猫2
言及:積怨編第3話「付属品」
薬のおかげでそれからティロは何とか生き延びていた。薬がある、薬で全てが良くなると思えば大抵のことが我慢できた。もうリィアの隊服に袖を通すのも、左手で剣を持つのも、全てはどうでもいいことだった。育ちのいい他の隊員たちと共にいても引け目も何も感じず、淡々と過ごすことができるようになっていた。
(だって全ては、どうでもいいから)
上級騎士になってから今まで悩んでいたことがちっぽけなことであったと、勤務中はむしろ清々しい気分であった。育ちのことなど全くどうでもよかった。大事なのは、剣を持てるかどうかだけであった。
それからザミテスに会う度、ティロの頭の中はすっかりエディアの廃屋へ戻るようになっていた。気力を振り絞って何事もなかったかのように振る舞い続け、その後は上級騎士の詰め所だろうがトライト家だろうが迷わず物陰に隠れて針を使うようになった。そうしないと、纏わり付く土の幻影を振り払うことができなかった。薬の効果が落ち着いて少し頭が働くようになるまで最初は時間がかかったが、慣れると数十分ほどで勤務に復帰できるようになった。また一段と作り笑いがうまくなったとティロは思っていた。
針を使い始めてから、薬が効いていないときのティロの具合は格段に悪くなっていった。それは薬のせいだとティロは思ったが、実際は限界を超えた心の悲鳴だった。幾重にも蓋をして閉じ込めていた感情が少しずつしみ出すように、身体の自由を奪っていた。頭は全く働かず、見えているのか聞こえているのかもよくわからない時が何度も訪れた。
気を抜くとまた土の中に閉じ込められそうな気がしていた。しかし、何をどう気をつければいいのかはよくわからなかった。
「おいティロ、どうした!?」
急に身体を揺さぶられ、ティロが我に返ると目の前にリストロがいた。
「あれ、どうしたんだっけ」
すると、リストロは呆れたようにため息をついた。
「どうした、じゃないよ。急に泣き出す奴があるものか」
訝しがるリストロの言葉にティロが頬を触ると、確かに涙が流れた跡があった。
「泣いてた? 僕が泣いていた?」
「大丈夫か? さっきからずっと変な方を見て涙を流していたぞ」
指摘されたことに全く身に覚えがなった。そしてやっと、今はリストロと詰所の勤務から戻ってきたところであるということを思い出した。
「……最近寝てないから、それで目が乾いたんだ。きっと」
驚くほどすらすらと、考えてもいなかった言い訳が出てきた。
「本当にそれだけか? どこか具合が悪いんじゃないか?」
「まさか。僕はこんなに元気だよ」
針を使い始めてから、酒も煙草もあまりやっていない。何なら、今も隊服の懐にいつでも使えるように針と少量の薬を隠している。これがあると、今はそれだけで安心できた。なるべく穏やかに返事をすると、リストロは疑いの目を向けながらもそれ以上追求してこなかった。
「何かあったらすぐ相談してくれよ」
「わかった、そうするよ」
一瞬、今思っていることを正直にリストロに話したらどういう顔をするのか知りたくなった。しかし、そんなことをしても何の慰めにもならないと思って、ティロは上級騎士三等の仮面を被り続けた。
***
その日、ティロは自分が何を仕出かしたのかよく覚えていなかった。ただ、あまりにもあり得ない失敗をしたらしく、ザミテスは元よりラディオ筆頭補佐も出てきて懇々と詰められることになった。
(もうどうでもいいよ。俺のことは好きに何でも言えばいいから)
「聞いているのか、ティロ!?」
ラディオからも何か言われているが、ティロは何故叱られているのかすら思い出せなかった。
(何したんだっけなあ。そうだ、真剣をしまい忘れたんだ。馬鹿だなあ、俺。いくら馬鹿になったとはいえ、やっちゃいけないことだってあるだろう。特に俺なんだから)
最近は記憶が途切れることもあった。ただでさえ粉々に打ち砕かれた自分自身がますますバラバラになったようにティロは感じていた。
(もうジェイドもいないし、ティロ・キアンだってきっとどこにもいないんだ。俺はどこに行けばいいんだろうな)
ぼんやり2人の説教を聞き流し、それから逃げるようにふらふらと河原へ向かっていった。一人きりになれる時間がどうしてもティロには必要だった。上級騎士の隊服を脱いでいる間は、少しだけ息が出来る気がしていた。
「ああ、猫2に今日は何を持っていこうかな」
唯一の理解者である猫2だけが、今のティロの拠り所であった。少し成長した猫2は、最近いつもの茂みから離れて虫などを追い回すようになっていた。
「へへ、たまにはあいつと仲良く食うか」
いつも残飯では悪かろうと、ティロは猫2用に焼いた骨付き肉と酒、煙草を購入した。元からあるだけ薬の類いを購入していたので報奨も少なくなり、針を始めた頃から懐事情は更に悪くなった。それすらも先が見えなくなっていたティロにはどうでもいいことであった。
ティロが河原に着いたとき、いつもと何か様子が違うことに気がついた。いつも茂みに隠れているはずの猫2の気配がなかった。
「おーい、猫2? どこ行ったんだ?」
ティロは茂みの中から出かけていったのかと猫2を探した。しかし、ティロがやってきたら喜んで近寄ってくるはずの猫2の気配はどこにもなかった。
「猫2? おい、猫2!?」
呼びかけに答えない猫2に、次第にティロは焦り始めた。
「どこ行ったんだよ!? お前がいないと俺は」
そこでティロの言葉は止まった。
茂みから少し離れた大きな石の上に猫2はいた。おそらく猛禽類か何かにやられたのだろうとティロは思った。上空から叩きつけられて、中身を食い荒らされた猫2はもうティロの方へ駆け寄ってくることはなかった。




