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療養所

 穴から這い出して街道まで歩いてきたことはなんとなく覚えていた。全身の痛みで目を覚ますと、真っ暗な中で横たわっていることに気づいた。


(えっと……ここは、僕は……姉さんは!?)


 起き上がろうと体に力を入れたが、鋭い痛みと酷い倦怠感でほとんど体を動かすことができなかった。意識が戻るにつれて痛みが体中を駆け巡り、悪夢のような記憶が次々と蘇ってくる。


(姉さん、姉さん、姉さん……どうして、どこに行ったの、姉さん……嘘だろ? 姉さんも隣にいるよね、姉さん……)


 姉の姿を探すが、どこにもいる気配がない。それどころか周囲に誰かがいる気配もない。


(姉さん、どこにいるの? 姉さんも助けてもらったでしょう?)


 声を出そうとするが、喉がつかえたように上手く言葉が出てこない。頭がぼんやりして、猛烈な吐き気に襲われる。折られた左腕が痛い。蹴られた脇腹が痛い。殴られた頬が痛い。そして全身が怠い。発熱しているのかもしれない。


(水、水が欲しいよ……姉さん……どこにいるの?)


 必死で辺りの様子を探ると、ここは療養所のようだった。周囲の様子は暗くてよく見えなかったが、消毒液の鼻を突く匂いと人々のすすり泣く声や呻き声、そして自分も手当されているような感じからそう判断することが出来た。時刻は真夜中なのか、看病に回っている人の姿も見られない。そしてどこを伺っても姉の姿はなかった。


(あれからどのくらい経ってるんだろう? さっきのは夢じゃなかったんだよな、こんなに痛いんだもの。痛くて痛くてたまらないよ)


 苦痛に耐えかねて涙が溢れてきた。体の痛みの他に、今起きている事態を頭の中で整理して把握していくたびに胸が潰れるようにひどく痛んだ。


(誰でもいいよ……誰か、助けて……痛いよ、苦しいよ、喉が渇いて苦しいんだ……助けてよ……姉さん、父さん……)


(ごめんなさい……僕が悪い子だから、きっと罰が当たったんだ……ごめんなさい……きっと今度はいい子になるから……姉さんを助けてください……)


 最後に覚えている姉の姿は、息をしていない人形のような姿だった。姉が死んだということを受け止められないで、未だに姉はあの穴の中で助けを待っているのだということにしたかった。そして、自分も生き埋めにされて殺された身であることを受け入れたくなかった。


(助けて……苦しくて苦しくて……わけがわからないよ……)


 暗闇の中でもがいていると、急に目の前が明るくなった。


「気がついたの? もう大丈夫よ、怖いことはないからね」


 白い服を着た女性がランプを持っていた。地獄の底で救いの糸を掴んだ思いがした。ありったけの力を振り絞って救いを求める。


「みず……」


 大きく叫んだはずの声はひどく掠れたものだった。


「水が欲しいの? まだ随分熱があるわね、待ってて頂戴」


 女性はその場を離れると、少しして水差しとコップを持って帰ってきた。女性の助けを借りて身を起こし、コップに一杯の水をもらった。熱く煮えたぎった頭に冷たい水をかけてもらったような気分になり、幾分かの混乱は収まった。それでも全身の痛みは収まらず、相変わらず苦痛は続いた。


「気分はどう?」

「う……うぅ……」


 言いたいことはたくさんあったが、どうしても声にならなかった。低い呻き声のようなものしか出せず、焦る気持ちが湧いてきた。


「痛いところはある?」


 女性の言葉に首を縦に振った。その拍子に涙が零れた。


「そうね、いくつも骨が折れてるみたいだから……待っていて、薬を持ってきてあげる」


 再度横たえられると、女性はどこかへ消えた。戻ってきた手には注射器が握られていた。


「痛み止めの薬よ。これで少し楽になるはず」


 女性はさっさと注射を施すと、巡回に戻ってしまった。


(こんなんで、本当にこの痛みが……ひいていく)


 先ほどまで死に等しいと思われた苦痛がどんどんひいていき、ぼんやりと雲の上にいるような夢心地になっていった。


(すごいな……薬って、本当にすごいんだな……)


 それまで死にかけていた苦痛も、姉の安否も、全てが流れていくような感覚に身を任せた。夜の海に身体が浮いているような気分だった。ふわふわと波間に上下する感覚にただ身体を委ねると、遠くからよく聞いていた汽笛が聞こえてくるような気がしてくる。


 とにかく、何も考えたくなかった。この薬が効いている間だけでもそれに縋っていたかった。薬の効果が薄れてしばらくして冷静になった途端、ようやく自分の身体のことに気が回るようになった。


(ああそうか……骨が折れたから熱を出しているんだ……いくつも折れているって言っていたっけ……どうなっているんだろう、僕の身体……)


 痛むだけで全く動かない左腕の他に、何度も蹴られて殴られた部分のどこかも骨が折れているらしい。


(右腕はとりあえず動くな……左腕は……全然ダメだ。もう一生ダメかも知れない。足は何とか大丈夫。折れているのはあばらかな。ほとんど身動きができない。もし身体が治ったとして、前みたいに剣が持てるんだろうか)


 先のことを考えようとすると、再び埋められていくような気分になった。


(いいや、とにかく今は怪我を治すことだけを考えなくちゃ……これからのことなんて、考えるだけ無駄だ。もう僕に未来はないんだから)


 エディアを出るというときに「もうここには戻れない。名前も捨てて、一から人生をやり直す覚悟で行かないと」と姉が言っていたことを思い出した。


(一から人生をやり直すのか……こんな状況で、どうやって生きていけばいいんだ?)


 考えれば考えるほど頭の中が真っ白になって、また埋められていくような気分になった。


***


 朝の光が療養所内を照らしていた。そこでやっとここがどのような場所であるかを知ることが出来た。いくつものベッドが並び、重度の火傷を負った人や負傷した人々が横たわっていた。昨夜とは違う巡回の女性がやってきて「あら、気がついたの」と一言声をかけた。記憶に無かったが、この女性に世話になっていたらしい。


「あなたは運が良かったわね。運び込まれたとき、ちょうどひとつベッドが空いたところだったから」


 女性は表情ひとつ変えずに言った。この状況でそれがどういうことなのかは何となく察しがついた。


「覚えていないかしら、裸で泥だらけで、道の脇で泣いていたそうよ。朝一番で通りかかった牛乳配達の人が拾ってくれたの。一体何があったの?」


 道端で泣いていたのは覚えていなかった。何か都合が悪い余計なことを口走っていなかったかが心配になった。


「ご家族はいるかしら? お父さんかお母さんの名前は言える?」


 女性は立て続けに質問をしてくる。


「それじゃあ、自分の名前は?」


 言えなかった。言えるわけがなかった。


「……何か思い出したら言って頂戴。あなたのことを知らせないといけないから」


 女性は忙しそうにどこかへ行ってしまった。


(どうしよう……本当に、これからどうなるんだろう……)


 土の音が聞こえてきた気がして、右手を耳にあてた。まだ耳の中から土が出てきた。更に土の音が大きくなった気がした。


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