1時間目 俺がトイレに行っている間に、全校生徒が消滅した件
「……ふぅ。生き返った」
個室の水を流す音と共に、俺、相沢カケルの「聖戦」は終わった。
原因は間違いなく、2時間目の休みに食べた『激辛麻婆パン』だ。購買のおばちゃんが「新作だよ!」と満面の笑みで勧めてきたあれは、食品というより兵器に近かった。
ズボンのベルトを締め直し、個室の鍵を開ける。
スマホの画面を見ると、時刻は13時15分。
昼休みが終わって、5時間目の授業が始まってから10分ほど経過していた。
「やべ、5限って数学か? こっそり裏口から入ればセーフか……?」
俺はブレザーの埃を払い、急いで男子トイレを出た。
手を洗い、濡れたハンカチで拭きながら廊下に出る。
その時、違和感を覚えた。
「……あ?」
静かだ。
あまりにも、静かすぎる。
授業中とはいえ、学校というのはもっと「音」があるはずだ。
教師の怒鳴り声、チョークが黒板を叩く音、廊下を走る足音、あるいはサボっている奴らの話し声。
生徒数1000人を超えるこのマンモス私立高校で、これほどの静寂が訪れることなんてあり得ない。
まるで、音量設定をミュートにしたような不気味な静けさ。
俺の足音だけが、ペタペタと廊下に響いている。
「おい、マジかよ。まさか避難訓練か?」
嫌な予感がして、俺は自分の教室――2年B組へと走った。
教室の前まで来ると、扉が少し開いているのが見える。
中から人の気配はしない。
ガラッ、と勢いよく扉を開ける。
「すいません遅れまし――」
言い訳を口にしようとして、俺は言葉を失った。
教室には、誰もいなかった。
クラスメイト35人も、担任の教師も。
ただ、人がいないだけなら「移動教室かな」で済む話だ。
だが、今の状況は明らかに異常だった。
机の上には教科書が開かれたまま。
書きかけのノートにはシャーペンが転がっている。
誰かの鞄が机の脇に掛かったままだし、弁当箱の蓋が開いたまま放置されている席もある。
ついさっきまでそこに人がいて、呼吸をしていて、生活していた「熱気」だけが残っていた。
人間だけが、神隠しに遭ったかのように綺麗さっぱり消滅している。
「……は? なんだこれ」
俺は教室の中へ足を踏み入れた。
黒板を見る。
数式が途中まで書かれ、チョークの粉が舞った跡がある。
床を見た。
そこには、直径2メートルほどの、焼け焦げた幾何学模様のような跡があった。
微かに、火薬のような、あるいは嗅いだことのない甘い香りが漂っている。
「おい! 誰かいねーのか! 豪徳寺! 委員長!」
叫んでも、返事はない。
廊下へ戻り、隣のA組を覗く。無人。
C組も、D組も。
職員室へダッシュした。鍵は開いていたが、先生の姿は一人もない。飲みかけのコーヒーから湯気が立っているだけだ。
「……ドッキリにしちゃ、金がかかりすぎだろ」
乾いた笑いが漏れる。
背筋がゾワゾワと震えた。
俺はふらつく足で、廊下の窓に駆け寄った。
人がいないなら、外へ出ればいい。
誰かに助けを求めればいい。
そう思って、3階の窓からグラウンドを見下ろした俺は――本日二度目の絶句をした。
「なんだよ……あれ」
本来なら見えるはずの、学校周辺の住宅街がない。
駅前のビル群も、遠くに見える山も、空の青ささえもない。
学校の敷地を囲うように、分厚い灰色の「霧」が壁のようにそびえ立っていた。
それは雲海の中に学校が浮いているようにも見えるし、世界そのものがそこで途切れているようにも見えた。
試しに窓を開けてみる。
風は入ってこない。外の音もしない。車の音も、電車の音も。
ここにあるのは、無人の校舎と、俺一人。
その瞬間、俺の脳裏に、ラノベ好きの友人(今は行方不明)が熱く語っていた言葉がよぎった。
――ある日突然、教室に魔法陣が出てきてさ! クラスごと異世界転移しちゃうんだよ!
「……まさか」
俺は誰もいない廊下で、天井を仰いだ。
「俺がトイレで踏ん張ってる間に、クラス転移が起きたってのか?」
そして、俺だけがハブられた(置いていかれた)。
状況証拠は真っ黒だ。
俺は窓枠に手をつき、灰色の霧に閉ざされた世界を睨みつけた。
「ふざけんなよ……。これから、どうすりゃいいんだよ」
俺のつぶやきは、誰の耳にも届くことなく、静寂の校舎に吸い込まれていった。




