08 アレッシオ・オレンゴ
夜会で負傷したエレナ・ベルトッドを診察した医師は名をアレッシオ・オレンゴという。
平民の出で、子供のころから勉強好き。
そして、観察眼と思慮深さをも持ち合わせていた。
父親が勤めていた商会の会頭が彼を気に入り、平民の稼ぎではなかなか入れない高等学校の学費をポンと出してくれた。
恐縮至極のアレッシオと彼の父親に対し、会頭は言った。
「俺のことは気にすんな。
お前はやりたいことを真っすぐ目指せばいいんだ」
アレッシオは真摯に学び、やがて、奨学金を得て医科大学に入る。
会頭は、家族以上に喜んでくれた。
無事、医師の資格を得た彼は、奨学金の対価として、王国の命じるままに職場を転々とすることになる。
騎士団の守る前線であったり、僻地の診療所であったり。
どの職場も、どの患者も、全てが医師としての貴重な経験となる。
アレッシオは、常に学ぶことを止めなかった。
エレナが負傷した件の夜会の時、アレッシオは王都にある平民向けの病院に勤務していた。
医師資格を得てから、そろそろ十年。
奨学金の対価としての辞令は、ここで最後だ。
次は自分の行きたい場所で診療することが出来る。
王都には、彼の父親が勤める商会の本店があった。
世話になった会頭には、ちょっとした手土産を持って季節ごとに挨拶に行く。
もっとも、帰りには手土産の何倍もの土産を持たされてしまうのだが。
挨拶に行った、ある日のことだ。
会頭の部屋には後継ぎの長男がいて、何やらもめていた。
遠慮なく入れと招き入れられ話を聞いていると、夜会で飲み過ぎる会頭を長男が窘めているのだった。
「父さんも、いい歳なんだから、外での飲み過ぎには特に注意してくださいよ」
常識的かつ医学上、的確な指摘である。
「もてなされて勧められるとなあ……ついつい進むんだよなあ」
「まったくもう、次の夜会には用事があるので、私はついて行けないんですからね!
気を付けてもらわないと」
会頭は妻を亡くしており、他に適当な同伴者はいないようだ。
ふと、会頭がアレッシオを見た。
「そうだ、アレッシオに付き添いを頼もう。
それなら、お前も安心するだろう?」
言われて長男もアレッシオに視線を向ける。
「確かに。アレッシオさんならお医者様だし……
アレッシオさん、お願いできますか?」
大恩ある会頭等の頼みであれば、断りたくはない。
「お引き受けしたいですが、私などが夜会に出ても大丈夫でしょうか?」
「なに、私の付き添いなんだ。嫌な思いはさせないよ。
なんなら、嫁に良さそうな娘さんを見繕ってやろうか?」
「ははは」
医学一筋で浮いた話などないまま三十代になったアレッシオは、返す言葉が無い。
夜会の日は非番だし、衣装は会頭の長男が貸してくれるという。
夜会と言っても、ダンスなどをするのは若いご令息、ご令嬢ばかりのようだ。
大人たちは身分を超えて、人脈を広げるのに忙しい。
嫁を見繕うと言われたのも、その一環なのだろう。
まあ、旧知の会頭のことだ。
無理強いされることもないだろう。
夜会当日、会頭が主催者の貴族家夫妻に挨拶する際「主治医でして」と紹介された。
「若くないのだから、飲み過ぎには注意するよう息子にきつく言われましてね。
万一のために、主治医を伴うよう念を押されました」
はっはっは、と笑うが貴族家夫妻は大いに真に受けた。
給仕長を呼ぶと、会頭にアルコールが強いものは絶対に勧めないよう、言いつける。
挨拶を終えると、会長はウインクしてきた。
「これで、儂に張り付いていなくてもいいぞ。
美味い物を食べて、嫁を探せ」
「また、ご冗談を」
「いやいや、儂は本気だ」
確かに、商談などの関係者と話すのに、アレッシオがいては都合の悪いこともあるだろう。
「たまに様子を見に参りますので、くれぐれも無理なさらないでくださいね」
「おう、わかってるよ」
嫁はともかく、滅多に食べられないご馳走は大いに興味がある。
ビュッフェテーブルで給仕にお薦めを取り分けてもらって舌鼓を打ち、お替りをもらおうと考えていた時だった。
ふと、部屋の外の声が気になり廊下に出てみる。
そこでは警備の私兵が、主催者夫妻に報告していた。
「……若いご婦人が階段の下で倒れています」
「意識は?」
「呼んでも返事はなく」
アレッシオは直ぐに名乗り出た。
「私が診ましょう」
振り返った主催者夫妻は、彼が医者だと紹介されたのを思い出した。
「お願いいたします」
「こちらへ!」
案内されて奥まったところにある階段の下まで移動した。
確かに女性が一人、倒れていた。
呼んでみても目覚めない。
「この方が階段の一番上から突き落とされるのを目撃した、という男がいました」
「階段の一番上から?」
頭を動かさないよう手足に触れてみたが、ひどい骨折の兆候は見られない。
この高さを飛んだ、もしくは段差を転がったとなれば、もっと怪我をしていてもおかしくない。
気を失っているものの、脈の乱れはない。
「目撃者から詳しい話を訊けますか?」
「それが、大騒ぎするだけして、どこかへ行ってしまったようで」
私兵は申し訳なさそうに言った。
とりあえず、刺激を与えないよう、手近な客間に女性を運び込む。
手伝ってくれた私兵に、しばらく自分が様子を見ている、と主催者夫妻に伝えるよう頼んだ。
まだ夜会の最中で、事件か事故か定かではないが、さしあたり当事者は気を失った女性が一人。
この屋敷の主人も私兵も、無駄に騒ぎを大きくすることはなかったが、法に則り、最寄りの騎士団には連絡を入れる。
女性と二人きりで客間に残ったアレッシオは、不謹慎にも余計なことを考えてしまった。
この女性が貴族家のご令嬢であるならば、見知らぬ男と二人きりになるなど、全く望まぬことだろう。
たまに思うのだ、医師とて普通の男。
もう少し、警戒されるべきではないのか、と。
もちろん、アレッシオ・オレンゴが不埒な想いを抱いたことも、行動に及んだこともない。
そう、そんなことを考えたのは、おそらく会頭が嫁云々と言っていたせいだ。
そして、眠っている女性を、とても美しいと思ったからだ。
無事に目を覚まして欲しい。この人の笑顔が早く見たい。
そんなふうに思ったのは、たぶん初めて。
しばらくすると女性は無事に目を覚まし、エレナ・ベルトッドと名乗った。
王太子殿下の婚約者であるヴァネッサ・カルローネの侍女で、今日は先日見合いをした相手と夜会で会うよう、主人が手配してくれたのだ、と語る。
アレッシオはわずかに落胆した。
「今夜は主人の従僕が案内してくれたのですけれど、どこへ行ってしまったのかしら?」
従僕の案内で、人気のない階段の上まで行くところだったという。
「私、浮かれていたのかもしれません。
足を滑らせて階段から落ちそうになり、先を行く従僕に助けを求めて手を差し出したのですが……」
エレナは、ハッとした顔になった。
「何か、思い出されましたか?」
「従僕が……私の手を一度掴んだのです。
ですが『この辺でもいいかな』と小さく言って、下に向けて勢いをつけるように、私の手を……離しました」
事件が捏造されようとしている。
アレッシオは、そう思った。
その中心にいるのが彼女の主人であるヴァネッサ・カルローネならば、エレナの立場は非常に悪い。
一つ対応を間違えれば、せっかく助かった彼女の命が危ないかもしれない。