兄弟
どうやら俺はフられてしまったらしい。
あまりにも突然の桃の言葉に俺は呆気にとられてしまっていた。
去っていく桃の背中が完全に見えなくなった後も、俺は病室のドアの方向をただ眺め続けていた。
朝霧 霧乃への復讐心。
そのための偽りの恋人関係だったのかもしれない。
ただ、あくまでそれはきっかけにすぎなかったはずだ。
だって彼女と過ごした日々は、間違いなく本物の時間だったのだから。
だが、固く決心をした彼女のあの表情を見た瞬間、俺は何も言葉にすることが出来なかった。
桃──今までありがとう。
俺はベッドに再び仰向けになり、彼女がくれた写真を眺めていた。
これが俺の本当の家族。
そうだ。桃がくれたこの写真のおかげで、やっと全てを思い出すことが出来た。
だが、まさかこんなことって──
悶々としていた俺の元に次の来訪者がやって来たのは、少し早めの昼食を済ませた後だった。
ノックの後、勢いよく病室のドアが開く。
「学人くーん! 具合はどうかな? あんまり私に心配かけないでよ?」
それは聞き慣れたいつもの声だった。
「邪魔するぞ、安部。怪我の具合はどうだ?」
ドアの向こう側から現れたのは、沙衣美と副担任の庄司だった。
「これはお見舞いな。心配してたんだが、怪我も大したことないみたいで良かったな。早く治して学校に戻ってこい!進路相談も控えてるんだからな」
お見舞いの品だという果物の詰め合わせをベッドの横に置くと、庄司はいたずらに笑みを浮かべた。
「それ笑えなーい。ね、学人」
その隣で沙衣美も同じような表情を浮かべている。
「今回の事件のことも、そして三峰のことも、ツラいことばかりだったな。少しずつで良いから、今はゆっくり休むんだぞ──じゃあ、また来るからな」
そう言って庄司が背を向けて去っていこうとする。
そのとき俺の右腕は、無意識のうちに彼女の腕を掴んでいた。
「──俺、全部思い出したんだ。もう、心配しなくても大丈夫だよ。俺、あの頃よりも強くなったから。庄司先生──いや、南姉ちゃん」
「やっと全部、思い出したんだ。ごめん、ミーちゃん。俺、帰ってくるの待ってるから、ってそう約束してたのに。──おかえりなさい」
病室内に静寂が流れている。
気が付けば、先ほどまでの豪雨が嘘であったかのように、病室には太陽のまばゆい光が差し込んできていた。
──10年前──
実家に戻るのは、半年ぶりだった。予期せぬ知らせを受けて家まで戻った私は、その場に呆然と立ち尽くしてしまった。
最後に実家を離れてから、ほんの数ヶ月ほどなのに。
その間に帰る場所も、大切な家族も失ってしまった。
だか私には向かわなければならない場所がある。
それは私に残されたほんの僅かな希望。弟の学人に会うために、彼が入院しているという病院へと向かった。
汗をぬぐいながら、学人のいる病室へと駆け込むと、そこには頭に包帯を巻いたまま、窓の外をぼんやりと眺めている弟の姿があった。
「がっ君? 大丈夫? 良かった、無事で」
ベッドの上の学人の体をこれでもかというぐらいに思いっきり抱きしめた。
だが、学人の口から返ってきた言葉は、私にとってあまりにも残酷だった。
「お姉ちゃん──誰?」
「何、言ってるの? あなたのお姉ちゃんだよ? ねえ、がっ君?」
私は学人の肩に両手を乗せて、問いかける。
「僕のお姉ちゃん? ──ああ、ぁぁぁぁああああ。わからないわからないわからない」
その様子をすぐ隣で見ていた看護師さんが、私の肩に手を乗せて廊下へと連れ出した。
「実はあの子、火災のショックで事件以前のこと何も覚えていないみたいなの」
重い口どりで話す彼女のその言葉を私は到底受け止めることが出来なかった。
「そんな──嘘でしょ? 約束したじゃない。帰ってくるまで待ってるって! ねえ、ねえってば!」
そして私の悲痛な叫び声が学人に届くことは、とうとうなかった。
こうして10年前のあの事件で家族を亡くした私は、遠い親戚である庄司家のお世話になりながらも、何とか高校へは通い続けた。
そして、脳に障害が残るかもしれないと診断された学人は、病院の紹介で児童養護施設へと預けられることになった。
それからというもの私は、昼間は学校へ行き、夜はバイトをしながら死に物狂いの日々を送っていた。
全ては記憶を失った、たった1人の家族をいつの日か迎えに行くために──。自分1人の力でも学人を養えるくらいの大人になるために。
そして、それから10年の月日が経ち、私は小さい頃からの目標だった教師になった。
中途半端な時期ではあるし、副担任という形ではあったが、前任の方が退職されたために急遽採用されることになったのだ。
初めての教え子たち。
少しだけ緊張しながらも、教室へと入った私は、自らの目を疑った。
見間違えるはずがない。
教室の一番後ろの席。そこには元気そうに笑う学人の姿があった。
結局、その後のホームルームでは、学人のことで頭がいっぱいで、ほとんど何を話したかは覚えていなかった。
だが教室内で彼と顔を合わせた限りでは、私のことを覚えている様子は見られなかった。
そして気が付けばその日の放課後、私は学人の後をつけていた。
いま何処に住んでるのかな。ご飯ちゃんと食べてるのかしら。
そんなことを考えていたとき、学人の元に1人の女性が手を振りながら近付いていくのが見えた。
「おっ、お疲れー。今日の学校はどうだったかな?」
「それがさ、凄い美人の副担任の先生が新しく来てさ。口調はちょっと男っぽいんだけどね」
そんな慣れ親しんだ会話を重ねながら、2人は小さなアパートの中へと消えていった。
あの女の人は誰なの?
いてもたってもいられなくなった私は、近くにいたアパートの管理人のに2人のことを尋ねてみた。
「ああ、あの兄弟のことかな? お姉さんの方は確か南ちゃんって言ったっけ。本当に仲が良くてね。実に微笑ましいよ」
一体どういうこと? 南は私だ! 学人の姉は私だ! じゃあ、あの女はいったい誰? 何が目的なの?
それに何よりも、私には学人のことが許せなかった。
なぜ私のことを覚えていないの。私は一度だって忘れたことはなかったのに。私が一体どんな思いで──
そのとき私の中で何かが音を立てて崩れた。
『コワシテヤル。ソノシアワセソウナカオも、タイセツなモノも、カエルバショも全て──』
それはほんの小さな嫉妬心から生まれた私の大きな過ち。
──
姉は俺の手を優しくほどき、窓へと近寄っていって窓を開けた。
病室内を心地よい風が吹き抜けていく。
「──姉失格だよね。あの女と楽しそうに暮らしているがっ君のことが憎かった。あなたの幸せを全部奪ってやろうなんて思って脅迫電話までかけて。今さら許されるなんて思ってはいないけど、本当に馬鹿だ」
「でも結局、それ以上は何も出来なかった。たとえあの女が何者でも、がっ君が幸せならそれで良いんじゃないかって──。でも、違った。本当はがっ君に拒絶されるのが怖かっただけ。私にもっと勇気があれば、今回の事件だって──」
姉の声は、教室では聞いたこともないぐらいに弱々しく震えていた。
「違う、俺が弱かっただけだ。ずっと嫌な記憶に蓋をしたまま現実から逃げてたんだ」
「ううん、いいんだ。ごめん、ごめんね。ずっと1人ぼっちにして。ちょっと一旦、顔洗ってくるね」
そう言って、姉は泣きじゃくりながら病室から出て行った。
「ありがとう。でもね、ミーちゃん。俺は──1人ぼっちなんかじゃなかったんだ。記憶が戻って、やっと気づいた。俺には、いつでもそばに姉ちゃんがいたんだってことに」
俺は視線を入り口のドアから、ベッドの横側へと移した。
「なあ、そうだよな、沙衣美? いや、さえ姉ちゃん──」
その言葉と同時に、窓のそばに置いてあった新聞が風に吹かれてパラパラとめくれた。
『時効間際の追跡劇。10年前、一家を襲った放火事件。容疑者の逮捕に大きく前進。当時、火災で亡くなった祐一郎さん、真純さん、次女、沙衣美さんの無念、晴らされる──』