訪れた夏
今年もあの忌々しい夏がやってきた。
照り付ける日差し、蚊取り線香の匂い、けたたましい蝉の鳴き声に、打ち上げ花火の音。
その全てが嫌いだった。
毎年この時期になると、頭痛と吐き気に襲われる。
はっきりとした原因は分からない。
だが薄々とは感じていた。
おそらくは目の前にいるあの女のせいなのだ、と。
住宅地の路地の裏。
他に人の気配はなく、辺り一帯は不気味なくらいに静まり返っていた。
女の右手に握られた出刃包丁が、外灯に照らされて青白い光を放っている。
だが、どんなに目を凝らしてみても、その女の顔を判別することだけは出来なかった。
もうやめてくれ。これ以上、俺から何も奪わないでくれ。声にならない叫び声を上げる。
「そいつから逃げて! お願いだから、早く 」
どこかで聞き覚えのある別の女の声がする。
「なあ、頼むよ。もう、やめてくれ──」
やっとの思いで絞り出した言葉。
だが、自分でも聞いたことがないほどに声が震えている。
俺はもうその場から逃げるどころか、立ち上がることすら出来なかった。
「さようなら」
背筋が凍るような冷たい声。
同時に女が右腕を振り上げる。
そして、
鈍い音と共に、俺の眼前にはおびただしい量の鮮血が飛び散っていた。
5日ぶり、今年に入ってからはもう3度目になる。
まさに最悪の目覚めだった。
額の汗を拭ってベッドから体を起こす。
またあの夢だ。
毎年この時期になると、決まって何度も見る不気味な夢。
まとわりつくような不快感を拭えないまま、机の上に置かれた時計に目を向ける。
だが、そこに表示されている時刻を見た瞬間、全身の汗があっという間に引いてしまった。
午前8時15分。
いくら自宅から高校までの距離が近いとはいえ、それはまさしくデッドラインの時間だった。
ちくしょう、南姉ちゃん。出かけるならついでに起こしてくれたって良いじゃないか。
心の中でそうボヤきながらも、慌てて制服に着替えていく。
そして、テーブルの上に用意されていた朝食などには目もくれず、一目散に家を飛び出した。
校門を潜ったときには、すでに始業のベルが鳴り響いていた。
一気に階段を駆け上がり、教室の前まで辿り着いた頃には、もう制服のシャツは汗で湿りきっていた。
「おはよう! 学人君は、今日もギリギリセーフだね」
ドアの向こう側で、沙衣美がニヤニヤとした顔でこちらを見ている。
「うるせえな。間に合えば、30分前だろうが、3秒前だろうが一緒だろ」
息を切らしながら、沙衣美の横を通り抜け、最後部の自分の席へと腰をかける。
身体をぐったりと机の上に預け、いつものように教室全体を観察する。
同じことを繰り返すばかりの退屈な毎日だった。
そして、何ら変わりのない教室内の風景。
真面目な学級委員長に、教室の隅でたむろっている不良たち。不登校の生徒もいれば、アイドルの話題で盛り上がっている女生徒たちもいる。
そんなどこにでもいるようなクラスメイトたち。
だが、よく見ると今日はその様子が少しおかしかった。
教室内がいつにない慌ただしさで溢れかえっているのだ。
それに普段は時間に厳しいあいつが、まだ教室に来ていないのも珍しい。
まあ、そのおかげで助かったといえば、助かったのだが。それにしても、何か事件でもあったのだろうか。
「何だかね、編入生が来るみたいだよ。しかもとびっきりの美人って噂で持ちきり。ま、でも関係ないか。君には可愛い彼女さんがいるもんね」
いつの間にか沙衣美が、俺のすぐ横の空席に腰掛けていた。
こいつには俺の心が読めるのだろうか。
沙衣美の言葉に、そう感じずにはいられなかった。
まあ、さすがは中学時代からの親友といったところか。
「随分珍しいな、こんな時期に。でも、まあそんな美人と聞いちゃあ、確かに気になるな」
俺がそう言い終えるのとほぼ同時に、副担任の庄司が扉を開け、教室へと入ってきた。
そしてその後ろに隠れるようにして、小柄な少女がうつむきながら姿を現した。
「うわ、可愛い! 俺めっちゃタイプだ」
「おい。お前、あとで連絡先聞いてこいよ」
そんな男子達の声と共に、教室のざわめきがいっそう大きくなる。
「お前ら、うるさいぞ! いい加減に席につけ」
庄司が教壇に立ち、声を張り上げる。
「よし、じゃあホームルームを始める。すでに嗅ぎつけていた奴もいるようだが、今日は編入生を紹介する。じゃあ、三峰よろしく頼む」
庄司に名を呼ばれ、それまで下を向いて、モジモジとしていた少女が顔を上げた。
「はじめまして。三峰 菜津子といいます。えっと、分からないことばかりですので、よろしくお願いします」
教室内にこれでもかというぐらいの拍手の音が沸き起こる。
一部の男子が指笛を鳴らし、歓迎の意を表していた。
「よし、席は確か安倍の隣が空いていたな。安倍、色々と教えてやってくれ」
その庄司の言葉に、血気盛んな男子達の目線が、今度は一斉に俺に集まってきた。
そして菜津子が教壇を下りて、教室の一番後ろの空席までやって来る。
「あの、学人くん。これからよろしくね」
俺に向けられたその笑顔は、教室に差し込む朝日よりも眩しいくらいだった。
「あ、ああ。こちらこそよろしく」
ただ普通に挨拶を交わしただけのはずだった。
だが俺はその菜津子の言葉に、どこか違和感を覚えずにはいられなかった。
梅雨が明けたばかりの初夏の教室。
窓の外では大嫌いな蝉の鳴き声が、これでもかというぐらいに響き渡っていた。