崩れ始めた日常
今年の夏は、例年以上の暑さだった。
気温が30度を超える中、冷房もない教室で真面目に勉強をしろというのが無理な話だ。
結局、授業の半分以上は頭に入ることなく、気が付けば放課後を迎えていた。
授業が終わってからまだ間もないというのに、教室の窓の外からは、野球部員達のバラバラな掛け声が聞こえてきている。
しかし、よくもまあこんな炎天下の中で、運動が出来るものだ。
俺は心の中でそう彼らのことを讃えつつ、目の前で帰り支度を整えている沙衣美に声をかけた。
「なあ、沙衣美、帰りにどっか寄って行かね? 常松さんの店でアイスでも食おうぜ」
「お、いいねえ、って言いたいとこだけど、今日は止めとく。この後、一雨来るみたいだし、学人も早めに帰った方が良いよ」
あれ、いつものコイツなら、確実に食いついてくるはずなのに。
沙衣美は、俺のことなどお構いなしにそそくさと教室を出ていってしまった。
チェッ、つまんねえの。
舌打ちをしながら、1人教室を出ようとしたそのとき、ふいに後ろから声をかけられた。
「あの、学人君。良かったら途中まで一緒に帰らない? まだこっちに来たばかりだから、この街のこと知りたくて」
振り返るとそこには、顔を少し赤らめた菜津子がモジモジとしながらこちらを見ていた。
何の予定もない健常な男子高校生が、こんな美少女の頼みを断る理由など、一体どこにあるというのだろうか。
「う、うん、もちろん。この辺りのことなら俺に任せてくれ」
その魅力的な誘いを二つ返事で了承し、街を案内がてら一緒に帰ることにした。
彼女の家の場所によっては、回り道も考えていたが、どうやら家の方向は、ほぼ同じのようだった。
前の学校のことや、家族のこと。
そんな当たり障りのない話をしながら、商店街を抜けていく。
風が吹くたびに、隣にいる彼女の長い黒髪からは、気品あふれる良い香りが漂ってきていた。
それにしても、まさか三峰さんの方から声をかけてもらえるなんて。って、いやいや待て。こんなところ桃の奴に見つかったらシャレにならないぞ。
そんな修羅場を想像し、緩んだ頬を引き締めた矢先、前方から聞き慣れた声が聞こえてきた。嫌な予感がする。
「あれー? そこにいるのは、もしかして学人君? しかもそんな可愛い子、引き連れちゃって。もしかして浮気かな?」
──ああ、嫌な予感が当たってしまった。
それにしても、この人は。こんな公衆の面前で何てことを言ってくれるんだ。
「バカ、ちげーよ、南姉ちゃん! 転校生の三峰さん! あ、ごめん。この人がさっき話したうちの姉ちゃん」
「あ、あの、はじめまして。三峰 菜津子です」
菜津子がそう言い終えるや否や、姉はいつの間にか自転車から降り、目の前にいた彼女を抱きしめていた。
「みみねちゃん! ああ、もう可愛いなあ。目もクリクリしててお人形さんみたいだね」
「ななな、何やってんだよ。こんな道のど真ん中で!」
「おやおや、思春期の青年には刺激が強すぎたかな? ただのスキンシップだよ。って、いけない。私この後仕事だった! じゃあ三峰ちゃん、今度是非うちに遊びに来てね」
そう言い残すと、姉は自転車に跨り、颯爽と去っていってしまった。
それはまるで嵐のようだった。
まだ台風が訪れるにしては、時期的にも少し早いのだが。
「学人君のお姉さん、面白い人だね」
頭を抱えて立ち尽くす俺に、菜津子が優しく微笑みかける。
「本当にごめん。あの人も、もういい年だってのに」
姉とは少しばかり年齢が離れていたが、背も低く童顔なため、一緒に街を歩いていても、同級生と間違われることがほとんどだった。
「全然気にしてないよ。それよりもここ」
見覚えのあるアパート。彼女を送るつもりが、どうやら俺は自宅の前に来てしまっていたようだ。
「ご、ごめん。つい、いつもの癖で。送っていくよ」
「ううん、大丈夫だよ。私の家、ここを真っ直ぐ行ったところだから。それよりも私、今日ずっと学人君に聞きたいことがあったんだ」
菜津子の顔が一瞬、別人のごとく豹変したように見えた。
慌てて目をこするが、目の前には天使のような顔立ちをした少女の姿しかない。
まさか、一目惚れしました、なんてことじゃないよな? いや、でも放課後、他の奴らを差し置いて俺を誘うってことは──
そんな妄想を膨らませている俺の前で、菜津子が小さく口を開いた。
「私のこと本当に憶えていないの?」
「約束したのに。やっとの思いで私、がっ君のこと見つけたんだよ?」
今度のそれは見間違いではなかった。背筋が凍り付くような冷たい視線。
目の前のその菜津子の顔には、もはや先程までの面影はどこにもなかった。
いったい、この子は何を言っているんだ。間違いなく今日が初対面のはずだ。それなのに。
思わず後ずさりした俺の頭に、冷たい何かが当たった。頭頂部に手を当て、慌てて空を見上げる。
それはまさに恵みの雨だった。
辺りを見渡して、この場を切り抜けるための材料を必死に探す。
「あ、あ、雨だ。って南姉ちゃん、洗濯物干しっぱなしじゃんか。三峰さん、傘持ってなかったよね。これあげるから! じゃあ、また学校で」
俺は手にしていた傘を押し付けるように菜津子に渡し、アパートの中に向かって走り出した。
「ちょっと待ってよ。まだ何にも、それにあの事件のことだって」
そんな彼女の言葉を遮るようにして、自宅の玄関へと入り込み、勢いよく扉を閉める。
何度も鍵が掛かっていることを確認すると、俺はその場に座り込んでしまった。
いったい誰なんだ。あの子は。
彼女に『がっ君』と、そう呼ばれたとき、急にいつもの頭痛と吐き気に襲われた。
そうだ、初めて教室で彼女と言葉を交わしたときのあの違和感。
なぜ彼女は、俺の名前を知っていたのだろうか。
ドアの外では、雨音が一段と強くなっていた。
干しっぱなしの洗濯物のことなど忘れ、俺はしばらくの間、玄関から一歩も動くことが出来なかった。