彼女の正体
知らぬ間に自らの身に起こっていたという10年前の事件。
そうだ。そもそも今までなぜ疑問に思わなかったのだろうか。
両親の顔も、事件より前の生活のことも、何も思い出すことが出来ないというのに。
それよりも、何で──。
何で南姉ちゃんは、こんな大事なことを話してくれなかったんだ。
考えれば考えるほどに、頭の中は混乱していく。
そして気がつけば、俺の足は自然と家の外へと向かっていた。
そして学校のある方向とは、反対の道を進んでいく。
十字路の角にある公園の中。俺は、そこにあるベンチの上に腰をかけた。
彼女の家は、この辺りで良いはずなのだが。
正確な家の住所は分からなかった。だがこの近くで待ち続けていれば、あるいは。
しかしながらそんな期待も虚しく、徐々に日が暮れてきてしまった。
まあ、元よりすぐに会えるとは思っていない。
今日はもう諦めて帰ろうとしたそのとき、片手にビニール袋をぶら下げて、歩いている菜津子の姿が目の前に見えた。
「三峰さん!」
ありったけの声を出して菜津子を呼び止める。
「──あら、随分と早かったのね。どう? 少しは何か思い出せた?」
それは、まるで俺が訪れてくることを確信していたかのような口ぶりだった。
「いや、何も思い出せなかったよ。でも俺の過去、知らないことばっかりだったんだ。家族のことも、それに──あの火災のことも。頼む、君が知っていること、教えてくれないか?」
目の前の菜津子に向かって頭を深々と下げる。
「そう──分かったわ。もう顔を上げて」
そのときに見た彼女の顔は、遠い目をしており、どこか寂しげだった。
「知っていることは全部話す。その代わり、私の言うこと全部信じてくれる?」
菜津子はそう言いながら、ポケットから大切そうに一枚の写真を取り出した。
「これは──」
差し出されたその写真の中に、小学生ぐらいの少年少女が2人、手を繋いで立っている。
あどけなさはあるが、そこに写っていたのは紛れもなく幼き日の俺と菜津子の姿だった。
「分かった。もう他にあてもないんだ。君の言うことを信じるよ」
その言葉を聞いて、菜津子がにっこりと微笑んだ。
「そう──ありがとう。じゃあ改めて、久しぶりだね、学人君。いや、がっ君! 私は三峰 菜津子。あなたの幼馴染です」
幼馴染だって? この子が俺の?
驚きを隠せない俺をよそに、菜津子は畳み掛けるように話を続けていた。
「そして、私があなたに伝えるべきことは2つ。1つは、もう薄々気付いてるかもしれないよね。がっ君は10年前のあの出来事を機に、それ以前の記憶を失ってしまったということ」
記憶喪失──
やはり、そうなのか。だがそんな映画の主人公のようなことが、本当に起こり得るのか。
──いや、俺はもう彼女を信じると決めたんだ。
現に俺には、7歳のときよりも前の記憶がないのだから。
「そして、もう1つは──」
彼女の声が、先ほどまでとはうってかわって震えていた。
「私は10年前のあの日、貴方の家の庭から逃げ去っていく放火犯の顔を確かにこの目で見たの」
私は雨の中、彼に渡された傘を差しながら、歩いてきた道を戻っていた。
先ほど彼が話していた南さんが働くというオフィスを目指して。
ときどき肩にあたる雨がやけに冷たかった。
期待なんてしてはいけないことは、分かっていたはずなのに。
南さんが働いているというそのオフィスの前に辿り着いた私は、彼女の仕事が終わるのをただ待ち続けていた。
いつの間にか雨は上がっていた。
そして、辺りもすっかりと暗くなってしまった頃、仕事を終えた南さんが私の前に現れた。
「あら? そこにいるのは、もしかして菜津子ちゃん? こんな遅い時間にどうしたの? まさか、私のこと待っててくれたりして?」
南さんは、商店街で会ったときと変わらぬ調子で私にそう声をかけてきた。
「はい、そのまさかです。10年前のあの事件のことで、お伺いしたいことがあって。お時間いただけませんか?」
ニコニコとしていた南さんの顔が、まるで不意打ちに合ったかのような驚愕の表情に変わった。
「何であなたがそのことを──。10年前の事件のことで何か知っているの? でも、今日はもう遅いから。そうね、明日のお昼頃にでもどうかしら?」
私は黙って彼女の言葉に頷いた。
結局その日は連絡先を交換し、次の日の午後、映画館のそばにあるというカフェで待ち合わせをすることにした。
土曜日ということもあって映画館の周辺は、家族連れやカップルで賑わっている。
私が待ち合わせ場所のカフェに着いたときには、南さんはすでにその場所にいた。
「おはよう、菜津子ちゃん! 制服姿も良かったけど、私服も可愛いねえ」
「急に呼び出してしまってすみません。あの──実は私、あの事件が起こる前、がっ君のクラスメイトだったんです。まだ幼かったので、南さんのことは覚えていないのですが」
「──そうだったの。でも、その様子だとあの子、菜津子ちゃんのことも覚えていなかったみたいね。それで、聞きたいことって何かしら?」
「ここ最近、がっ君や南さんの身の回りで何か変わったことはありませんでしたか?」
私の言葉を聞いた南さんは、どこか思い詰めたようなる顔をして俯いてしまった。
そして少し間をあけてから、彼女は重くなった口を開いた。
「変わったこと──実はこれはまだ誰にも言ってなかったんだけどね。実は最近、家の中を掃除してたら、こんなものが──」
そう言って南さんは、カバンの中からあるものを取り出した。
「これは、何でしょうか。もしかして──」
「そう、盗聴器よ。同僚にこういう機械に詳しい人がいるから聞いてみたんだけどね。これが家の中から見つかったの。それだけじゃないわ。他にも最近、家に無言電話が何回もかかってきていて。でも学人には、心配をかけたくないから」
「10年前のあの事件のこと、がっ君に黙っているのもそのためですか?」
「あの事件の後にね、入院した学人の元に行ったとき、それはもう見ていられなかった。特に家族のことを話そうとすると『頭が痛い』って、叫び声を上げるのよ」
「そうだったんですね。それで、何か他に心当たりはありませんか? どんな些細なことでも良いんです。急に彼に近づいてきた人とか」
南さんはしばらくの間、考え込んでいたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。
「そうねえ。思い付くことといえば、半年くらい前になっちゃうけど。あの子、急に年上の彼女が出来たのよ。ませちゃってね。桃さんっていうんだけど。あまりに可愛いからあの子、怪しい壺でも買わされているんじゃないかな、って心配してたのよね」
南さんは、冗談交じりに笑いながらそう話していた。
「あの、その人の──。その人の写真とかってありませんか?」
「どうしたの、急に? 確か私の携帯に写真があったはずだけど」
彼女はそう言って、ポケットの中から携帯電話を取り出した。
「あ、ほらほらこの子。可愛いでしょ」
携帯の画面に写し出されたその写真を見て、私は言葉を失ってしまった。
「あれ? 菜津子ちゃん、どうしたの?」
「やっぱり。──この顔、間違いない。私、昔この人のことを見たことがあります」
「見間違えるはずがない。10年前のあの事件の日──がっ君の家の前から逃げるように去っていった人だ」
「え?」
私の言葉が終わるすんでのところで、南さんが手にしていたマグカップを床に落とした。
店員が慌てて駆け寄ってきて、南さんに声をかけたが、彼女は魂が抜けてしまったかのように、しばらくの間その場で呆然としていた。




