睡眠薬
言及:探求編第4話特務予備隊時代「夜中の世間話」
年が明けても、ティロの不眠は改善される気配が全くなかった。
「眠りたいな、しっかり眠れたら楽になるのにな……どうやって眠るのか全然思い出せないんだ」
眠ろうとベッドで横になると、不安で頭が一杯になる。眠っている間に何かよくないことが起こるのではないか、また酷い悪夢を見るのではないかという思いがどんどん膨らんできて、手足がじりじりと熱くなっていく。更に耳の奥で土の音が聞こえてくる気がして、気分がとても悪くなる。
ティロが連続で起きていられるのは3夜が限度だった。眠らないままでいることで都合の悪いことはたくさんあった。まず、集中力がなくなった。極度の睡眠不足の状態ではまともにものを考えることができず、ただ頭の中は眠ることだけを考えることになった。更に全ての感覚が麻痺するようになり、食欲もなくなる。元から食べ物の味などよくわからなくなっていたので、より食事が苦痛になった。
予備隊でもこの不眠の解消させようと様々な療法が試みられたが、全ては徒労に終わった。眠れないことでますます自己嫌悪に陥っていくティロのために、「限界に達したら睡眠薬を処方する」という措置がとられていた。それから3日に1度は睡眠薬で確実に眠れるようになったため、少しだけティロの精神も安定していた。
睡眠薬さえいつも手に入れば、予備隊の暮らしに関して後は言うことがないとティロは思っていた。
***
その日はノットと2人で医務室の掃除をしていた。室内に他に誰も人はなく、黙々と掃除をしていると急にノットが目を輝かせた。
「ティロさん、あそこ見てください」
言われた方を見ると、普段は施錠されている薬棚の扉が少し開いていた。ティロの胸にも言い知れぬ高揚がこみ上げる。
(あの中に、睡眠薬がある。しかもいっぱい)
「今なら誰も見てないですよね」
ノットは即座に薬棚を開けると、中を物色する。
「解熱剤に吐き気止め、痛み止めに睡眠薬……!」
ティロも思わず薬棚に駆け寄った。
「す、すす睡眠薬が……こんなに……!」
「宝の山ですよこれ」
ノットは迷わず痛み止めの錠剤を掴むと懐に入れた。ティロも睡眠薬を手にしたが、脳裏に「懲罰房」の文字が浮かんで懐に入れるのを躊躇する。
「大丈夫ですよ、バレなきゃいいんですから」
ノットは睡眠薬の瓶を取り出すと、数錠ティロに握らせる。
「それもそうだな」
目の前の睡眠薬とないかもしれない懲罰房は、ティロの中で睡眠薬が勝った。
「バレないように少しだけにしよう」
「このくらいなら勘違いと思うに違いないから」
それから2人は薬棚を扉の開き具合まで完全に元に戻し、何食わぬ顔で掃除を終えたふりをした。
「いやあ、掃除っていいですね」
「ほんとほんと、きれいになるって気持ちが良いなあ」
懐に忍ばせた戦利品を、2人はすぐに使い切った。それからなるべく医務室の掃除を率先して行うようになった。もちろん毎回薬棚の扉が開いているわけもないので、ノットが密かに作った鍵開け用の針金で薬棚の扉を開けた。何も言われないことをいいことに、犯行は大胆になっていった。
もちろん、教官たちが気付かないわけがなかった。
***
その日も医務室の掃除を買って出て、2人は薬棚の前にやってきた。6度目の犯行ということで、鍵開けも手慣れてきていた。
「案外バレないもんだなあ」
「ひと瓶持っていけるかなあ?」
「でもどこに隠そうか?」
「俺の部屋に置けば、何とか……」
急に気配を感じて後ろを振り向いたティロが固まった。
「どうしたんですか?」
ノットが振り向くと、クロノを始めとした教官が何人も集まっていた。
「初犯の出来心はこちらの施錠ミスもあると思ったので不問にしたけど……流石にもう言い逃れができないわね。さあ、こっちへいらっしゃい」
即座に逃走を図ったノットだったが、あえなく教官たちに取り押さえられた。
(どうしよう懲罰房だどうしよう懲罰房だどうしよう懲罰房だ……)
懲罰房が確定したティロは全身から冷や汗が吹き出し、その場から動けなくなった。
「さて、行くわよ……って、もう気絶してるみたい」
クロノに揺さぶられて、ようやくティロは我に返った。
(懲罰房!)
懲罰房のあまりの恐ろしさに、ティロはその場に座り込んで動けなくなった。
「ごめんなさい! ごめんなさい! もうしません! 絶対盗みはしませんからどうか懲罰房だけは本当に許してくださいお願いしますもうしませんもうしませんもうしません!」
逃げようにも足が震えて力が入らない。頭を抱えて喚くティロを教官たちが取り押さえる。
「ダメよ、規則は規則。身をもって反省しなさい」
その後すぐ、ティロはノットと共に懲罰房に落とされた。特にティロは懲罰房を前にひどく暴れたため、全身をしっかり拘束されていた。
「本来なら3日が妥当なところだけど、大負けにして気絶3回で許してあげるわ」
「嫌だ! 助けてお願いだからもうしないから許して死んじゃう死んじゃう死んじゃう!!」
泣きながら喚くティロにクロノの温情は聞こえなかった。懲罰房の中からティロの「死ぬ」という喚き声が聞こえなくなると、教官たちは伸びているティロを懲罰房から引き出して水の入った桶に頭を沈めた。酸欠で意識が戻ったティロの頭を桶からあげると、再び懲罰房に落とした。
「お願いだから、もうやめて! 死ぬから本当に! 死ぬぞ! 死んでやるぞ! 死ぬからおねがいやめて! もうしないから本当に!」
こうしてティロの懲罰房の刑期は数十分で終わった。3度目が終わった後は力なく「ごめんなさい」を繰り返すのみで、頭の芯まで恐怖に染まったティロが元に戻るまで数日を要した。
「本当にバカだなお前は」
あまりの恐怖に高熱を出して臥せったティロの看病をしながら、シャスタは呆れ返っていた。
「だって、だって……」
言い返そうにも言葉が出てこなかった。まだ頭の片隅に死の恐怖が残っているような気がする。
「ロッカーに耐えて、なんで睡眠薬は我慢できなかったんだ?」
シャスタはティロと手合わせした当初から、見た目以上の実力が備わっていることを認識していた。何故ティロが反撃せず、つまらないいじめに諾々と耐えているのかの理由をロッカー事件で知ったときにかなりティロを見直したはずだった。
「多分誰もわかってくれないからいいよ……」
ほんの一時だけでも自分自身でなくなることを許される時間がティロにとってどれだけ重要なのか、説明しようにも一切を語れない自分がもどかしかった。
「別にわかりたくもないけどな」
罪状が罪状であるため、解熱剤の投与は明朝まで見送られた。熱と恐怖で混乱する頭にあったのは、こんな目に合ったとしても再び目の前に睡眠薬があれば手を出してしまうだろうという冷たい確信だった。




