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巡礼杯と貴族のクズ

 巡礼杯はあと一戦を残すところとなった。

 もう後がない。



 喧騒が絶えない。俺は剣を握り、自分の名が呼ばれるのを待った。ぽっかりと開いた闘技場への入り口は、客席からの熱気を俺に伝える。

 観客たちは先ほどの試合の興奮を維持したまま、次の対戦を今か今かと待ち続けている。

 深く息を吐く。剣を握る手に力を込めた。

 これが最後の試合だ。これで巡礼杯の二位が決まる。すでにひとつの黒星を負った者同士の、なんとも情けない戦いが、始まる。

 俺はこれ以上負けるわけにはいかないのだ。



 帝国仕官学校の花形、兵科の生徒の人生をも左右する栄えある祭、これが巡礼杯である。

 兵科の最上級生三百名を五つの組に分け、勝ち抜き戦が行われる。予選も合わせると、ひと月かけて開催される、大掛かりな興行なのだ。勝ち抜き戦、それぞれの組の優勝者五名は、信徒巡礼という伝統ある儀式を任される事になる。

 当然のごとく、俺はその試合を最後まで勝ち抜き、巡礼者のひとりに選ばれた。

 そして、現在行われていることは、ただの余興である。すでに決された巡礼者五名を総当たりで競わせ、序列を決めるのだ。これぞ巡礼杯の醍醐味と呼ばれる、実力者同士の試合である。

 今年の最上級生は、例年とはひと味違う。何の因果か、才能溢れる生徒たちがこぞって同学年に会していた。黄金世代という恥ずかしいあだ名を付けられてしまった哀れな学年なのである。

 その中でも、巡礼杯の一位に確定したおめでたい男は、百年に一人の天才と言われている。天才だかなんだか知らないが、俺はあいつが嫌いだ。

 そういう事情もあり、今年の余興は、過去最大の動員数を獲得していた。


「リオネル! 出番だぞ。頑張ってくれよ!」

 兵科の剣技を受け持つアスマン教授が、闘技場の選手通用口から俺を呼んだ。俺は神妙な面もちで、アスマン教授の激励を受け取る。アスマン教授は逞しい肩をすくませて、俺以上に緊張しているようだった。

 闘技場へ足を踏み出す。ヘミニスの月の、力を増し始めた陽光が闘技場を照りつけている。黄土色の土に反射して、立ち上る陽炎が揺らめく。

 俺が選手入場口から姿を表すと、怒濤の歓声が一面から俺を取り囲む。俺はすり鉢状に傾斜する観客席の中の、一段と豪奢な席を見つめた。貴族用のこの席には、今日、父様と兄様が巡礼杯の観覧に来ているのだ。兄様は、帝国近衛師団の師団長をしていて、普段は陛下のお側に仕えているので、めったにお会いすることができない。こちらを見下ろす兄様が、俺の姿を見て少し微笑んだ気がした。全身に、明朗な力が行き渡る。

 土煙と、陽炎が混ざり舞い立つ闘技場の真正面の選手入場口から、俺と同じく二勝一敗の戦歴を持つ生徒がやってきた。対戦相手は、ひとつにくくった長い髪の毛を、歩くたびに左右に揺らし、悠然と歩く。切れ長の涼やかな双眸がこちらを見据える。強い日差しを受け、長い髪とお揃いの銅色(あかがねいろ)の瞳が、火をともしたかのようだ。

 奴の名は、エリザベート。通称リズ。男性社会にずうずうしく押し掛け、我が物顔で闊歩する野蛮な女だ。

 エリザベートは、特大のハルバートを軽々と担ぎ上げている。こいつのハルバートときたら、体格の良い大人の兵士でさえも扱いを持て余す代物なのだ。それを、いともたやすく振り回しているこいつは、もはや女性というくくりに分別するべきではないかもしれない。

 女は戦いの腕を磨かずに、家で花嫁修業をしていればいいものを……。エリザベートは最悪だ。まがりなりにも女としての生を受けたのに。その役割をはなっから放棄している。

 闘技場の中央でエリザベートと向かい合う。そして審判の号令にあわせて頭を下げ、そして互いの得物を構えた。俺は長剣を。エリザベートはハルバートを。ハルバートは厄介な武器だ。長い柄の先に、槍と斧とかぎ爪がついている。この武器の多彩な技には十分注意をしていかないといけない。


 喧騒が遠ざかる。エリザベートの(あかがね)の瞳が俺を射った。

 審判が手を上空に掲げた。最後の試合が始まる。


 すかさずエリザベートが、長物を利用して先制する。ハルバートは長い。斧を避ければ、今度は槍の突きをくらうことになる。

 俺は回避ではなく、敵の懐へ潜り込むことを選択した。ハルバートの風をなぐ鳴動が、至近距離から鼓膜を震わせる。

 太い長柄が、俺の剣に噛みつく。鈍い音が響いた。武器同士を押し合う力は拮抗しており、俺は組み合う太い柄をはねのけようとさらに力を込める。

 間近に迫るエリザベートの土手っ腹にけりを食らわせる。エリザベートは、土煙を上げながら勢いよく後退する。しかし、エリザベートは胴の前に、鈍く光る透明の魔力の塊を展開しており、ちっともダメージを受けていなかった。

 あまりの忌々しさに、思わず舌打ちをしてしまう。エリザベートは、およそ魔術とは言えないような無骨な、魔力そのものを放出して戦うことを好いていた。

「魔導の力に頼らなければ、ろくに戦えもしないクズが……っ!」

「はあ? 魔術だって立派な戦闘技術じゃん」

 エリザベートは、はすっぱな語調で言った。

「お前なんて魔女狩りにでもあってしまえ!」

「ほんと、あんたって時代遅れで的外れなことしか言わないよね」

 軽口を終えると、エリザベートは、今度は突きを繰り出した。俺は体幹と手に循環魔力を集め、剣の面で、槍の先を受けた。その切っ先を傾け、刺衝を横に反らす。武器を揺らがせたその隙に、大地を強く蹴り、敵を斬りつける。不格好な魔力の塊を出す隙を与えない。だがエリザベートは剣先をしかと見つめ、すんでのところでわずかに身を傾ける。

 肩から肩胛骨を薄く裂かれたエリザベートは、俺から数歩離れた位置に行く。客席から拍手がわいた。

「循環魔力操作だって魔術じゃん!」

「馬鹿がっ! 歴史ある戦闘技術の循環魔力操作と姑息な魔術を一緒にするな!」

「つーか、あんた私のこと殺す気!?」

 奴は怒りのままに、ハルバートを振り下ろす。

「結界内は死傷などしない!」

 闘技場には教諭陣による結界が張られており、傷は最小限に抑えられるようになっている。現にエリザベートの肩だって、出血していない。

 俺は、大振りの一撃を避け、もう一度エリザベートの懐に向かって駈ける。魔力を手のひらに集め、ハルバートの柄を叩く。金属のしなる音が響いた。エリザベートは、武器を取り落としはしなかったものの、自らの重い武器の勢いに振り回されている。その隙に片手に持った剣を横から閃かせた。予想通り、エリザベートは剣と自分のあいだに魔力の盾を展開させた。そして今度こそ、がら空きの腹を蹴飛ばす。

「ぐっ……!」

 エリザベートは後退するが、またもや踏みとどまる。きれいに決まった攻撃と、敵の小さな呻き声に、愉悦がゾクゾクと湧き上がった。エリザベートが俺を睨む。

 この女が体勢を整える前にしとめなければ。俺は距離を詰め、力いっぱい剣を振り下ろす。エリザベートの魔力の盾が目前に展開されたが、構わない。循環魔力を最大に集めた腕を、遺憾なく振るった。魔力の塊に、刃が食い込む。薄い鉄同士をぶつけたような、耳に痛いほどの混じりけのない甲高い音が響いた。魔力の盾が割れる。薄く輝く魔力が四方に分かち、俺とエリザベートのあいだを阻むものは亡くなった。割れた魔力の塊は、ふわふわと宙を漂う。俺はそれをかき分け、エリザベートを仕留めようとする。エリザベートは、ハルバートを手元に引き寄せ、俺の剣を阻もうとしたが、────もう遅い! この距離まで来てしまえばこちらのものだ!

 エリザベートの憎々しげな銅の瞳に、薄く笑う俺が映し出された。

 剣がエリザベートにぶつかる間際、奴は最後のあがきとばかりに割れた魔力の盾の破片を差し向ける。すると。その魔力の欠片は予想外の威力をもって俺に襲いかかった。

 大の男に殴りつけられたような衝撃を数カ所に受け、俺は背後に倒れ込む。俺はすぐさま起きあがろうとする。しかし、今度は新たに作り出された球形の魔力の塊を剣にぶつけられ、剣が背後に弾かれてしまう。その拍子にひっくり返ってしりもちをついた俺に、エリザベートがハルバートの先端を突きつけた。

「凄い! こんな使い方があったなんて! どうして気づけなかったんだろう、私!」

 エリザベートは興奮した様子で言葉を発する。

「気づかせてくれてありがとう、リオネル。お礼に降参する猶予をあげる」

 この女は、高慢に、そうのたまった。

 血流がのぼり、頬に熱がたまる。降参する猶予をあげる? ふざけるな。ふざけるな! ふざけるな! 俺が、こんな、女なんかに、負けるわけがない! 女なんかにっ!


「エリザベートっ! お前は俺の配下だろう!?」

「はあ? いつから私があんたの配下になったの? 意味わかんないこと言ってないで、さっさと降参したら?」

「お前の父親は、俺の父様の部下だ!」

 エリザベートはため息をつく。

「レニー坊や、『臣下の臣下は臣下でない』って言葉、知ってる?」

「国軍がある今っ、そんな言葉に意味などないっ!」

「あっそ! で、私があんたの配下なら何? 何が言いたいの?」

「配下なら主人の言うことを聞け! 今すぐ負けるんだ! お前が降参しろ!」

 エリザベートは蔑みの色を含む目で俺を見た。ハルバートを持つ手に力がこもる。

「言いたいことはそれだけ?」

 エリザベートが武器を構える。斧の部分が陽光を反射させ、俺の瞳を焼いた。

「お前が負けを認めないならお前の父親を解雇してやる」

 早口にまくし立てる。しかし、エリザベートに迷いなど生じなかった。

「あんたのわがままひとつでクビになる父ちゃんじゃないね!」

 ハルバートの柄が、俺の頭に振り下ろされる。俺は手のひらに魔力を循環させ、闘技場の大地をこそいだ。その削った土塊と、砂を、エリザベートの顔に向け、投げつける。

「うわっ!」

 もろに顔面に土をぶつけたエリザベートがたじろいだ。すかさず、腰につけている剣の鞘も、エリザベートに投げつける。鞘は、きれいにエリザベートの顔面に的中した。客席から野次が飛ぶ。

 俺は背後に落ちた剣を拾い上げ、目に入った砂に悪戦苦闘を強いられたエリザベートに向かう。

「あんたそれでも兵科の生徒か! 正々堂々とやれ!」

 語調の荒い、悲鳴じみた声が耳にうるさい。

「正面突撃なんて今時馬鹿のやることだ。おごって油断したお前が悪い」

「このっ……! クズ! 貴族のクズめ……!」

 エリザベートの叫びに呼応した観客たちが、闘技場へ物を投げ込む。涙の滲んだ目、異物の侵入で傷つき、充血した目で俺を睨みつけてける。銅色の瞳と充血した白目は、境があいまいで、滑稽で仕方がない。

「クズはお前だ。女の癖に兵科でのさばるゴミクズがっ!」

 ハルバートをたたき落とそうと、剣をふるう。すると、エリザベートは、ハルバートで俺の剣を受けようとせず、すぐさま魔力の盾を展開した。

 剣による一撃を受けた魔力の塊は、容易に四散する。四つに分かれた魔力の弾が、身体に当たらぬよう、剣を身体に寄せた。直線的な動きで、次々に衝撃がやってくる。

 ばかめっ! 予測済みだ!

 エリザベートが、新たに手に入れた手法を嬉々として使ってくることなんて分かりきったことだ。これに堪えれば勝機がある。エリザベートの魔力量はそう多くない。そろそろ尽きるはずだ。


 剣と迫り合っている魔力の弾は、カチカチと小刻みに震える。二つ目の弾がぶつかると、さらに威力は増し、俺の腕を震わせた。

 三つ目の魔力の弾を受けたとき、先ほど魔力の盾を破ったときのような、甲高い音が鳴る。魔力の弾は残すところあと一つ。

 俺は勝ちを確信する。

 しかし、砕けたのはエリザベートの魔力ではなく、俺の剣だった。


 今度は、降参の猶予を与えられなかった。エリザベートは、ハルバートの柄をふるい、俺の頭を殴りつける。視界の端から火花が散った。ほの暗い呼び声にいざなわれて、視界が黒に染まる。


 ほんの一時だけ意識を失い、気づいたとき、俺は闘技場の上で四肢を投げ出していた。

 歓声が一団となって、豪雨のようなうねりをあげる。すべて、エリザベートへの讃辞だ。

 俺が身体を起こすと、奴を讃える言葉は一変して刃となってこちらに向かってくる。


「勝者、エリザベート!」

 審判が高らかに、そう宣言した。


「俺は負けていない! 剣が折れただけだ! 剣が折れていなければ、こんな女なんかに負けていなかった!」

 俺の叫びは、歓声や罵声に阻まれた。

 エリザベートの鋭い視線が、俺を一瞥した。エリザベートは、選手用の通路に帰って行く。俺はあの調子づいた女を追っていって目にものを見せてやろうとした。しかし、審判に行動を阻まれ、俺はすごすごと試合前に通ってきた場所へ戻らなければならなかった。

 選手通用口で俺を出迎え、ねぎらいの言葉をかけてきたアスマン教授は、何とも言えない苦々しい表情をしている。

 ふと、観戦席を眺める。

 あの席には、もう誰も座っていなかった。




 俺とエリザベートの試合を終えてすぐ、巡礼杯の閉会式が行われた。

 先ほどの燃え盛るような屈辱が、灰になり、内側に降りしきる。時間を経て少し湿った感情が、心に染み込むように感じた。


 学校長などの話が済むと、信徒巡礼の任官式が行われる。例のトーナメントを勝ち抜いた五名が、下位の者から他の生徒たちに紹介されることになる。弱い順に晒し者になるなんて、悪趣味にもほどがある。

 無精ひげをたくわえた、軍人上がりの兵科主任が、五位の生徒を呼んだ。

「マリー=テレーズ」

 呼ばれた女生徒は、頬を紅潮させ壇上へ行く。

 小柄で華奢。肩まで届く揃った黒髪、白い肌に朱に色づく頬。全体のパーツは小ぶりだが、目が大きく、濃いブルーの瞳はいつも少し潤んでいる。

 体裁きはいまいちだが、魔導全般と神術にも精通している。女のくせに兵科に所属している奴だけれど、あの女よりかはマシだ。

 彼女が紹介にあわせて一礼すると、盛大な拍手がわき起こった。マリー=テレーズは、緊張でこわばった表情を、少しゆるめて見せた。


 次に呼ばれたのはヴァレリーだ。

 四位のヴァレリーは、マリー=テレーズとは反対に、弛む頬を必死につなぎ合わせているようだった。それが、壇にあがる頃には綻び、照れくさそうに笑っている。一部の男子生徒から茶化した声が上げられ、ヴァレリーはニヤリと笑って見せた。

 鳶色の髪に鳶色の瞳。兵科の生徒の中でも大柄で、鍛え抜かれた身体をしている。目つきが悪く、仕草から育ちの悪さがあふれ出ている。下品で浅ましい貧民だ。俺はこいつが好きじゃない。

 ヴァレリーは孤児院出身だが、身体能力がずば抜けており、この学校に入ることになった。戦闘スタイルは俺と似ていると言われることが多い。循環魔力を使う。しかし奴は力でごり押しという、スマートではない戦い方をする。


 ヴァレリーの紹介が終わると、生徒たちは他人行儀な沈黙を、隅の隅まで行き渡らせた。付近の街道を走る蹄鉄の音を確認できたとき、兵科主任が重々しく口を開く。

「リオネル」

 俺の名が呼ばれた。返事をして壇上に向かう。

 すると沈黙が、途端に罵声に変わる。

 生徒たちは口々に熱烈な悪意の歓声を上げる。俺はその声の主たちを横目で眺める。この場所に来れなかった奴らが、何をほざいているんだ。

 壇上にたどり着いた俺は、ヴァレリーの横に案内される。


 そして今度は、素晴らしき二位の女のご登場だ。

 エリザベートは、誇らしげに堂々とこちらにやってくる。歓声のあいだを悠々と歩き、すでに並んだ俺たちの前に差し掛かると、マリー=テレーズと密やかな微笑みを交わしあった。

 俺は、エリザベートが通り過ぎる間際「調子に乗るなよ」と耳打ちする。エリザベートは、横目でちらりと俺を見て勢いよく俺の足を踏みつける。そしてその後何事もなかったかのように俺の隣に並んだ。

 忌々しい女め! 俺が、こんな女なんかに、負けるはずがないのに!不可解だ。こんな女が二位で、俺が三位だなんて。

 こんな女なんかに大きな顔をさせておて良いのだろうか! 帝国仕官学校の威信はどこへ行ってしまったんだ。

 俺の中の、くすぶっていた火種が再び燃え上がる。


 とうとう、巡礼杯の栄えある優勝者、百年に一人と呼ばれる天才の名が唱えられた。

「ユリウス」

 生徒たちがどっと沸く。皆崇拝するような面もちでユリウスを眺めている。天才様は百点満点のパーフェクトな笑みで、賞賛の言葉に礼を言っている。何が天才だ。たまたま侯爵家に生まれ、たまたま人より魔力が多く、循環魔力操作と魔術と神術が少しばかり上手いだけの器用貧乏じゃないか。俺のほうが地位が高いし、剣も上手い。エリザベートもこいつも無駄に武器を振り回し、魔導に頼らなければろくに戦いもできないクズだ。

 ユリウスはこちらにやってくる。凡人たちとは一線を画したこの、舞台の上へ、緊張する様子も誇らしさもなにも持ち合わせていない、あくまでも自然体だ。まるでこちらに並ぶのが、最後に名前を呼ばれるのが当然だといった面もちで。

 奴の緑色の瞳と視線が絡む。奴は、俺の表情を認識すると、困ったような情けない笑みをこぼした。

 燃えるような赤毛に、翡翠の瞳。たれ目で柔和な顔立ちをしており、大抵微笑んでいる。俺からしてみれば、こんな奴、ただのつまらない優男でしかない。


 壇上に、今年の巡礼者五人が集う。眼下の生徒たちは。惜しみない拍手を俺たちに送った。

 拍手がやむと、兵科主任はきつく結んだ唇をほどき、信徒巡礼についての説明をはじめる。

 出発はひと月後、一般の生徒が夏期休暇中の出発となる。それから約二ヶ月かけて五つの神殿を巡るのだ。


 巡礼の説明を終え、兵科主任の話が夏期休暇中の注意点へと変わったとき、隣に立つ四位の平民男、ヴァレリーが「なあ」と内緒話をするような要領で気安く呼びかけてきた。

「いっつも馬鹿にしてた女に負けた気分はどうだ? え? お貴族様よぉ!」

「剣が折れなければ俺が勝っていた」

 俺はヴァレリーの方を向かずに、早口に答えた。この卑しい平民は妬みからか、いつも俺に突っかかってくるのだ。本来ならばこのような対等な口を聞けぬほど身分が違うというのに。

「傑作だったぜ。なりふり構わねぇで地べたに這いつくばって負けたお前は」

「うるさいぞ。ヴァレリー」

「ご自慢のパパも幻滅したんじゃねぇの?」

「黙れ。平民の分際で、この俺を愚弄していいと思っているのか?」

「ああ、思ってるぜ。お坊ちゃん」

 嘲弄の意図を持った言葉が、気怠げに帰ってくる。俺は、己の階級を理解できていない哀れな平民の方を見る。ヴァレリーは、素知らぬ顔で正面を向いていた。

「汚らわしい下町の乞食がっ……! お前の育った孤児院が滅茶苦茶になっても良いのか?」

「ちょーっと気に食わねえことがあったらすぐにお金持ちのおうちを持ち出すのか? つよーいパパにおねだりする前に悪魔にお願いでもしてみたらどうだよ! 『卑怯なことをしなくても勝てる強さをくださ~い』ってな!」

 その言葉を皮きりに、俺はヴァレリーに殴りかかった。


 悪魔といえば、近頃魔導史のディンケル教授が本物の『悪魔の書』を入手したらしい。魔導研究や政治学なんかの軟弱な生徒らは、ディンケル教授の研究室から『悪魔の書』を盗み出す計画を立てたり、悪魔へ何を願うかを考えたりしていた。

 兵科の生徒はそれを軟弱な性根の顕在だと日頃から笑っていたのだ。願いを、自らの力で叶えようとせず、オカルトチックなまやかしに頼るなんて。力のない者のやることだと。


 ヴァレリーは俺の拳を手のひらで受け止め、殴り返そうと腕を振り上げてきた。俺は、その反撃の動作が到達するよりも早く、ヴァレリーのすねを蹴りつける。わずかに怯んだヴァレリーの足元に一歩踏み込み、すねを蹴った方とは反対の足の膝で、腹を打つ。鍛え抜かれ、密度の高い筋が膝にぶつかる。

 耳の付近で、風の鳴る音を感じた。その直後、俺の左の頬を痛みが襲う。左目が明滅すると、鈍痛が奥の方から皮膚の表層ににじみ出た。ヴァレリーが、俺の顔を殴ったのだ。

 どうやら、巡礼杯で俺に負けたばかりのこの男は、完膚なきまでに叩きのめさないと、力量差がわからないらしい。

 俺は、循環魔力を右手と足に拡散させる。怒りに満ちた体内の魔力が、俺の身体を強化する。

 循環魔力を溜めた拳でヴァレリーを殴ろうとした瞬間、背後から手が、俺の身体に巻きついた。

「離せっ!」

 俺を拘束する奴めがけて、足を振り下ろす。しかし背後の人間は器用にそれを避け、俺の腿に膝蹴りを食らわせた。

 正面には、俺と同じように羽交い締めにされたヴァレリーの姿が見えた。ヴァレリーは、困った顔のユリウスに捕まっている。その横には口許を両手で覆い、おろおろとしているマリー=テレーズ。

 俺と引き離されるヴァレリーが、こちらに身を乗り出して叫ぶ。

「女に簡単に取り押さえられた気分はどうだ? なあ!」

 一部始終を見守っていた生徒たちがどっと笑い声をあげた。

「リオネル! 大人しくしろ!」

 すぐ後ろから、エリザベートの怒鳴り声がした。俺を押さえつけているのはエリザベートだったのだ。俺がどんなに暴れようと、エリザベートは若干たたらを踏むだけで、それ以降はびくともしない。

 壇上の興奮が、徐々に階下の生徒にまで広まっていった。はやし立てる生徒たちの好奇の視線を受け、俺の胸には屈辱の楔がたてられた。

 それこそどんな手段を使ってもいい。俺を軽んじるこの女を、生意気な平民のヴァレリーを、百年に一人だともてはやされるユリウスを、すべてを容易に打ちのめすだけの力を! 俺に逆らうものすべてを黙らせるだけの力を!

 もはや、兵科のプライドなど関係ない。

 空っぽになった闘技場の貴族席。歓声を浴びるエリザベート。俺をこけにするヴァレリー。悠々と闊歩するユリウス。俺の脳裏にこれだけの屈辱が、存在している。

 手段なんて選んではいられない。どんなことをしても、強さが手には入ればそれでいいのだ。まぐれだとしても、あんな女に……あんな女に負けるなんて、二度とあってはならない。

 たとえ、悪魔に願ったのだとしても。


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