昼下がりの密会
これは夢の中──なのだろうか。
目の前には、年端もいかない少年が1人地べたに座り込んでいる。
「ミーちゃん、どこ行くの? ねえ、ねえってば」
それは今にも泣き出しそうな弱々しい声だった。
「ごめん。がっ君、私ね。これから少しだけ離れた場所へ行っちゃうの」
その少年の他にもう1人、誰かがいるようだ。
姿は見えないが、少女のものらしき声だけは、はっきりと聞き取ることが出来た。
「またすぐ会えるよね? ミーちゃんが帰ってくるまで、僕待ってるから! 約束だよ!」
「うん、大丈夫。ちゃんとここに戻ってくる──約束する」
少女の声が徐々に遠ざかっていく。
そして、俺の意識もそこでいったん途切れることになった。
土曜日の昼時だというのに、商店街は相も変わらず閑散としていた。
その道を横切る俺の身体に、容赦ない日差しが襲いかかってくる。
授業のない休日ぐらいは、冷房の効いた部屋で、のんびりと漫画でも読んでいるべきだ、というのが俺の持論なのだが、あいにく今日はそういう訳にもいかなかった。
まあ、映画館に着くまでの辛抱か。
そう自らに言い聞かせているうちに、待ち合わせ場所のバス停へと辿り着いていた。
どうやらまだ桃.は来ていないようだ。
バス停のそばの木陰に潜り込み、天を仰ぐ。
彼女には申し訳なかったが、正直な所、今日のデートはあまり気乗りしていなかった。
昨日の菜津子の言葉が、どうしても頭からこびり付いて離れないのだ。
『私のこと本当に憶えていないの?』
あの後、何度も何度も頭を捻りながら記憶を辿ってみた。
だが、やはり俺には菜津子のことも、菜津子が口にしていた『約束』とやらにも思い当たる節がなかった。
深いため息をつきながら、視線を前方へと戻したそのとき、目と鼻のすぐ先に、大きな麦わら帽子が映り込んでいた。
「うおっ。桃、いつの間に来てたんだ」
「お待たせ! 何か考えごとしてたみたいだったから。えっと、ごめんね。ちょっと支度に手間取っちゃって。映画、間に合うかな?」
桃が申し訳なさそうに麦わら帽子で顔を隠している。
「俺も今来たばかりだから大丈夫だよ。それに、桃の計画が今までに一度でも崩れたことあったっけ」
俺は笑いながら、彼女の頭に手を乗せた。
「うん、それもそうだね。ありがとう! ねえ、何だかこの場所ってさ、初デートのときのことを思い出すよね」
桃との出会いは、高校1年生のときだった。
うちの高校の文化祭に、友達と一緒に来ていた当時大学生3年生の彼女に、連絡先を聞かれたことがきっかけだ。
それからしばらく連絡を重ね、3回目のデートのときに桃の方から告白をされた。
それにしても、なぜ俺だったのだろうか。
大学生というのは、高校生以上に男女の出会いに溢れているイメージがあったものなのだが。
そのことについて、彼女に何度か尋ねてみたことはあったが、いつ聞いても適当にはぐらかされるだけだった。
まあ、何一つ彼女に対して不満はなかったので、言うことはないのだが。
年上の女性に憧れる年頃でもあったし、何よりも桃は、俺には勿体無いぐらいの器量ある女性だった。
「どうしたの? ボーッとして。何か悩み事かな? 困ったことがあるなら、いつでも相談してね」
「あ、ああ、ごめん! 大丈夫。ちょっと最近、寝不足気味でさ」
桃に余計な心配をかける訳にもいかない。
待ち合わせ場所から、バスでおよそ10分ほど。
映画館が併設されているそのショッピングモールは、この街で一番大きな施設だった。
映画館の他にも、様々な娯楽施設が連なっており、特に休日は若者たちや、家族連れで毎週のように賑わっていた。
バスを降り、映画館のある建物へと向かう。
「ねえ、あのカフェの夏限定のドリンク美味しそうだよ」
桃は、まるで年下の子供のようにはしゃいでいた。
彼女が指差したそのカフェの店頭に何気なく目を向けた瞬間、思いがけず俺の視線は釘付けになってしまった。
彼女が話していた夏限定のマンゴースムージーが魅力的だったからではない。
そのカフェのテラス席に見覚えのある2人の顔があったからだ。
おいおい、嘘だろ──
俺の目に飛び込んで来たのは、先ほどまで俺の頭を悩ましていたあの菜津子と、そして姉の南の姿だった。
南姉ちゃん?何でこんな場所に。今日も確か仕事のはずなのに。
「どうしたの? 急に立ち止まっちゃって」
「い、いや、何でもないよ。行こうか」
この距離からでは、2人が何を話しているのかを聞きとることは出来なかった。
それにしても、昨日の今日だぞ。
偶然か、いや、あの人が仕事を放り出してまで、こんな所に来るとは思えない。
つまり、それなりの理由があったということだ。
あいつ、今度は、南姉ちゃんに近づいて一体何を企んでいるんだ。
結局映画が始まってからも、モヤモヤとした気持ちを拭うことが出来ず、あっという間に2時間が経ってしまった。
もはや俺の頭の中には、映画の内容など1ミリたりとも入って来てはいなかった。
「ああもう、この映画すっごく良かった。それにしてもエンドロールで、シオミンのあの曲を流すのは反則だよね。私堪え切れなくて少し泣いちゃったよ」
「え、ああ、そうだね」
桃の言葉に何と返して良いのかが分からず、曖昧な相槌を打つことしか出来なかった。
「学人、何だかあんまり顔色が良くないよ。どこか悪いの? 今日は早めに帰ろっか」
桃が心配そうに俺の顔を見つめている。
「うん、ちょっと風邪でも引いたみたいだ。ごめん、せっかくのデートなのに」
「いいのいいの。どうせ、いつでも会えるんだし。身体には気をつけてね」
結局、予定を早めに切り上げて、2人で帰路につくことにした。
家に帰ったら、南姉ちゃんにそれとなく聞いてみよう。
桃と別れ、アパートの前に着いたそのとき、後ろから誰かに呼び止められた。
「あ、安倍さんとこの。ちょっと良いかしら?」
振り返ると大家の北村さんが、首にタオルを巻いたまま手招きをしていた。
「こんにちは。どうされたんですか?」
「実はね、今朝方だったんだけど、おたくの部屋の前をウロウロしてる女がいたんだよ。最近、この辺りも物騒だから、つい気になってね」
「それ、どんな人だったか憶えています?」
「いやあ、声をかけたら、あっという間に逃げてしまったからねえ。顔はよく見えなかったけど、若い子だったと思うよ」
「そうですか。ありがとうございます」
俺は家の中へ入るなり、冷房をつけるのも忘れ、ベッドの上に仰向けに倒れこんだ。
──最近、何かがおかしい。
それもこれもあの編入生が現れてからだ。
混乱する頭を何とか整理しようとしていた矢先、電話のベルが家中に鳴り響いた。
南姉ちゃん、まだ帰ってきていないのか。
鳴り続く呼び出し音に嫌気が差し、リビングへと向かい、受話器をとった。
「はい、もしもし。安倍ですが。もしもし?」
何度も呼びかけてみたが、応答がない。イタズラだろうか。仕方なく受話器を置こうとしたそのとき、電話口から声が聞こえてきた。
若い女の声。
「コワシテヤル。ソノシアワセソウナカオも、タイセツなモノも、カエルバショも全て」