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誘惑

 ティロが髪を切ってからひと月ほど経った。それだけでそれなりに人生がうまく回っていると思えるほど、周囲の態度が変わった気がした。


 まずライラから率直に「男前になった」と素直に褒められ、上級騎士の中でも特に同じ三等の隊員たちは愛想が良くなった気がした。上官たちからは以前のように見くびられるような態度を取られることもなくなり、一般兵たちからも一段と尊重されている気がする。


 特に女性たちからの評判は絶大だった。上級騎士の宿舎で働く女性職員たちはこぞってティロを褒め、何人かは娘と結婚しないかと持ちかけるほどであった。


(髪を切っただけで人生変わるもんだなあ……)


 こんなことならもっと早く切っておけばよかったのでは、と思う一方で常に姉のことを考えている自分がとても嫌になっていた。


(ま、いいか。どうせもうすぐ俺も死ぬし)


 復讐が終わってから死ぬことに迷いはなかった。何度か自死を決意して、その度に最後まで辿り着けなかった経験からおそらく自分で命を絶つことは出来ないと考えていた。それなら自分の思うままに生きて、周囲の不幸にしたい人間を巻き込むだけ巻き込めば他者によって容易に命を絶つことが出来るのではという思いにティロは至っていた。


 そして今夜もトライト家夫人のリニアから金を巻き上げるべく、裏通りの一角で待ち合わせをしていた。婦人会の集まりという名目で家を出てきたリニアは、スカーフで顔を隠していた。しかし、いつもよりめかし込んでいるようにティロには見えた。


「あの、これ……」


 リニアが手渡してきた封筒は、回を追うごとに厚みが増していた。薬の量が増えた他に、金額には「口止め料」が多分に含まれている。封筒を受け取ったティロは中の紙幣を数え、それから懐にしまう。


「はい、確かに受け取りましたが……これだけですと、瓶がひとつ少なくなりますね」

「何よ、前回より多く入ってるのよ!?」

「ちょっと仕入れに手間取るようになってきたので……とにかく、今回はこれしか渡せません」


 ティロはリニアに興奮剤の小瓶をふたつ手渡す。もちろん仕入れ値に関する話は全てデタラメで、しかも瓶に入った興奮剤はティロによって混ぜ物がしてあった上に量も少なく、実質瓶ひとつ分しかリニアには興奮剤を渡していなかった。しかし、リニアからせしめた金額は仕入れ値の5倍ほどであった。


「まあ……それほど気を落とさずに。この世界は金ですから。金さえあれば大体何とかなりますって」


 ティロの言葉を真に受けて落ち込んでいるリニアに、ティロは甘く囁く。この女には更に絶望の底を覗いてもらわなければ、今まで生きてきた意味がないとティロは思っていた。


「大体、何でも……?」

「そうですよ、例えば」


 何かを言いかけた後、ティロは懐から煙草を取り出して火をつけた。世界がぐらりと歪んで、違う自分が現れたように感じられる。


「例えば、退屈なお姫様の世界から抜け出すとか」


 そう言って、立ち尽くすリニアの肩を抱く。突然の出来事に、リニアは身体をこわばらせた。


「あなた、いきなり何を」

「何って、だって顔に書いてあるじゃないですか。こんな世界は嫌だ、私はもっと自由に生きたい、退屈な旦那に出来の悪い子供たちのお守りなんてまっぴら御免、自分の道は自分で切り開きたい。そうでしょう? 奥様?」


 煙草で気分が大きくなっているティロにまくし立てられて、リニアの心もぐらぐらと揺れ出す。ライラから聞いたリニアの愚痴とエディア時代での見聞から、ティロはリニアの立場をある程度掴んでいた。


(つまりこの女、本当はザミテスなんかに嫁ぎたいわけじゃなかったんだ。どうせ親の見栄とか口約束とかそんなんだろう? そんで無理矢理子供を産んで、そこから先どうしたらいいかわからないんだ)


「そんな、私は……」

「だから、逃げちゃいましょうよ」


 ティロはリニアの顔を隠しているスカーフを取り去った。それだけでリニアが赤面しているのをティロは感じ、揺れるリニアの心を更に揺さぶることにした。


「こんなに美しいのに、顔を隠しているなんて勿体ないですよ」


 急に馴れ馴れしくなったティロにリニアは驚き、咄嗟にスカーフを奪い返す。


「な、な、何を……!」

「僕はただ、思ったことを思ったままに言っただけです」


 実際、世辞をなしにしてもリニアは美しいと呼べる顔立ちをしているとティロも思っていた。その顔立ちと上級騎士筆頭の妻という立場で多くの人から信頼を得ていることも知っていた。しかし、その内情は整った顔立ちから想像も出来ないほど空っぽであることもティロは確信していた。


(どうする? もう一押しするか?)


 急いでスカーフを巻き直すリニアを、ティロはじっと見つめる。


(いや、まだ少し勘違いさせている余地を残しておいた方がいい。今すぐ抱いてくれみたいな雰囲気になったら、それはそれでまずい。剣を極める者、物事は全て広く見るべしだ)


「……何か用でも?」

「いや、特には……ただ、その……」


 そう言いながら、ティロはそっと手を差し出す。リニアはそれを見て、封筒とは別に持っていた財布を取り出した。


「今日だけよ」


 リニアはティロの手に数枚の紙幣を握らせる。それも懐に入れながら、ティロはできる限りの笑顔を見せた。


「へへ、さすが奥様ですね。惚れちゃうそうです」


 スカーフの下で、リニアが動揺しているのが見て取れた。次の日時を簡単に約束すると、リニアは逃げるようにその場を立ち去った。


「さてと……随分仕上がってきたな」


 このままザミテスからリニアを奪うこともティロは考えた。それはそれで面白くなりそうだとは思ったが、これでは自分が間男になるだけで大して面白いものではないと悟った。


「やるなら、もっとあっちを勝手に勘違いさせて突っ走らせてからだな。何かあっても『僕は断ったのに』って被害者ぶれるくらい、俺は潔癖であることを強調しないと」


 まず第一に、積極的にリニアを抱く気にはなれなかった。美しいとは思うが、それ以外の感情は一切沸いてこない。それどころかキアン姓であることを見下されたのをティロは未だに根に持っていた。


「でもまあ、いいんじゃないかね。夫の部下に夢見ちゃっても」


 まるで安い恋愛小説だ、とティロは自分の計画がそれなりに上手くいっていることに満足した。それから煙草の吸い殻を投げ捨てて、その足で新しい興奮剤を買い付けに向かった。


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