6-2
萌葉さんは三、四食分の作り置きを残して帰宅した。
最後まで何も言うことはなく、俺たちは静かにその姿を見送る。それから俺とサリィは身支度を済ませるため各々で動き出す。特に会話もない。
「お、治……っ!」
「どうした?」
サリィとの微妙な空気感。
何を話そうかと考えていた矢先、サリィが声を上げた。
「たぶんこれ、萌葉さんの……」
その手に持っていたのは、萌葉さんのスマホだった。
「おいおい、ミイラ取りがミイラかよ」
「たぶん、萌葉さん困るよね?」
「店に顔出してくる。入れ違いになると困るから、サリィは部屋で待機してくれ」
「わ、わかった!」
萌葉さんのスマホを持って家を出る。
一人になってため息をつく。正直なところ助かった。俺もサリィも一人で考える時間が必要だと思うから。さて、これからどうしたものか。
こういう時は「アイツ」に壁打ちするか。お目当ての人物に電話を掛ける。
『……なんだよ、治。二日酔いなんだけど』
『今日飲もうぜ』
『おい、話を聞いてたか!?』
職場の飲み会が激しかったみたいだ。颯太の声はぐったりしている。
『夜には回復してるだろ』
『まぁ、そうだけどさー。今日じゃなきゃダメなのか?』
『早ければ早い方がいい』
『んー、分かったよ。早い方がいいなら、十五時とかにするか?』
何だかんだ誘いに乗ってくれる。
このフットワークの軽さ、というよりはこちらの事情を察する勘の良さか、これがこの男の数ある美点の一つだ。
『助かる。すまんな、しかも奢りで』
『んなこと一言も言ってないわ! 頭痛いんだから、大声出させるなってのー』
『なら、割り勘で譲歩してやろう』
『なんでベースが奢りなんだよ! ……もういい、北口集合で。俺は寝る』
『ほーい』
とんとん拍子で話が進んだ。さすがは親友、話が早くて助かる。
そうこうしている間にアルケミーの前までたどり着いた。階段を下って店に入る。
「萌葉さんいるー?」
「まだ営業時間外だよ」
店の奥から萌葉さんが顔を出す。
「そりゃ知ってるけどさ。ほらこれ、忘れ物」
「気付くの遅すぎ。ただタイミング的にはちょうどいいね」
「……え、わざとだったの?」
スマホがないことを理解しているような口ぶり。
ちっとも意図が分からない。萌葉さんは何がしたいんだ。
「はい、これ」
「ん――ちょ、はぁ?」
差し出されたのは剥き出しの札束。しかも分厚い。一万円札が何枚あるんだ。
こんな大金を当たり前に「はいはい」とは受け取れない。金がない今だからこそ、その価値や重要性は嫌になるくらい分っているつもりだ。
この大金を稼ぐのに、萌葉さんがどれだけ苦労したのかも想像に難くない。
「キャッシュカードだと、五◯万円までしか引き落とせなくてね」
「そ、そういうことじゃなくてさ!」
額の問題とかじゃない。これが仮に一円だとしても受け取る理由がない。
「金が必要なんだろ?」
「そりゃそうだけど、急に意味分からんって!」
俺と萌葉さんは店主と常連、親友の弟と姉の親友、決して浅くはないけどこんな大金をポンとやり取りする関係でもないはずだ。
「あーしゃらくせぇ! いいから受け取れっての!」
「ぐはっ!」
突然、腹部に強い衝撃がくる。殴られた――え、なんで殴られた?
混乱と痛みで頭の中がぐちゃぐちゃである。
「テメェが不甲斐ないから、こんなことになってるんだろうが!」
「萌葉さん……」
「女を泣かせておいて、今更くだらねぇプライドを出してるんじゃないよ! アンタの為じゃない、サリィの為だ! その金を使って状況を改善するんだよ!」
普段クールな萌葉さんが激高した。
でも、分かっている。これが愛情の裏返しであることを。サリィの事、きっと俺の事も、大事に想ってくれていることが伝わってくる。
「これは命令で、アンタに拒否権はないからね!」
「承りました……っ! ありがとうございますっ……!」
腹部の鈍痛に耐えながら、萌葉さんに礼を言った。殴られた側が殴った側に感謝をするなんて、我ながらおかしな光景だ。
「アンタはもう……その、なんだ。あたしの弟みたいなもんだからさ!」
「――――え?」
「困ったらすぐに頼りな。身内を助けるのは、当然のことなんだから」
そっぽを向きながら、照れくさいことを口にする。
はは……なんだよ。似合わないことして。カッコよすぎるんだよ。
こんな風に自分を想ってくれる人がいる事実に涙が出そうだった。まぁ、絶対に『姉』の前で泣いたりしないけど。
「恥ずかしいなら言わなきゃいいのに」
だからこそ、いつもの軽口で応じさせてもらうことにした。
「また、殴られたい?」
「すみません」
頭を下げた。殴られるのを回避するため、そして感謝の意味を込めて。
「この金、絶対に返しますから」
「何言ってんだい、当たり前だよ。タダでやるわけないだろうに」
「え、いや、その……」
流れ的にもらえるものだと思っていました。そこで「返済します!」って宣言する自分かっけぇ的なことを考えていたのに。
世の中そんなに甘くはありませんでした、はい。
「十倍にして返してもらうからね」
「あれ、サラ金で借りた方が利率低くない?」
十倍って五○○万だぞ。
そんな金払えるわけ――いや、それくらいの大金をポンと出せるビッグになれ、という萌葉さんなりのエールなんだろう。
ねぇ? そうなんだよね? これマジで五○○万返さなきゃいけない流れ?
「あ、そうだ。この金でギャンブルやったらマジで殺すからね」
「…………」
後ろめたくて目を逸らす。一瞬だけそんな邪念が頭によぎりました。
「じゃ、頑張りな。あんないい子を手放すんじゃないよ」
「野老澤治の本気を見せてあげますよ」
「ふん、本気出すのが遅すぎなんだよ……あんま期待せずに待ってるよ」
萌葉さんの叱咤激励を受けてアルケミーを後にした。
ポケットに突っ込んだ札束が重い。萌葉さんの期待や想いが込められたものだからな。軽いはずがなかった。
無駄金にしてはいけない。次の『一手』のため有効活用させてもらう。




