夢を見たらしい
『おにーさま!』
『おいで、エーリカ』
小さな手が差し出され、その手を取る。
柔らかくて、安心する手。
これは夢だ。
殿下――いや、お兄様と一緒に庭で遊ぶ幼い自分。優しく微笑む幼くも賢そうなお兄様が頭を撫でてくれて、私が庭の花で不格好な花冠を作る。お兄様にそれをプレゼントすると嬉しそうに笑って、お兄様の方が器用に花冠を作って私にかぶせてくれた。一緒に生まれたのに似ているのは顔くらいで、あとは全然似ていない。
お兄様はなんでもそつなくこなせたのに対し、私は幼い頃は特に不器用だった。
社交的で誰とでもすぐ打ち解けられたお兄様。私は表に出なかったのも大きいだろうがどちらかといえば人見知りで大人との会話が苦手だった。
似てないけど、私にとってお兄様は大事な片割れで、大切な家族。
お兄様と離れたくなくて、お兄様の後ろでずっとお兄様の背中を追いかけているだけでよかったのに。
幸福な世界は終わりを告げる。
花の舞う庭が一瞬にして枯れ、いつの間にか屋内へと切り替わる。ああ、夢なんだと再確認できるほど奇妙な移り変わり。まるで幸福な時間も共に枯れ果てていくかのように。
何度も夢で見た。
何度も目を覆った。
血溜りのせいで絨毯は赤黒く染まり、私の手も真っ赤に濡れていた。
目の前にあるそれは生きているのかさえ怪しい子供の体。荒い息で上下する胸が、辛うじて『彼』が生きていると証明している。
そして、聞きたくない怒声が降りかかる。
『お前さえ産まれてこなければ!!』
甲高い女の絶叫。もはやそれしか言えないのか狂ったように喚き散らす女。その声が体に染み込んでいくたびに強張り、全身から汗が吹き出る。手は震え、指先に力が入らない。
『おに、いさま……』
今にも呼吸が止まってしまいそうな子供に手を伸ばそうとして、見えない何かが子供の体を切り裂く。それは自らの意思とは関係なく、私自身の力によってもたらされる惨劇。
『あ、あ――あ、あぁああああああああああああああああ!!』
見たくない、思い出したくない――ゆるして、おにいさま。
『いやああああああああああああああああああああ!!』
ごめんなさいおにいさま。
ちがうの、おにいさまをきずつけたいわけじゃなかったの。
しなないでおにいさま。
わたしがずっとおにいさまをまもるから。
髪が汗で張り付いて気持ち悪い。
目覚めは自分でも驚く程静かだった。時刻はわからないが、眠りに就いたのが早めの時間だったので、もう日付も変わる頃合だろう。むくりと起き上がってふと横を見る。
なぜかダズがいた。
「――っ!?」
目が合って咄嗟に枕を叩きつけると困ったように受け止められる。
「な、なんでいるの!?」
「お前がうなされてて様子見に来たら鍵あいてたから」
「か、鍵あいてても普通人の部屋に入る!?」
「俺とお前だともう今更だろ……」
「……まあ確かに」
それもそうか。ちょっとこの前の殿下のことで過敏になりすぎていた。いきなり枕叩きつけたし反省。
「んー……ごめん。びっくりして叩いたのは謝る」
「別に気にしてないし、俺も勝手に入ったから後で文句言われる覚悟してたから」
そう言うと私に近づいて汗で首に張り付いた髪を払ってくれる。
「ほら、汗拭け」
手ぬぐいを渡されたので大人しく首周りや額を拭う。かなり汗をかいてしまった。一度風呂に入るべきか。
「……久しぶりに見たのか」
ダズがぽつりと呟く。どうやら夢の内容に気づいているらしい。
「かなり久しぶりに見た」
「まだ、見るんだな」
もう忘れたかと思っていたとでも言いたいのだろう。けれど、忘れようにもあの記憶は私から引き離すことはできない。
忘れられないから、私はここにいる。
「エル」
ダズの声が静かな夜の空気に溶ける。
「二人でどっか逃げるか」
こちらに顔が見えないように背を向けるダズは優しく続ける。
「面倒なこと全部ほっぽり出してさ、人がいない山奥にでもこもって静かに暮らすとかさ」
「……ダズにーさん、それは」
「俺はしがらみなんて周りに比べればあんまりない方だからな。まあ、爺さんの期待を裏切ることになるのは申し訳ないけど、そういう選択肢だってあるぞ」
あるわけ、ない。
「……にーさんごめん。私は」
「わかってるよ。一応言っただけだ」
顔をこちらに向けることなくダズは続ける。
「ただ、もし本当に逃げたくなったら俺はお前の味方だから」
「……ありがとう、にーさん」
ごめんなさい。
そんなことを、言わせてしまって。
「ま、本気で辛いなら言えよ?」
ようやく振り返って笑顔を見せてくれる。なんだかその笑顔は少し違和感があった。
「もう、大丈夫だよ。おやすみにーさん」
「……おやすみ、エル」
部屋から出ていくダズの顔は笑顔のまま――ほんの一瞬だけ悲しそうに目を伏せていた。
一人になって、ベッドの上で天井を見上げる。
どうしてだろう。私はお兄様を守りたかっただけなのに。
どうして、おかしくなっていくんだろう。狂っていく、壊れていく、歪んでいくのを実感する。
どこで間違えてしまったんだろうと考えるたびに、あの人の声が頭に響いてこびりつく。
生まれてきたのがそもそも間違いなんだと。
私を産んだから、あの人は狂ってしまった。
私がいたから、殿下は歪んでしまった。
私さえ、いなければ――。
「……それでも」
約束したから。
死が私たちを分かつ時まで、お兄様を守ると。
――それはもう、呪いへと昇華した強迫観念だということに、エルはまだ気づかない。
また少し更新が空いてしまうかも




