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記憶の檻に囚われた伯爵令嬢は、氷の貴公子の慧眼に見出され、偽りの婚約者に裁きを下す  作者: 九葉


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第一話

シャンデリアから降り注ぐ光の粒子が、きらびやかな衣装を纏った貴族たちの笑顔を照らし出す。ここは王都で最も華やかで、そして最も残酷な場所。厳格な階級制度が人々の価値を決め、血筋と権力が全てを支配する社交界だ。


その一角で、私、伯爵令嬢エリアーナ・フォン・ヴァインベルクは、息を潜めるようにして壁際に佇んでいた。周囲の喧騒とは裏腹に、私の周りだけが不自然なほど静かだ。誰もが私を遠巻きにし、憐れみと好奇の入り混じった視線を向けてくる。彼らにとって私は、「ヴァインベルク伯爵家の物覚えの良い人形」でしかないのだから。


「エリアーナ、ここにいたのか。ぼんやりするな、次の取引相手の情報を整理しておけと言ったはずだ」


不機嫌を隠そうともしない声。振り返ると、そこには私の婚約者であるリヒャルト・フォン・ベルガー子爵が、腕に一人の令嬢を絡ませて立っていた。彼の隣で勝ち誇ったように微笑むのは、男爵令嬢のイザベラ。リヒャルトの「本命」として、社交界では公然の秘密となっている女性だ。


「リヒャルト様。今宵は王家主催の夜会です。お仕事の話はまた後日……」

「口答えをするな。お前の唯一の取り柄は、その無駄に良い記憶力だけなのだから、主人のために役立てるのが当然だろう?」


リヒャルトの言葉は、まるで鋭い氷の礫のように私の心を打つ。私の持つ「完全記憶能力」――一度見聞きしたものは決して忘れないこの才能は、父にとってはヴァインベルク家の商会を利する道具であり、婚約者のリヒャルトにとっては、自らの地位を向上させるための便利な手駒でしかなかった。


彼は私が記憶した膨大な量の取引データや他家の内情を、さも自分が調べ上げたかのように上司に報告し、評価を上げてきた。その功績が認められ、近々、王宮騎士団の分隊長に昇進するという。そのための婚約が、この私との政略結婚だった。


イザベラが扇で口元を隠し、嘲笑を漏らす。

「まあ、リヒャルト様ったら。エリアーナ様はただ記憶するだけの玻璃の人形ですもの。ご自分の意志などおありにならないわ。ねえ、エリアーナ様?」


侮辱的な言葉にも、私の表情は変わらない。感情を殺し、無感動を装うことだけが、この残酷な社交界で心を保つ唯一の術だった。私が何も言い返さないのを見て、リヒャルトは満足げに頷いた。


「そうだ、それでいい。さて、先日会ったマルクス辺境伯だが、彼の領地で採れる希少鉱石の取引について、過去五年間の取引価格と主要な取引相手、それから彼の個人的な好み――好きな酒や女性のタイプまで、全て暗唱してみせろ。周りの方々も、私の婚約者の素晴らしい才能に興味がおありのようだ」


リヒャルトがわざとらしく大きな声で言うと、周りにいた貴族たちがにわかに色めき立った。面白い見世物を見つけたとばかりに、じりじりと私たちを取り囲む。これは、いつものことだった。彼はこうして公衆の面前で私に記憶を披露させ、自らの所有物がいかに優秀であるかを誇示するのだ。屈辱に、指先が冷たくなっていくのを感じる。しかし、ここで拒否すれば、後で待っているのは父からの叱責と、リヒャルトからの執拗な嫌がらせだ。


私は静かに瞳を伏せ、唇を開いた。

「マルクス辺境伯。五年前の鉄鉱石の取引価格は、1トンあたり金貨2枚と銀貨3枚。主な取引相手はガルニエ商会。当時、辺境伯が好んで飲まれていたのは、西方産の赤葡萄酒『太陽の雫』。お気に入りのオペラ歌手は……」


よどみなく紡がれる情報に、周囲から感嘆とも驚愕ともつかない声が上がる。人々は私を人間としてではなく、まるで精巧な自動人形か何かのように見つめている。その視線が、私の心を少しずつ削っていく。


全ての暗唱を終えると、リヒャルトは得意満面に胸を張り、イザベラの肩を抱いた。

「どうだ、素晴らしいだろう? これが私の婚約者、エリアーナだ。この記憶力があれば、我がベルガー家も、そして王国も、更なる繁栄を遂げるに違いない」


まるで自分の手柄のように語る彼に、称賛の声が集まる。誰も、その情報の出所である私のことなど見ていない。私の才能は、リヒャルトというフィルターを通してしか評価されない。


その時だった。取り巻きの一人が、残酷な質問を投げかけた。

「しかしベルガー子爵。それほどの才能を持つご令嬢が、なぜいつもそのような地味なドレスを? まるで夜会の華やかさに水を差すようですな」


リヒャルトは一瞬顔を顰めたが、すぐに芝居がかったため息をついてみせた。

「仕方ないのだ。彼女は美しいものを好まない。私の愛するイザベラのように、華やかなドレスや宝石を贈っても、彼女は決して身につけようとしないのだよ。まるで感情がないかのようにね」


嘘だ。彼からまともな贈り物など貰ったことなど一度もない。私のドレスや装飾品は、全て継母が「伯爵家の恥にならぬ最低限のもの」として選んだ、古びたデザインのものばかり。新しいものを誂えてほしいと頼んでも、「お前のような人形に着飾る価値などない」と一蹴されるだけだった。


イザベラが追い打ちをかけるように、私の隣に並んでみせる。彼女が身につけた真紅のドレスは、最新のデザインで、胸元には大粒のルビーが輝いていた。それは、先月リヒャルトが騎士団の任務で得た褒賞金で買ったものだと、私は記憶している。

「エリアーナ様は、きっとわたくしが羨ましいのでしょうね。リヒャルト様からの愛も、この美しいドレスも、全てわたくしのものですもの。可哀想に」


同情を装った、刃のような言葉。周囲からくすくすと笑い声が漏れる。もう、限界だった。しかし、私がここで感情を見せれば、彼らの思う壺だ。冷静に、冷静に――。私はただ無表情にそこに立ち尽くすことしかできなかった。


屈辱的な時間が永遠に続くかと思われた、その時。

凛とした、それでいて氷のように冷たい声が、その場の空気を切り裂いた。


「――実に下劣な見世物だな」


一瞬にして、喧騒が静寂に変わる。全ての視線が、声の主へと注がれた。そこに立っていたのは、この国の若き公爵家嫡男、アレクシス・フォン・シュヴァルツヴァルト様。

濡れたような黒髪に、見る者を射抜くような冷たい蒼い瞳。「氷の貴公子」と称される彼は、社交界の誰とも馴れ合わず、常に他者と一線を画す存在だ。その彼が、今、私たちを見つめている。その蒼い瞳は、リヒャルトやイザベラではなく、まっすぐに私――エリアーナを捉えていた。


リヒャルトが慌てて背筋を伸ばす。

「こ、これはアレクシス公爵閣下。ご機嫌麗しゅう。いやはや、私の婚約者の余興が、閣下のお耳にまで入ってしまいましたか」

「余興だと?」


アレクシス様の低い声には、明らかな軽蔑が滲んでいた。

「婚約者の類稀なる才能を己の功績のように語り、衆目の前で辱める。それを余興と呼ぶのか、ベルガー子爵。貴族の風上にも置けんな」


冷え冷えとした言葉に、リヒャルトの顔から血の気が引いていく。周囲の貴族たちも、先ほどまでの嘲笑を凍りつかせ、慌てて表情を改めた。この国でシュヴァルツヴァルト公爵家に逆らえる者などいない。


アレクシス様はゆっくりと私に歩み寄ると、私の目の前で足を止めた。彼の瞳が、私の魂の奥底まで見透かしているような気がして、思わず息を呑む。

「ヴァインベルク嬢。君の才能は、あのような男に利用されるためにあるのではない。その記憶力は、国家の財産にもなり得る、尊い力だ」


誰もが私を「人形」と呼ぶ中で、彼は初めて私を「個」として認め、私の才能を「力」だと断言した。驚きに目を見開く私に、彼はこう続けた。


「――その記憶の檻から、君を解放してやろう」


それは、静かだが、決して覆ることのない、絶対的な宣言だった。

アレクシス様の蒼い瞳の奥に、ほんの一瞬、優しい光が宿ったように見えたのは、きっと私の気のせいではないだろう。


この夜を境に、私の運命が大きく動き出すことを、まだ知る由もなかった。ただ、リヒャルトとイザベラの歪んだ顔を記憶に刻みながら、私は静かに誓ったのだ。この屈辱は、決して忘れない。私の記憶は、もう誰かのための道具ではない。私自身の未来を切り拓くための、最強の武器なのだと。

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