新しい日常
リンク:積怨編第3話「祝賀会」
言及:積怨編第1話「不信感」
ティロが週末トライト家に通わされるようになって、数か月が過ぎた。週末ごとにザミテスやその家族と顔を合わせなければならなくなったことで、ティロに大きな変化があった。
まず、作り笑顔が以前より上手になった。特に何か嫌だと思ったときには反射的に笑顔が浮かぶようになった。そうすると「嫌だ」という気持ちが一瞬でも消せた。その代わり、飲み込んだ気持ちは後で増幅して心身に影響を及ぼした。不眠は以前からであったが、頻繁な吐き気や急に震えが止まらなくなるほど恐ろしい記憶が蘇ってくるなど明らかな身体の異常が出始めた。しかし、そんな状況でも誰かに相談するわけにはいかなかった。
そうすると、どうしても薬に頼らざるを得なくなる。ゼノスのいた頃にはなるべく手を出さないようにしていた痛み止めも、再び使用するようになってしまった。それでも痛み止めの中毒者をよく見ていたため、頻繁に針を使用して注射するほどの運用は避けたいと思っていた。
「なあ、猫2。俺はどうしようもないダメ人間だ」
夜中に粉状の痛み止めを河原で服用して、ティロは猫2を撫でていた。この時だけが「哀れなティロ・キアン」から逃れられる時間であった。
「ゼノス隊長のいた頃はなるべく真人間に戻ろうって、痛み止めは止めようって思っていたんだ。本当だぞ? 眠剤は絶対必要だし、煙草くらいならまあ、みんなやってるからいいかなって思ってたんだ。でも痛み止めをやってる奴はいないからな。特に上級騎士なんかで」
猫2はティロの話に興味はなさそうだった。
「でも無理なんだよ、本当に無理だ。痛み止めってのは怪我や病気の時に使うものだからって言うけどさ、俺だって十分病気みたいなものだ。だから使わないとやっていられない。足が悪い奴が杖を使うように、俺には薬が必要なんだ。わかるか?」
猫2はにゃあと返事をする。
「そうだろう、わかるだろう。俺だって本当はこんなのダメだってわかってるんだけどな、仕方ないんだ。使わないと、俺は死んでしまう。死ぬってどんな気持ちか、お前は知ってるよな。あんなに惨めで嫌な気持ちはない。あの気持ちにならないためなら、俺は薬くらいいくらでも使っていいと思うんだ」
ティロの口からは次々と愚痴が漏れる。猫2にでも吐き出さないとやっていられなかった。
「でも、もし死んだら確実に姉さんに会えるっていうなら、俺は喜んで死ぬけどな。俺の姉さんはな、最高の女だった。お前にも会わせてやりたかったぜ」
それからティロは如何に自分の姉が素晴らしかったかを猫2に延々と語り続けた。猫2はまた興味がなさそうに欠伸をした。
***
猫2を箱にしまってティロが朝早く宿舎へ戻ると、リストロが部屋にいた。
「こんな時間までどこに何をしに行っていたんだ?」
「別に、ちょっとそこまでだよ」
ティロはますますリストロの存在が鬱陶しくて仕方なくなった。リストロは相変わらずティロを気にかけていたが、ゼノスがいなくなってからティロの扱いが更にわからなくなっていた。
「しかし、どこに行っているのかくらい教えてくれたっていいだろう」
ティロはリストロの質問にすぐ答えることができなかった。しかし、彼に返したい言葉は胸の中からどんどん湧き上がってくる。
何も知らないくせに偉そうに。
お前に言っても無駄だよ。
どうせ何もしてくれないだろう。
そんなに心配するなら、こっち側に降りてこいよ。
「気が向いたら、そのうち」
これ以上リストロの顔を見ていたくなかった。ティロはさっさと着替えると自室から飛び出していった。
後に残されたリストロはため息をつく。
「……どうすればいいんだ」
ゼノスがいなくなって、リストロが見る限りティロは落ち着いているように見えた。以前に比べて卑屈さが消えて呼びかけにも穏やかに応えるようになったが、その分心理的に大きな隔たりを感じるようになった。
リストロは彼なりにティロを理解しようとしたが、どうしても理解できない点のほうが多かった。特に理解できなかったのは、私物の少なさだった。ティロは徹底して物を持たず、棚にあるのは未だに支給品の着替えと睡眠薬の買い置きだけであった。
以前、リストロはザミテスに「ティロがどこへ行くか調べておくように」と命じられたことがあった。本人に直接尋ねてもはぐらかされ、思いあまって尾行したこともあったが予備隊出身のティロに気付かれたのか、すぐに姿を見失ってしまった。それから何度も彼の行方を調べようとしたが、全て徒労に終わった。
「自分ひとりで生きてるって顔して……本当にそう思っているんだろうか」
リストロもティロからの態度に居心地の悪さを感じていた。しかし、どうすればいいのかリストロにも良い案は一切思いつかなかった。
***
ティロのトライト家通いは続いていた。毎週ザミテスがいるわけではなかったが、ティロの勤務予定にノチアの稽古が強制的にねじ込まれているためにトライト家に行かないという選択肢はなかった。
いくら心を殺していると言っても、嫌なものに変わりはなかった。ティロはできるだけ何も考えずにノチアに稽古をつけた。
「ほら、構えをひとつ変えるだけでここまで動きが素早く出来ます」
ノチアの構えから余分な力が抜けるよう訓練すると、彼の剣筋は格段にキレが上がった。無意味と思われた稽古の成果が出たことで、ノチアは目を丸くする。
「本当だ……一体なんなんだ、あんたは」
「僕ですか? 僕は……」
(なんなんだって、俺は、俺は……)
何気なくノチアに尋ねられ、ティロはいろんなものがこみ上げてきた。本当の名前、いたはずの家族、守れなかった人たち、死んだはずの少年、悲しみにくれる母親、隠れて暮らした日々、再び生きようと思ったあの日、そして何度も裏切られて踏みにじられて、薄笑いを浮かべながら身体を操っているだけの人形。
「ただ剣技が好きなだけです」
それだけは間違いなかった。自分に残っているのは剣技だけだとティロは確信していた。剣を持てなくなったとき、自分の存在意義は本当に消えてしまうと思うと恐ろしかった。上級騎士としての居場所もなかったが、リィア軍を去って剣を持たない生活をするというのもティロの中で死に等しい行為であった。
トライト家を後にすると、ティロは必ず河原に向かった。そして猫2を抱きながら様々な話をした。現在の不遇に加えて、過去の裏切り行為についてやコール村での出来事を話して聞かせた。話をしていると少しだけ気が紛れた。そうしてから様々な薬で自分を誤魔化し続けた。他にどうすればいいのか、ティロには考える余裕もなくなっていた。




