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第5話「裏切りの炎」


【カイ=オルランド視点】


 夜明け前の空は、裂けた傷口のように赤黒く滲み、神殿の尖塔をゆらめく影に変えていた。聖剣解放の儀式を終えたはずの大理石の回廊には、なお霊気の残滓が漂い、まるで見えない指先が首筋をなぞるかのように冷たい。その冷気を背負い、俺たちは騎士団本部への帰路を急いでいた。


 森路を包む薄靄は沈黙しながらも、どこかで蠢く獣の息づかいを孕み、木々の葉裏で夜露が砕け落ちるたび、胸の奥に潜む不安が鋭く跳ね上がる。エリスとジークは囁きを交わす声すら抑え、リシェルは顔を上げたまま、長い睫毛の奥で淡い悲嘆を凍らせた。

 問いかけたかった。“大丈夫か”の一言が喉もとで絡み、声にならないまま消えてゆく。


(俺は、本当にこの剣を振るい切れるのか……)


 血と光を吸い込むかのような鍔に指を這わせた瞬間、温もりのない金属が肌を拒むように震えた。聖剣の力は、確かにこの身に宿っている。だが、その烈火のような輝きが俺の心臓を焦がし、脆い疑念をあぶり出していく。


 ――それは、耳鳴りの形で襲った。

「カイ=オルランド!」

 闇を切り裂いた声が、薄紅の風を引き裂く。前方の木々が揺らぎ、蒼い外套が夜気をはらんで翻った。レオン=グランフォード。深海のごとき瞳に宿る静謐な闘志——かつて肩を並べた剣士の誇りが、俺の鼓動を撃ち抜く。


 足が無意識に踏み出す。

「……レオン」

 名前が唇から零れた瞬間、昨夜の鉄臭い記憶が脳裏を灼く。だが過去の俺ではない。剣を掴む手は震えながらも、抜刀の軌跡を逸らさない。


「聖剣の適格を、剣士として確かめる」

 レオンが告げると、森を渡る風までもが刀身の冷たさを帯びた。


 刹那、鍔鳴り。

 銀光が木洩れ日を弾き、狭い空間に火花の奔流を生む。踏み込みと共に体が重く沈むが、剣先だけは天の光を裂いて進む。


 ズシン、と衝撃。回想が一瞬にして閃いた。折れかけた訓練用木剣、血に濡れた石畳、斃れた仲間の名前を呼ぶ声。

 ――守れなかった記憶が、刃と刃のきらめきに映る。


「いい目だ。しかしそれだけでは足りん!」

 レオンの剣が半月の弧を描き、土をえぐる風圧が頬を斬った。

 耳奥で別の囁きが芽吹く。『遅すぎた』『触れれば砕ける』……小さな自嘲が胸腔の闇へ滴り落ちる。その滴が氷柱となり、握る拳を痺れさせた。


 だが退かない。

(この剣は、俺が過去を断ち切る軌跡だ)


 膨れ上がる衝突音の裏で、遠くの兵士の悲鳴がこだまし、折れ枝の炸裂が鼓膜を揺らす。斜めに降る剣閃の向こう、誰かの視線が背中を貫いた気がした。ぬるい悪寒が首筋を舐め、レオンの影さえ黒く染める。


「お前が“守る”などと……幻だ」

 低い声が森の底から這い上がる。

 腰の剣を返しつつ振り向いた俺の視界を、夜より深い闇が裂いた。ヴァイル。かつて肩を並べ、剣を信じ合った男。

 その瞳から慈愛は抜け落ち、凍土のように冷えきった嘲笑だけが揺れている。


 血潮が凍る。霧散していた不安が、鋭い刃となって胸骨を貫いた。仲間だと信じた声が、今は別の刃になって突きつけられている。

 空気がひび割れ、夜気が掌に纏いつく。呼吸一つが重さを増し、心臓が悲鳴を上げた。


「力こそ真実。願いも理想も、無力と知れ」

 ヴァイルの言葉は腐蝕する毒。聖剣の輝きさえ褪せるほど、深い闇をひきずる。


 ――折れるのか?

 剣を握る手が、わずかに震える。人の温もりも、約束も、裏切り一つで崩れ去るのか。胸奥の小さな声が「もう遅い」と囁く。視界の端で、黎明の光が血のような朱を注ぎ林床を染めた。


 しかし、その紅は諦念の色ではない。

「……幻でも構わない」

 喉奥から絞りだした声が震えを帯びつつ、烈火の唸りに変わる。

「俺は、この剣で、仲間を――世界を――そして俺自身を守る!」


 呪文のように何度も握り直した誓いが、刀身へ脈動となって流れ込む。火花が新たな閃光を産み、剣先はヴァイルの影を切り裂いて夜気へ突き立つ。

 その瞬間、森の静寂が破れ、二つの鼓動が交差した。裏切りの冷熱と、守護の炎がぶつかり合い、樹上の朝露が水銀のように弾け飛ぶ。


 剣戟、叫声、折れ枝の爆音。多層の音が渦巻き、俺の耳は戦場そのものとなった。幻惑する匂いの層――湿土、血、焦げた魔力、そして夜明けの潮騒のような風。それらが混ざり合い、視界は色彩を増して燃え上がる。


 レオンが剣を構え直し、ヴァイルが笑みを歪める。三つの矜持が互いの影を踏み躙り合う刹那、俺の剣は夜明けを裂く光そのものへと研ぎ澄まされていった。

 血が滾り、恐怖が叫ぶ。同時に、胸奥のどこかで確かな芯が輝いた。


(裏切りを越え、絶望を越え、俺は剣を掲げる)


 剣を振り抜きながら、俺は叫ぶ。

「炎が灰になろうと、残った火種で夜を焼き尽くす!」


 刃が軌跡を描き、闇が裂け、初陽が射し込む。東雲の紅が剣面に映え、血より濃い光で森を染め上げた。その光景を目に焼きつけながら、俺は再び踏み込む。



【リシェル=エルフェリア視点】


 夜明け直前の空は、擦り切れた鉄のような鈍色に染まり、森の樹冠を赤黒い縁取りで浮かび上がらせていた。月の残光はもはや頼りなく、わずかな灰色の輝きが葉裏で震えるだけ。そのかすかな光の中で、カイとヴァイルの剣が交わるたび、白い火花が咆哮のように弾けた。


 ヴァイル――かつて「仲間」と呼んだ男。優しさと誇りを併せ持ち、私たちの背を守る後ろ姿を、何度も頼もしく見送った。その面影は今や凍てついた仮面の奥に沈み、瞳に宿っていた温かな光は深い闇へと反転している。


 剣戟が続く。金属が噛み合う甲高い悲鳴の向こうで、木立を割く風の音、どこかで倒木が軋む低音、夜鳥の羽ばたきが重層的に響き――戦場は音の迷宮と化していた。湿った土の匂いに、飛び散った血の鉄臭と、魔力の焦げた甘い刺激が混じり、肺の奥まで絡みつく。息をするたび喉が焼け、胸が締め付けられた。


 カイはヴァイルの剣を受けながらも退かない。だがその背は、かすかな震えを隠しきれていない。肩口に走った裂傷からは血が滴り、外套を濃い赤へ染め上げていく。


 ――あのときも、同じ赤を見た。

 遠い戦場、燃え落ちる砦の前で倒れた仲間の血だ。カイは膝をつきながら、震える手で必死に傷を塞ごうとしていた。止まらぬ出血に意識を揺らす仲間の名を呼び、声が枯れ、叫びが喉で血に沈んだ。守れなかったという痛みが彼の胸に彫り込んだ傷跡を、私は知っている。


 いま、その傷が再び開こうとしていた。

 カイの剣を握る手が震え、額からこぼれる汗が血と混ざって土へと落ちる。そのたび彼の影が揺れ、闇に飲み込まれそうになる。


(カイ……どうか折れないで)


 ヴァイルの刃が閃き、再び肩を抉った。白い息が夜気を曇らせ、濃い血の匂いが風とともに流れ込む。私は思わず一歩踏み出し、剣柄を両手で握り締めた。


 と、その瞬間――森の奥深くで乾いた枝が折れる音。誰かの息遣いが静かに近づき、空気が冷たく刃物のように研ぎ澄まされた。振り向くと、レオン=グランフォードが闇を裂いて現れる。蒼い外套に夜露が光を集め、剣先には曇りひとつない冷焔が宿っていた。


 彼は足音すら抑え、無駄のない動きで立ち止まる。深海の底を思わせる瞳が、わずかに嘲るように細まり、視線の刃がこちらへ突きつけられた。

 その存在感は圧倒的だった。ただそこに立つだけで、森の温度が一段低くなったかのよう。空気の粒子が彼の周囲で凍りつき、草葉がざわめくことさえためらう。


 カイの胸が大きく上下する。傷の痛みだけではない――その視線の奥で、深い後悔と焦燥が渦巻いているのが見えた。剣士として、生きるために必要な“強さ”とは何か。その問いは彼の心臓を針のように刺し続けている。


 レオンは唇をわずかに歪めると、低い声で囁いた。

「カイ=オルランド。お前の“守る”など、脆い祈りだと証明されつつあるな」

 その言葉は夜露よりも冷たく、カイの胸へ突き刺さる。ヴァイルの攻撃が一瞬緩み、代わってレオンの視線が戦場の中心を奪った。


 静寂。

 まるで森が息を潜め、次の衝撃に備えるかのようだった。遠くで子鹿の泣き声が微かにこだまし、どこかの枝で夜鳥が飛び立った羽音が、緊迫の糸を震わせる。汗が頬を滑り、胴の革鎧を冷たく濡らす。


 私は呼吸を整え、剣先に意志を込める。心臓の鼓動が、剣の震えとシンクロするのが分かる。カイの背中を守るのは、私の役目だ。仲間として、剣士として、そして――私自身の選んだ運命として。


「ヴァイル……!」

 肺の底から声を絞る。

「あなたの剣は過去に縛られ、あなた自身をも切り刻んでいる!」

 返ってきたのは嗤うような沈黙。闇に濡れた瞳が細められ、刃の軌跡が月光を裂いた。


 同時――レオンが一歩、静かに踏み出す。その足裏から振動が毛細血管のように地を走り、森全体が微かに震えた。

「愚かな幻想に酔うのもいい。しかし、現実を突きつけられたとき崩れるものほど滑稽なものはない」

 彼の声は低く滑らかで、どこか硝煙の香りを帯びていた。


 カイの肩で脈打つ血が、ひと際強く噴き出す。顔をしかめつつも、彼は剣を構え直した。しかしその刹那、胸の奥で誰かの笑い声が刺さったように彼の動きが鈍る。守れなかった記憶の残響――かつての惨劇が赤い閃光となり、視界の端で揺れた。


 私は地を蹴り、カイとヴァイルの間へ躍り込む。その瞬間、時間が伸びたように遅く感じられた。剣と剣の摩擦音が伸び、火花が水滴のように空へ弾む。指先で感じる冷気は氷の刃。心臓の鼓動が一拍跳ね、視界に夜明け前の灰色が染み渡る。


 剣を上段で受け止め、腕に衝撃が走った。骨が軋む痛みすら通り越し、全身が痺れた。しかしその間隙を縫ってカイが息を飲み、一歩退いて体勢を整える。彼の手の震えは止まらない――それでも瞳だけは折れていなかった。


 ヴァイルは私の剣を押さえつつ、唇の端を吊り上げる。

「まだ夢を見るか、リシェル? 自分の弱さを隠す光に溺れて」

 その言葉に、胸が鋭く痛んだ。しかし私は刃を下ろさない。

「たとえ弱さでも、守りたい気持ちは消せない。闇に怯えるのではなく、光を求めるのが私たちだ!」


 再び衝突。火花が走り、血が土を染める。遠くで倒木が崩れ、枝を砕く轟音が重なる。森は戦場の叫びで満ち、温度は上がり、焦げた魔力が空気を震わせる。


 その熱気の中で、レオンが静かに刃を引いた。彼の瞳に映る嘲笑は氷の光沢――けれどその奥に、ほんのわずかに揺らぎが見えた。カイの矜持が、彼の心にも波紋を走らせているのかもしれない。


 カイが呼吸を整え、己の傷へ手をあてる。指先に触れた血の温かさが、過去の絶望をまざまざと思い出させる。それでも彼は目を閉じ、深く息を吸った。震えが、少しだけ収まる。


 静寂が戻る。

 遠くで木洩れ日が差し始め、鈍色の空がわずかに白む。夜明けの光はまだ弱いが、闇を押し返すための鼓動を始めていた。


 カイがゆっくりと目を開く。その瞳は映す。絶望、恐怖、後悔――そして、守りたいという烈火の意志。

「ヴァイル……お前を傷つけるためじゃない。お前を闇から奪い返すために、俺は剣を振るう」


 剣を構えたカイの背後で、東雲が血のような紅を孕む。光が剣の鍔に流れ込み、刃に宿る紋様を炎のように輝かせた。私はその光景を胸に刻みながら、一歩後ろへ引く。仲間の意志を信じ、そして自分にできる一太刀の瞬間を見極めるために。


 ――疾風。

 カイの踏み込みは、夜明けの狼煙のごとく鋭い。ヴァイルの剣が迎え撃ち、火花の爆ぜる薙ぎが斜めに走る。金属音に紛れて、誰かの嗚咽が遠くでこぼれた。風が悲鳴のように唸り、焦げた血潮が霧となって宙を舞う。肺に絡む鉄の匂いが、目を潤ませる。


 私は呼吸を固め、剣を斜めに構える。レオンがわずかに動く気配――彼が黒幕として糸を引くなら、その瞬間を逃さない。剣士として、リシェルとして、そして仲間として。


 瞬間、レオンの剣が月光を吸い込み、音を立てずに振り上げられた。

(来る!)

 私は地を蹴った。剣と剣、三本の軌跡が閃光の交差点で重なり、衝撃波が木々を揺すった。湿った落葉が舞い上がり、光の粒となって夜明け前の空へ散る。


 衝突の熱で視界が歪む。その歪みの奥――カイの剣がヴァイルの影を切り裂き、彼の頬を浅く掠めた。赤い雫が夜気を染め、ヴァイルの瞳に一瞬だけ過去の光が返る。


「……カイ……」

 掠れた声が漏れる。だがその声を凍らせるようにレオンが叫ぶ。

「奴の弱さに情けをかけるな!」

 レオンの視線が刃より鋭い凶光を放ち、ヴァイルの心を再び闇へ引きずり込もうとする。


 カイの唇が震え、胸の奥で過去の笑い声が何度も何度も突き刺さる。それでも彼は剣を下ろさない。むしろ両の足を大地に沈め、血で濡れた外套を翻して叫ぶ。

「守りたいという言葉は、血の底に沈んでも光を放つ! 俺の剣は、その光を掴むためにある!」


 その声が闇を切り裂き、森を満たした。空を覆う雲が崩れ、夜明けの光が一筋、戦場を貫く。銀灰の葉が輝き、火花が太陽の欠片のように跳ねた。


 私は全身の力を剣へ注ぎ込み、レオンへ向き直る。蒼い瞳がわずかに見開かれ、彼の唇から低い息が漏れた。


 ――運命を超える一瞬が、いま生まれようとしている。


 剣と剣が最後の軌跡を描くとき、私は祈る。

 カイの剣が闇を払う火種となるように。ヴァイルの瞳に再び光が灯るように。

 そして、朝日が昇るその瞬間、私たちが再び“仲間”として立ち上がれるように――。


お読みいただきありがとうございます。


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