第六話
九月。始業式が終わり、席替えがあった。偶然か、自分は前回と同じ位置だった。
「よぅ、今度はご近所さんだな」
佐伯は今回、俺の前の席になった。近くにいるのが気安く話せる人物なのは悪くない。
「後ろから低音ヴォイスで囁くなよー」
そんな軽口まで言ってくる。
「五月蠅いな、囁きゃしないよ。これは地声だ」
久しぶりのからかいに嘆息する。声変わりして以来、かなり低い声質になってしまった。言及されない限りは普段気にしていないが、いささか低いので初対面の人などには時々指摘される面倒な声質だった。
「今回の席替えで、変わらずそこを引き当てるとは。アタリを引いたな飯野」
もう一人、佐伯の脇に立っている眼鏡を掛けた園田和人が口を開いた。
「アタリっていうのかな、ここ」
一等賞二等賞でもあるまいし。むしろ窓際族だぞ。
「窓際後ろって、良い位置じゃん。抜群の睡眠スペース。暖かいし、エアコンも効くし」
快眠効果が利点のようだった。
「明るくて寝られなさそうだけど」
「明るさは勝手に落ちるから関係ないさー。瞼が遮光する」
ケラケラと笑う園田。
「分かる。この二学期は睡眠学習をせよという流れなんだ」
佐伯もそういうつもりらしい。
「睡眠学習って日中の話じゃないよね」
「そりゃそうだ。一日中の話だ」
一日中学習するということらしい。
「なら成績も上がりそうだな。でも俺、一学期ここだったが何も変らなかったぞ」
「そりゃ寝ないのが悪い」
「悪いのか」
夏休みが明け、久し振りに顔を合わせた同級生と軽口を叩いていた。今日は初日であり大した授業もない。提出物をまとめたり、連絡事項を確認したりして昼過ぎには終了。あとは駄弁って帰るだけだった。
「じゃあ帰るな。お先にー」
すでに鞄を携えていた園田が離れていった。
「さてと、腹も減ったし、俺ももう帰るかな」
佐伯もすっかり帰宅モードになっていた。
特にすることもないし、自分も退散しよう。
「二学期よろしくね、飯野くん」
そう思って腰を浮かすと、おもむろにお隣さんが声をかけてきた。
「ああ、忘れ物でもしたら助けてくれ」
今回の席替えで、隣の席が西脇だった。
夏休みの間かなり顔を見たのですっかり慣れてしまったが、久々の制服姿を間近で見ると、改めて美人さんなんだなぁと思えた。花火の日以来、彼女は頻繁にリップクリームを着けるようになったようだった。また、髪が少し伸びたのか、房のように編み込みを作って頭を彩るようになっていた。
「すぐに気づけば取りに帰れるじゃない」
「朝早く来てればな。西脇さんの時間ならそれも出来るだろうけど、走って行き来は面倒だ」
「九月も朝はまだ十分に暑いものね」
「ああ。シャワーを浴びないといけなくなる」
「すっきりするんじゃない?」
「洗濯物が増えて手間だよ……ん?」
ふと視線を感じて前を見ると、ぽかんと口を半開きにした佐伯の顔があった。視線で疑問を投げかけると首を振り、肩を竦めて前を向いて鞄をゴソゴソしだしたので興味を外す。
その間に彼女にも他の女子達が集まって話をしだしたので、手持ち無沙汰になった俺は改めて帰宅準備をした。
椅子を直してもお隣さんはまだ夏休み明けの会話の中に包まれていたので鞄を掴んで女性陣の脇を通って教室を後にする。ドアを通り過ぎる頃に、
『純ちゃん、なんか可愛くなった~?』
そんな声が聞こえた気がした。
*****
二学期に入って勉強会の頻度はぐっと減ったが、折をみては続けていた。数学の範囲としては、夏休みの間にむしろ予習するまで進んだので、どうやら授業そのもので困ることはあまりないらしく、ここのところ授業内容での質問は激減していた。
「なんだか次の中間テストは今までよりも自信が持てるわ」
向かいに座る西脇が、ポットから息抜きのお茶を継ぎながらそんなことを口にした。
「夏休み頑張ったからな」
実際頑張ったと思う。テストを一つずつ振り返り、それに類する問題を解き、こちらの解説をしっかりと聞く。自宅で本棚の肥やしになっていたらしい問題集も持ってきて、少しずつ手を付けるようになっていた。ただ、時々眼前で『シン・数学』を解いていると、その問題を見ては溜息をついていた。
「前回ちょっと心配な結果になっちゃったから、今回は気合を入れないとね」
彼女は文系志望である。そのためそれほど数学に力を入れなくてもいいとは言えるのだが、一人暮らしの条件的に蔑ろには出来ないとのことだった。
こっちは当然、バリバリの理系志望である。
かといって現代国語を捨てていいわけではないので、今の個人授業のような環境は自分にとっても渡りに船だった。
「さて、俺の方はどうかなぁ」
あれから多数の持ち込み本を読んで今に至る。何となく内容的に、すれ違いの群像劇が多かったような気がする。すれ違いラブコメなんてベタなお約束ものもかなりの割合で含まれていた。
うん、きっと彼女の趣味なんだろう。これまでそういった類の本は手に取らなかったので、新鮮ではあった。
それらを読破してきた効果があるのかどうかは、まだはっきりしない。
「それはテストを受けてのお楽しみだね」
「テストは楽しみじゃないなぁ」
席を立ち、台所の棚を開ける。引き出しの一番手前には、秘蔵の煎餅が鎮座していた。
「……」
あまり内容量が多くないので大事に少しずつ消費するようにしているのだが、
「……」
今回は一緒に食べてみよう。
改めて緑茶の準備をしていると、なかなか台所から帰ってこない様子を覗かれていた。彼女は置かれている煎餅を見つけるとちょっと顔を綻ばせて戻っていった。
しばらくして熱い渋めのお茶ができたので、煎餅とともにお盆に乗せて持っていく。
「ついにお披露目ね」
何やらにやにやとしながら煎餅とこちらを見比べる西脇。
「別に勿体ぶってなんかないぞ。その、なんだ。こうするようになったきっかけのようなモノだし、今度その結果を試すことになるし」
何となく良い機会だと思って持ち出しただけだ。
「なるほどね。それじゃ一ついただきます」
個別包装の煎餅を手に取って齧りついた。
「なるほどーなるほどー」
お気に召したのかいつもより砕けた感じの言葉を零していた。
それとなくワザとらしく湯呑も進めると、ありがと、と言って口をつけた。
「なるほどーなるほどー」
「繰り返してるだけじゃないか」
引き出しが乏しいわけでもあるまいし。
「ふふ。いえいえ、堪能しましたよ。飯野くんオススメの通り、美味しいね」
言いつつ二枚目に手を伸ばす西脇。残りはあと三枚。
「もしかしてこのお煎餅が美味しくなるようにお茶も練習したんじゃない?」
「何故わかる」
「だっていささか渋いもの。でもこのお煎餅とのペアなら、納得。
やっと待望のお煎餅を堪能できたなぁ」
「主役はあとから出てくるものだからな」
「あと過ぎるよ。もう一ヶ月以上だよ」
くすくすと笑う。そして三枚目に手を付ける。
まぁ、いいか。
「今度買ってみると良いよ。やめられなくなっても保証はしないけどな」
買うためには長距離移動するので、プラマイゼロかもしれないが。
「それは怖いから飯野くんちでいただきます」
うちの在庫がなくなるじゃないか。
……。まぁ、あんなに美味しそうに食べてくれるなら、いいか。
*****
二学期も一ヶ月少々経過し、中間テストを迎えた。手応えとしては夏からの効果があったのかどうか、普段よりは迷いながら選択肢や記述を記入できたような気がする。
基本的に文面通りの文字から想定することを求めていたが、求められていることはそれではない、というところを念頭に置くようにしてみた。それは彼女が持ってきた本の人物達の悲喜こもごもから学んだことだった。
要するに、人の言動は、その通りの意味ではないということを意識するようにしたのである。
そうなると直感的な文言からは、似ていつつも敢えて外す内容を探したり、彼女の言葉の通り、想像による内容を記述したりすることになった。結果として、以前よりも時間をかけて、迷いながら記入することになったわけである。
数学については言わずもがな、他の科目もおよそいつも通りの感触だったので、見込み通りなら国語が他教科に追いついてきているのではないかと期待していた。
今日はそのテスト返却の日だった。
朝からそこはかとなくテスト結果への予想と期待、あるいは諦観が教室中に広がっていた。彼女はと言えば、今回の数学はここしばらくなかった感触だったとの事だった。
一日の終わり、終業前に、果たして結果は開示された。
「……。……。……」
「あ、やった」
隣で小さく歓声が聞こえる。
「……ふーむ」
それにしてもこれは。
プリントを伸ばしても縮めても近づけても離しても、見た目が変わるわけもなく。
何の変哲もない、いつも通りの結果が記されていた。
はて、どうして変わらないのだろう。我ながらアプローチは悪くなかったと思うのだが。西脇は確かに協力してくれたし、無駄な時間だったということはないはず。
となると、あくまで自分の実力不足か。
唸るばかりの俺を見て何か言うのを憚られたのか、喜色満面でくるりとこちらを振り向いたものの、西脇は何も言わずに鞄にそれを仕舞いこんだ。そして、
「また、あとでね」
と小さく呟いて教室をあとにした。
いつもより少し速足なそれを流し見ながら、改めて紙面に戻る。
物語の設問が、今回もまるでダメだった。特に今回は大きな二題が小説からの出題だったこともあり、全体の比率が大きかった。当然、点数は下がったのである。
点が取れないのは、まだいい。
彼女にも協力してもらって、それでもなお、同様に取れないという不甲斐ない結果がいささかショックだった。
「うわー、ショックだわー」
そんな気持ちを代弁するかのように前の席の佐伯が声をかけてきた。
「……、なんだ、佐伯もよくなかったのか」
「違うよ。ていうかお前めっちゃ声低いよ」
違うのか。そしてそれは地声だ。
「それなら何が」
すると、ショックという割には随分とニンマリとした顔を浮かべて、
「お前、西脇と付き合ってんのか」
と言われた。
「はぁ?」
あまりに見当違いな単語が耳に飛び込んできたので思わず間抜けな返事をしてしまった。
「どこをどう考えたらそうなるんだよ」
いささか呆れながら理由を聞く。ただテスト結果が返ってきて、彼女は帰って、俺は眉間に皺を寄せていた。それだけだと思うのだが。佐伯の目にはそれが付き合っていると見えるのだろうか。
「夏休み明けから妙に仲が良いし、さっきも『またあとで』って、普段一緒にいるってことじゃん」
「……なるほど。確かに話すことは増えたな。だが付き合ってはいない」
「へぇ、ほんとかー?」
「本当だ」
「ほんとかー?」
――――ああ、メンドクサイ。
「西脇さんはただの隣人だ。それ以上でも以下でもない。
じゃあな、もう帰るから」
見当違いな追及を否定するなんて徒労以外のなにものでもない。事実、付き合ってなどいないのだから、それ以外なんとも言いようがない。佐伯のニヤニヤが消えないのは気に食わないが、相手にしないのが一番。さっさと帰ろう。
「そうかそうか、付き合ってないのか。なら、まだ西脇はフリーってことだなー」
背中越しにそんな台詞が聞こえてきて、何を言ってるんだこいつ、と一瞬思ったものの、そんな感覚が思い浮かぶこと自体が一体何故なのか分からず、振り向くこともなく教室から出た。