日常
予備隊の日々の生活は朝の点呼から始まる。
「起床!」
上級生の点呼で蚕棚の子供たちは一斉に動き始める。昨日の訓練の疲れが完全に取れていない者もたくさんいたが、点呼についていけないと脱落者と見なされるために子供たちは必死で命令に従っていた。大体夜半過ぎから起きているティロは寝起きの子供たちの中に紛れるだけでよかった。
点呼が済んだら、体力作りのために走り込みが行われた。広い予備隊の敷地の周囲を走り、最低2周することを条件付けられていた。慣れてしまえば朝の習慣であったが、新人は大抵これに悩まされることになった。元からある程度身体を鍛えていたティロは何とかついていくことが出来たが、中にはこの走り込みだけで脱落していく者もいた。
(そういえばこいつも体力あるよな)
ティロは隣でぼんやり走るシャスタを見て不思議に思っていた。自身の生い立ちがかなり特殊であることに気がついたのは、走り込みで脱落していく子供たちを見たときであった。
(多分このくらいも出来ないのか、じゃないんだ。出来る俺の方が特殊なんだ、きっと)
エディアにいた頃、意識的に体力作りをした記憶はなかった。ただ勾配の激しい街中をアルセイドとよく駆け回っていたため、平地をずっと走ることはあまり苦にはならなかった。
(思えばエディアの街は坂か階段ばっかりだったな。だからみんな体力あったんだろうな)
よく考えれば、災禍の日は火から逃れるために半日ずっと走り通しだった。緊急時だったとはいえ、よく走り抜いたと後で冷静に振り返っていた。
(あれに比べれば、ただ走ってりゃいいだけのコレは全然マシなんだよな)
あれこれ思い浮かべながらぼんやり走っているうちに、敷地の外周をすぐに2周してしまった。ティロを始め上級生たちは走り終えていたが、新人たちは残り1周に苦労しているようだった。
「一緒に走ろうか?」
目の前にまだ体力がそれほどついてないリオがやってきたのを見て、ティロはもう1周走ることを選んだ。リオはティロが隣に来たことで嬉しそうな顔をした。
「何だよ、じゃあ俺も」
ティロに続いてシャスタも外周に飛び込んできた。結局3人並んでティロとシャスタは外周を3周回った。それまで2周した者から走り込みは終わりとされていたが、ティロが新人に合わせて外周を回っている間に、他の上級生も3周以上走るようになった。更に走れる者は競って4周目に挑戦するようになった。教官たちは自主的に負荷をかける訓練をする分には何も言わなかった。
***
走り込みの後は朝食と休憩、それから座学が始まる。習熟度別に別れた教室で基本の読み書きからリィアの歴史と地理、更に潜入捜査に必要な知識などが詰め込まれる。中には似顔絵や人の顔と名前を覚える訓練もあった。
(リオがこれすごく得意なんだよな、そういう資質があるって強いよな)
よくよく考えればティロにとって剣技以外の取り柄が思いつかなかった。もし何かの理由で剣技が出来なくなったときに、自分を証明するものがあるのかというのは予備隊に入ってからも常々思っていた。
(でも、剣技ができない俺はもう既に俺じゃないのかもしれないな)
路上生活でもエディアで培った剣技の技術や日々の鍛錬が役に立っていた。それすらも失われたときのことなど考えたくもなかった。
(それに食事の作法なんか意識したことなかったなぁ……でも、知ってるのがきっとここではおかしいことなんだろう)
特務として任務に当たる場合、様々な場所に出向く必要があった。そのために上流階級の身のこなしや女性への接し方なども授業の一環として存在した。たまにうまく食器を使えない新人を見て最初は驚いていたが、驚いている自分のほうが予備隊内では異端であると思うようになった。
(でもさ、やっぱり知ってることなのに知らないふりをするのは難しいよ)
何度も「カラン家次期当主のジェイドは死んだんだ」と自分に言い聞かせた。今ここにいるのは身寄りがなくて煙草が欲しくて強盗をした挙げ句に予備隊に放り込まれた32番のティロなのだと思うたびに、やはり胸が痛くなった。ティロになろうとすればするほど、美しい姉の面影が遠ざかるような気がしていた。
(姉さん、姉さんはどんな僕でもきっと好きだよね)
授業中は結局姉のことを考えてぼんやりしているため、大抵「やる気が感じられない」と叱られていた。それでも試験で結果を出していたので、特に何も言われることはなかった。
***
昼休憩の後、午後からは本格的に剣技や体術などの訓練があった。武芸の他に壁や木など高いところへ登る訓練や、夏期には水泳の訓練もあった。川が多く水路が巡らされているリィアでは泳げることが大前提であった。
(エディアも海だったけど泳ぎなんかやったことないっての!!)
ティロにとって海は見るもので、入るものではなかった。エディアでも漁師や港湾警備隊は泳ぎの訓練を受けていたと思うが、ティロはどこか別の世界の話だと思っていた。
水泳の訓練は基本的に訓練用の池に突き落とされて、自力で這い上がることが最初の段階だった。もちろん溺れる者も多かったが、泳げる上級生がその度に引き上げ、泳げるようになるまで池に突き落とした。基本的に要領のいいシャスタも水泳だけは経験がなかったようで、最初はティロと一緒に何度も池の水を飲んで引き上げられた。
上級生が「伝統だ」と笑っていたのが恨めしかったが、そうやって泳ぎを覚えた次の年からはティロもシャスタも上級生に混じって新人を突き落としていた。ティロは「伝統とは立場の強い者が楽しい催しが残るもの」としみじみ感じていた。
***
日も暮れて訓練が終わり、就寝前の休憩が終わると後は眠るだけだった。蚕棚の子供たちは我先にと良い場所を求めてベッドに殺到する。人気が高いのは下段で、上段に行くほど狭苦しさが増すために子供たちの中では部屋に入るところから争いが始まっていた。
「おーい、こっちだ!」
ティロの寝床はいつもシャスタが取っていた。下段は人気があったが、ティロが予備隊に馴染むにつれて夜中に徘徊することが周知されてなるべく下段を開けてもらえるようになった。そして夜中に必ず起きるティロと一緒に寝たがる者も少なく、大体はシャスタがくっついて来た。
「いつも場所取り悪いな」
「別に、俺はどこでもいいんだけどさ」
それぞれの眠る場所が決まると、子供たちは朝まで死んだように眠る。全員が寝入った後、ティロが寝付けるのは半々くらいの割合だった。起きているときは朝までじっとしているのは嫌だったので頃合いを見て抜け出すのだが、その日は子供たちの就寝後に寝室に入ってくる者があった。
(教官かな……?)
ティロが息を潜めて様子を見ていると、ランプを片手に誰かを探しているようだった。目当ての者を見つけた教官は、すっかり眠り込んでいる予備生を起こした。
「38番、起きて今から着いてきなさい」
起こされた予備生は白い顔をして教官に連れられていった。次の日の朝、彼がいなくなっていることがわかると予備生たちは残念に思う反面、「明日は我が身」と身体を固くしていた。そして誰かがいなくなることも含めて全てが「日常」であると皆が思い込んでいた。




