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ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ、サリィの腹が鳴った。
「すごい音だな」
「触れないのが優しさじゃないの!?」
必要なものを一通り揃えたところだった。タイミング的にはちょうどいい。
腹を鳴らすことはないけど、それなりに空腹状態ではある。
「便利だなー、その腹時計」
「うっさい!」
「ま、そろそろ飯にするか」
どこで晩飯にしようか。新宿は大学時代のテリトリーだ。候補は無数にある。
けど、今日はあそこにしておくか。
さっきの件もあるし、早めに紹介しておいた方がいいな。
「俺の行きつけの店を紹介してやろう。サリィも気に入ると思うぞ」
「お店で食べるの!? やったぁ! 治の味が濃い料理だと思ったら憂鬱で!」
「おい、女とか関係なく殴るぞ」
あのチャーハン、やっぱり俺が食っておくべきだった。
「ほらほら、早く行きましょ!」
「ほんと食い意地だけは一丁前だな……あ、タクシータクシー」
時刻は十八時前。この時間の新宿駅は人が多すぎて敵わん。タクシーに乗り込んで運転手さんに目的地の住所を伝える。
こんな風に無駄遣いばかりするので、どんどん金が消えていくんだよな。
「そこって何のお店なの?」
「バーだな。カクテルとかいう洒落臭い酒を出す店だ」
「え、お酒!? 私、飲めないからね? 美味しくないし!」
「お子様だなー。でも、飲んだことはあるんだな?」
「うん、向こうでは成人していた――と思う。その辺は記憶が怪しいんだけど」
記憶喪失ってのも大変だ。自分の年齢すらも曖昧だなんて。
「おけおけ、ノンアルで適当に作って貰えば大丈夫だろ。あそこは酒より飯の方が美味くてコスパいいからな」
何でも作ってくれる定食屋という認識だ。
それ言ったら、間違いなく店主にぶん殴られるけど。あの人、謎の古武術(?)の達人だから。怪我をしないように相手を痛めつける方法とか熟知している。
「それは楽しみね!」
サリィは体を左右に揺らしていた。とてもご機嫌である。
「ねぇ、治! 私を騙したの!?」
しかし、目的地に到着するなり落胆した表情を浮かべた。
「いや、騙してないぞ」
「だってここ、治の家じゃない! お店で食べるんじゃなかったの!?」
運転手さんに伝えたのは自宅の住所だった。
「ここで良いんだよ。ほら、あそこに『Alchemy』って看板が出てるだろ? 今日行くのはあの店」
自宅兼事務所ビルの地下に位置する店がアルケミーだ。怖いもの見たさで入店したのがきっかけで、そこからこの店と――マスターとの付き合いが始まる。
「あ、ほんとだ」
「ここのマスターをお前に紹介したかったんだよ」
マスターとは浅からぬ縁があった。それもあって足繁く通うことに。月の半分以上は、ここで飯を食べているんじゃないだろうか。
ツケもかなり溜まっているので、そろそろ支払わないと半殺しにされる。
「先に荷物を置きにいくぞ。狭い店だから窮屈なんだよ」
「分かった!」
自宅に荷物を置く。身軽になったところで、あらためて地下への階段を下る。
「萌葉さーん。ちーっす」
「いらっしゃい――って、治か。テキトーに座って」
「おいおい、こっちはお客さまだぜ。もっと歓迎してくれよ」
「アンタ、酒を一切頼まないじゃないか。手間ばかり掛かる、しかも原価率の高いものを作らせやがって。挙げ句の果てにはツケ払い。客扱いして欲しいならそれ相応の振る舞いをしてほしいね」
店内に入ると、やたら口の悪い女店主が出迎えてくれた。
マスターこと日吉萌葉さん。可愛らしい名前とは裏腹に元ヤンである。
今でこそ黒髪ではあるが、ヤンキー時代の名残で目付きは鋭い。
出るとこは出て、引っ込むところ引っ込む、抜群のスタイルを持った美人だが、未だに独身なのは――――これ以上は言うまい。口は災いの元だ。
「他は誰も来てないな。土曜日の飯時なのに。松郷さんとか薫子さんとか」
目立たない場所に店を構えているだけあって、この店の客はほとんどが常連だ。何度も顔を出していると、何曜日はこの人がいる……的なことが分かってくる。
「アンタと違ってみんな忙しいんだよ。たぶんあの人らは、夜が深くなったら顔を出すんじゃないかな」
「まぁ、いきなりあんな変人がいてもあれか」
「アンタには言われたくないと思うよ」
「照れるな」
「褒めてないよ。そんで、今日は何さ? 可愛らしいお嬢ちゃんを連れてるけど」
背後に隠れている内弁慶に萌葉さんは水を向ける。
頭の猫耳は帽子で隠しているので、コソコソとする必要もないのだが、サリィは背中にくっついたまま離れない。
「大丈夫だって。この人、顔は怖いけど良い人だから」
「治、アンタは後で表出な。ごめんね、こいつはロクでなしだから厳しく接しているけど、あたしは温厚で、心優しくて、美人なバーテンダーだからさ」
穏やかな口調で萌葉さんはサリィに語り掛ける。
ツッコミどころは沢山あるが、話の腰を折らないためにも黙っておこう。
「は、はい! え、と……私はサリィって言います!」
柔らかい表情に安心したらしく、ようやっとサリィが口を開いた。
「サリィちゃんね、可愛い名前だ。で、そこのクズとはどういう関係なんだい?」
「それが、その、何と言いますか……」
率直な質問に対し、サリィはたじろぐ。目は泳いでいて、今にも溺れそうだ。
国籍、性別、年齢。俺との共通点は皆無だ。萌葉さんが疑問に思うのも当然である。
「萌葉さんも名前『だけ』は可愛いじゃん。えー、その、ちょいワケありなんで、スルーしてもらえると助かります。ウチで預かることになりました」
「アンタはそんなに殴られたいのかい――――はぁ、分かったよ」
「すんません」
「まったく。アンタも香に似て、とことん厄介ごとに首を突っ込むねぇ」
香こと野老澤香は俺の姉であり、萌葉さんにとっては高校の同級生に当たる。
しかも、親友と呼べる間柄だったらしい。これが萌葉さんとの『縁』である。
現在行方不明の親友、その弟として良くしてもらっているのだ。
「いやぁー、それほどでも」
「だから、褒めてないっての。……ったく、なるほどねぇ。サリィちゃんをあたしに紹介したのはあれか。同じ女としてのサポートに期待して、ってとこだろ?」
「さすが萌葉さん。察しがいい。ほら、生理とか男じゃ分からないだろ。こいつ訳あって現代知識が乏しいからさ。ナプキンとかその辺頼む」
「……っ!?」
サリィの頬は一気に朱色を帯びた。
別に恥ずかしがることじゃない。人体の仕組みなんだから。
というか、確証ないまま言ってしまったけど、こいつにも月経的な概念があるってことでいいんだよな。この反応的にも。
「アンタは一回、オブラートに包むってことを覚えようか?」
「イタタ! 鼻を摘むなって! 鼻が高くなって、もっとハンサムになっちまう!」
日本は『性』に関してタブー視しすぎなんだよ。
ちゃんと異性理解がないと、日常や社会生活で困ることが沢山あると思うぞ。
「やだやだ、こんなバカに触るとバカがうつる」
「バカじゃないって。天才だって」
「サリィちゃん。あたしでよければいくらでも相談に乗るからね。もしこのクズになんかされたら言って、すぐに駆けつけてボコボコにするから」
「あ、ありがとうございます!」
俺(天才)をスルーして会話が進んでいく。
「でも、その……治は、今のところ優しいです。バカなんですけど」
「だから、天才だっての。一言余計なんだよ、まったく」
素直に褒めてもバチは当たらないだろうに。
「そりゃよかった。にしても――ふふっ、治が年下に良いようにされてるとはね。ククク。アンタ、意外と年下に弱いんだねぇ?」
「うるせー」
サリィは年齢不詳だから、実年齢が上か下なのかは分からないけどな。
まぁ、さすがに俺より年上ってことはないか。あまりにもピュアすぎる。こいつが純粋無垢で真っ白だから、俺の調子が狂っているんだ。
「ははは、照れてる照れてる。面白いもん見れたし、一杯くらい奢るよ」
「え、いいんですか!?」
「サリィちゃんに出会った記念でもあるからね。ほら注文しな、治。こういう時はセンスあるオーダーを男がするんだよ」
無茶振りが過ぎるって。まじでカクテルとか全然分からんし。
「いきなり言われてもなぁ。あー、あの、なんかエロい名前の、ほら有名なやつ」
「セックス・オン・ザ・ビーチ?」
「そうそれ、セックス」
「そこだけ切り取るんじゃないよ」
女子に注文させる、そんなセクハラが大学時代のサークルで横行していた。
ほんと男子ってバカ。ちなみに率先してやってたのは俺です。
「わりとアルコール度数もあるんだけど。まさか、サリィちゃんを酔わせてどうこうする気じゃないだろうね?」
「こいつ酒飲めないから。なんかノンアルバージョンあったじゃん」
「あー『セーフ・セックス・オン・ザ・ビーチ』ね。よくそれを知ってたね、カクテルに全く興味がないアンタが」
サークル活動のおかげです。
「にしても、酒が飲めない子をこんな店に連れてくるのはどうなのさ」
「社会勉強ってやつよ」
「まともに働いたことがないのに、一丁前に社会を語るんじゃないよ」
耳が痛い。人生経験豊富な萌葉さんに言われると、ぐうの音も出なかった。詳しく聞けてないけど、この人の人生ってだいぶ波瀾万丈らしいから。
「くわばらくわばら。残りの注文だけど俺はビール、飯は適当に自信あるやつで」
「おうおう、アンタの注文には色々と言いたいことがあるね」
額に怒りマーク。やばい、調子に乗りすぎたな。
「一旦それは置いといて……サリィちゃん、治が言ったカクテルでいいの? セクハラで訴えたら勝てるよ?」
「そもそも『セックス』って、どういう意味なんですか?」
その場の空気が凍る。
どうしてサリィが日本語を喋れるのかは知らないが、たぶん教えた誰かがいるわけだ。その日本語を教えたヤツさ、『そういうこと』も教えとけよ。
「萌葉さん。こいつワケありなんで」
「はぁ、そういうことかい。サリィちゃん、ちょっといい?」
サリィをカウンターの裏に呼んで、萌葉さんは内緒話を始めた。聞き進めるにつれて、サリィの頬がみるみると紅潮していく。
そして内緒話が終わると、こちらに戻ってきて――俺をグーで殴った。
「ぐへっ!」
「なんてものを注文してるのよっ!」
「ずびばせん」
やはり、サリィのパワー半端ない。超痛い。
「治、注文を聞き直すよ」
殴られた頬を優しくさすっていると、萌葉さんが「次はないよ」と高圧的な物言いで、この場に相応しい注文を求めてきた。
「サリィはノンアルコールのレモネードで。俺はビール――じゃなくて、ジントニック。食べ物は適当に――じゃなくて、あの超美味しいナポリタンを二つお願いします」
「ギリギリ及第点だね」
萌葉さんが所々で凄く睨んできたので、空気を読んで注文しました。
ビールNG。せっかくのバーなんだからカクテルを頼め。適当にNG。ちゃんと食べたいものを言え(これ、母親や彼女にも共通)。
サリィと言い、萌葉さんと言い、武闘派女子って怖いっすね。