3.逃走と魔獣
ミユウ・ハイストロ
長年拘束されていた要塞から逃げ出した不殺族の少年。
現在はアストリアによって、少女の姿に変えられた。
アストリア・ナルトリフ
ミユウの許嫁であり、魔術を使いこなす魔術族の少女。
金色の髪に、ルビーのような赤い目が特徴。
ミユウが目覚めてから一時間が経った。
アストリアは朝食の準備をするためと、ミユウを木に縛り付けたまま、どこかに行ってしまった。
「なぜ解いてくれないの?」と質問したところ、「うふふ」と微笑むだけで答えてくれなかった。
「これが慕っている人に対してすることなの?」
ミユウはアストリアという少女のことを計りかねていた。
彼女の自分を慕う想いは本物なのだろう。
そうでなければ、いつ出てくるか分からない、いや、一生出てこれないかもしれない人物を待つなんてことはできない。
一方で、その慕う人物の身体を女性化し、“くすぐり”という致命的な弱点を付与、挙げ句の果てに、笑い悶えるミユウの姿に異様な興奮を覚えるという、加虐趣味な一面を見せている。
もちろんどちらも彼女の正真正銘の素顔なのだろう。
ただ、その二つの面が余りにもかけ離れすぎて、どうしても受け止めきれないでいる。
「本当にいい子なんだろうけどなぁ。このまま一緒にいたら、危ないような気がする」
他の女性にミユウをとられないために女性化してしまうような突拍子ない発想を持つのだ。
いつどんな気まぐれでまた身体をいじられるか分からない。人間以外のものに変化させられたらたまったものではない。
ミユウの頬に冷や汗が流れる。
「あの子には申し訳ないけど、逃げるしかないよね」
今、アストリアはこの場にいない。
逃げるのであれば、今しかないのだ。
正直、身体を戻せなくなるのはもったいないが、背に腹は代えられないだろう。
まずは自分を木に縛っているものを解く必要がある。
豊かな胸が邪魔をしてよく見えないが、肌に突き刺さる感覚からすれば鎖ではなく、縄だろう。それも老朽が進んだ荒縄だ。
真面な食事をしていない弱った身体ではあるが、これぐらいの縄を強引に解くだけの力は十分にある。
「すぅーはぁー。すぅーはぁー…………」
二度の深呼吸の後、全意識を二の腕に集中させる。
そして、「おらっ!」というかけ声と同時に思いっきり両腕を左右に広げた。
すると、彼女の周りに粉々になった縄が散乱した。
「ふぅ。やっと解放された!」
その場に立ち上がると、両腕を上げ、思いっきり背伸びをして、自由になったことを全身で喜ぶ。
「さて、長居しても仕方ないし、さっさと逃げますか」
簡単に全身の筋を伸ばす運動を終えると、アストリアが向かった方角の反対側に向かって、駆け出した。
その時だった。
「ふにゃっ!」
あと一メートルで茂みに飛び込めるところで、ミユウは気の抜けた声をあげながら倒れ込んだ。
決して石や木の根に足を引っかけた訳ではない。
背後から何かが現れ、彼女を地面に押しつけたのだった。
背後にある謎の物体は暴れるミユウの首から下を全てにまとわりつき、手首足首を拘束すると、ミユウを圧倒する力で完全に動きを止めた。
「え、液体?」
そう。彼女の上に乗っかているのは緑色の液体だった。
いや、液体というには弾力があり、実体があり、確かな意思のようなものを感じる。
“液体のような生物”といった方がいいのかもしれない。
そうこれは……
「まさか噂の“スライム”ってやつ? でも、スライムって普通もっとジメジメした沼とかにいるものじゃないの? こんな森の中にいるなんて聞いたことないよ」
「それはそうです。彼は“魔獣”なのですから」
「?!」
巨大なスライムとの力比べ(完全に負けているが)をしていると、足元から聞き覚えのある少女の声が聞こえた。
必死に首をひねり、声のする方へ目線を向ける。
すると、そこには果物が山盛りに積まれたカゴを抱えたアストリアの姿があった。
「ま、魔獣って何なの?」
「魔術師が自らの魔力を使い、生み出した使い魔のことです。通常の生物とは異なり、不思議な力を行使することができるのですよ」
「こいつはあなたの使い魔ってこと?」
「はい。“ティーク”さんといいます。ミユウさんの背中に刻印した魔術印を介して召喚することができる、忠実なペットです。今後とも可愛がってあげてくださいね」
「背中の?! 魔術印って一つだけだったんじゃ?!」
「おや? いつそのようなことを言いましたか?」
「く、くぅ~」
確かに、アストリアは魔術印が一つだけとは一言も言っていない。
しかし、誰が身体にいくつもの魔術印を刻印されていると予想できるものか。
そう言ってやりたいが、アストリアに忠実な魔獣に全身を拘束されている以上、下手なことはできない。
「ところでミユウさん。こんなところで一体なにをされていたのですか?」
「え?」
いつの間にか頭の近くでしゃがみ込んでいたアストリアは、ミユウの顔を覗き込みながら疑問を投げかけた。
「先ほどこちらに戻ったときに、ミユウさんが森の茂みに飛び込もうとしたのを見かけたので、お止めするためにティークさんを召喚したのですが、こちらに何かご用でも?」
「い、いや、その……」
「まさか、私が不在の隙を狙って、逃げようとお考えだったのでは……」
「ううん! そんなわけないじゃん!」
「では、どうして?」
「えっと……そ、そう、トイレ! とても我慢できる状態じゃなかったから、無理矢理縄を解いて、茂みに向かったの!」
「なるほど。そうでしたか」
「誤解を生むようなことをしてごめんね。あはは」
「うふふ…………ミユウさん。嘘をついてはいけませんよ」
「う、嘘じゃないよ! もう限界~。早く解放してくれないと、漏らしちゃうよ~」
「目が泳いでいますし、冷や汗もいっぱいかかれています」
「だから、これは漏れそうだから……」
「正直に言わないと、くすぐり責めですよ」
「逃げようとしてました! ごめんなさい!」
“くすぐり責め”という言葉を持ち出されては、素直に白状するしかない。
「あらあら。逃亡を謀った上に虚偽の供述をするとは、ミユウさんは悪い子ですね」
「いや、ちょっとした出来心というか何というか……ごめんなさい! 許してください!」
アストリアは顎に指を当て、「う~ん」と少し考える仕草を見せた後、ミユウに向けてニコッと笑った。
「ダーメ。悪い子はしっかりお仕置きをして更生していただかないと」
「そ、そんな~」
「そうですね。せっかくの機会ですので、ティークさんの紹介もしておきましょうか」
ミユウの上にのしかかるティークの背中をプニプニと撫でるアストリア。
心なしか、ティークが喜んでいるように見える。
「ティークさんは通称“拷問スライム”と呼ばれている魔獣です」
「拷問スライム?!」
「はい。魔術印を通して寄生主、つまりミユウさんの身体や精神の情報を得え、その人が最も嫌がる方法で苦しめる。謂わば、ミユウさんに特化した拷問生物といったところですかね」
「最も嫌がること…………ま、まさか」
「うふふ。お気づきになられましたか?」
ミユウの全身に冷や汗が大量に流れる。
この後、自分に起こる最悪の事態を予想して。
「ほ、本当にごめん! 反省してるから! もう逃げたりしないから!」
「ダメですよ。今は反省しているでしょうが、時間が経てば、忘れて同じことを繰り返すかもしれません。ですので、今回のことを絶対忘れないよう、身体に恐怖を刻みつけて差し上げます。では、ティークさん。ミユウさんをよろしくお願いいたします」
そう言い残すと、アストリアは立ち上がり、ミユウとティークにお辞儀をして、立ち去っていった。
「どうしよう……」
その場に残ったのはミユウとティーク。
相変わらずティークはミユウの身体の動きを封じている。
このままでは、考え得る最悪の想定が現実になるだけだ。
「ね、ねえ? 確か、ティークだっけ? アストリアはああ言っていたけどさ、別にお仕置きなんてしなくてもいいんじゃないかってあたしは思うんだよね。だからね? ここは解放してくれないかな~なんて」
意思疎通が可能なのかどうか分からないが、気持ちを込めて話せば分かってもらえるはずだ。
しかし、そううまくいくはずはなく、ミユウを締めつけるティークの力はより増していった。あたかも「そんな交渉に乗らないぞ」と意思表明するように。
「ちょ、だ、ダメだって! ゆる、あ、あはははははははははははははは!」
ミユウの命乞いを無視し、ティークのくすぐり責めが開始される。
いくつもの触手を形成して人間の指のように動かし、ミユウの全身のツボを的確に刺激する。
何度も逃げようと抵抗するが、自分の倍以上の力で固められてはどうしようもない。
足の裏だけでも死にそうになっていたのに、同時に全身をくすぐられたとなれば、その苦しみは言葉で表現することはできない。
意識が混乱し、何度も窒息しそうになったが、何故か気絶することができなかった。気が遠のきそうになる度に、強烈なくすぐったさが意識を取り戻してしまう。
くすぐられている間、苦しみから決して逃れることができない、まさに“阿鼻叫喚”とはこのことである。
「た、たしゅけ、あ、ははははははははははは!」
【アストリアの魔術講座】
この世界には”魔獣”と呼ばれる生物がいます。
魔獣は、野生で生息する”野生獣”と、魔術使いが召喚する”召喚獣”の二種類に分けることができるのですよ。
今回登場したスライム、ティークさんは後者に当たりますね。
通常は数十章に及ぶ呪文を唱えて、膨大な魔力を消耗することで召喚します。
しかし、そうするとそのまま顕現された状態になり、ずっと引き連れなければなりません。
それに戻ってもらうためにまた莫大な魔力を消費する必要があります。
そこで今回はミユウさんの背中に魔術印を刻印し、それを媒体に無詠唱法で召喚術を行使することで、僅かな手間と魔術で召喚することを可能にしました。
この方法は無詠唱法を使うことのできる魔術族だからこそ可能な技術なのですよ。えっへん!