第6話「因果の影」
【カイ=オルランド視点】
――闇が裂け、骨の奥まで届く悲鳴がこだまする。
血のように赤黒い空の下、焦げた風が千切れた旗を煽り、折れた槍が雨のように降り注ぐ。地面は幾層もの死者の血で泥と化し、踏み込むたびに靴底が悲鳴を上げた。耳元で誰かが囁く。声ではない、刃の軋みのような金切り音――それでも意味だけははっきりと刺さる。
「おまえの剣は、何を護る?」
頭蓋が割れるほどの響きと共に、冷たい指先が喉元を撫でた。心臓を包む膜が破れ、凍る痛みが胸腔を貫く――その瞬間、視界が弾け、現実へ引き戻された。
◆
荒い息を吐きながら跳ね起きる。額に貼りつく汗で前髪が重く、蒸れた鎧の下で全身が粘つくように震えていた。窓辺には夜明け前の藍が残り、薄い茜が塔の輪郭をわずかに染めている。夢の中の血の空とは対照的に、静かな黎明――にもかかわらず、鼓動は戦場そのものだった。
静寂を破って扉が開く音。
「カイ……!」
駆け寄ったエリスが、小さな手で俺の頬を包む。ぬるい汗を感じ取り、眉をひそめた。
「熱いわ。傷の手当どころじゃない。少し休んで――」
声を途中で切り、俺は首を振った。
「……あの声が、また俺を呼んでいた」
囁くだけで喉がひりつく。
「闇の底から、骨を噛み砕くような音で……誰だ、あいつは」
言いながらも考える。ヴァイルの剣先に映った嘲笑、そして彼が残した問い。夢の幻影が、その問いと寸分違わぬ調子で俺を責め立てる。守れるのか、と。
扉の向こうから足音。白銀の鎧を肩で揺らし、リシェルが現れた。
月残りの光がその頬を薄青く縁取り、剣士の眼差しは夜闇より深い。
「カイ。夢見の影に囚われるな。――でも、怯えるなとも言えない。あれは“千年の因果”が放つ影。その深さは、我々個人の意志で量れない」
彼女は言い切ると、こちらへ歩み寄る。鎧が擦れる低い音、沈んだ呼吸。近づくほどに感じるのは冷静さだけではない。小さく震える指先――リシェルとて恐怖の外に立っているわけではないのだ。
彼女は剣の柄に触れ、瞳を細める。
「私も昨晩、短い幻視を見た。血煙の向こう、瓦礫の山に沈む銀色の剣と、その剣に縋る少女の影……千年前に滅びたと記録される“暁光戦役”の最後の場面に酷似していた」
声は落ち着いているが、一瞬だけ震えが乗った。
俺は拳を握りしめる。
「……つまり、俺たちはこの剣を通じて、過去ごと試されている……?」
言葉にすると胸が軋む。守るべきものが増えるほど、過去が後ろ髪を引く。
リシェルは静かにうなずき、手袋越しに俺の肩へ触れた。
「恐怖を吐き出せ、カイ。おまえが弱さを隠したままでは、剣の光も曇る」
優しいでもなく、厳しいでもなく、ただ“誓い”の重さを分け合う温度で。
刹那、胸の奥で別の声が笑った。
――飲まれろ。飲まれた先にこそ救いがある。
顎の裏から冷気が這い上がり、思考を凍らせる。
弱いのか、俺は。過去に縋り、幻影に膝を屈するのか。
自嘲が滲む。そうだ、俺は怖い。ヴァイルを救えず、仲間の背を守れなかった自分が、聖剣を掲げていいのか――
そのとき、リシェルの指先が僅かに力を込めた。痛みが瞬きのように走り、意識が浮上する。
「飲まれるな。私たち全員で立つんだ」
短い言葉が、夢の残響を断ち切る刃になった。
握り拳をほどき、深く息を吸う。冷たい空気が肺を洗い、鼓動が緩やかに整う。汗と涙が混ざった顔を拭い、リシェルを見据える。
「……ありがとう。まだ怖い。でも、飲まれたままでは進めない」
俺の声は掠れていたが、震えてはいなかった。
◆
本部の回廊へ出ると、夜明けの光が長い影を石畳に映していた。修復途中の壁はまだ瓦礫を抱え、兵たちが静かに傷の手当をしている。そこには火急の混乱こそないものの、見えない靄のような緊張が張りつき、誰もが天井の闇を警戒している。
廊下の先で、エリスが包帯と薬壺を抱えこちらへ向かっていた。彼女は俺の顔を見るなり眉を下げた。
「やっぱり顔色が悪い……しばらく座って」
「大丈夫だ」と言いかけて、もう一人の自分が囁く。誤魔化すな。弱さを晒せ。
俺は歩を緩め、壁に背を預けた。
「……手当て、頼む。意地を張るより、立ち上がりやすいから」
そう言うと、エリスの目が驚きと安堵で揺れた。
包帯が肩の傷へ巻かれていく。白い布が血を吸い紅に染まるたび、夢の赤黒い空が頭を掠める。しかし今は、温かな指の感触が現実を繋ぎ止めた。
手当てが終わるころ、石床の振動が足裏を叩く。遠くで上がる悲鳴。血の匂いが風に乗り、本部の奥から押し寄せた。
俺とリシェルは目を合わせ、即座に剣を抜く。
石畳を蹴るたび、鎧が乾いた悲鳴をあげ、包帯が早くも血を滲ませる。廊下のアーチを抜けると、冷たい風が背後から吹き抜け、火の消えた燭台がわずかに揺れた。その陰影の奥から、灰黒い霧がじわりと部屋を満たしていくのが見えた。
扉を蹴破る。
視界を覆う闇霧の中心、黒い人影が腕組みをし、唇だけで笑った。
「待っていたぞ、運命の剣士よ」
声は低く、深く、無機質な海の底。夢で首筋を撫でた声と同じだ。
「巡る千年の因果、その鎖を断ち切れるか……見せてみろ」
握り締めた柄が震える。だが今度は、意志の震えだ。
倒れ込む兵の呻きが背後で重なり、霧が輪郭を歪ませる。リシェルが隣で剣を構え、細い息を吐いた。彼女の瞳は恐怖を宿しながら、確かな光をも灯している。
俺は一歩、霧へ踏み込んだ。
(おまえが何者でも――この剣で、答えを示す)
【リシェル=エルフェリア視点】
赤い月光が天窓を貫き、図書塔の石床に長い影を落としていた。そこに立つ黒衣の男は、まるで夜そのものをまといながら、揺らぐ炎のように輪郭をぼかしている。ゴブレットに注がれた暗紅の葡萄酒のような瞳が、カイと私を静かに、愉しむように舐めた。
背筋を走る冷汗が鎧の下で凍り、指先が無意識に剣柄を握り締める。脈のたびに革手袋が軋み、指先の血が逆流する痛みを覚えた。
「お前は……何者だ」
カイが一歩進み出る。声は低く澄んでいるが、その背中には薄い震えがある。私は思わず視線を追い、彼の肩甲の下で包帯がわずかに紅く滲むのを見た。
「私か?」
男は唇を持ち上げる。氷が割れるような軋みを伴う笑み。
「名はない。ただ“影”。千年の因果が、人々の祈りの裏で育てた闇の芽に過ぎぬ」
言葉が空気を冷やし、私の肺まで凍らせる。影の向こうから月光が差し込み、漂う塵が銀の粉雪のように舞った。視界が白むほどの静寂――なのに耳奥には、先刻の戦闘で裂かれた肉の音がまだこびりつき、カイの荒い呼吸と重なり合う。
カイが剣を滑らせて構え直す。輝刃が闇を裂き、意志を映す青白い光が月光と溶け合った。
「影だろうと、運命だろうと――俺は斬る」
決意の声が真っ直ぐに伸び、私の胸奥で火種を灯す。それでも私は、その横顔にほんの一瞬、揺れる影を見た。剣を握る右手がかすかに震え、包帯から染み出す血が音もなく滴る。
私はそっと左手を伸ばし、彼の籠手の上に指先を添えた。鉄の冷たさと血の温もり。その狭間で、カイの手の震えがわずかに収まるのを感じる。彼の視線が横へ動き、私と交差した――その瞬間、不意に瞳を逸らす。胸の奥で高鳴る鼓動を悟られたくなかった。
「……試してみるか」
男が片腕を広げた。黒いローブが裂けるように風を孕み、まるで深海の穴が口を開いたように闇が溢れ出す。渦巻く霧から滲み出たのは、煤けた甲冑と歪んだ刃を携える“影の剣士”たち。月光を浴びているはずなのに、その体には一欠片の光も残らない。
冷たい風が書架を叩き、古い羊皮紙が一斉に宙を舞った。パラパラと落ちる音が、まるで霧の兵たちの骨が擦れる音のように聞こえる。
カイが小さく息を吐き、囁くように言った。
「リシェル……支えてくれ」
「ええ」刹那、胸の奥で何かが解けた。
「あなたの剣が折れない限り、私も立ち続けるわ」
影の剣士たちが床を蹴る。次の瞬間、甲冑の打撃音が室内に爆雷のように轟いた。
私は一歩踏み込み、最前の影へ刃を滑らせる。鉄を弾くはずの感触が、紙を裂くかのように軽い手応え――それでも影は倒れず、霧を噴き上げて姿を再構築しようと蠢く。
「くっ……!」
刃を引き抜くと、甲冑の割れ目から滴った漆黒が足元で溶ける。血の匂いがしない。代わりに、夢の中で嗅いだ鉄と硫黄の入り交じった腐臭が鼻を刺す。
背後で金属が激しく衝突する音。振り向けばカイが二体の影を受け流し、三体目を肩越しに弾き飛ばしていた。額に汗が光り、包帯がさらに紅を濃くする。呼吸が荒く、胸板が跳ね上がるたびに痛みが走っているはず。
(押されている……!)
一瞬の迷い。その刹那、影の剣が私の右肩鎧を裂いた。鈍い衝撃とともに熱が弾け、赤い液が鎧を染める。
「大丈夫か!」
カイの声。私は唇を噛み、震える腕に力を込めた。
「平気よ。私はまだ戦える!」
影の剣士たちが再び距離を詰める。私は肩口の痛みを押し殺し、呼吸をひとつにまとめる――心臓が早鐘を打ち、耳鳴りが戦場の鼓動となる。甲冑の稜線を赤い月光が滑り、影たちの間合いが歪む。
その一瞬――黒衣の男の声が頭蓋を直接叩いた。
《護ると叫ぶたびに、過去は血を噴く。お前の剣は同じ轍を踏む》
脳を掻き回す冷たい囁き。私は膝が笑いそうになるのを刃で抑え込む。
視界の端でカイの膝が沈む。影の剣の突きを辛うじて逸らしたものの、腕を裂く黒い傷が走った。剣柄を握る彼の指が震え、血が籠手を染めて滴り落ちる。
――いけない。
私は胸の奥を走った恐怖を、息と共に吐き出した。
剣を握る右手が痺れ、力が抜けそうになる。しかし肩を襲う熱と痛みが、かえって意識を研ぎ澄ませる。私は脚を踏み込み、影の刃を受け、捻る。火花が散り、霧の体がたわむ。その虚を突き、短く息を絞り込んで突きを放つ。刃先が影の胸を貫き、黒い液体が噴き出した。
――その刹那、影が呻きもせず霧散し、室内の空気がふっと軽くなる。
「リシェル!」
カイが肩越しに呼ぶ。私は頷き、もう一歩前へ出た。
「今よ、カイ――剣を合わせて!」
私たちの距離がゼロになる。短い呼吸のリズムが重なり、互いの脈動を感じるほど近くで構え直す。彼の視線は深い苦悩の翳りを残しながらも、確かな光を取り戻していた。
私は刹那、何かを悟るように瞳を細め、彼の剣柄に左手を添えた。暖かい血が手袋を湿らせたが、気にならない。
(あなたは独りじゃない。私も、過去の影を斬り裂く一刃になる――)
大きく踏み出す。二人の剣が交差し、交点から伸びた斜線が影の群れを貫いた。
刃が霧を裂くたび、黒い残響が悲鳴を上げ、赤い月光が水面のように揺れた。
息が切れ、傷が悲鳴を上げる。だが剣は止まらない。
影の剣士が一体、また一体と霧散していく。残された黒衣の男は、深淵を覗くような静けさで私たちを見つめていた。
「見事だ。だが、その光は長くは続かぬ」
氷の欠片のように冷たく澄んだ声。月光を背に、影の男の輪郭はさらに漆黒に染まる。
私は息を掠れさせながら問い返す。
「ならば教えて。千年の因果とは何なの……?」
男は答えず、ただ細い唇を歪めた。
「あと少しで、剣は過去の血に沈む。お前たちが探し求める“光”こそが、闇の根を養う――」
言い終わらぬうちに、カイが一歩踏み出した。包帯が裂け、血が床に滴る。
「言葉で揺らぐほど、俺たちの意志は脆くない。影の囁きも、俺の剣には届かない!」
剣先が赤い月を映し、炎のような輝きを帯びる。
黒衣の男はわずかに目を細めた。
「よかろう。絡みつく因果の棘が、いつかその手を裂く時まで……走り続けるがいい」
その声とともに黒霧が再び巻き上がり、男の輪郭を呑み込む。
闇は渦を巻き、月光を歪めながら静かに消えた。
◆
残響が止む。塔の中に残るのは、黒い霧が残した硫黄の臭気と、私たちの荒い呼吸だけ。
私は剣を床へ突き立て、深く息を吐いた。肩の痛みが遅れて燃え上がり、視界が瞬く。
カイが隣に立つ。血は止まらないが、剣を杖代わりに真っ直ぐ立っている。
目が合うと、彼は微かに苦笑した。彼の喉が上下し、掠れ声が落ちる。
「助かった……俺は、もう折れかけていた」
私は首を振り、震える指で彼の籠手に触れた。
「私もよ。二人でいなければ、影に飲まれていた」
月は雲へ隠れ、赤い光が淡まりつつあった。けれど薄闇の中で、剣の鍔が小さく光を拾い、私たちの影を長く伸ばす。
(たとえ因果の棘がこの手を裂こうとも、私たちは退かない)
胸の高鳴りに合わせ、剣の柄を握り締めた。
闇の向こうで蠢く過去の影に、必ず光を突き立てる。その誓いを胸に、私はカイと共に歩き出す――。"
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