ナツノオトズレ
「ねえ、何でそんな暗い顔してるの? ほらこんなに天気も良いんだし、外行こうよ!」
火事のショックで塞ぎ込んでいた俺の前に、ある日突然現れた1人の女の子。
俺の気分などお構いなしに、笑顔でぐいぐいと腕を引っ張ってくる。
でも何故だか悪い気はしなかった。
これが初対面のはずだった。
だが彼女を見ていると、不思議と心が落ち着くのだ。
そして、彼女の──沙衣美の姿が俺にしか見えていないことに気付いたのは、それから少し経ってからだった。
だが、そのことを怖いと感じたことは一度もなかった。
沙衣美の声も笑顔も暖かくて、そしてどこか懐かしさで包まれていたから。
やがて月日は流れ、俺は育った町を離れ、露乃と一緒に都会へと引っ越すことが決まった。
実はそのとき、もう沙衣美には一生会えないんじゃないか、という不安と寂しさでいっぱいだった。
新しい学校での初めての登校日。見知らぬ土地。まだ見ぬクラスメイト。気分が乗らず、うつむいたまま歩いていた俺は、ふい肩を叩かれて後ろを振り向いた。
「おっはよう! 朝からそんな辛気臭そうな顔してどうしたの?」
そこには、転校先の制服に身を包んだ沙衣美の姿があった。
──ああ、良かった。
辛いときも、嬉しいことがあったときも、いつだってそばには沙衣美がいてくれた。
沙衣美がいたから、俺は昔の明るい自分を少しずつ取り戻すことが出来た。
それは、俺の記憶の欠片が作り出した幻想──
病室にいる沙衣美は、何も言わずにただ微笑んでいた。
「さえ姉。今まで本当にありがとう。もう大丈夫──だよ。父さんや母さん、さえ姉の分まで、俺は前を向いて生きていくから。だから、今までありがとう──」
沙衣美は何も言わずに首を縦に振った。
そして次の瞬間、突如病室に突風が吹き込んできた。
そのあまりの勢いに思わず左手で顔を覆う。
そしてハッと我に返り、慌てて目を開けたが、もう彼女の姿は病室から跡形もなく消えていた。
不思議と涙はこぼれなかった。
そうだ。たとえ、姿は見えなくても父さん達や、さえ姉はずっとそばで見守っていてくれるはずだから。
病室を吹き抜ける風は冷たくて、やけに心地が良かった。
ありがとう──。さえ姉。
俺は天井を仰ぎながらもう一度、心の中でそう呟いた。
──数日後──
照りつけるような日差しが、私の身体を蝕んでいる。
10年前のあの日以来、私は夏という季節が大嫌いになった。
この時期が訪れる度に、彼のあの表情を思い出してしまうから。
あの10年前の誕生日パーティーの日、私は体調を崩してしまい、結局参加をすることが出来なかった。
『絶対にがっ君の家に行く』
そう泣きながら母親に駄々をこねたが、結局許しを得ることは出来なかった。
そして、その夜、あの火災が起こった。
行かなくて本当に良かった──。次の日、焼け落ちた彼の家を見て最初に出た言葉がそれだった。
そしてその後、私はすぐに彼のお見舞いへと向かった。
だが、彼の変わり果てた姿を目の当たりにして、私は自分の言葉を後悔した。
『行かなくて本当に良かった』
少しでもそう思ってしまった自分が恥ずかしかった。
もし、私が行っていたら。もしかしたらだけど彼を、彼の家族を救えたかもしれない。
『ごめん、ごめんね。がっ君。守ってあげられなくて』
無表情のまま、窓の外を眺め続けている彼に、私はただ泣きながら謝ることしか出来なかった。
重い足取りのままスーツケースを引きずり、ようやくバス停の前まで辿り着いた。
きっと今込み上げてきている吐き気は、この暑さのせいだけではないのだろう。
あの事件の夜から数日が経っていた。
だが、私の手にはいまだに人を刺した感触が残っていた。
眼前に舞う血しぶき。ナイフが刺さった瞬間に伝わった人の身体の肉の柔らかさ。崩れ落ちた霧乃の冷たい眼差し。
思い出すだけでも身の毛がよだつ光景だった。
私はとうとう彼の病室へは、一度も顔を出さなかった。
会ってしまったら、決心が鈍ってしまいそうだったから。
私はこの街を離れることを決めた。
いくらがっ君を守るためとはいえ、私のしたことは許されることではない。どちらにせよ、もうこの街にはいられない。
前方からバスがやって来るのが見えた。到着までには、まだ時間があったはずなのに。
「なっちゃん!!」
そのとき、背後から聞き覚えのある声がした。
嬉しかった。そして何年ぶりだろうか。──君にそう呼ばれるのは。
後ろを振り返ると、そこには寝間着姿のままの学人の姿があった。
「どうしたの? まだ傷、癒えていないんでしょ。安静にしてないと──」
「転校するって本当なのか? やっぱりこの前のことが原因?」
私の言葉が終わる前に、彼はそう詰め寄ってきた。
「うん、そうだよ。いくらがっ君を守るためとはいえ、私は人を刺したんだもの。──そういえば、もう記憶は戻ったのかしら」
──あの時の私との約束も。
そう続けようとした私は、慌てて口をつむぐ。
あんな子供の頃の約束、記憶が戻っていても覚えているはずがない。
子供の頃、ずっと泣き虫だった私。そんな私をいつも助けてくれたのは、幼なじみのがっ君だった。
『いつもごめんね。がっ君。私、決めた! もっと強くなる! がっ君に何かあったときに今度は私が守れるくらいに。だからね──その、そのときは──』
『うん。ありがとう、なっちゃん。分かった。じゃあ指切りげんまんしようよ!』
それは10年以上前から、私が追いかけ続けていた約束。
バスの運転手が、乗らないのかというような表情をこちらに向けている。
「私ね。もう2度とこの街には来ないわ。だからがっ君とも、もう──」
気が付けば、彼の左手が私の右腕を掴んでいた。
「勝手なこと言うなよ! やっと、やっと全部思い出せたんだ」
痛い。痛いよ。私はもう何も考えることが出来なかった。そして、私の耳にバスの発車を告げる音が聞こえてきていた。
「なっちゃん──。俺のこと、守ってくれて本当にありがとう。今度は、今度は俺が君のことを守れるくらい強くなるんだ。そして、必ず君を迎えに行く! だからその、そのときは──」
それは10年前に、私が君に伝えた言葉。
ならばその続きは──
「俺と結婚して欲しい」
ああ、覚えていてくれたのだ。
他の人が聞いたら、そんな昔の──ましてやそんな子供同士の約束なんて、と笑うかもしれない。
でもがっ君はその約束を忘れていなかった。
こぼれ落ちる涙が止まらない。
私の顔が、彼の胸の中に引き寄せられる。
「うん。うん、分かった。ずっと待ってるから」
彼の腕は、どこかひんやりとしていて、冷たかった。
それはまるで、私に纏わりついていた夏の呪いを解きほぐしてくれるかのように。
まだ8月を迎えたばかりの、私にとっての特別な日。
10年前ほど前に置き忘れてきた夏が、ようやく今私の元にも訪れた。




