郷愁
ふとしたことから知り合った女性に最愛の姉の名前を与えてしまい、後悔とも照れくささとも知れない複雑な感情を抱えたまま、ティロはライラと河原で顔を合わせ続けた。
「ねえ、どうしてそんな服着てるの?」
ティロの平服はどこを見てもぼろぼろだった。いつも着古されて捨てられているものを拾ってきて、必要があれば自分で繕っていた。ティロの奇行とも思える行為に周囲は呆れ、ますます人の輪から遠ざかることに繋がっていた。
「服買う金なんかないからな」
金がないというのは口実で、希望を出せば新品の平服も一揃い支給されるはずだった。しかし、新品の服に袖を通す気は全くなかった。特に予備隊を出た後から、ティロは自分で物を所有することそのものに罪悪感があった。最初から捨てられていたものを身につけていれば、いつ無くなっても惜しくないとティロは考えていた。
「じゃあお金なら貸すから、ちゃんとした服着なよ」
「わかった、そうするよ」
そう言ってライラはティロに金を渡し続けたが、彼が服を新調することはなかった。そのうち返すと言いつつ、その金は全て薬や酒代に消えたが、ライラは特に何も言わなかった。
***
相変わらずティロは警備隊の中で浮いていた。隊服を着ているときは目立たないよう常に下を向いていた。ティロと同じくなかなか昇進できない者も何人かいたが、元から怠惰な彼らと根が真面目なティロが相容れることはなかった。真面目な者から見れば「ふざけた奴」と見放され、能力が無い怠惰な者からは「真面目すぎて息苦しい」と遠巻きにされていた。
それでもティロは、剣を持ちたいがために警備隊にしがみ続けた。警備隊に所属さえしていれば、修練場でいつでも鍛錬ができた。ただ常に人目を避けているので、やはりティロの鍛錬は夜中になることが多かった。
ある明け方、鍛錬の後に修練場で気絶をしていたところに何も知らない一般兵たちが修練場へ入ってきた。ティロがそれまで熱心に鍛錬をしていたことを知らない一般兵は、ティロが厳格であるべき修練場で怠けていると思った。
「ふざけるなこの始末書野郎!」
文字通り叩き起こされたティロは、咄嗟に相手を組み伏せようとして思いとどまる。
「な、なんだよいきなり」
眠気や突然起こされた怒りを堪えて、震える声で何とか応じる。
「貴様ここをどこだと思ってるんだ! 修練場だぞ! 鍛錬もしないで何やってるんだ!?」
「鍛錬なら、さっきしていたんだけど……」
「さっき? 真夜中から鍛錬していたとでも言うのか? バカも休み休み言え!」
ティロには言いたいことがたくさんあった。しかし、何を言っても自分の言い分が聞き入れてもらえないことはこれまでの経験で散々身に染みていた。
「……すいませんでした」
そう呟いてティロは修練場から逃げ出した。これから朝の勤務までまだ時間はあった。まだ眠っている者の多い宿舎に帰る気もなく、朝のリィアの街をふらふらと歩き回った。
「ちゃんとした人はまだ寝ているか、そろそろ起きてくる時間だ」
人通りのない表通りを歩きながら、ふと昔のことを思い出す。
「どこに行こう、どこに行けばいいんだろう」
まだ閉まっている家々の窓を見て、その内側に入れない自分がひどく惨めで仕方が無くなった。人目に付かない路地裏に入ると、野良猫が眠っていた。ティロが近づくと野良猫は驚いてどこかへ行ってしまった。ティロは猫が眠っていた場所に腰を下ろし、もう少し日が昇るまでの時間をぼんやりとやり過ごした。
***
ティロが目を覚ますと、見慣れた部屋のベッドの上だった。開け放たれた窓からは海からの心地よい風が入ってきている。驚いて自分の部屋を飛び出すと、夢にまで見た姉がいた。
『姉さん! 姉さん!』
『どうしたの、急に』
『あのね、エディアがなくなって、姉さんも死んじゃって……』
『何言ってるの、変な夢でも見たんでしょう?』
『夢か、そう、夢だよね……』
姉に連れられて食堂へ行くと、そこには死んだはずの叔父一家の姿があった。
『なんだよジェイド、寝坊か?』
『怖い夢を見たらしいの』
姉と従兄弟のミルザムが笑っている。奥には叔母のエオマイアと従姉妹のフィオミアがいる。床ではスキロスとキオンが寝そべっていた。
『ジェイド、今日の公開稽古は気合いを入れておけよ』
後ろからかけられた懐かしい声に振り向くと、もう一度会いたかった父がいた。
『そうだ、今日は公開稽古の後に父さんが稽古をつけてくれるからな』
父の大きな手のひらで頭を撫でられ、大好きな祖父のことを思い出す。
『なんだ、やっぱり夢だったんだ。よかった、夢だったんだ』
ジェイドはそう言いながら自分で笑う。今までのことは全部よくない夢だった。これからはカラン家を盛り立てて、エディア王家を守っていかなければ。そんなことを笑いながら考えた。
考えながら目を開けると、上空には一面の星空が広がっていた。エディアの海風も家族も全部消え失せ、周囲にあるのは河の流れる音と茂みが風に揺れる音だけだった。
「……夢に決まってるのにな。バカだな、俺」
結局十分な仮眠が取れなかったティロは心を殺してその日の勤務をやり過ごした。1時間でもその辺で横になれば疲労も多少マシになれるのに、と思いながらふらふらしていたために何度か怒鳴られた。返事をするのも億劫であったが、これ以上殴られたくなかったので何で怒られているかわからないまま謝り続けた。勤務後、逃げるように河原に走ってくると茂みに入って死んでしまいたくなる衝動と戦い続けた。
夢の中では楽しく笑っていたはずなのに、現実の自分は頬を濡らしていた。辛い記憶が繰り返される悪夢よりも、エディアの楽しかった日々の夢の方が起きたときに辛くて仕方がなかった。
「眠剤は切らしてるし……」
ティロは懐から煙草を取り出すと、火を付ける。煙を思い切り吸い込むと、身体が震えるような感覚の後に全てがどうでもよくなってくる。
「へへ、ここで死んだら皆に会えるかな」
かつて同じようなことを同じ場所で思ったことを思い出す。
「でも迷惑かな、こんな情けないゴミは今更カラン家には相応しくないなんて怒られるかな」
考えれば考えるほど、昔の自分と今の自分が一致しなかった。エディアにいた頃は何の心配もせずに過ごしていた気がする。予備隊にいた頃は正体がばれることを恐れていたけれど、直接的に命の心配はそれほどしなかった気がする。そして今は、死んだら楽になれるのではと考えることの方が多くなっている。
「なんでこうなったのかなあ、俺も一生懸命やってたのになあ」
明るい未来どころか、明日の展望さえ全く見えなかった。今の心配事は報奨でどう薬を買うか、薬を増やすにはどうすればいいかということだけになっていた。




