第9話「決戦の兆し」
【カイ=オルランド視点】
影の騎士が砕け散った瞬間、遺跡全体に張り詰めていた呪気がわずかに引いた。だが、その静寂は刃の背のように薄く脆い。空気にはまだ硫黄と血が混ざった匂いが沈み、剣を握る掌の温度さえ奪っていく。黒鎧の男が残した声――「聖剣を渡すわけにはいかない」――が耳奥で濁った鐘のように鳴り続け、胸の内側を鈍く叩いた。終わりではなく、むしろ口火。闇はまだ息を潜めている。
◆
遺跡を抜け、灰色の空の下へ出る。雲は低く垂れこめ、陽光を潰したまま世界を一色の鉛へ閉じ込めていた。風が梢を揺らし、葉擦れの隙間で遠い雷鳴が胃の奥を震わせる。乾いたはずの血が鎧の継ぎ目で再び冷え、心臓が強く脈を打つたびに鉄と汗の匂いが立った。
背後で鎧の留め金が鳴る。
「……戻るのか?」
ジークの低い声が空気を割る。槍を肩で背負う彼の輪郭は揺るぎないが、その灰色の瞳には微かに街を案じる翳りが灯っていた。
「……ああ。王都へ帰還する」
言葉に出した瞬間、胸が重く沈む。王都——石畳に血の記憶が染み、塔の尖端で陰謀が息を潜める街。そこに向かう道のりは、ただの帰還ではなく、決戦への行軍だ。
剣柄に汗が滲む。恐怖なのか焦躁なのか判断がつかない。だが柄に刻まれた傷へ親指を押し当てると、不思議と鼓動が落ち着いた。これは守るべき者たちのために付けた傷。その痛みを忘れぬかぎり、迷いは己を喰らい尽くせない。
◆
リシェルが一歩前へ出た。銀髪が鉛色の風を裂き、肩に編み込まれた小さな菫色のリボンが震えを帯びる。
「聖剣の儀式は王都の〈聖域〉でしか完遂できない。そこに真の敵——因果の本流が集うはずよ」
声は静かだが指先がわずかに震え、鞘にかけた手に力が籠る。剣士としての確信と、一人の少女として逃れ難い恐れ。その両方を抱えたまま顔を上げる彼女を、風が冷たく撫でた。
「リシェル……お前の背は俺が支える」
小さく息を吐くと、彼女の翡翠の瞳が細く揺れ、唇に刹那の微笑みが浮かんだ。昼尚暗い雲間でも、その笑みは焔のように胸を暖めた。
◆
エリスが魔導書を抱き直し、指で頁の端を撫でる。古い羊皮紙が震え、うっすら青い光が紙繊維を走った。
「王都には……私の家族がいるの。もし闇が街を呑めば……」
声は震えていたが、呪文の光が瞬くたび空気が小さく波打った。恐怖を押し包むほどの意志が、その華奢な身体の奥で膨らんでいる。
「最後まで戦う」
彼女は震えを飲み込み、瞳を上げた。
ジークがその横で槍の石突きを地に下ろし、土を鳴らす。
「王都の石畳は硬いが、お前らが歩けば轍ができる。俺の役目はその轍を広げてやることだ」
冗談めかした口調だが、背中から伝わる熱は厚い壁のように心強い。
◆
その瞬間、森の奥で雷鳴のような咆哮が轟き、梢が一斉に軋んだ。空気が震え、葉が狂った雪のように舞い散る。反射より先に剣を構えていた。金属音が自分の耳を殴る。
「……敵が近いか?」
ジークの声が獣の低吠えになり、槍先が風を裂く。
「違う……これは“因果”の波動」
リシェルの言葉が霧を切る。彼女の肩が一瞬強張り、剣先が微かに下がるが、すぐに持ち直す。あの夜——聖剣解放の儀式で感じた深層の呻き。それと同質の震えが地の底から這い上がっていた。
胸の奥で鼓動が速まる。剣を握る指が汗で滑り、わずかに震えた。恐怖——否、戦いの号令。体の奥で剣士の本能が刃を研ぎ始める。
「来るなら来い。何度でも立ち上がる。この剣は——仲間を、王都を、そして俺自身を守るために在る」
声に出すだけで心臓が熱を帯び、震えが静まる。
遠雷が再び鳴る。雲間が裂け、淡い稲光が森へ網のように広がった。雷光に浮かんだ仲間の影が地面へ交差し、まるで四つの意志が一本の矢に束ねられたかのように重なる。
決戦は刻一刻と近づいている。王都の高壁が、この灰色の空のどこかで我々を待っている。暗雲の奥で鐘が打たれる幻聴がした。鋼の塔を震わせるその響きは、運命の序章を打ち鳴らす鐘音。
風が冷たさを増し、鎧の継ぎ目に潜り込む。だが胸の中では別の火が燃えていた。恐れも迷いも、すべてその火で溶かし、刃へ注ぐ。
さあ帰ろう。
血と光の歴史が眠る王都で、因果の本流を切り裂くために。
【リシェル=エルフェリア視点】
灰色の雲がちぎれ、幾筋もの風が森を嘶かせながら王都へと背中を押していた。耳を裂くような遠雷が幾度もこだまし、そのたびに胸の奥で小さな恐怖が脈打つ。けれど私は剣を握り直し、その震えを柄へ封じ込めた──迷いは剣の中に閉じ込め、刃の先でのみ語る。それが剣士としての矜持だから。
ざわめく森の小道で、カイが肩を並べる。彼の鎧には黒い騎士の血が乾いた痕跡を残し、灰空の下で赤黒い錆に似た色を帯びていた。
「リシェル……大丈夫か?」
低く落ち着いた声。だが微かな呼気の揺らぎが、彼の胸奥にも恐れが眠っていることを教える。
「……ええ。怖い。でも、私たちにはこの剣がある」
鞘から半寸抜いた聖剣が、曇天を裂くようにかすかな光芒を揺らめかせる。鋼の冷たさの奥に、仲間と交わした誓いの温もりを感じた。
◆
山裾を回り込むと、王都の石壁が雲の海からせり上がった。塔は鉛色に濡れ、かつて白く輝いた外壁にもいまは血管のような亀裂が走る。夕刻とも暁ともつかない鈍い光が尖塔の縁を薄紅に染め、街全体が巨大な棺のように沈黙している。城門前の広場にはほとんど人影がなく、石畳を吹き抜ける風が旗を裂く布音だけを残す。
「……ここで、すべてを決めるのね」
つぶやくと同時に胸がきしんだ。石壁の向こうに待つ因果の本流──その重圧は視線だけで肺を圧迫するほど濃い。
「……ああ。俺たちの戦いは、ここからが本番だ」
カイの声が鉄の芯を通したように揺るぎなく響く。だがその指先はほんのわずかに汗ばんでいる。彼自身が恐怖を呑み込んでいるのだと知り、胸が熱を帯びた。
◆
門前の警備隊が硬く沈黙する中、エリスが魔導書を胸に抱いたまま一歩前に出る。頁の余白から滲む青白い呪光が、彼女の頬を静かに照らした。
「……王都には家族がいる。守りたい。でも恐い。それでも……わたし、最後まで戦う」
掠れた声の奥で呪文の言葉が喉の奥に震え、そのか細い身体に灯った意志の炎が空気を震わせる。
ジークは石突きを石畳へコン、と落とし、低く笑った。
「怯えは剣と一緒に持ち歩け。捨てると死ぬ。怖くても握り続けりゃ刃こぼれはしねぇ」
灰色の瞳が薄光を撥ね返し、仲間に向けられるその視線は盾より厚い。
四つの息遣いが重なった瞬間、雲間で稲光が走り、尖塔を血のような光で染めた。鼓膜を貫く雷鳴――その轟きは、まるで運命が刃を研ぎ澄ませる音に聞こえた。
◆
門を潜る。石畳は雨も降らぬのに湿り、踏むたびに冷が足裏から骨まで追いかけてくる。空気は重油のように粘りつき、遠くの路地で何者かが潜める吐息が壁へ反響した。店の扉は閉ざされ、窓辺の灯りは赤く喘ぐ燐光のように揺れる。王都が長い眠りに入ったかのような静寂――だが沈黙の裏で、目に見えない影が石畳の隙間を這い回っているのを肌で感じた。
塔へ向かう坂道の途中、カイが立ち止まり、振り返りざま問いかける。
「リシェル……お前の剣は、まだ迷ってないか?」
夕闇が彼の瞳に深く落ち、影が刃のように頬を斜めに切り取っている。
私は胸の奥でくぐもった鼓動を感じ、ひと呼吸置いた。
恐怖はある。剣は重い。だからこそ振る――。
「……怖い。でも、迷わない。私はこの剣に、命も誇りも賭ける」
両手で柄を包み込み、鋼の冷気を喉元にまで沁み込ませながら言い切った。
カイは静かに頷く。恐怖をも受け止めたその横顔は、遠雷よりも確かな光で胸に刻まれた。
◆
塔の正門。漆黒の二翼扉には深紅の封呪が張り巡らされ、脈を打つたび黒い煙を噴き上げる。鎖の隙間から漏れる冷気が頬を刺し、呼気が白く弾けた。門前に立った瞬間、背後の街全体が息を潜めたかのように音を失う。鼓動だけが壁に反響し、自分自身の血流が耳鳴りに変わった。
私は剣先を扉へ向け、無意識に膝を固める。足裏に石の荒れを感じるほど感覚が研ぎ澄まされていた。
ジークが背中を押すように前へ出、槍を横に構える。
「ここを開ければ、もう戻れねぇ。だが閉ざしたままでも同じだ。選べるのは“進む”か“進む”だけだ」
茶化すような口調の裏で、手綱を絞める馬のように肩の筋肉が緊張している。
エリスは呪文を紡ぎ、空気が微かに色づいた。蒼白い文様が足元に花のように咲き、冷えた空気に温もりの脈を通わせる。
「大丈夫。恐くても、わたしたちは重なり合って立てる」
その言葉が薄氷になり、足元から不安を封じ込めた。
深い沈黙。扉の封呪とこちらの呼吸が互いを計るように脈を刻む。
鼓動が最高潮に達した瞬間、私は剣を胸に掲げた。
「……行こう」
刹那の静寂を裂く私の声に、カイが剣を構え、エリスが呪符を解放し、ジークが槍を突き出す。
鎖が軋み、扉が石の悲鳴と共に押し開かれる。冷たい闇が吐息となって吹きつけ、頬を撫でた。雷光が雲を裂き、塔の尖端を紅に染める。
剣の重さが掌に跳ね返り、胸の恐怖が刃の熱へ変わる。四つの影が門の中へ吸い込まれていくその刹那、私は心の内で静かに誓った。
──どんな運命が待ち受けようとも、私たちは退かない。
──この剣で、必ず因果を断ち切る。
そして闇の鼓動へ踏み込み、塔の中へ足を踏み入れた。
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