11 マルツィオ・ボニーノ
その知らせを受けた時、王太子マルツィオは沈黙した。
一つ一つの言葉の意味はわかるのに、それらが指し示す内容を理解することを頭が拒否する。
『ヴァネッサ・カルローネ様が亡くなられました』
葬儀は三日後。
王都にある国教の教会で。
たぶん、そう言われたのだろう。
まるで木霊のようにしか聞こえなかったけれど。
マルツィオは女に手の速い、ろくでなしの王子だと噂されている。
本人も、その噂を否定しない。
いろんな女が近づいてくる。
下心を持って。
だから付き合ってやる。
たまには、こちらから気に入った女に声をかける。
だがそれは、常識的な社交の範疇だ。
ダンスをしただけで愛妾の座を得られると勘違いした男爵家の娘が、控室で誘ってきたこともある。
まるで、王子本人が女性を選んで欲望を満たしているみたいに言われるけれど、実際は女性の方が目的を持って近づいてくるのだ。
本人の目的か、その親族の目的なのか……
男爵家の娘の背後に高位貴族がいることもある。
だから、関係は一夜限り。それが大人の嗜みだ。
おかげで独身の娘を持つ、まともな貴族家にはすっかり警戒され、気楽にダンスも楽しめなくなった。
ああ、つまらない。
ダンスひとつ、好きに踊れないなんて。
マルツィオはやる気のない王太子ではあるが、愚鈍なわけでもない。
現王、あるいは自分の代で王室が終わることを予測している。
王も王妃も、高位の貴族たちも、時代の流れから目を背け続けている。
国政は、あまりにも時代遅れだ。
下級貴族や平民は、したたかに時の流れに歩み寄る。
そうだ、まさしく歩み寄っているのだ。
馬車に乗せられてばかり、箱の中にいるばかりの王族は歩くことすら知らない。
王太子である自分を囲むのは高位貴族ばかり。
時代の流れを話題にしても『ご冗談を』と笑われるだけ。
それは笑い話などではないのに。
だが、毎度毎度笑われていれば、もう話す気もなくなる。
共に語り合う相手にはついぞ出会えなかった。
仕方がない。諦めて、享楽の時代を最後まで、ぼんやりと眺めていよう。
古い空気に浸かって、空っぽな笑い声を上げながら……
自分の婚約者、ヴァネッサ・カルローネは祖父母に啓発されただけあって、見事に時代遅れな人物だ。
美しく洗練された容姿は今様なのに、頭の中身は古臭い。
下級貴族や平民を蔑むなんて、彼等の生きる力を見損ない過ぎだ。
だが、わざわざ注意するのも余計なことだろう。
婚約者とはいえ、別の家の人間。
婚姻を結ぶまでは、不必要な口出しはすまい。
そう思って、表面的な付き合いを続けてきた。
国王になれない、あるいは国王になっても地位を剥奪される予定の自分に残るのは時間だけだろう。
無血で国を明け渡せば、命までは取れらないはずだ。
運悪く幽閉されたら、それなりに長い時間をヴァネッサと過ごすことになる。
彼女とは、その時にゆっくり話をすればいい。
そう考えていた。
もしも、命まで取られるのならば……その後のことは考える必要がないのだから。
マルツィオは、知らせと共に持ち込まれた報告書に気付いた。
ヴァネッサに付けている影からのものだ。
その内容は最近、世間を賑わした裁判についてだった。
既に極刑に処されたクラリッサが冤罪であったこと。
その冤罪を被せたのはヴァネッサだったこと。
いや、被せたなどという生易しいものではない。
火のない所に煙を立てたのが、ヴァネッサなのだ。
その理由が、自分の婚約者である王子と夜会で一曲踊った、ただそれだけだというのだ。
なんて馬鹿馬鹿しい。
嫉妬でもしたと言うのか?
ヴァネッサが自分を愛していたとは思えない。
高慢な女だ。
ただ、自分の婚約者と踊った相手が気に入らないというだけで、罪に落とし、命まで奪ったとは。
馬鹿な女だ。
ヴァネッサの言動を見聞きし、事の行方を予測できたはずの影は、無実の娘を助けなかったのだな……
ああ、そうか。
影に出した命令は、ヴァネッサの動向を報せろ、というもの。
ヴァネッサに危険が迫れば、雇い主である王室の関係者として守るだろう。
しかし、ヴァネッサが害する相手の命は、影にとって守るべきものではない。
そうだ。影を派遣している自分が命じなかったから、クラリッサは死んだ。
ヴァネッサは自分のせいで殺人者になった。
この事件の真犯人は、自分だ。
マルツィオは冷静に結論付けた。
ヴァネッサのことを恋人だと思ったことは無い。
だが、婚約者であることを厭うたことも無い。
ただ、いつか自分の家族になるのだと、どこかで思っていた。
そうだ、彼女だけが家族に一番近い存在だった。
その彼女に罪を犯させた。
そうならないよう、いくらでも出来ることはあったのに、自分は何もしなかった。
王族が、その地位を追われた時、誰かがこの罪を暴き立てるかもしれない。
企てたヴァネッサは、もういない。
この罪が明らかになった時は自分が矢面に立とう。
それくらいしか、もう、出来ることはない。
心の奥にあった未来の、たった一人の家族を、失ってしまった。
王族でなくなった時、彼女は自分の元を去ったかもしれない。
その、見捨てられる未来すら、もう訪れることはない。
報告書の最後には、こう書かれていた。
死因 心臓麻痺
検死は騎士団の依頼した医師によって行われ、死因について疑うべき理由及び兆候は見られず。




