野良犬
ただ命だけ残った「彼」はひとりで街中を彷徨っていた。
あれからどれだけの時間が経ったのか、詳しくはわからない。どこにいるのかもよくわかっていなかった。ただ長い間人の目を逃れて、隠れるように暮らしていた。相変わらず人と接するのは怖かったし、大人に捕まれば殺されるかもしれないという思いが強かった。
物陰から人通りを眺めると、様々な人が歩いていた。大人に子供、男に女、老人や病人、そして隙だらけの獲物である。ぼんやりと歩いている、鞄のふたが空いている人。それは老若男女問わず存在したが、できれば気づかれたり抵抗されたりする恐れの少ない老人を狙うのが定番だった。
(あの人とかどうかな、ジェイド)
(その辺りならいけるかもな)
「よし、あいつに決めた」
さりげなく目星をつけた通行人に並ぶと、荷物の中に手を入れて財布らしきものを掴みあげて何食わぬ顔で遠ざかる。人目につかないところまで来てから財布を確認し、中身を抜き取って残りはごみ捨て場に放り投げる。
「なんだ、これだけかよ」
(随分しけてんな)
(まあ、ないよりマシでしょ)
エディアを出てから、相変わらず頭の中の「友達」だけが話し相手だった。最初は1人だった気がしたが、気がつけば「友達」は2人になっていた。いつもよく話しかけてきてくれる優しい方と、たまに同調してくれる楽しい方と認識していた。名前でもつければもっと孤独が癒やせると思ったが、やはり彼らに名前をつけることはできず、どうしても呼び分けたいときはそれぞれ「1」と「2」と呼んでいた。そんな扱いでも彼らは怒らず、「1」と「2」を受け入れてよく話しかけてきてくれた。
どうしようもなく落ち込んだときには「1」が話しかけて気を反らしてくれるし、死にたいと願ったときは「2」が現れて一緒に昔を思い出して慰め合った。同時にそれがひどく虚しいことであるとわかっていたが、この世に存在することを認められていない自分が縋れるのはこんなものであると諦めていた。
何度か大人に話しかけられたこともあったが、相手が何を言っているのかもよくわからなかったし、どうしても喉が塞がったように声が出なかった。手を差し伸べられたこともあったが、その度に穴に埋められた時の恐怖が蘇ってきて息が出来なくなり、再び埋められていくような気分になる。そんなときは身を翻して逃げていた。次第にこちらに気がついているような大人の姿を見かけるとなるべく身を隠して、見つからないよう警戒した。
本当は誰かに助けを求めるべきだということはわかっていたが、いざとなると声は出ないし足がすくむほど怖くてたまらない。それにもし素性がわかってしまえば、最悪リィア軍に引き渡されて何をされるかわからない。この辺りにもリィア軍の制服を着た警備隊員がうろうろしているため、どこでも気を抜くことはできなかった。
「おい、お前何やってんだよ」
不意に呼び止められて振り返ると、同じ歳くらいの少年たちが4人立っていた。
「何って、何も」
「嘘つけ、俺たちは見てたぞ。このこそ泥が」
何故か子供相手には声が出せた。力でどうにかなりそうな相手には恐怖を感じないからかもしれない。
「何だ、やんのか?」
彼らは財布の中身が目当てのようだった。
「お前ひとりで何ができる?」
人数差から優位を確信している少年たちを一人ずつ確認する。主犯格と思われる少年がナイフ、その他がそれぞれ棒を持っていた。
「そんな物騒なもの持つなよ、ろくに扱えもしないのに」
少年たちは露骨な挑発にあっさりと乗り、棒を持った少年たちが二人襲いかかってきた。
(なるほど、先発隊ってわけか。でもその方が好都合だ)
少年たちの棒を躱し、振り下ろされる棒を一本掴んだ。
「何しやがる!?」
「こいつはな、こう使うんだよ」
怯んだ少年を一瞥して棒を捻ると、捻りあげられた少年はあっさりと棒を放した。すかさず棒を掴み直すと、襲いかかってきた二人の少年の背中に回り込んで一気に叩きのめす。
「な、何が起こったんだ?」
少年たちに逃げる間も与えず、間合いを詰めてもう二人の胴に棒を叩き込んだ。少年たちは何が起こっているかわからない間に全員地面に転がされていた。
「な、何だお前……」
「さあな。自分でもよくわかってなくてさ」
呆然とする少年たちを物色し、金目の物と着れそうな服を奪ってその場を後にしようとした。
「おっと、こいつも貰っていくぜ」
主犯格の手に握られていたナイフを拾い上げると、先ほどまでそれを握っていた手を思い切り踏みつけた。短いうめき声のようなものが聞こえた気がしたが、移動の邪魔になるだけの棒を捨てると構わずその場から去った。
(向こうから飛び込んできてくれるとは幸運だね)
(大して強くもないのにあんなに偉そうにしてな)
「強くないから強そうに見せてるんだろう、本当に強い奴はあんなことしない」
(じゃあ君はどうなの?)
「俺か……俺は、多分もう強くないし、一生強くなれない」
(さっきあんなに一瞬で倒せたのに?)
「あんなの強さじゃない、弱い者いじめだ。卑怯者のやることだ」
(じゃあお前は卑怯者なのか?)
「……そうかもな。こんなところで逃げ回って、ずっとずっと逃げて、どこまで逃げればいいのかわからないけど、もう正々堂々なんて生きられないんだ。卑怯者の鼠以下の存在だよ」
(自分で言ってて悲しくならない?)
「何だよ、お前らが言わせてんじゃねえか。俺だってきっと悲しいんだよ。だけどもう悲しいとか悔しいとかよくわかんなくなってきたんだ。何でだろうな、そんなこと考える前に逃げなきゃとか、明日どうやって食べていこうとか、どうやって眠ろうとか、そんなことばっかりじゃないか。大体今日で三日目だ。そろそろどこかで気絶しないとまずい」
姉を殺されたあの日から、まともに眠れた日がなかった。悪夢を恐れて必死で眠らないようにしていたせいか、すっかり体が「眠り」というものを忘れてしまったようだった。最初のうちは眠れないということに焦って夜が来るのが怖かったが、慣れてしまえば「疲れて動けなくなるのを待つ」という動物以下のような生活が当たり前になってきた。
その気絶も場所を選んで行わなければならない。身を隠せるような狭い場所や箱の中などは近寄るだけでも再び土に包まれる感覚が蘇り、変な汗が噴き出して震えが止まらなくなる。特に箱の中などは蓋を閉められたらということを考えただけでも気分が悪くなる。そして、たとえうまく「気絶」できたとしても、大体はひどい悪夢がついてくるので本当の意味での休息にはならない。この頃は「気絶」は体を動かすための最低限の休憩と割り切っていた。
「とりあえず、違う街に行くとするか」
先ほど倒した少年たちが何らかの上部組織と繋がっていて、その報復の手が伸びるおそれがあった。この街に留まる理由は何もない。
(次はどんなところだろうね)
(どうせ大して代わり映えがないって)
「餌があれば何でもいいよ」
もはや生きる意味も理由も何もなかった。全てを失って、ただ死んでいないだけの人間に価値などあるわけもない。ただ食べて、移動して、つかの間に休んでを繰り返していた。




