第8話「魔導の迷宮」
【カイ=オルランド視点】
夜明け直後の空は、鱗雲を裏から擦りつけたような鈍い鉛色で、斜めに差す陽光さえ哀しい灰を帯びていた。森を抜けるあいだ、枯れ枝を踏み砕く音が妙に湿っぽく響き、靴底を離れた落葉が背中へ絡み付くほど重く感じる。夜の闇がまだ完全には去らず、空気には鉄錆と湿った腐葉土の匂いが混ざり合っていた。胸の奥で小さな恐怖が薄氷のように鳴り、指先の汗が革手袋の内側で冷えきっていく。
やがて森の陰が裂け、古の魔導遺跡が姿を現した。崩れかけた城塞のような外壁には、血で書かれた傷痕を思わせる古代文字が無数に刻まれ、そこから滲む闇色の脈動が空気を粘りつかせている。石門まわりに漂う霧は、風もないのにゆらゆらと蠢き、近づくだけで皮膚の内側へ冷灯の棘が突き刺さる。
「ここが……古の魔導遺跡か」
ジークの低い呟きが霧を切り裂き、槍の柄を握る拳に白骨のような緊張が走る。灰色の瞳の奥に宿る光は鋭いが、そこには言い知れぬ畏怖も張り付いていた。
リシェルは一歩前に進み、蒼白な霧を胸で裂く。銀髪が淡い光を受けて淡雪のように揺れ、翡翠の瞳がわずかに震えながらも強い決意を湛える。
「千年前、この地で封印された〈魔導の闇〉はまだ眠っていないわ。空気の底を覗いてみて。――呪いの淵がこちらを見上げている」
吐息に混ざる言霊が冷たく震え、剣を握る私の指に血が集まり熱く脈打つ。
「分かってるさ。お前と共に、必ず越える」
声に出した瞬間、胸中の恐れがほんのわずかに輪郭を失った。リシェルが微笑を返す。氷菓のように儚いのに、内側に刃の硬さを秘める笑みだ。
石門をくぐった途端、全身を包む空気が変わった。外気の冷たさとは異なる、ぬめるような湿り気――まるで見えない舌が肌を舐め、体温を吸い取っているかのようだ。背後で門が呻きながら閉じる音がし、一瞬で光が途絶える。闇が降り積もり、呼吸音すら吸い込まれていった。
足元の石床には、うっすらと青白い魔導符が浮かび、歩くたび脈動する心電図のように微光を散らす。だがその光は暖かさと無縁で、むしろ身を焼く冷蛍の刃に近い。壁に刻まれた紋章の溝から滲む霊液が、血潮のように黒光りし、時折「コツ……コツ……」と水滴を落として不気味な拍子を刻む。響き渡るその音が、鼓動と歩調をずらすたび胸がひどく軋んだ。
「エリス……魔導の気配は?」
耳元に囁くような自分の声がやけに掠れている。エリスは魔導書を胸元に抱き、頁の隙間からこぼれる蒼白い魔光に頬を照らされていた。
「……奥の風、冷えてるでしょう? あれ、魔力そのものなの。ざわめきが皮膚を裂くみたいに触れてくる。――触れちゃいけない“呪い”が渦巻いてる」
彼女の肩が震え、薄紫の髪がふるふると揺れた。その震えが遺跡の冷気よりも生々しく、周囲へ張り巡らされた見えない罠を赤い糸で示す。
空間の奥で低い囁きが流れ込んでくる。
《……千年の宿命……剣士よ……》
声にならない声が鼓膜ではなく骨へ沁み、脊髄を冷たく舐め上げる。思わず剣柄を握る手が汗で滑り、鍔がわずかに軋んだ。逃げろ、とどこかで小さな声が叫ぶ。それでも私は剣先を下げなかった。
リシェルが私の名を呼ぶ。囁きの闇を払うように、かすかな震えを帯びた声で。
「大丈夫?」
その言葉が青白い符灯を押し返す暖かな光になり、私は頷いた。
「平気だ。お前が隣にいる限り、何度倒れても立ち上がる」
自分でも驚くほど声が掠れていたが、言葉にした瞬間、不思議と呼吸が整う。リシェルは翡翠の瞳にわずかな潤みを浮かべながら、剣の柄を握り直し、小さく息を吸った。
通路は迷路のように折れ曲がり、天井の落石が作った影が青白い光を歪める。崩れかけた階段に足を掛けると、石が悲鳴を上げて軋み、その奥で金属が擦れるように呻いた。誰かの足音を模した幻聴か、あるいは壁の中で蠢く何かの息遣いか――境界が曖昧になり、汗が冷泉のように背筋を流れる。
ジークが背後を振り返り、槍の石突きで床を二度叩く。空洞を叩いたような重い反響が返り、通路の奥から微かな震動が伝わってきた。
「……何か起きてやがる。歩幅を狭めろ。罠の噛み合わせが妙に生きてる」
灰色の瞳に緊張の光が走る。槍先に流れる魔符の光が淡く跳ね、周囲の闇が一瞬だけ形を失う。
その闇の揺らぎの隙間、石壁に埋め込まれた破損した鏡面のような物質が私たちの影を映し、不意に“もう一つの影”を浮かび上がらせた。血色の瞳を持つ黒い輪郭――遺跡の主か、はたまた私たち自身の恐怖が具現化したものか。リシェルが剣先をわずかに持ち上げ、翳る影へ鋭い視線を注ぐ。指先が微かに震え、革手袋がキュッと鳴った。
「……この先に聖剣の儀式を阻む者がいる。私の鼓動がそう告げている」
リシェルが石壁に手を添え、呟くように言った。壁の紋章が青い火花を散らし、指先を掠める魔力が小さく音を立てる。
胸の奥で熱い痛みが湧き上がった。
「構わない。何度でも斬り裂く――お前を守るために」
剣を持つ手の震えを押し殺して言い切ると、リシェルの瞳が潤み、青い符灯に濡れて宝石のように光った。涙というより、決意が溶けた光。彼女は刃の先でその光を拭うように瞬きをし、深く頷いた。
青白い紋章の光が脈動を速め、遠くで石が崩れる轟音がこだました。呪いの風が吹き抜け、古代文字が血のように赤く滲む。その瞬間、剣の刃に映った自分の瞳が、闇と恐怖とわずかな光を映して揺れた。
しかし退かない。胸で鳴る鼓動と足元で軋む石の合奏に合わせ、私は一歩前へ踏み出した。
(この剣で――必ず闇を切り裂く)
【リシェル=エルフェリア視点】
奥へ進むほど、遺跡の空気は凍てついた泥のように粘りつき、冷気が骨の芯を噛んだ。薄闇の底で青白い符が脈動し、壁を走る古代文字が血のごとく暗い朱を滲ませる。踏み込むたび靴裏に張りつく冷汗が石床へ吸われ、耳奥で鼓動が不規則に跳ねた。
剣の柄を握る手が震える。これは恐怖ではない。剣士として、聖剣継承者として――使命と覚悟が燃え上がる余熱だ。
「リシェル……この先、どんな闇が来ても退かない」
背後から届くカイの低い声が、硬く凍った背骨に熱を通す。振り向けば、灰暗い光に縁取られた彼の瞳が鋼の決意を宿していた。
通路の先で淡い青がゆらぎ、霧の水面に映る深淵のように闇を照らす。その光の向こう、禍々しい魔力が脈動している。
「……ただの魔物じゃないわ」
エリスが魔導書を抱く腕に力を込め、小さく息を詰める。古語の文様が頁の余白に浮かび、微かな燐光を帯びて震えた。呪文の残響が空気と混じり、耳朶を刺す。
「必ず儀式を成し遂げる」
自らに言い聞かせるように呟き、剣先を灯りへ向ける。
◆
通路が途切れ、楕円形の大広間が口を開けた。天井の裂け目から滲む赤い光が、脈動する心臓のように闇を染め上げる。中央には高さほどの水晶柱――遺跡を支配する〈魔導核〉が脈打っていた。
と、その光が強く明滅し、骨を削るような風が吹き抜けた。光を吸い込むように闇が凝縮し、黒い鎧を纏った影の騎士が生まれる。瞳は焔を固めた血晶石、赤は深すぎて黒に沈む。開いた兜の奥から漏れる呼気は氷霧と硫黄の腐臭を運び、その声は骨伝導で心臓へ裂け目を刻む。
「……我が使命 —— 聖剣を通さぬ」
ただ一言。喉より深いどこか、地の底から揺らいだ声が空気を凍らせた。胸郭を氷柱で突かれたような痛みが走る。
「来るわ!」
叫ぶより早く影の騎士が踏み出す。甲冑の節が軋み、剣が闇を裂く。冷たい刃の風圧が頬を切り、血の雫が飛沫を描く。
カイが一歩前へ。剣閃が赤い光を反射し、闇の剣と正面からぶつかった。硬質な咆哮が大広間に弾け、火花が赤と蒼に混ざって散る。衝撃波が床を波打たせ、石片が足元に雨のように跳ねた。
私はカイの背を守るように回り込み、影の騎士の側面へ斬り込む。剣が鎧を裂き、黒い霧が血潮のように噴き出した――だが傷は瞬時に閉じ、深淵の瞳が私に突き立った。
刹那、黒剣が水平に薙ぐ。受け止めた腕が痺れ、膝が瓦礫に沈む。
(重い……!)
折れかけた呼吸を繋ぎ、歯を食いしばる。恐怖が肺を締め付けるが、瞳だけは逸らさない。
「リシェル!」
カイが視線を投げ、互いに頷きあう。次の瞬間、彼は影の剣を押し返し、私は僅かな隙に踏み込んだ。二人の剣閃が交差し、黒鎧の胸甲に十字の裂け目を刻む。
影の騎士が短く呻き、後退する。それでも赤い瞳は揺らがず、刃を構える肩から凶暴な魔力が滴り落ちる。
膝に溜まった力が震えた。剣の重さが腕を引きずり、呼吸が焦げる。だが胸奥の炎は消えない。――父の遺した剣、母の祈り、仲間と交わした誓い。すべてが刃に宿り、恐怖を焼く。
「まだ折れない……!」
声に出すと同時に踏み込む。影の騎士が剣を振り下ろす。瞬間、カイが俺の前へ割り込み、刃を受け止め火花を散らす。私は彼の肩越しに剣を突き出し、鎧の割れ目へ正確に突き刺した。黒霧が裂け、赤い光が血潮のように噴き上がる。
影の騎士は呻きながらも私の腕を掴み、氷のような力で締め上げようとする。鋭い痛みと共に指先の感覚が奪われていく――だがカイが叫び声と共に横殴りの一閃を放ち、影の腕ごと切り払った。
「今だ、リシェル!」
互いの視線が絡み、一瞬の呼吸が合う。私は剣を逆手に取り直し、裂けた胸甲へ深く突き立てる。カイの剣が上段から振り下ろされ、私の刃と交差して深紅の×を描いた。
赤い光が悲鳴を上げ、影の鎧が粉砕する。黒い霧が暴風のように吹き荒れ、石壁を叩く凄音が轟いた。血と鉄と硫黄の匂いが入り混じり、冷たい風が渦を巻く。
私は崩れ落ちそうになる膝を踏ん張り、剣を支えに立ち続ける。霧が散り、闇が薄れていく。魔導核の赤は弱い鼓動を打ち、やがて光を潜めた。
静寂。瓦礫が転がり落ちる微かな音だけが広間に残る。
カイが軽く肩で息をしながらこちらを見る。灰色の視線が言葉より深く「生きているか」と問うてきた。私は剣を構えたまま頷き、かすかに笑う。膝は震え、腕も痺れていたが、瞳はまだ燃えている。
エリスが魔導書を胸に走り寄り、震える指で私の肩に触れた。呪文の残響が微かな温もりとなり、痛みを和らげる。ジークは槍で砕けた鎧の残骸を突き、再び静寂が破れるのを警戒する。
影の騎士は消えた。しかし遺跡の闇はまだ息を潜め、深い底で刃を研いでいる――そんな気配が広間を満たしたままだ。
「これで終わりじゃないわ」
私は呟き、剣の先を魔導核へ向ける。赤の残光が脈を打ち、再び息を吹き返そうと蠢く。
「でも道は開いた」
カイが歩み寄り、私の肩にそっと手を置く。震えが静まり、立ち込める闇の重みが少しだけ軽くなる。
「聖剣の儀式……必ずここを越えて果たしましょう」
エリスが魔導書を開き、頁の光で闇を押し返す。ジークが槍を回し、広間の残響を断つ。仲間の鼓動が合わさり、深淵の静寂にひびが入った。
私は剣を高く掲げ、闇に宣言する。
「千年の影よ――私たちの道を阻むなら、何度でも斬り裂く!」
赤い残光が震え、闇がたじろいだ。剣先の光が仲間の瞳に宿り、四つの決意がひとつの炎に重なった。
お読みいただきありがとうございます。
よろしければ、下の☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると大変励みになります!