「自慢の息子」
リンク:積怨編第3話「付属品」
ティロがトライト家に通うようになって、半年が過ぎていた。相変わらずノチアの剣技の腕は上がらなかったが、それでもザミテスは何も言わずに週に一度やってくるティロをそこそこ歓迎した。
(一体俺は、何のためにここにいるんだろうな)
ティロはすっかり自分自身すらよくわからない状態になっていた。誰かに声をかけられてもすぐに気がつかなかったり、書類の字を見落としたり、酷いときは書類に何が書いてあるのかよくわからないときもあった。そんなときに限って、ザミテスは小言を言ってくる。
『ティロ。もう少し周囲のことを見た方がいいぞ、お前が思っているより世界は広いんだ』
『このくらいの仕事もできないで、昇進は望めないぞ』
『勿体ないじゃないか、せっかくのいい腕なんだからもっと有効に使わないと』
ザミテスの言うことは正しかった。傍目から見ればぼんやりして失敗を繰り返すティロの方が悪いことは明確だった。何とか失敗しないよう焦れば焦るほど、言葉がティロの頭から零れ落ちていく。必死で言葉を拾い集めているうちに、周囲はどんどん先へ行ってしまう。
次第にティロは周囲から信用を無くしていることに気がついていた。それでも、自分ではどうすることもできないくらいティロの心と身体は離ればなれになっていた。
『相手のことを一生懸命考えろ。それがお前に一番必要なことだ』
ザミテスからの正論に、ティロは黙ることしかできなかった。その後「返事をしろ」と叱られたが、既に凍り付いた心には何も響いてこなかった。
***
その日もいつものようにトライト家で不毛な稽古をし、心がぐらつくような会話をして味のわからない食事をもらって帰るところだった。
(後は挨拶だけだ。そうすれば、しばらくここに来なくていい……)
相変わらずノチアのやる気はないし、リニアは姿を現さない。レリミアを何とかあしらって、後はどこか得意そうなザミテスに挨拶をするだけだった。
「それでは、そろそろお暇させていただきます」
「おう、ティロ。今週もよく頑張ってくれたな」
ザミテスはその日、やたらと機嫌が良かった。深く考えず、ティロの頭に手を乗せて言い放った。
「しかし、お前はよくやるな。まるで自慢の息子のようだ」
それは強烈な一言だった。
激しい衝撃で身体が引き裂かれたようにティロは感じた。
「そうですか、それでは失礼します」
いつもの笑顔を貼り付けて屋敷を飛び出した。まだ午後の早い時間だというのに街の喧騒も何もかも耳に入ってこなかった。ただ笑顔のまま下を向いて、いつもの河原へ向かっていく。
人気の無い場所までやってきて、初めて涙が流れた。頬を伝う涙をそのままに、ティロは河原へ向かって歩いた。自分自身に何が起こったのか、よくわからなかった。ただ何かに自分というものが徹底的に潰されたことだけは理解できていた。
おそらく泣き叫ぶべきなのだろうとティロは考えた。しかし、笑顔は崩れることがなかった。どうすれば上手に泣くことができるのか、身体がすっかり忘れていた。
ようやくいつもの河原に到着して、しばらくティロは川の流れを眺めていた。すると、強ばった体が徐々に反応していく。手足がしびれて、まるで自分の手足のように感じられなかった。胃は中に入っている物を拒絶するように痙攣し、内容物が全部ぶちまけられた。更に全身に寒気が襲ってきて、ひどい病気にかかったような気分になった。
それもこれも、全てはあの一言が原因だった。
「どうして」
絞り出した声はかすれていた。
「どうして……こんな……こんな目に遭わなきゃいけないんだ……」
昼間のはずなのに、目の前が暗くなっていく。
「僕が何をしたって言うんだ……そりゃ、たくさん悪いことはしたけどさ……あんまりだ……僕は一体何のために生きてるんだ……」
身を守るため、生きるため、上官から命令されたため、様々な理由で人を傷つけてきた。そのせいで常々自分なんかろくな目にあわないのだと諦めていたが、ここまで追い詰められたのは初めてだった。
「何度も死にたくなって、それでも頑張ってここまで生きてきたのに……その結果がこれだなんて……」
身体の震えが止まらない。
「僕の父さんは、僕のことを犯したりしない。埋めたりもしない」
大好きだった父のことを思い出す。必死で父の面影を探るが、それすらザミテスに踏みにじられた。
「僕は、それだけの、価値がない奴なんだ……踏みにじられて、埋められる、それだけの、剣しか取り柄のない付属品だ……」
周囲が「付属品」と呼んでいるのは知っていた。それは事実であり、求められているのは剣の腕だけであり誰もティロ・キアンを必要としていないのは明白だった。
「あいつ、気がついてないよな……自分が埋めた子供だって、絶対気がついてない。あいつの中で、俺は忘れられているんだ。地面の中にすらいない。俺は、俺は……」
誰にも必要とされていないことが悔しくて仕方なかった。ザミテスが言う「自慢の息子」という言葉はひどく軽く、周囲とうまく関われないティロ・キアンを本気で見据えたものではなかった。
「俺は、どこに行けばいいんだろう……姉さんに申し訳が立たない……」
「姉さん。すごく胸が苦しいのに、誰も助けてくれないんだ」
「姉さんのところに行けば、この苦しさから逃れられるかな……」
「もう限界だ……もう何もかも、どうでもいい」
それから酷い息苦しさに襲われ、ティロは河原に倒れ込んで気絶した。相変わらず悪夢が全身を覆うように襲いかかり、すぐにティロは目を覚ました。急いで地上にいることを確認するが、未だに身体はまだ土の中へ沈んでいるようだった。
「……誰か、助けてくれよ」
そう呟いた途端に酷く情けなくなってきて、ティロは立ち上がった。
「でも誰も助けてくれないから、自分でなんとかするしかないんだ」
それからティロはふらふらと河原を後にした。どこへ行くかは決めていた。姉を埋め直した日を思い出し、どこまでも自分が空っぽになっていくのを他人事のように感じていた。




