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甘寧 義の矢

作者: おいらもぐ

甘寧 義の矢


建安十五年の夏、江東の夕陽が長江の波に映え、赤金色に輝いていた。甘寧は城壁の上から、かつて水賊として荒らし回った水域を見下ろしていた。腰の名剣「青影」を握る手に力が入る。


十年前、この水域で彼は凌統の父、凌操と激突した。凌操は彼の配下の水賊たちを追い詰め、多くを討ち取った。しかし最後の戦いで、甘寧の放った一矢が凌操の咽を貫いた。その時の凌操の目に宿った憎悪は、今も甘寧の心に焼き付いている。


「俺は本当に変われるのか……?あの日の血の借りは、返せるのか……?」


その自問に応えるように、周瑜の声が響いた。


「甘興覇、過去に囚われるな。今の我らには未来を切り拓く力が必要だ。曹操が江南を虎視眈々と狙う今、お前の力は呉にとって不可欠なのだ。」


周瑜の瞳には深い信頼が宿っていた。彼は甘寧の投降の際、孫権に進言して受け入れを決断させた人物だ。その背後には凌統が立っており、父の仇を見る冷たい眼差しを向けていた。


「周都督、私は到底信用できません。この男のような無法者が呉の武将を名乗るなど……父上の無念を思えば!」


甘寧は拳を握りしめ、怒りに震える凌統に向き直ろうとした。だが、周瑜が静かに手を上げて制した。


「甘興覇、信頼は行動で得るものだ。そして凌冲霄よ、今は私情を超えて呉の存亡を考えるべき時だ。機会はすぐに訪れる。」


数日後、曹操軍の大軍が長江を南下し始めたとの報が入った。呉軍は敵の進軍を阻むため、要衝となる長江中流の石橋の確保を命じられた。しかし、曹操の精鋭部隊がすでに橋を占拠しており、重装歩兵と弓兵隊が固く守りを固めていた。


「先鋒を務める者はいないか?」周瑜の問いかけに、重苦しい沈黙が流れる。誰もが橋を睨みつつ、踏み出せずにいた。


その時、甘寧が一歩前に出た。赤い甲冑が夕陽に映えている。


「俺に任せてください。夜戦で橋を奪取する。」


凌統が嘲笑するように声を上げた。


「無謀な作戦だ。精鋭弓兵を備えた曹操軍の布陣を、夜陰に紛れて突破できるとでも?自分一人で英雄気取りか?」


だが、甘寧は凌統を振り返ることなく、ゆっくりと答えた。


「かつて俺は自分のために戦った。今は、守るべきものができた。それを証明するだけだ。」


その言葉に、凌統は答えられなかった。父の仇を前に、なぜか胸が騒ぐのを感じていた。


その夜、甘寧は精選した百騎を率いて出陣した。月明かりすら雲に隠れる闇夜、彼らは馬の蹄に布を巻き、音を立てぬよう橋に忍び寄った。


だが、曹操軍の警戒は厳重だった。見張りの松明が橋を照らし、弓兵たちが眼を光らせている。甘寧は腕組みした部下たちに向かって囁いた。


「恐れるな。奴らの視界は松明に慣れて狭まっている。その隙を突く。」


突如、甘寧の放った一矢が見張りの松明を打ち落とした。暗闇に紛れて百騎が一気に橋へ突進する。


「敵襲!」曹操軍の陣中が騒然となる中、無数の矢が闇を裂いて飛来した。


「くっ!」甘寧の背中に矢が突き刺さる。だが彼は、その痛みを歯を食いしばって耐えた。かつて凌操に向けた矢の報いか、と思いながら。


「前へ!退くな!」


甘寧の雄叫びが夜を切り裂く。次々と部下が倒れていく中、彼は橋の中央まで突き進んだ。血に濡れた手で、呉軍の旗印を高々と掲げる。


「今だ!総進軍!」


その時を待っていた呉軍主力が一斉に動き出した。混乱する曹操軍の陣形が崩れ始める。


驚いたことに、その先陣を切っていたのは凌統だった。彼は甘寧の決死の突撃を目の当たりにし、躊躇なく部隊を率いて支援に向かっていたのだ。


夜明け前、戦いは呉軍の完勝で終わった。橋の奪取により、曹操軍の南下は大きく阻まれることとなる。


傷だらけの甘寧が手当てを受けていた陣中に、凌統が近づいてきた。その表情には、もはや憎悪の色はない。


「お前を無法者だと決めつけていた俺が間違っていた。命を賭して呉のために戦う姿を見て……父上も、きっと認めただろう。」


凌統が差し出した手を、甘寧はしばらく見つめた。その手には、父の形見の帯剣が握られていた。そして静かに、その手を取る。


「これからは、共に呉の盾となろう。」


遠くでその光景を見守る周瑜は、満足げに頷いた。彼の読み通り、二人の確執は呉を強くする絆へと変わったのだ。


「これこそが呉の進むべき道。個々の才と心が一つとなった時、我らは天下に冠たりうる。」


江東の夜空には満天の星が瞬き、新しい時代の幕開けを告げているかのようだった。黎明の光が、二人の武将の新たな絆を照らし始めていた。

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