山岳訓練
14歳を過ぎると、訓練は予備隊の外でも行われることが増えた。主に首都から離れた山岳地に向かい、何日もかけて山ごもりの訓練がよく行われた。
馬車にも乗れないティロだったが、御者席で手綱を操っていれば発作が起きないことがわかってから常に御者を務めていた。おかげで手綱の取り方だけは誰よりも上手になった。
その時の山岳訓練は予備生10名と、特務の数名が訓練に加わった。
「この訓練も今日で最後かな」
16歳を迎え、来月特務に上がることに決まった17番のレシオが空を見て呟いた。
「何だか、寂しくなるな」
山岳訓練にまだ慣れていないティロがレシオに応える。
「何言ってんだよ、また特務で一緒にやっていけるじゃないか」
「そうだけどさあ……」
思えば、彼にはよく世話になっていた。ティロにとってレシオは下級生の面倒をよく見る、兄のような存在だった。しかし、彼のそばにいればいるほど彼の抱えている苦悩を垣間見て辛い気持ちになった。
スリの常習犯として予備隊に入ってからもレシオの盗み癖は一向に抜けず、誰かの持ち物がなくなると真っ先に疑われていた。本人としても努力はしていたが、どうしても目の前に盗めそうなものが見えると手が出てしまうと言う。
「そう言えば幸運のコインは?」
「置いてきたんだ、ちょっと頑張ってみようと思って」
盗癖が出そうになると、レシオはコインを取り出して手のひらで回したり隠したりして手を出さないようにしていた。それを「幸運のコイン」と名付けて、肌身離さず身につけていた。レシオの手の上でコインが回っているときは必死で衝動を抑えているときだ、とティロが気がついてからは無邪気に彼のコイン捌きを見れなくなっていた。
「特務に上がるのに、いつまでもこのままじゃいけないだろう?」
「そうかもな」
コインで衝動を抑えていても、ティロが予備隊に入った頃は月に一度くらいの頻度でレシオは実際に盗みを行っていた。予備隊側もティロの不眠や閉所恐怖症と盗癖を同様のものと扱い、毎回処罰をせずにある程度見過ごしていた。
「やっと半年我慢できたんだ。きっともう大丈夫だ。それに、ここには盗るものもないしな」
「確かに」
ティロはレシオに続いて笑顔を見せる。レシオの盗癖は、以前に比べて大分コントロールができるようになっていた。その技術を特務の任務で生かそうと前向きになっているレシオを見ると、ティロは予備隊で彼に出会えてよかったと思っていた。
***
山岳訓練は普段の教官の他に、山岳経験の豊富なリィア軍関係者が教官として招かれていた。山の歩き方に始まり、地形の読み取りや天候の判断、それから山を利用する術を悉く予備隊形式で叩き込まれる。
「これから地面に穴を掘って、そこに隠れる訓練を行う」
教官の声がかかったのと同時に、ティロは列を離れ脱兎の如く駆けだしていた。
「……あいつは放っておこう」
訓練内容から、ティロが逃げるか気絶することは明らかであった。気絶されても面倒くさいと思った他の予備生たちはひとまず教官の声に耳を傾けた。
逃げ出したティロは手近な木に登り、追いかけてきた教官たちから叱責を受けていた。
「32番! 真面目に演習しろ!」
「嫌だ! そんなところに入れって言うなら死んだ方がマシだ! ここから飛び降りてやる!」
木の上に立て籠もったティロに、教官たちは頭を抱える。
「あいつはああなると聞かないからな……」
命令違反として懲罰房をちらつかせ、無理矢理木から引きずり下ろすことは教官たちなら簡単に出来た。しかし、今までティロの閉所恐怖症の発作を見続けてきた教官たちは、その後のことを考えると得策ではないと判断した。
「わかった、その代わり朝までそこでそうやってろ」
実質的な食事抜きの罰であったが、ティロは懲罰房と絶食なら喜んで絶食を選ぶのを教官たちは知っている。
「しかし、あの様子でどうやって任務に就かせようか?」
「それだな……あれさえなければ全てにおいて優秀なんだけれども」
特務としては、ティロの能力を高く評価していた。剣技の腕はもちろん、座学においてもその他の身体能力も全てが良いものであった。ただひとつ、地下に入れないほど極度の閉所恐怖症だけが懸念材料であった。
「並の奴ならとっくの昔に切り捨てている。あれさえなければ、本当に惜しい逸材なんだ」
何とか予備隊に所属する期間中に、ティロの閉所恐怖症を克服させたいと特務は考えていた。そのためにティロにも働きかけはしているし本人も克服をする気はあるようだったが、いざとなると腰が引けて何もできなくなってしまう。
「どうにかしてやりたいんだがな……」
教官たちは木の上で震えているティロを見つめた。
***
その後、その場で野営を行い翌朝出発する頃、やっとティロは木から下りてきた。一晩中枝にしがみついていたために足取りはふらふらとしていたが、健康に問題はなさそうだった。
「その根性で頑張って克服してみようとか思わないのか?」
呆れたシャスタにティロは青い顔で答える。
「無理、絶対無理、何があっても無理、死ぬ、死ぬしか考えられない」
穴に入るということを想像するだけで、純粋な死の恐怖だけでなく明確な殺意を向けられた記憶が蘇ってくる。その殺意は恨みを持ったものではなく、どこまでも乾いた義務的なものだった。
「頑張ってみろよ、みんな何とかやってるんだ」
常に自身の衝動を抑えているレシオに励まされ、ティロは何も言えなくなった。
「そうだな……俺も頑張らないとな」
途端に閉所恐怖症の身の上が情けなくなってきた。レシオは必死で盗癖と戦っている。それなら自分にもできるのではないか。そんなことをぼんやり考えた。




