8時間目 理科室の怪人
チュン、チュン……。
どこからともなく聞こえる小鳥のさえずりで、俺は目を覚ました。
……いや、違う。窓の外は灰色の霧だ。鳥なんていない。
これは、東雲センパイが目覚まし代わりに流した、校内放送の環境音BGMだ。
「……ふわぁ。朝か」
体を起こすと、イタリア製ソファのきしむ音がした。
隣を見ると、凛がまだ爆睡している。
「んぅ……焼きそばパン……もう食えない……」などと寝言を言いながら、よだれを垂らしていた。起きている時の「狂犬」ぶりとは大違いだ。
「おはよう、カケル君。よく眠れたかね」
センパイはすでに起きていて、優雅にコーヒーを啜っていた。この人、本当にメンタルが強い。
「おはようございます。……外は、変わりないですか」
「ああ。相変わらずの霧だよ。だが、校内の『魔素濃度』は昨日より上がっている。空気が重いだろう?」
言われてみれば、肌にまとわりつくような湿気と、静電気のようなピリピリ感がある。
俺たちは簡単な朝食(備蓄のクラッカーと缶詰)を済ませ、今日の行動予定を立てることにした。
「本日の目標は『武装の強化』だ」
センパイがホワイトボードに文字を書く。
「昨日の図書室での襲撃を見るに、我々の武器は貧弱すぎる。カケル君の『固定』と凛君の『着火』は強力だが、決定打に欠ける場合がある」
「確かに。あの本棚みたいに、物理で殴られたら終わりですからね」
「そこでだ。私が理科準備室に隠し持っている『ある物』を回収しに行きたい」
理科準備室。
昨日は通り過ぎただけだったが、センパイの城だ。
「ある物って?」
「内緒だ。だが、間違いなく役に立つ」
起きてきた凛も加えて、俺たちは校長室を出発した。
*
廊下を歩く。
昨日よりも、廊下が長く感じる。
壁のシミが人の顔に見えたり、蛍光灯がチカチカと点滅していたり。明らかに「雰囲気」が悪くなっている。
「……ねぇ。なんか臭くない?」
凛が鼻をつまんだ。
消毒液と、古びたプラスチックが焦げたような、独特の臭い。
「理科室の臭いだ。近づいている証拠だね」
特別棟の3階。理科室の前に到着する。
引き戸は閉まっていた。
だが、そのガラス窓の内側に、ベッタリと白い手形のようなものが付いているのを見て、俺は背筋が凍った。
「センパイ。あんな手形、昨日ありましたっけ」
「……いや。昨日は綺麗だったはずだ」
センパイの目が鋭くなる。
俺は意を決して、引き戸に手をかけ、一気に開け放った。
(……前段の朝のシーン、理科室へ向かうシーンはそのまま……)
ガラララッ!
中は無人だった。
黒板、実験台、ビーカーやフラスコ。
一見すると昨日のままに見える。
だが、違和感があった。
「あれ……?」
凛が部屋の隅を指差す。
「あそこにあった『人体模型』、どこ行ったの?」
理科室の定番インテリア。
筋肉や内臓がむき出しになった、身長170センチくらいの気味の悪い模型。
昨日、センパイと会った時は、確かに部屋の隅のスタンドに立っていたはずだ。
今は、スタンドだけが残され、模型本体が消えていた。
「風で倒れたのか? いや、床にもないぞ」
俺が実験台の下を覗き込もうとした時だ。
カサ……カサカサ……
廊下から、乾いた音が響いた。
まるで巨大なゴキブリが這い回るような、軽くて硬い、生理的嫌悪感を催すリズム。
「――来るぞ!!」
センパイが叫んだ。
俺たちは反射的に入り口の方を向く。
廊下の曲がり角から、猛スピードで「それ」が現れた。
赤と白の筋肉繊維。
半分剥がれた顔の皮膚。
虚ろな眼球。
理科室の人体模型だ。
だが、直立不動の模型ではない。
関節という関節がありえない角度で曲がり、まるで四足歩行の獣のように、床を這うような姿勢でこちらへ突っ走ってくる!
「うわああああっ! キッッッショイ!!」
凛が悲鳴を上げ、本能的に後ずさる。
「検体番号01、通称『ジェームズ君』だ!」
「名前つけてる場合ですか!」
「ちなみに由来は、骨盤の傾斜が英国紳士のようにダンディだからだ!」
「どこ見てんだアンタは!!」
センパイのふざけた解説をよそに、ジェームズ君(人体模型)は理科室の入り口で急停止した。
ギギギ……と首を180度回転させ、俺たちを捕捉する。
バキッ、ゴグッ。
プラスチックのパーツ同士が擦れ合い、中空の胸部が不快な摩擦音を奏でる。
カチッ、カチッ。
顎のパーツを開閉させ、威嚇音を鳴らす。
「カケル君、来るぞ! 構えろ!」
ダァンッ!!
床を蹴る音と共に、人体模型が跳躍した。
狙いは俺たちの首。
物理攻撃力全開のタックルが迫る。
俺は右手を突き出し、叫んだ。
「このっ……止まれええええ!!」
能力『固定』発動。
俺のイメージが空間に杭を打つ。
だが、相手は本棚と違って高速で動く物体だ。タイミングがシビアすぎる。
俺の指先が、模型のプラスチックの肩に触れるか触れないかの刹那――。
――ガギンッ!!
鈍い衝撃が俺の手首を襲った。
止めた。
だが、完全に勢いを殺しきれず、俺はそのまま後ろへ吹き飛ばされた。
「ぐあっ!?」
「カケル!」
俺は実験台に背中を強打し、床に転がる。
空中で「固定」されたジェームズ君は、空中に張り付けになったまま手足をバタつかせ、藻掻いている。
「キシャァァァァ……!」
ギチチチチ……!!
口から異音を発し、固定を振りほどこうと暴れる模型。
無理やり動こうとするたびに、安っぽいプラスチックが軋む音と、蝶番が悲鳴を上げる音が響き渡る。
ミシミシと、空間がきしむ音がする。
俺の『固定』は、まだ数秒しか持たない!
「凛君、今だ! 燃やせ!」
「わ、わかった!」
凛が震える手で指鉄砲を構える。
恐怖で顔が引きつっているが、その瞳には炎が宿っていた。
「私のカケルに……何すんのよ、この変態模型!!」
ボッッ!!
凛の指先から、昨日よりも大きな炎が噴き出した。
理科室での初戦闘が、幕を開ける。




