12 セバスティアーノ・シーゲレ
「セバスティアーノさん、助けてください!」
まだ、陽も上らない早朝のことだ。
カルローネ家の離れにある自室で、身支度を整えていたセバスティアーノ・シーゲレは急いで扉を開けた。
「どうした?」
廊下に立っていたのは、母屋を取り仕切っている家令だ。
見習いの時から、セバスティアーノが育てあげた自慢の弟子。
充分に経験も積み、いろいろなことに対処してきた彼が慌てている。
一体何があったのだろう。
セバスティアーノ・シーゲレは以前、カルローネ家の家令を務めていた。
長く勤めあげ主たちからの信頼も厚かったが、年齢を理由に家令を退いた。
しかし、その後も引退した元当主夫妻の執事として残ることを決めた。
元当主夫妻の言動は身分差別が激しく、若い者たちには扱いが難しすぎる。
体力のいる世話は若い者の力を借りるとしても、宥めたりすかしたり、間に入って場を取り持つのはベテランにしか出来ない仕事だ。
元当主の世話係ということで給料はがくんと減らされるかと思いきや、そうでもなかった。
直接、感謝されることはないが、現当主夫妻は引退後も口うるさい両親をうまく丸め込む術を持った使用人が、いかに貴重かということは理解しているようだ。
あれから数年経ち、今では離れの主たちも体力、気力が弱り、ずいぶんと扱いが楽になっている。
自分もお役御免になる日が遠くないかもしれない。
「とにかく、母屋まで来ていただけますか?」
同じ敷地内に立つ母屋はすぐそこだが、セバスティアーノは口煩い爺扱いされるのは御免だった。
若い者には若い者のやり方があり、それが新たな伝統にもなるのだろうと考えている。
ひよっ子の時に十分、いろいろと叩き込んだ者たちに今更口出しはしたくない。
だから、どうしてもという用事が無ければ、母屋へ行くのは遠慮していた。
朝は元当主のご機嫌をうかがうのがセバスティアーノの仕事だが、その時間は取れそうもない。
若い頃から共に働いて来た元家政婦長に、彼女が担当の夫人だけでなく元当主の様子も見て欲しいと頼むと母屋に向かった。
母屋はどこか慌ただしく、使用人たちが不安そうにしている。
「こちらへ」
と先導された先は、カルローネ家の令嬢、ヴァネッサの部屋だった。
居間の奥にある寝室に入ると、少し甘い香りがする。
この香りは、どこか懐かしい。
ベッドの前までたどり着くと、家令は声もかけずにカーテンを引いた。
「今朝、メイドが様子を見に来たところ、いつもは閉まっているカーテンが開いていたそうです。
それで、中を覗くとお嬢様が安らかに眠っていると最初は安心したそうなのですが……
ふと、あまりに顔色が白い気がして、口元に手を当ててみると息が無かったと」
仰向けに横たわるヴァネッサは、穏やかな顔をして眠っているようにも見える。
「お嬢様に最近、変わったところは?」
「いえ、とりたてて。
お食事も普通に召し上がっていましたし……そういえば、メイドが言っていました。
眠りが浅いようだ、と」
「そうか。他に不審な点もなさそうに見えるな。
では、騎士団に使いをやって、状況の検分と検死を頼むのがいいだろう。
そのように手配してよいか、旦那様にお伺いを」
「はい、すぐに手配を」
セバスティアーノはベッドのカーテンを閉め直すと、改めて部屋を見直した。
落ち着いた、大人の女性の部屋だ。
王太子殿下の婚約者になられて、たまに拝見するお姿は、お妃に相応しい美しさだった。
それが、どうして突然こんなことに。
だが、健康そうな若者が亡くなることもなくはない。
表には見えづらい、ご病気でもあったのだろうか。
ふと、視線が飾り棚に留まった。
ガラス扉の中には、たくさんの香水瓶。
お嬢様の小さい頃を思い出す。
空になった香水瓶を強請ったヴァネッサが
『捨てるものを欲しがるなんて、高位貴族の令嬢としてあってはなりません!』
と祖母にひどく怒られてしまった。
宝石のように美しい香水瓶だったのだ。
幼い少女が欲しがるものとしては、むしろ当たり前のもの。
しゅんとしたヴァネッサに、後でこっそり空の香水瓶を届けた。
『秘密ですよ』と念を押せば『秘密ね』と嬉しそうに微笑んだ。
棚に並ぶのは、新しい香水瓶ばかり。
さすがに、あの時の瓶は捨てられてしまっただろう。
だが、一本だけ見覚えがあるものがあった。
あの時の香水瓶ではない。
セバスティアーノは思い出した。
甘い香りと見覚えのある小瓶。
これは……
「セバスティアーノ」
「……旦那様」
「ヴァネッサが……本当か?」
「はい。残念ながら。なんと申し上げたらよいのか…」
ガウン姿で現れた当主は、自らカーテンを開けると、娘の様子を確認した。
「すまんが、しばらく母屋の方を手伝ってくれ。
お前の力が必要だ」
「畏まりました」
坊ちゃま…と言いそうになって、こんな時なのに内心苦笑した。
難しい時代の貴族家の舵取りを、貴方はよく頑張っていらっしゃる。
セバスは見守っておりますよ。
肩を落とした主人を、心の中で励ました。
やがて、騎士団が到着し、部屋の検分と直接関わった者への聞き取りが行われた。
検死には、騎士団詰所の近くで開業している医師が呼ばれた。
カルローネ家と関わりのない、公正な立場での意見が必要だからだ。
「特に持病もないようですし、外傷もまったく見られません。
不審な点もありません。
原因は特定できませんが、心臓麻痺としか言いようがないです」
「では、そのように報告書を作成します。
家令殿、ご当主とお会いできるでしょうか?」
「こちらへどうぞ」
この場での責任者である騎士が、家令に案内されて出ていく。
医師が伴った看護師は、遺体に必要な処置を施してくれた。
王宮へは使いを出したが、騎士団の報告書が回れば誰も確認には来ないだろう。
たとえ王太子殿下が来たいと思われたとしても、死は忌むべきもの。
王族の場合、慣例的には葬儀を欠席してすら非礼ではない。
主人の死のショックから、別室で休ませていた部屋付きのメイドが戻り、検分で少しばかり散らかった部屋を片付け始めた。
彼女に断り、セバスティアーノは窓を開ける。
自由になったヴァネッサの魂が、どこへでも飛び立てるように。
「お嬢様は、今でも香水瓶がお好きなのだな」
「ええ、そうでございます。
そのガラス棚だけは、絶対に触るなとおっしゃられて。
何本お持ちなのかさえ、私にはわかりません」
「少しだけ見せてもらっていいだろうか?」
「セバスティアーノ様なら、きっと、お嬢様もお許しになりましょう」
セバスティアーノは香水瓶を何本か手に取って眺めるふりをした。
そして、メイドの隙を見て、目当ての一本をポケットに納めると、隙間が目立たないよう瓶の配置を直す。
「旦那様から母屋を手伝うよう言いつかっているが、一度、離れの様子を見て来る」
「はい、畏まりました」
離れでは特に問題は起こっていなかった。
セバスティアーノは、元家政婦長にだけ母屋の騒動を伝えると、他の使用人への伝言を頼む。
元当主夫妻には何も伝えない、ということも含めて。
元当主夫妻は体調的に葬儀への参列は無理だ。
説明するのも骨が折れるし、無用な悲しみを与えたくはない。
自室に戻った彼は、ポケットの瓶を隠し扉の中に仕舞った。
香水瓶によく似たそれは、まだ彼が若かった頃、ヴァネッサの祖母の持ち物だった。
【穏やかな眠り】 そう名付けられた、その中身は自害用の毒薬。
今では禁止されているが、一昔前は貴族の嫁入り道具の一つに数えられていた。
自由がない女性が、どうしても耐えられない状況に陥った時のために持つ物だったのだ。
遅効性の毒で、瓶を処分し、寝姿を整える時間が持てる、と言われていた。
それが禁止薬物となった時、確かに処分した。
あの甘い香りは、瓶の中身を捨てる時に嗅いだものだ。
瓶も捨てたはず。
セバスティアーノ自身が処理したのだから間違いない。
今にして思えば、狡猾なところのある先代夫人が毒薬を一瓶しか持っていないと、どうして決めつけたのだろう。
母屋に戻る前、先代夫人の部屋を覗いた。
珍しく機嫌良さそうな老婆は、セバスティアーノを見て顔をほころばせる。
今でも若かりし日の美貌の名残を残す、ヴァネッサによく似た、その顔。
「セバス、あの子…ヴァネッサはしっかり眠れているのかしら?」
「ええ、もちろんです。大奥様」
「そう。王家に嫁ぐ大事な身体ですからね。
家令の貴方がちゃんと気にかけておくのよ」
「畏まりました」
「そうそう、小さい子はお昼寝もさせないと……」
寝室に控えた何人かの使用人は、いつものこと、と聞き流している。
セバスティアーノは一つの仮説を立てた。
ヴァネッサは、あの毒薬を祖母から譲られたのではないか。
思考が曖昧になりつつある先代夫人は、伝えるべきことを伝えきれぬままに、孫娘に危険な薬物を渡したのではないか。
厳しく躾をする祖母に、尊敬の念を絶やすことのなかった孫娘は【穏やかな眠り】という名を聞き、睡眠薬だと誤解したのではないか。
あの勝気な少女が、古式ゆかしい自害を選んだとは思えない。
……いや、思いたくない。
どちらにしろ、あの医師が下した診断が公的な真実となる。
セバスティアーノの私室に隠された、空の化粧瓶が何かを語ることはない。




