10年ぶりの梅雨明け
地面に手足をついたまま、俺は返り血を浴びた姉の顔をただ呆然と眺めていた。
いまだに現実を受け止めることが出来なかった。
だが、右肩の辺りから吹き出した大量の血が、今起こった出来事が嘘ではないことを物語っている。
致命傷は避けたようだったが、もはや今そんなことはどうでも良かった。
桃が手にした包丁で姉を牽制しながら、俺の元へと駆け寄ってくる。
「学人、大丈夫? しっかりして」
「あ、ああ、大丈夫。桃の声のおかげだ。──それよりも、何で。なあ、何でなんだよ! 南姉ちゃん!!」
桃が目の前にいる姉を睨みつけながら、口を開いた。
「──この女は、学人のお姉さんなんかじゃない。こいつが、この女こそが、10年前のあの忌々しい放火事件の犯人よ!」
姉が10年前の事件の犯人?
姉が俺の本当の姉ではない?
一体、桃は何を言っているんだ。
そんなバカなことある訳が──
考えれば考えるほど、頭の中は収拾がつかなくなっていく。
「桃ちゃん──あなた、最近ずっと私のことをこそこそと嗅ぎ回っていたようね。ご丁寧に盗聴器まで仕掛けてくれて。本当に目障りだったなあ。私の本当の名前──『朝霧 露乃』っていうのよ。初めまして。とは言っても、もうお別れなんだけど」
安倍 南という名の皮を被っていた朝霧 露乃は、俺の顔を見つめながら、恍惚とした表情を浮かべている。
今まで見たこともないような彼女のその表情に、俺はなんとも知れない恐怖を感じていた。
「それにしてもこの10年間、随分と楽しませてもらったわ。だって家族を殺された少年が、その事件の犯人を唯一の家族だと信じて疑わずに、平然と暮らしているのよ?」
「あの火災の後に、入院した学人の元に行ったとき、それはもう見ていられなかった。──笑いをこらえるのに必死でね。特に家族のことを耳元で囁き続けたときなんて、傑作だったわ。お前の家族はもういない。みんなお前のせいで死んだんだ。そう何度も言うたびに『頭が痛い』って、叫び声を上げるのよ」
「学人、聞いちゃダメ!」
桃が俺の視界を塞ぐかのように、露乃の前に立ちはだかった。
涙が堰を切ったように流れだして、止まらなかった。
だって、大学にも行かずに働いて、こんな俺をここまで育て上げてくれたんだぞ。──たった一人の大切な家族だったはずなんだ。
俺の頭の中に、これまでの数々の思い出が蘇ってくる。
毎日のように食卓を囲んでは、くだらない話で笑い合っていた。ほんの些細なことで、すぐに喧嘩もした。映画を見ながら2人で一緒に泣いたこともあったし、時には悩み事を相談し合ったりもした。
大好きだった。
この人の幸せのためなら、俺は何だって出来る──そう思っていたのに。
「なあ、嘘だろ。嘘だって言ってくれよ。そうか、分かった。ハハ、これも全部、あの悪い夢なんだろ。なあ、南姉ちゃん!」
痛む傷口を押さえながら、悲鳴にも似た声で叫ぶ。
「ああ──もう、最高に良い顔だよ、学人。もっと近くでその顔をよく見せて? この瞬間のためだけに、私はあなたの姉を演じてきたのだから」
完全に狂っている。
俺は膝をついたまま、もう動く気力すらもなくなってしまっていた。
──10年前──
ようやく私の欲望を最大限に満たしてくれそうな獲物を見つけた。
その子供の顔は、誰よりも幸せそうで、そして誰よりも憎らしかった。
「お母さん、もうケーキ買った? 明日の誕生日パーティー待ちきれないよ」
「それはもう、とびっきり美味しいのを用意してあるわよ! あ、パパがね、もしかしたら、桃ちゃんも来てくれるかもって。ママも、まだ会ったことないから凄く楽しみだわ!」
「本当? どんな人なんだろうなあ。今日は早く寝なきゃ」
「あらあら、良い子ね。学人、明日は、最高の誕生日にしようね」
その親子は、大きく膨らんだ買い物袋を両手にぶら下げたまま、家の中へと姿を消していった。
ああ、なんて大きな家──それにあんなにも幸せそうな親子の顔が、全部炎に包まれたら、どれだけ気持ちが良いだろう。
その画を想像した私は、異常なまでの興奮に襲われていた。
学人君っていうんだね。ふふふ、明日は──最高の誕生日にしようね。
傷は、思っていたよりも深かった。
血を流しすぎたせいか、視界が徐々に霞んでいく。
「桃、頼む。ここから逃げろ!」
「いや!! この女は、私が絶対捕まえるんだ。学人も私が守る。時間を稼ぐから、その間に逃げて!」
泣きながらそう叫ぶ桃の手は、大きく震えていた。
「バカ! 虫も殺せないようなお前に何が出来るんだ。いいから逃げろ!」
もう精神的にも限界だったのかもしれない。
桃はついに手にしていた包丁を落とし、その場に崩れ落ちるようにして膝をついてしまった。
「あーあ、こんなに怯えちゃって、可哀想に。すぐに楽にしてあげる。逃げようとしても無駄よ。どうせ、2人とも今ここで死ぬんだから」
──もうやめてくれ。これ以上、俺から何も奪わないでくれ。
声にならない叫び声を上げる。
俺は痛みを堪えて立ち上がり、桃を庇うようにして、露乃の前に立ち塞がる。
「なあ、頼むよ。もう、やめてくれ……」
自分でも聞いたことがないほどに声が震えていた。
「さようなら」
露乃が右腕を振り上げる。
とっさに目を瞑った俺の耳に、鈍い音が聞こえてきていた。
──痛みはなかった。
それとも死ぬ瞬間というのは、こんな感覚なのだろうか。
だが、身体のどこを触ってみても、何かで刺された様子はなかった。
俺は、瞑っていた目をおそるおそる開く。
その次の瞬間、俺の目に飛び込んで来たのは、その場にうつぶせに倒れこむ露乃の姿。
そして、その後ろで血に染まったナイフを持ったまま立ちつくす菜津子の姿だった。
「──無事で良かった。警察も救急車も、すぐに来るから。もうこれで悪夢は全部終わり」
「三峰さん? どうしてここが?」
一体何が起こったのか。すぐにでもそれを確かめたかったが、目の前が真っ暗になっていく。
薄れゆく意識の中、遠くの空で響き渡る打ち上げ花火の音が、確かに梅雨の終わりを告げていた。