列を成して続いているのに気付いた。 当の彼女は、いつの間にか一匹の子狐を抱きかかえている。
「宇治橋の近く、なんか彷徨いてるみたいね」
少女が子狐の頭を撫でながら、口を開いた。 後ろに連なっていた狐たちが、足早に彼女を追い越し、間も無く闇に溶けて行った。 頷きを送り、足を早める。
宇治橋なら、今行っている方向で間違いない。 彼女の言葉を信用している。
「今日は何匹使ってるの?」
「うーん、まあ三匹ってとこかしら。 それより八千代、彷徨いてるのは一人ところじゃなくて、けっこういるみたいよ」
「え、屯してんの?」
「そうみたい」
素っ気なく子狐をあやし続け、子狐が小さな鳴き声を上げる。 出歩いている者などいない辻に、その声だけが響いた。
やがて、並んでいた商家が切れ、宇治川を西と東に渡す宇治橋が姿を現す。 この付近では、旭将軍と呼ばれた木曽次郎義仲方と九郎判官義経、源範頼方が争い、佐々木高綱と梶原景季の先陣争いが行われた場所の、すぐ近くだ。
「内裏様のお達しでもなければ、こんなところ来ないわ」
「あら、私はけっこう好きよ。 楽しい宴会でもできそう」
この少女にとっては、大体のところは楽しいで片付けられるのだ。 でも、古戦場と聞いて、気味が悪いと思わない人間がいるかしら。
河畔に沿って歩いていくと、川の先に月明かりに照らされた、夜の宇治橋の欄干が見えてきた。 洪水があったわけではなく、歌人に歌われるような様相である。
しかし、異様な雰囲気がする。 辻を歩いているだけでは感じられない、禍々しく、呼吸さえも躊躇われる空気である。
それでも歩みは止めない。 橋の袂まではもう数十歩ほどで、立ち込める嫌悪感はその分濃くなっていた。
「……あなたも感じてるでしょ」
「ええ、四半刻くらい前から」
「……」
この嫌な気分のなかで、ずっとにこにこしていたらしい。 さすがの図太い神経だけど、自分には、そこまでの精神力は無いらしい。
「さすが“神様”ね」
「何を今更言ってるのよ」
照れている風ではなく、否定もしない。 満更でもないというところだろうか。
「若宇、じゃあそこに何がいるのか、もう見えてるんでしょ?」
「ええ、とても楽しそうな連中よ」
ころころ笑いながら言った。
「酒入ってる?」
「臓腑には入ってないけど、懐には入ってるわ」
彼女は懐をまさぐりだし、少し時間をかけて、やっと瓶子を二、三本引っ張り出した。 思い出したように、袖からお猪口も持ち出す。
「飲む?」
「遠慮しとく」
まさか、目的地の目の前で飲みなんてできない。 紐で袖を縛り、腰に差した太刀の鯉口を切っておいた。 もうそろそろ、用心しなければならないだろう。
橋の袂まで至り、やがて自分にも聞こえるようになってきた。 橋を越えた対岸から、馬の嗎や、甲冑の触れ合う音が聞こえる。 まるで、小さな合戦でもやっているような。
「行きますか、お騒がせ者をとっちめに」
太刀の柄に手を置いておき、それがいつでも抜ける状態で、橋に足を踏み出した。 騒音と嫌悪感は、一歩踏み出すごとに刻々と強まる。 それらは宇治川の水の音と混じり合い、それはそれは狂気じみた世界を作りだしている。
「数は五、地縛霊の類いね」
草履で橋を叩きながら、狐を連れた若宇が告げた。 いつの間にか、先ほどの狐たちが集まっていた。
「地縛霊なら早く片付くわね」
「じゃ私は高みの見物をさせてもらおうかしら」
隣を歩いていた少女の姿が消え失せ、寒風の吹く橋上に、たった一人残された。 まったくあいつはいつもこんな調子よ…… どうせどこかで見物しながら、あの濁酒を呷るつもりだ。
懐を探り、二、三本のごく小さな懐刀を抜いておき、橋の先の暗黒に駆け出した。 橋は半分を過ぎ、目にはやっと、その地縛霊が見えてきた。
岸では、六頭の黒い馬が猛然と暴れていた。 そして、その背には、短い槍を持ち、甲冑に身を包んだ武者が跨っていた。 だが、その体には、矢が通り、闘争で傷つけられた傷跡から、黒い凝固した血がこびり付いている。
「無念のためにこの世に甦るとか、ね」
走りながら、銀色に輝く小刀を宙に放った。 まず一本が、一番橋の近くにいた騎馬武者の頭に吸い寄せられ、頬の辺りを砕き、亡霊は馬上から崩れ落ちた。
もう二本は、その片方の弓取りの脾と右胸を貫し、力なく土へ帰った。
残った武者たちは、一斉に馬首を揃えた。 私に向けて槍の穂先を揃えたのだ。 すぐに懐を探り、燧石と藁を引っ張り出す。
「来なさいよ。 燃やしてやる」
十数歩の距離から、馬が高く嘶きながら、首を天高く上げた。 燧石を急いで叩き、一握りの藁に火を灯す。薄い月光の下、火炎が揺らめき立つ。
蹄の歓声が轟きながら、土煙を巻き上げ、四頭の馬が肉薄し始めた。 だから私は、燃え盛る藁を地面にばら撒き、腰の太刀、童子切を抜き放つ。
恐れを知らぬ戦馬は、冷たい空気の中で延焼する火炎を物ともせず、まっしぐらに突っ込んで来た。 その頭上からは槍の穂先が迫る。
しかし、その朽ちた馬脚は、いと容易くも火炎に包まれる。
「死体は燃える……」
獲物の目の前で、馬は崩れ落ちた。 その騎手も火を喰らい、宇治の川の流れを聞きながら燃え尽きる。
もう一頭も突っ込んできた。 しかし、炎に洗われ、その身を炭にする。 そのまた次も火の川を越えられずに倒れた。
「愉快愉快」
火が弱まった頃には、幽霊武者たちは誰も残っていなかった。 残った炭に火花が燻り、やがては消えていくはずだ。
「まだ終わりなんかじゃないって、気付いてるでしょ?」
一陣の風が遺体を巻き上げると、目の前の暗闇から若宇が現れる。 やはり小さなお猪口に口を付けていた。
「まだまだ楽しいお祭りは続く、とか言うつもり?」
「そうよ。 だって、まだつまらないじゃない」