第7話「交わる誓い」
【カイ=オルランド視点】
黒衣の男が濁流のような霧とともに消え去った後、石造りの神殿には、耳を押さえたくなるほど濃い静寂が沈殿した。まだ温かい血の匂いが床の割れ目から立ちのぼり、鎧の隙間へ忍び込んでくる。握り締めた聖剣の柄は冷えきって汗で滑りそうだ。瓦礫の影に残る火熾しの明滅が、壁を妖しく染め、戦いの余韻を脈打ちのように映し出していた。
やがて沈黙を破るようにリシェルが歩み寄る。肩で荒い息を繋ぎながらも、その翡翠の瞳は揺れる焔のように凛と澄む。
「カイ……あの影はただの幻じゃない。この世界に編み込まれた“因果”そのものよ」
彼女の声が冷えた空気を震わせ、胸の奥で何かが軋んだ。影の男が耳元で囁いた言葉――『その剣に刻まれた因果を知れ』――が、まるで脈拍の裏で脅迫じみた鼓動を続けている。だが俺は剣を下ろさなかった。
「リシェル、お前はどうする?」
問いかけると彼女はほんの一瞬まぶたを伏せ、剣士の仮面の内側に隠した迷いを垣間見せた。しかし次の瞬間、その瞳は夜明け前の星のごとく鋭い光を取り戻す。
「聖剣の継承者として、影の正体を暴く。それが私の使命――だけど、カイ。私はあなたと肩を並べて戦いたい」
震えを押し隠した声が、剣の鍔鳴りよりも深く胸へ届く。俺は剣を握り直し、彼女の視線を正面から受け止めた。
「……ああ。俺はお前と共に行く」
その言葉は鋼より確かで、同時に剣士を越えた絆の誓いでもあった。
すると背後から靴音が近づき、低い声が響く。
「おい、お前ら……少しは休め」
振り向けばジーク=ベルハルトが灰色の瞳を細め、肩のマントから血埃を払っていた。表向きは無骨だが、その瞳の底に隠した仲間への気遣いが夜の焔のように温かい。
「……あんたの言う通りだ」俺は肩をすくめ、微笑で答える。
視線を巡らせると、エリスが魔導書を抱えたまま壁際に座り込み、頬に乾きかけた血の跡を残している。
「カイ……本当に大丈夫?」
か細い声に込められた強さ。俺はこくりと頷き返した。「お前も無理はするな」
◆
夜半。神殿を離れ、森の開けた祠跡で焚き火を囲む。乾いた薪がはぜるたび、火の粉が夜空へ舞い上がり、闇に散る星と交わった。焔の呼吸は、小さな心臓が脈打つようにリズムを刻み、影を伸ばしては縮める。吐く息は白く解け、遠くで夜虫が細い糸のような声を紡ぐ。
ジークは黙々と槍の穂先を研ぎ、時折ちらりとこちらを窺う。エリスは古びた呪文を反芻するかのように唇を動かし、魔導書の余白に小さく符を書き込んでいた。その闇色の静けさが、逆に仲間の鼓動を強く意識させる。
火映りのリシェルの横顔は赤銅色に染まり、その瞳の陰には硬い決意と小さな寂寥が共存して見えた。揺れる影が鎧の継ぎ目を撫で、彼女の頬を切なげに走る。耐えきれず話しかける。
「リシェル……何か迷っているのか?」
彼女は木片を火にくべ、火花がぱんと弾ける音の後、低く答えた。
「聖剣を継ぐ者として戦うと決めた。それでも――ときどき怖いの。私の選んだ道が、本当に誰かを救うのか分からなくなる」
火の灯りが頬を撫で、唇が震えた。強い女だと思っていたリシェルの、その揺れが痛いほど伝わる。俺自身も同じ穴に落ちたことがあるから。仲間の死を思い出す夜、剣の重さが罪に変わる瞬間を。
薪が崩れ、火の粉が弧を描く。
「リシェル」呼吸を整え、彼女の隣へ膝をつく。手袋越しにそっと刃こぼれした剣の柄へ触れた。
「お前の道は、誰よりもまっすぐだ。俺はそれを知っている。お前が振るう剣は、必ず光を引き寄せる」
言いながら、脳裏に倒れ伏した仲間たちの影がよぎる。守れなかった痛みが胸を刺すが、それを踏み越えるように声を重ねた。
「だから……迷ったら俺を見ろ。俺も同じ場所で剣を振るい、お前の迷いを斬り伏せる」
リシェルの瞳に、揺らめく焔が映る。涙ではなく、確かに光――。彼女は唇を強く結び、こくりと頷いた。
「ありがとう、カイ……あなたがいる限り、私は折れない」
小さく震える声が、夜の森に染み渡った。火の粉がふわりと舞い、星々と交差して消えた。
◆
しばらくして、ジークが槍を置いて焚き火の輪へ加わる。硬い横顔にかすかな笑み。
「背中は預けとけ。俺たちは盾でも壁でもなる。どれだけ因果が絡みつこうと、間に合わない絶望なんざ踏み砕いてやるさ」
彼の灰色の瞳に一瞬、古傷を思い出すような影が走る。それでも口調はあくまで陽気で、火の明滅がその表情に柔らかな温度を与えていた。
エリスが安堵の吐息を漏らし、魔導書を閉じた。柔らかな光が書面を滑り、彼女の肩の震えをそっと包み込む。
「――大丈夫。みんなで進みましょう」
そのか細い声に、俺たちは一斉に頷く。火のはぜる音が合図のように夜空へ跳ねた。
こうして円になると、不思議なことに闇が後ずさる。星明りが編んだ天幕が頭上を覆い、夜風は焚き火の熱を撫でて運ぶ。
俺は剣を膝に置き、目を閉じる。残像のように影の男の笑みが浮かぶが、内側にはそれ以上に強い仲間の息遣いが流れていた。
火の粉がはぜる小さな破裂音が、胸の鼓動と重なる。あたかもこの焚き火自体が、四人の心臓を一つに束ねる灯火であるかのようだ。
――守る。この剣で。
夜気の奥、因果の影が蠢いている。それでも進む。リシェルの決意、ジークの支え、エリスの祈り――それらが俺の刃を研ぎ澄まし、影よりも深い闇を切り裂く光へと変える。
焚き火の最後の薪が崩れ、閃いた火花がリシェルの頬を朱に染めた。その横顔を胸に刻みながら、俺たちは静かに剣への誓いを交わし合った。
【リシェル=エルフェリア視点】
焚き火は虫の息のように小さな炎を揺らめかせ、赤い火の粉が夜空へ弧を描いては消えていく。森の闇は濃く、月を覆う薄雲が星明かりをも霞ませていた。吐く息は白く凍り、革手袋の指先からじわりと体温を奪う。静かすぎる夜――その静けさが、かえって明日の嵐を予感させて胸を締め付けた。
火影に映るカイの横顔は影と光の狭間で硬く刻まれ、眉間の深い皺が戦いの疲労を隠しきれずにいる。それでも彼は背筋を伸ばし、遠い闇の奥を射抜くように視線を据えていた。剣を握る右手は包帯の上からこわばったまま小刻みに震え、その血染めの包帯が焔に朱を灯している。
胸が痛む。あの夜、神殿で見た背中――運命に抗う者の背は、美しく、同時に残酷なほど遠い。追いつきたい。並んで立ちたい。だが、私はまだその背を追うことしかできていないのではないか。
「……カイ」
声に出すと、吐息が白い霧となって夜気へ溶けた。カイはゆっくりと振り返り、翡翠色の瞳に焔を宿した私を映す。その反射光が、不安にゆらぐ心に小さな灯をともす。
「何だ?」
短い問いに胸が跳ねる。霧に包まれた心の奥を見透かされる気がした。それでも私は微笑を崩さず、焚き火の音より小さな声で告げる。
「……ありがとう。あなたがいてくれるから、私も前へ進める」
一歩踏み出しそうになる脚が震えを帯びる。剣士としての礼ではない。人としての本心――剣を持つ前の、自分のままで紡ぐ言葉だ。願わくば、この想いが彼に届いてほしい。
カイはわずかに目を伏せ、焚き火の中に揺らめく薪を見つめた。炎に照らされた頬骨がひときわ鋭く際立ち、影が深く落ちる。
「……お前のその言葉に、俺も救われている」
低い声が夜の闇に溶けていく。一拍、二拍。静寂が戻る。しかしその静けさは先ほどの冷たさではなく、共振するような温度を帯びていた。
――本当に救えているの?
胸の奥で小さな声が囁く。私自身の迷い。聖剣の継承者という使命を掲げながら、その刃で守れているものはあるのか。闇に囚われたヴァイルを救えなかった後悔が、剣先のように心を刺し続ける。
私は火を見つめ、言葉を探した。焚き火のパチパチとはぜる音が心臓の鼓動と重なり、影が大きく揺れる。握った拳が震え、火の粉がその上に降りかかって弾けた。
「……怖いの」
気づけば言葉が漏れていた。
「選んだ道が正しいのか。聖剣を振るう度に、誰かの悲鳴が耳に残る。影の男の囁きが、私の弱さを探して笑うのが分かる。もし――もし私が間違った道を進んでいたら、あなたの剣まで曇らせるんじゃないかって」
声が震えた。視界が火の熱で滲む。目を伏せ、膝の上で置き場所を失った両手を強く握り込む。
すると、包帯越しの温もりが指を包んだ。カイの手がそっと私の拳に重なる。血の匂いと鉄の冷たさが混じったその手が、信じられないほど優しい。
「俺も同じだ」
ひと呼吸置いて、彼は続けた。
「心の奥で、“守る”という言葉が嘘になる瞬間を恐れている。仲間の背を守れなかった夜の記憶が、今も耳の奥で笑う。けれど――」
彼はわずかに眉を上げ、暗い森を見渡す。星と火の粉が交差し、剣の鍔が微かな光を返した。
「その闇にとらわれたままでは、剣を振る意味がない。お前の迷いも俺の恐怖も、まとめて斬り伏せて前へ進む。それが“共に戦う”ってことだろう?」
心臓が大きく跳ねた。小さな疑いがまだ胸に残っていた。それでも――その言葉が吹き荒れる闇を裂き、光が差し込む。私は拳をほどき、指先で彼の血に染まった包帯をそっと撫でた。
「……ありがとう」
視界の端で火の粉がまた弾ける。夜気が指先を凍らせるが、心の芯に灯った熱がそれを溶かした。
◆
そのとき、魔導書を閉じる乾いた音がした。エリスがページをそっと撫で、私たちの前に出る。彼女の肩は細く揺れ、声もかすかな震えを帯びていたが、その蒼い瞳は確かな決意を映している。
「二人とも……約束して。どんな影に囚われても、私たちは絶対に屈しないって」
夜の静けさに吸われそうなほど小さい声。しかしそこに宿る光は、闇よりもはるかに強かった。
カイが真っ直ぐに頷く。
「ああ、約束しよう」
その横顔に宿る微かな自嘲――心の奥でまだ渦巻く恐怖を振り払うように、彼は言葉を押し出した。そして私も深く息を吸い込み、火照った胸を静めながらはっきりと告げる。
「約束する。私たちは絶対に屈しない」
言葉が夜空へ放たれ、星の瞬きに吸い込まれた。胸を締め付けていた鎖が一つ外れた気がした。
ジークが焚き火を跨ぐようにして近づき、マントで舞い散る火の粉を払う。月の光を背にした広い肩が頼もしく揺れ、灰色の瞳の奥に静かな情がともる。
「夜が明ければ、また剣を振るうことになるだろう。それでも、お前たちが迷わないのなら、俺はその背を預ける」
低く落ち着いた声。石突きを土に突いて腰かける姿が、大きな壁のように背中を守ってくれていると実感させる。
私は目を閉じ、仲間の気配を確かめる。ジークの規則正しい呼吸、カイの包帯から滴る小さな血の音、エリスが呪文を組み替えるかすかな紙擦れ。それらが焚き火の鼓動と重なり、心に深いリズムを刻む。
(私たちは一人じゃない――)
焚き火の灯りが弱り始めたころ、私は剣をそっと膝に置き、夜空を仰いだ。雲間から顔を出した月は欠けた盾のように歪んでいたが、その縁を淡い金色がなぞっていた。火の粉と星が交差し、闇の天幕に瞬くささやかな光を織り上げていく。
柔らかな夜風が髪を揺らし、鎧の隙間から忍び込む冷気が火照った肌を鎮めた。火がぱちりとはぜ、影がまた長く伸びる。その影が重なり合い、私たち四人の姿が一つになる。
――たとえ因果の闇が明日、大地を覆い尽くそうとも。
――私たちが交わした誓いは、必ず光となって刃を導く。
瞼を閉じ、胸の奥でそっと呟く。
(父よ、母よ――私はあなたたちの遺した剣を握り締め、この仲間と共に運命を越える)
遠くでフクロウが低く鳴き、森が静かに息を潜める。焚き火の最後の薪が崩れ落ち、飛び散る火花が夜空へ散った。私たちはその赤い軌跡を見送りながら、同じタイミングで呼吸を整え、剣を胸に抱いた。
嵐はすぐそこまで迫っている。だが、この夜に交わした誓いが、きっと闇を裂く一筋の光となる――そう信じて、私は静かに目を開けた。
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