酒蔵
リンク:積怨編第3話「祝賀会」
ザミテスから地下室へ行って酒を持ってこいと言われたティロは、それだけで全身に土が纏わり付いてくるようだった。
「え、でも、あの、僕は……」
上級騎士内ではティロの閉所恐怖症のことは共有されているはずだった。ゼノスがいたときは「死ぬほど苦手なことがあっても、他の誰かがやるから気にするな」と慰めてもらっていた。
「いくら上級騎士とはいえ、酒蔵にも入れないでこの先どうするんだ?」
ザミテスの正論に、ティロは何も言えなくなった。
(こいつは、俺が死ねばいいんだって思ってるに違いない。実際に一回殺したからな)
ティロの内心は様々な感情が渦巻いていた。しかし、騒ぎを起こしたくないティロはできるだけにこやかな顔でザミテスに告げた。
「……はい、わかりました」
自分で自分を殺す宣言をしたティロは恐る恐る酒蔵へ向かった。上司のために部下が酒を持ってくる、というのはごく自然なことだ。そう何度も自分に言い聞かせる。
(最近発作も起こしてないから、もしかしたら大丈夫になっているかも)
ティロ自身も閉所恐怖症をどうにかしたいと思っていた。これさえ克服できれば再度特務へ戻る道もあるかもしれないという言い訳じみた希望を胸に、酒蔵の前までやってくる。
(あとは、階段を降りるだけだ)
地下の酒蔵の前の階段で、ティロはぴったりと足を止めた。向こうは暗い土の底ではなく、明かりのあるただの地下室だった。それでも、ティロの身体は一向に前に進まない。
(大丈夫、もう埋められたり殺されたりしないから)
自分で自分に言い聞かせるが、土が纏わり付く感覚がぞわぞわと這い上がってくる。
(大丈夫、もう俺は自分の剣を持っているんだ!)
何度も深呼吸をして階段を降りようとするが、その度にぐらぐらと何かで頭を殴られるような感覚に囚われ、身動きが出来なくなる。
(お願いだ、動いてくれよ……)
ただ階段を降りるだけのことが出来なくて、ティロはその場に数十分立ち尽くした。何度も大きく息を吸って地下へ飛び込もうとしたが、その度に顔面に落ちてきた土の感覚が蘇って前へ進むことが出来ない。
「どうかなされましたか?」
不意に声をかけられて、ティロは飛び上がるほど驚いた。トライト家の使用人と思われる男が不思議そうな顔をして立っていた。
「あ、え、あの……」
ティロは言葉を失った。この状況をどう説明すればいいのかさっぱりわからなくなっていた。
「なんでもないです」
そう手短に告げると、ティロは一目散に屋敷から外に出た。一刻も早く外に出たくてたまらなかった。
(どこか人のいないところどこか人のいないところ)
招待客たちはそれぞれ談笑していて、ティロを気にかけるものはいなかった。ティロは辺りを見回すと、庭園のはずれの植え込みの中に逃げ込んだ。暗がりで誰も気にとめないような場所で、ようやくティロはひとりになることができた。
取り繕う必要がなくなって、ようやくティロの身体に本来の感情が行き渡る。急に襲ってきた寒気と吐き気に抗えず、その場に倒れ込んで胃の中身を全部戻す。それでも震えは一向に収まらず、身体を抱えてティロは植え込みの中で小さくなった。
「なんでダメなんだろう……」
地下室の恐怖から逃れられた安堵と、やはり地下に入れなかった情けなさが同時に襲ってきた。両の目から零れる涙は何の涙なのかティロにはよくわからなくなっていた。
(ああ、前にもこんなことしたな……あの時は、確か死にそうになるまでこうやっていたんだった)
植え込みの下に隠れながら、路上生活時代に雨に降り込められた時のことをティロは思い出す。その時のように怪我をしているわけでも特段空腹というわけでもなかったが、華やかな祝典の裏でひとり身体を縮めていることが今度は惨めで仕方がなかった。
(俺だってな、大好きだったんだよ。大好きなみんなと一緒に楽しく過ごすのはさ。俺は大抵姉さんと一緒だった。でも姉さんは、姉さんは)
長くザミテスと一緒にいたためか、埋められた時の記憶が鮮明に浮かび上がってきた。
『お願いですから、弟の命だけは助けてください!』
姉の叫びが頭の中で鳴り響く。
(姉さん……僕も姉さんに会いたいよ。もう嫌だよ、ずっとひとりで、こんなことしているのはさ。でも、もうどうしたらいいのかわからないんだ。やっぱり死ねばいいのかなあ、こんな生きていても仕方ないクズは)
このまま植え込みの下で消えてしまいたいと願った。
(誰とも仲良くなれない、幸せそうな人を見ていると殺したくなる、みんな死ねばいいのに。みんなみんな俺のところまで落ちてくればいいのに)
招待客の笑い声が聞こえてきた。それがティロの心をより一層惨めにさせていく。
(ああ、もう身体が動かないや。もうどうなってもいいや。だって一度死んでるんだから)
そのまま時が流れた。少しだけティロは誰かが探しに来てくれることを期待したが、姿を消した上級騎士が植え込みの下に倒れていることなど誰も想像していなかった。楽しそうな音楽が聞こえ、何らかの催しがあったのか大きな拍手も聞こえてくる。その度にティロの呼吸は乱れ、胸が潰れるほど痛んだ。
それからティロが植え込みの下で倒れていることなどお構いなしに、祝典はお開きになった。招待客が別れの挨拶をしているのがティロの倒れているところまで聞こえてきた。
(ああ、どうしようかな……ずっとここにいるわけにも行かないだろうし、いつかは出て行かなきゃいけないんだよな……)
他人の家の敷地の中にいることをティロは思い出す。しかし招待客たちが帰ったところで今更出て行くのは気が引けた。すっかり片付けも終わり、夜が更けるまでティロは植え込みの下にいた。ようやくティロが植え込みの下から這い出ると、月が高いところに昇っていた。
「はぁ……」
そっと屋敷の入り口まで行くが、当然のように門は施錠されていた。ティロは門を飛び越え、寝静まった通りを河原目掛けて歩き始めた。
「猫2、腹減ってるだろうな……」
猫2への手土産に、その辺のごみ捨て場から何か食べられそうなものがないかティロは探した。後ろにナイフを持った少年がいる気がしたけれど、今は猫2のために仕方なくやっていることだとティロは少年を頑なに見なかったことにした。




