最終話
あの断罪の夜会から、季節は一度巡った。王都の社交界地図は、劇的に塗り替えられた。ベルガー子爵家は、リヒャルトの犯した数々の不正と国家への背信行為により爵位を剥奪され、その名は人々の記憶からも消え去ろうとしていた。彼に付き従っていたイザベラもまた、実家である男爵家から勘当され、その後の消息を知る者はいない。
そして、私の実家であるヴァインベルク伯爵家もまた、シュヴァルツヴァルト公爵家の不興を買い、さらに娘の才能を搾取していたという悪評が広まったことで、その権勢を大きく失墜させていた。父は何度か私に面会を求めてきたが、アレクシス様がすべて丁重に、しかし断固として退けてくださった。過去との鎖は、完全に断ち切られたのだ。
一方の私は、シュヴァルツヴァルト公爵家の庇護のもと、アレクシス様の補佐として公爵邸で穏やかな日々を送っていた。もはや私を「物覚えの良い人形」と呼ぶ者はどこにもいない。私の記憶力と分析能力は、公爵家の膨大な領地経営や、王国の政策決定に関わる重要な場面で遺憾なく発揮された。いつしか人々は、私を敬意を込めてこう呼ぶようになっていた。「シュヴァルツヴァルトの賢女」と。
かつて私を閉じ込めていた記憶の檻は、今や私自身と、そして大切な人々の未来を切り拓くための、輝かしい翼となっていた。不当に冷遇され、心を殺して生きてきたあの日々は、決して無駄ではなかった。あの経験があったからこそ、私は情報の裏に隠された人の悪意や欺瞞を見抜く力を養い、そして、差し伸べられた真実の優しさの価値を知ることができたのだ。「不当な冷遇は、真の才能を輝かせるための試練である」――今なら、あのテーマの意味を、心から理解できる。
そんなある日の午後、私は隣国との間で懸案となっていた領土問題に関する資料を整理していた。数十年にわたる複雑な条約と議定書が絡み合い、交渉は暗礁に乗り上げていた。王宮の重鎮たちですら匙を投げかけた難問だ。
「……見つけました、アレクシス様」
書斎で執務中の彼に声をかけると、アレクシス様は書類から顔を上げた。その蒼い瞳は、二人きりの時には氷のような冷たさを潜め、穏やかな光を湛えている。
「どうした、エリアーナ。何か気づいたのか」
「はい。三十年前に締結された通商条約の、第七項補足。ここに、『両国間の係争地域の資源採掘権については、五年ごとに見直しを行う』という一文が、当時の議事録にのみ記載されています。しかし、その後の正式な条約文からは、この一文が意図的に削除されているようです。おそらくは、当時の隣国の交渉官による偽装工作かと」
私の記憶の海から引き上げた、誰もが見落としていた小さな事実。それは、膠着した状況を覆す、決定的な一撃となった。アレクシス様は私の指摘した箇所に目を通すと、深く頷いた。彼の瞳には、絶対的な信頼と、それ以上の熱を帯びた何かが揺らめいていた。
「……素晴らしい。君がいなければ、永遠に気づかなかっただろう。エリアーナ、君はまた、この国を救ってくれた」
「いいえ、私はただ、お教えいただいたことを実践しているだけです。この力を、誰かのために正しく使うということを、教えてくださったのはアレクシス様ですから」
そう微笑むと、彼は静かに立ち上がり、私のそばへと歩み寄った。そして、私の手を優しく取る。彼の大きな手に包まれると、いつも不思議なほど心が安らいだ。
「エリアーナ。今夜、少し時間が欲しい。君に、見せたい場所があるんだ」
その夜、彼に連れられて向かったのは、公爵邸の最上階にある、普段は閉ざされている「星見のテラス」だった。ガラス張りの天井からは、満天の星々が降り注ぐように輝いている。眼下には、宝石を散りばめたような王都の夜景が広がっていた。
「……綺麗……」
思わず漏れた感嘆の声に、アレクシス様は私の肩をそっと抱き寄せた。
「ここは、シュヴァルツヴァルト家の当主が、最も大切な人と未来を誓う場所なんだ」
「……え?」
驚いて彼を見上げると、そこには、今まで見たこともないほど真剣で、そして優しい眼差しのアレクシス様がいた。
「エリアーナ。初めて君を夜会で見かけた時、私はすぐにわかった。君が、周りの愚かな者たちが言うような、ただの人形ではないことを。その静かな瞳の奥に、誰にも屈しない強い意志と、計り知れないほどの賢さを秘めていることを見抜いていた」
彼の指が、私の頬をそっと撫でる。
「私は、君の才能に惹かれた。それは事実だ。だが、それだけではない。君がリヒャルトに侮辱されながらも、必死に自分を保とうとする姿に、心を揺さぶられた。君のその気高さと、脆さを、全て私が守りたいと、強く思ったんだ」
彼の言葉は、夜の静寂に溶けるように、私の心に深く染み込んでいく。
「君をこの手に取り戻してからの日々は、私の人生で最も満たされた時間だった。君がその力を存分に発揮し、輝きを増していく姿を見ることが、私の何よりの喜びになった。だが、もう、国のため、家のため、誰かのためにその力を使う必要はない」
彼は私の両手を取り、その蒼い瞳でまっすぐに見つめて、こう言った。
「これからは、君自身の幸福のためだけに、生きてほしい。いや、その類稀なる力など、もうなくてもいい。私は、ただ、エリアーナ・フォン・ヴァインベルクという一人の女性を、その魂ごと愛している。君という存在そのものが、私の未来に必要なんだ」
彼はゆっくりと私の前に跪くと、小さなベルベットの箱を取り出した。蓋が開かれると、そこには、夜空の星を一つ摘み取ってきたかのように美しく輝く、蒼い宝石の指輪が収められていた。
「エリアーナ。どうか、私と結婚してほしい。私の妻として、シュヴァルツヴァルト公爵家の女主人として、そして、私の唯一の愛する人として、生涯を共にしてはくれないだろうか」
熱い涙が、私の頬を伝って流れ落ちた。それは、かつての屈辱や悲しみの涙ではない。生まれて初めて知った、幸福と喜びに満ち溢れた、温かい涙だった。
私は、涙で潤む瞳で、目の前の愛しい人を見つめ、声の限りに頷いた。
「……はい、喜んで。アレクシス様……」
答えを聞いた彼は、安堵と喜びに満ちた、誰にも見せたことのない優しい笑顔を浮かべると、私の指にそっと指輪をはめてくれた。そして、立ち上がると、私を強く、しかし壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめた。
星々の光が降り注ぐテラスで、私たちは静かに唇を重ねる。それは、記憶の檻から解放された乙女が、真実の愛を見つけ、永遠の幸福を誓った、優しく甘い口づけだった。
こうして、かつて「玻璃の人形」と呼ばれた伯爵令嬢は、その類稀なる記憶力と知性で国を救い、全てを見抜いてくれた「氷の貴公子」の唯一の愛する人となった。二人の物語は、やがて王都で最も美しい恋物語として、末永く語り継がれていくことになる。
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