桎梏
本に夢中になっていたら、扉が開く音がした。振り返ろうと本から顔を上げて、すっかり暗くなっていることに気づく。なるほど、活字を追うペースが落ちるわけだ。もう少ししたら、明かりを入れないと読めなくなるだろう。振り返れば、予想通りの人が立っていた。早くも明かりがともされた廊下からの光を受けて、濃紺の髪がきらめいて見える。ゆったりした濃青色の上着は最近ようやく見慣れたものだ。この人はかっちりした服を着ている印象が強くて、なかなか慣れなかったのだけれど。彼は部屋の薄暗さをものともせずに一歩踏み出した。
「アイ。また本を読んでいたんですね」
やわらかいテノールの声は、なんてことはない言葉をも朗々と響かせる。この声がひときわ美しく響く瞬間を、わたしは知っている。
彼はまた一歩、わたしに向かって踏み出した。読んだ後絨毯の上に放り出していた一冊を、器用に避ける。少しずつ近づくにつれ、廊下からの光が遠ざかり、彼の髪の紺色が深みを増す。わたしは読んでいた本にしおりを挟んで、ぱたりと閉じた。彼の唇が弧を描くのが見えた。
「あなたがあまりに閉じこもるから、ゼスが嘆いていましたよ」
「ゼス陛下が?」
「ええ。あなたには招待状やら贈り物やらがひっきりなしに届きますからね。そろそろ顔を出さない言い訳も尽きようとしているようです」
「それは、申し訳ないなあ」
金髪碧眼の、ギリシャ彫刻のような美青年が、眉間にしわを寄せている様子が思い浮かんだ。彼はわたしの気持ちを尊重してくれて、決して無理強いしない。だからこそ、そろそろわたしもその配慮に甘えるのをやめて、自分の足で動きだすべきかもしれない。ゼス陛下は、きっとわたしにわからないように、こっそり内心で安堵するのだろう。
「そのうち、わたしもちゃんと表に出て行かないとね。いつまでもゼス陛下に甘えるのもよくないだろうし」
「無理強いするつもりはないのですが。あなたがご自分で決心なされば、ゼスも喜ぶでしょう」
話しながらも近寄ってきた彼が、とうとうわたしの椅子の目の前に立った。逆光も彼の体に遮られて、ようやくはっきりとその怜悧な顔が見える。いつものように、彼はそのともすれば厳しさを感じてしまう顔立ちを和らげるように、穏やかな笑顔を浮かべていた。切れ長の目が細められて、髪と同じ深い紺の瞳が穏やかに光る。けれど、その瞳はこちらを見ていない。
「ゼス陛下は今執務室?」
「そうですね、今日は謁見が入っていないので、書類の処理も進んでいるのではないでしょうか」
「今から訪ねても、邪魔じゃないかな?」
「大丈夫だと思いますよ」
「じゃあ行こうかな。ちょうど、そろそろ本を読むには暗くなってきたところだったし」
わたしがそういうと、彼はこちらに向けていた顔を上げて、ああ、と呟いた。
「そういえば、そのはずですね」
うん、と一つ頷きを返して、わたしは立ち上がった。
目が覚めたら、知らないところにいた。なんて、陳腐な小説の書き出しにもならないような経験をしたのは、もう二年も前だ。ふうっと、水底から浮き上がるように目を開くと、そこはわたしの知っている部屋ではなかった。窓もない部屋に明かりはわずかな松明だけで、天井はほとんど闇に包まれていた。松明の炎が揺らめくと天井の影が微かに踊るのが見えた。ゆっくりと視線を巡らせば、石造りの小部屋なのだとわかった。神殿のような、と言えば聞こえはいいけれど、正直ちょっと気味が悪かった。わたしはミステリースポットだとかああいった話題にはちょっぴり弱いのだ。
もっとはっきり見ようと身じろぎしたとたん、部屋の隅から声が上がった。びくりと震えて起き上がると、石の冷たさが身にしみた。身震いしながら声のした方を見れば、幾人かの人が見えた。ほとんどの人は、真っ白な服を着ていた。
「勇者どのがお目覚めになった……!」
そうしてわたしは、陳腐なファンタジー小説のような台詞を浴びせられたのだった。
何やら儀式をする神聖な間だったらしい不気味な部屋を移って案内されたのは、豪奢な装飾の施された部屋だった。たくさんの彫刻が施され、金色の縁取りと上品な絵で飾られた部屋の中で、座るよう促された真っ赤なビロード張りの椅子は、うっかりバランスを崩してしまうほどふかふかだった。わたしはその様子を、どこか呆然としたまま分析していた。
向かいの椅子に座ったのは、ギリシャ彫刻のような美青年だった。金髪碧眼、絵に描いたような王子様。彼はゼスと名乗った。本当はもっと長い名前なのだけれど、五十音しか発音できないわたしの舌では到底発音できそうになかったので、五回くらい舌を噛んだ後、愛称で呼ぶことを許してくれたのだ。わたしもつられて、長坂藍です、と名乗った。ゼスは、アイ、という言葉を何回か口の中で転がして、小さく笑った。彼は王子様ではなくて、この国の王様だった。
名乗り終わった後、彼はその整った顔を苦しげに歪めて、わたしの身に何が起きたのかを全部教えてくれた。曰く、ここはわたしの暮らしていた日本とは異世界にあるという。この世界には魔王がいて、魔族を差し向けて人間を虐殺しているのだそうだ。何度も討伐隊が組まれたけれど、帰ってきたのはもの言わぬ骸だけ。それも、残虐な方法で殺されたその遺体を、これ見よがしに王都のすぐそばに投げ捨ててあったのだという。その残虐な方法というのは、わたしの心を守るためには聞かないでいた方が良さそうだった。
人間たちは知恵を絞らせた。そこで誰が見つけ出したのか、異世界から勇者を連れてくる方法が提案されたらしいのだ。ゼス陛下は賛同しなかった。けれど、それ以外に有効な方法が提案されなかったこと、また召喚賛成派が抑え込めないほど大きくなってしまったことから、押し切られる形で召喚を許可せざるを得なかった。そうして呼ばれたのが、わたし。召喚術もどこから探し出されたのかよくわからないような術で、帰還はほぼ絶望的。そして、この世界の命運は、帰る家をなくしたわたしの、なよっちい腕に託されたらしいのだ。
正直、いまいちピンと来なかった。そもそも、起きたら知らない部屋にいた時点で、どこか非現実的な感じがしていた。その上、あなたは異世界を救う勇者だ、残念ながら帰ることはできない、と言われたって、どこかの三流小説を読んでいるみたいだ。何を自分勝手な、という文句さえどこか浮ついたものになる。つまりわたしは、さっぱり理解できていなかったのだ。
話を聞きながら気の抜けた相槌を打っていたわたしが、さっぱり理解していないのはゼス陛下にも伝わっていたのだろう。彼は、今すぐどうこうしてほしいと言うつもりはない、と言ってくれた。覚悟が決まるまで王城で保護しよう、もちろん覚悟と言っても、救ってくれたら嬉しいとは思うが、そもそも討伐を強制するつもりもない、と。よくわからないなりに、彼がくれた提案がとても美味しいものであることはわかった。だからわたしは、ありがたくその提案を受け入れた。
それからは、豪奢な王城の一室を使わせてもらって、身の回りのちょっとした世話をしてくれる侍女さんまでつけてもらって、おいしいご飯を食べつつ、王城をうろうろと散歩して、夜になったら寝るという、何ともゆるゆるとした生活が始まった。ゼス陛下の話から考えると、今すぐわたしに討伐の旅に出てほしいと思っている人は決して少なくないはずなのに、ゼス陛下がわたしの身の回りに配置してくれたのはみんなわたしに好意的で、誰もが口を揃えて、ゆっくり休んでよくお考えください、と言ってくれた。いくらなんでもぐうたらな居候で居続ける気はなかったので、わたしはこの世界のことを教えてくれる先生役を探した。探したと言っても、ゼス陛下に適任はいないか聞いただけなのだけれど。すると彼は、すぐに一人の青年を連れてきてくれた。怜悧な顔立ちにやわらかい笑みを浮かべた、紺碧の青年。アストと名乗った彼はゼス陛下の親友で、側近で、ついでにこの国一番の魔術師なのだそうだ。側近なんかを借りていいのかと困惑するのはわたしばかり、ゼス陛下もアスト本人も至極当然のようにわたしを尊重してくれた。
アストは素晴らしい先生だった。地球で言えば朝は東から日が昇る、というようなこの世界の基本的なことから、難しいこの国の政治制度まで、とてもわかりやすく噛み砕いた説明を優しいテノールで聞かせてくれるものだから、今までの学生生活で寝なかった授業がなかったわたしでも、眠気がやってくるよりも先にいろいろなことを理解できた。この世界で生きていくために一番必要なことを一通り教え終わると、アストはわたしの興味を引きそうな話題を探りつつ、いろいろな雑学を披露してくれた。彼は百科事典かと思うほど雑学の宝庫だった。国王の側近にそんな知識が必要なのだろうか、と思うほどいろいろな話を聞かせてくれた。わたしはそのお返しに、今までの短い人生で身に付けた、雀の涙くらいの地球の知識を教えてあげた。アストはどんなにつたない説明でも、まるで素晴らしい学者の発表のように、真剣に聞いてくれた。
そんな風に毎日が過ぎ去っていっても、わたしはどこかぼんやりしたままだった。ある日、すとんと理解するまで。
別に、何かきっかけがあったわけではなかった。討伐急進派に会ったわけでも、嫌みを言われたわけでもない。その日はいつもとおなじように目を覚まして、侍女さんととりとめもないおしゃべりをした後、アストが教えにきてくれるのをソファに座って待っていただけだった。ただ、ソファに座って、白い雲が浮かぶ空を眺めていただけだった。ぼんやりと空を眺めていて、そしてすとんと理解したのだ。もうわたしは帰れないのだと。学校に行って友達と馬鹿な話をすることもできない。家に帰って、両親とゆっくり過ごすこともできない。一生、今まで大切に思っていた人たちには会えなくなったのだと、その事実が、降ってわいたように心の中に浮かんだ。そしてそれは、急に現れたにもかかわらず、この世界に来てからぼんやりしていた心にすっぽりとはまり込んだ。本当に、何の前触れもなく、ただ理解してしまったのだった。
それからわたしは、侍女さんすらも拒んで、ひたすらベッドにうつぶせて泣き暮らした。ひたすら泣き続けて泣き続けて、目が疲れてしまうまで泣いて、こすりすぎで瞼が痛くなるまで涙を拭った。それでも涙は後から後から溢れ出た。泣いたってどうしようもないことくらいわかっていた。けれど、泣くことくらいしかできないことも、わかっていた。あの頃の記憶は昼も夜も曖昧で、実のところどのくらいの期間泣き暮らしていたのか、わたしには未だによくわかっていない。
散々泣いて、涙が枯れ果てた頃には、わたしは抜け殻のようになっていた。もう、侍女さんを拒み続けていたあの力も残っていなかった。ようやく入室できるようになった侍女さんは、それはもう甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたのだろう。抜け殻になっていた間がどのくらいあったのかも、わたしはよく思い出せないけれど。でも、一つだけ覚えていることがある。それは、侍女さん以外の人に会わなかったこと。討伐急進派だけではなくて、ずっと味方してくれていたゼス陛下もアストも、決して部屋には来なかった。余計な刺激をしないようにそっとしておいてくれたのだと、後で何となく理解した。
そうして抜け殻のまま日々を過ごしているうちに、少しずつ、思考力が戻っていった。何となく、このままぼうっとしていてもどうしようもないだろう、と思い始めた。少しずつ少しずつ、最初は生きる力から、それからだんだんと回りに気を配る力まで、じわりじわりとわたしは力を取り戻していった。そして、その段階になってようやく、ゼス陛下がアストを伴って訪ねてきた。
二人は改めて、わたしを巻き込んでしまったことを謝罪した。後で考えたことだけれど、おそらくゼス陛下は、わたしがああなることを予想していたのだろうと思う。最初に謝罪するのは当然のことで、そして自分が置かれた状況を理解したところで再び謝罪する必要がある、ということを彼はよく理解していた気がする。ともかく、彼らはとても誠実に、とても丁寧に謝罪を繰り返した。泣き尽くして抜け殻状態も脱した後のわたしは、ここでこの二人を怒鳴りつけたってどうしようもないことくらい理解していた。そもそも、初めからずっと味方で守り続けてくれていた二人を怒る気にもならなかった。もうわたしは、わたしのことを尊重しつつも、急進派に手を焼いて板挟みになっているゼス陛下の立場を考えて同情できるくらいまで、心が回復していた。もちろん、討伐急進派の人間に会えば、手前の勝手に人を巻き込むな、家族を返せ、家に帰せと延々わめくだろうな、と思えるくらいには気が立っていたけれど、わたしを守ってくれた人たちに対しては、どうにか恩返しをしたい、と思っていたのだ。だから、わたしは討伐を受け入れた。別に世界の人間すべてを救いたいとは思わなかった。けれど、わたしを守ってくれた人たちを、これ以上苦しめたくはなかったのだ。
わたしは忘れないだろう。討伐に出ます、とはっきり言ったとき、国王として感情を表さない訓練を積んできたはずのゼス陛下が、ほんのわずかだけ隠しきれずに見せた安堵を。アストの瞳に浮かんだ、安堵とわたしを心配する苦悩の入り交じった複雑な色を。後で聞いた話だけれど、この頃はもう、わたしの能力を疑う声がそこら中から上がっていたらしいのだ。ぼけぼけとしたまま城内をうろついていたかと思えば長い間閉じこもって泣き暮らし、その後は空虚に日々を過ごすだけの人間に、勇者が務まるのかと。そっちの勝手で呼びつけたくせに、平凡な日本人にそんな大役を任せておいて、好き勝手なことを言うなと言いたいけれど。その声を、ゼス陛下とアストは必死に抑え込んでいてくれたのだそうだ。もう、不幸な思いをする人が増えないように。そして、心ない声を聞いてわたしが悲しむことがないように。
それからは、討伐に向けた特訓の日々だった。確かにわたしは、日本で暮らしていたときよりずっと超人的な力を手に入れているようだった。自分が自分じゃないみたいに、いくらでも軽やかに動き回れた。アストが自ら教えてくれた魔術も、びっくりするほどあっという間に使えるようになった。なるほど、勇者と言われるだけはある。そうして特訓の成果が実った頃、討伐隊が組まれた。今回の主戦力はもちろんわたしだったけれど、なんとアストもついてくると言い出した。異世界からわざわざ勇者を呼び出したのに、国一番の魔術師が補助に行かないわけにはいかないからと。わたしは申し訳ないとは思ったけれど、やっぱり嬉しかった。自分の味方だと信じられる人が、そばにいるのといないのとでは、大違いだったから。
今まで何度挑んでも敗れ続けていた相手だから、討伐隊はどこか緊張に包まれていた。けれど、わたしが必要以上に緊張しないようにだろうか、アストは城にいた頃のように、その豊富な知識を披露してわたしの緊張を和らげてくれていた。アスト自身、どれくらい強いのかもわからない相手に挑みにいくのに、不安がないはずはなかったのに。彼は不安をおくびにも出さず、ただひたすら、わたしと和やかな会話を続けてくれていた。話題は、知識が出尽くすと彼自身のことにも移った。彼は、すっかり大人なのにわたしと五つくらいしか違わないこと。ゼス陛下は実はもう三十をこえていて、綺麗な奥さんと可愛い赤ちゃんがいること。陛下も王妃殿下も、わたしのことを、妹か娘のように、ひたすら案じていてくれていたこと。わたしは、アストと話している時だけは、緊張を忘れて、討伐の旅に出てよかった、と心の底から思えた。
襲い来る魔族をどうにか倒しながら旅は進み、とうとう魔王のもとへとたどり着いた。魔王は、本当に絵に描いたような「魔王様」だった。人間離れした美貌と、暖かみの欠片もない残虐な性格と、その残虐さを示せるだけの力を持っていた。私たちは全力で立ち向かった。アストは討伐隊の隊員たちを、勇者がいれば大丈夫だとひたすら鼓舞しつつ、魔術で素晴らしいサポートをしてくれていた。わたしは「勇者」という称号を嫌っていたけれど、アストのテノールに呼ばれる勇者という響きは、悪くないなと思った。それはもちろん、アストがわたしを「勇者」として見ているのではなく、わたし自身を見てくれているとわかっていたからだけれど。彼の口から呼ばれる勇者という言葉は、なんだかわたしの誇るべきことのような気がしたのだ。
戦いは熾烈を極めた。隊員たちはもちろん、わたしもアストもひどい傷を負った。それでも諦めたくはなかった。隊員たちのことは嫌いではなかったし、何よりアストがいた。ここで負けを認めるのは、わたしも含め、全員の死を意味していた。それだけは、嫌だった。絶対に負けたくないと、アストを殺したくないと思って、決死の突撃を仕掛けようとした時、アストがわたしを助けてくれるかのように、驚くほどの大技を放ってくれた。どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの、大きな、大きな技。それを食らった魔王が、ダメージから回復できていないうちに、わたしは突っ込んでいった。心臓を狙った渾身の一撃は、魔王を貫いて、そしてそれが致命傷になった。魔王は断末魔の叫びをあげた後、ゆっくり倒れ、そして動かなくなった。わたしたちは、誰一人欠けることなく魔王を殺した。完全な、勝利だった。
喜びに沸く隊員たちは後回しにして、わたしはアストにかけよった。そして気づいてしまった。彼の目が、見えなくなっていることに。彼はかけよるわたしの足音に顔を上げた。そしてにっこり笑って、勝ちましたね、と言ってくれた。けれど、その濃紺の瞳は、全く焦点が合っていなかったのだ。わたしは、アストに笑い返すこともできずに、早口に尋ねた。
「あ、アスト、目、どうしたの」
アストは、ほんの少し笑顔に苦味を混ぜた。けれど、決して笑みの形は、崩さなかった。
「こんなもの、この勝利の前には些末なことですよ」
はっきりとは言わなかった。けれど、直感で分かってしまった。彼の視力は、もう戻らないのだと。
城に帰ってきたわたしたちは、熱狂的に歓迎された。誰も彼も、わたしを勇者様と褒め称えた。泣き暮らしていたのを厭うていた様子は、影も形もなかった。ひょっとしたら、そんなこともう忘れ去っていたのかもしれなかった。でも、わたしは歓迎されても嬉しくはなかった。日本人の倫理観として、やっぱり魔族と魔王とはいえ、生き物の命を屠ってきた事実は受け入れがたいものだった。そして、その倫理観を曲げてまで守ろうと思ったアストの、視力という大切なものを失わせてしまった。喜ぶべき要素は、どこにも見つからなかった。それでも、鬱々とした心を押し隠して笑みを貼り付けていた。見えていればすぐに作り笑いだと見抜いただろうアストは、もう二度とわたしの顔を見ることができなくなっていた。
そうして作り笑顔のまま、ゼス陛下と王妃殿下が待つ謁見室まで行って、難しい言い回しができないわたしの代わりにアストが結果を報告して、そしてゼス陛下が、ご苦労だった、と言ってくれたところで、我慢できなくなった。わたしはその場で泣き出して、命を奪ったたくさんの魔族と、魔王に対してうわごとのように謝罪の言葉を繰り返した。そんなことを言ったって今更遅いのだけれど、そうでもしなければ罪の意識に押しつぶされて気が狂ってしまいそうだったのだ。魔王たちは悪いことをしたのだろう。それは死を持って償うべきことなのかもしれない。日本にだって、死刑はある。けれど、この手でその命を奪うとなると話が違った。
ごめんなさい、ごめんなさいとひたすら繰り返すわたしを、優しく、けれど抱きしめてくれる腕があった。アストだった。顔が見えなくて、わたしがずっと我慢していることに気づいていなかったから、それはそれはびっくりしただろう。彼はわたしを抱きしめて、優しく背中をさすってくれた。今度は、アストに謝り倒す番だった。抱きしめられたまま、わたしは号泣しながら、アストごめんなさい、とひたすら言い続けた。アストは、魔力を反射させれば物がどこにあるか分かるから、視力があった頃とおなじように何不自由なく暮らせると言ってくれた。それから、視力を失わなくてはならなかったのは、自分の力不足だとも言ってくれた。けれどわたしは知っている。あのとき、わたしも含め、全員が死ぬ寸前だった。視力を犠牲にするほどの大技でないと、戦況はひっくり返せなかった。アストは、自分の視力と引き換えに、全員の命を救ったのだ。そしてその目は、もう二度と、光を感じることができないのだ。
散々泣きわめくわたしを、誰も責めなかった。謁見室を出るまでも、出てからも、部屋に帰っていつかのようにベッドで泣きじゃくっても、誰も怒らなかった。以前のように、ただ、放っておいてくれた。苦しかった。わたしは、守りたいと思った人のことを守ることができなかったのだ。
アストに連れられて執務室に行けば、いつの間にか先触れが出ていたのだろうか、ゼス陛下は書類を脇に置いて待っていてくれた。豪奢な扉から顔を出したわたしを見て、慈しむように微笑む。ゼス陛下のこの笑顔は、なんだかわたしがとんでもなく幼い子供になったような気がしてむずむずするのだけれど、頼ってもいいんだよ、と言われているような気もして、ちょっぴり嬉しくもある。わたしは今日も、ついついつられて笑いつつ、陛下の机に近寄った。本当は、扉のところで丁寧な口上を述べて、許可が下りたら最大限の敬意を払いつつ近寄るものらしいけれど、ゼス陛下もアストもわたしにそんなことは求めなかった。だからわたしも、そんな二人に甘えている。
「アイ。元気なようだな」
「おかげさまで」
ゼス陛下は、娘を案じる父親のように、わたしを上から下まで見つめて、そして満足そうに頷いた。会うたび会うたび、ゼス陛下はこんな風にわたしの身を案じてくれる。帰れなくなったわたしのために、親代わりになってくれるかのように。
「今日はどうしたんだ?」
優しく問いかけてきたゼス陛下に、わたしは一度深呼吸をする。そろそろ潮時だとは思っていたけれど、やっぱり政治の表舞台に立つのは怖い。だってわたしは、もともとは地球の小市民でしかなかったのだから。それでも、こんな立場になった以上、覚悟はしなければならないのだろう。今までのぬるま湯生活を捨てる覚悟をして、そして口を開く。
「わたし、そろそろ表に出るよ」
わたしの宣言に、ゼス陛下は目を丸くした。それから、伺うようにちらりとアストに目を向ける。目の見えないアストとはアイコンタクトは取れないけれど、わたしの宣言を聞いても顔色一つ変えない彼に、どうやら決意は本物らしいと確信したようだった。ゼス陛下は、またわたしを見て、わたしの目を見据えたまま、一つ頷いた。
「そうか。……よく、決心したな」
わたしは、この決心がまた優しい人たちの心を傷つけないように、わざと明るい声を上げた。きっと、この人たちは、流されざるをえないわたしの立場を、とても心苦しく思っているはずだから。せめて、目一杯明るく。
「いっぱい贈り物来てるんでしょ。問題なさそうなものはちゃんともらってもいいんだよね」
「ああ」
笑って話しだしたわたしを見て、ゼス陛下の表情が柔らかくなった。きっと、わたしの出方をうかがっていたんだろう。緊張を押し隠して笑ってよかったな、と安堵した。わたしは、空元気に気づかれないように、更に言葉を重ねる。
「お茶会の招待状もいっぱい来てるんだっけ。作法の勉強もとうとうしなきゃいけないかなあ」
「そうだな。マナーの教師を見つけてこよう」
「ダンスの練習もあるんでしょ。わたし踊れないし。あ、せっかくだからイケメンの先生がいいな!」
「いけめん?」
「かっこいい男の人のことだよ。ゼス陛下もアストもイケメンだね」
「そんな見た目にこだわるような人間だったか、お前は?」
「いや別に見た目なんて二の次だけど。せっかくだったらかっこいい人の方が嬉しいじゃない」
「そういうものか」
「そういうものなの」
はしゃいだわたしの言葉に、ゼス陛下は苦笑しながらつき合ってくれた。ひとしきり言いたい放題喋ってから、暇を告げる。お前は邪魔じゃないぞと陛下は言ってくれたけれど、邪魔かどうかというより、そろそろ空元気が保たなくなってきていた。早いところ、この場を離れなくては。
「気をつけて部屋に戻れ。ああ、あと、アストはちょっと残ってくれ」
「はい」
陛下と、都合良く呼び止められたアストにも手を振って、わたしは軽やかに執務室をあとにした。扉が閉まったとたんに足が止まってしまったのは仕方ないと思う。よくここまで元気を装えたな、と自分をほめながら、わたしはのろのろと自室に向かって歩き出した。
もう、何も知らない無邪気な子供ではないのだ。わたしは、「勇者」という称号に付属された責任の重さを知っている。政治的な価値も、この手が切り裂いた命も、そして、もう戻ることはないアストの視力も。全部背負って生きていかなければならないのだ。もう癖なのだろう、アストとアイコンタクトをとろうとして失敗したゼス陛下の姿を思い出す。視線一つであの二人が語り合うことは、もうできない。アストの目がわたしを映してくれることも、もうない。
執務室の扉の向こうで、ようやく動き出した足音に、残された二人は重いため息をついた。彼女が空元気で明るく振る舞っていたのには気づいていた。二人とも化かし合う狸どもと共に政治を動かしてきた実力者だ、あの程度のごまかしに気づけないわけもない。けれど、彼女が明るく見せようとした努力を無下にするつもりもなかったから、調子を合わせていただけ。
あの小さな身体に、どれほどの重圧がかかっていることだろう。召喚の間で彼女の様子を見た時から、自分たちとは大きく違う価値観で生きてきたのだろう、とは思っていた。それから、話を聞いていくうちに、彼女の故郷は信じられないほど平和で、彼女はとても幸せに生きてきたのだろうことも伺えた。のびのびと生きてきたあの少女に、勇者という称号は重すぎるのだろう。それでも、彼女は勇者として立つことを受け入れ、そして今度は、その称号を背負うことを覚悟した。その覚悟までに、どれほどのつらい思いがあったのだろう。
「とうとう、俺たちはあの子を縛り付けることになったんだな」
「そう、ですね」
ゼスがぽつりとこぼした言葉に、返るアストの声も低い。本当は、幸せに生きてきた少女を、不幸の淵に叩き落としたくはなかった。それでも、本意ではないという言葉も、言い訳になるのだろう。彼女に望まぬ枷をつけてしまったのは、そもそも召喚賛成派を抑え込めなかった自分たちの責任だからだ。彼女には、いくら謝っても罪を償えない。
けれど、彼女は二人を責めたりしないのだろう。守ってくれてありがとう、と笑うのだろう。守ることなど、できていないというのに。つらい思いをしいているというのに。
「せめて、こちらの世界で精一杯幸せになってほしいのですが」
アストのため息まじりの言葉は、ゼスとて同じ思いだった。どうか、こちらの世界で、心安らげる場所を見つけて、幸せになってほしい。
けれど、とアストは口元をゆがめて、笑みのようなものを浮かべた。
「けれど、ほんの少し、安心している私もいるのですよ。最低なことにね」
ゼスは、何も言わなかった。アストがそう言い出すであろうことは、薄々気づいていたから。ちらり、とその碧い瞳をアストに向けるも、光を失った紺の瞳は気づかない。
「視力を失ったことは確かに手痛い失態でした。ですが、これでアイは、私への罪悪感から、私から離れられなくなるでしょう。そして、勇者として立つならば、早々人は近寄れない存在になる。けれど、旅に同行した私なら、いくらでも傍にいられます。そうして、彼女を独占できるのが、わたしは嬉しくてしょうがないのですよ」
己への嫌悪を滲ませつつ吐き出された本心は、ゼスの予想通りだった。無邪気に懐いてくる少女を、アストが、ゼスとは違った意味で慈しんでいるのは理解していた。そして、その紺の瞳が、時折嫉妬に光るのも。勇者として凱旋した少女に、各方面から寄せられる求婚状を、難癖つけてすべて握りつぶしていることも。
けれど、ゼスにアストを責める気はなかった。彼に、無理強いする意思がなかったからだ。アストは、嫉妬に狂いつつも、少女を縛り付けることはしなかった。彼女がアストに懐いているから、愛情を注いでいるだけ。彼女が近寄らなければ、自分からは決して近寄らない。きっと彼は、少女が他の誰かを選べば、己の命を絶ってでも彼女の幸せを優先するのだろう。それがわかっているから、想いに身を焦がす親友を、責めることはできなかった。
そしてどうか、かの少女がこの友を幸せにしてくれることを願っている。自分だって大概なものだ。少女に、親友の幸せを望んでいるのだから。
二人は、決して彼女の敵にはなるまいと誓っていた。たとえ世界すべてを敵に回そうとも、味方でいようと。けれど、それと同時に、自分たちが彼女を縛る一番の桎梏になることも、よく知っていたのだ。
コウモリについて考察していたらヒーローが失明していました。




