10 ベアトリーチェ・モランディ
翌朝、エレナが眠るベッドの傍らでうつらうつらし始めていたアレッシオに、廊下から騎士の声がかかった。
ハッと起きて扉を開けると、客が来ているがどうするか、と訊かれた。
「客?」
騎士の後ろには、メイド姿の女性が一人。
「早朝から押しかけまして申し訳ございません。
主人から、オレンゴ先生に朝食を差し入れるよう、申し付けられまして」
メイドが会頭の名刺を差し出す。
裏返してみると『昨夜はご苦労さん。よければ食べてくれ』と確かに彼の文字で書かれていた。
「これは嬉しい。ありがとうございます」
「中に入っても差し支えなければ、食事の準備をさせていただきますが」
メイドはアレッシオと騎士の両方を見て、お伺いを立てる。
「そうですね、出来ればまだここに居たいので、入っていただいても……」
とアレッシオは騎士に同意を求めた。
念のため名刺を確認した騎士は、
「隊長から、オレンゴ医師に従うよう指示されておりますので、構いません」
と答えた。
メイドは中に入ると、小さなテーブルに一人分の朝食の入った籠を二つ置く。
「どうぞ、お二人とも召し上がってください。
その間に、入れ替わりの準備を整えますので」
人の気配に目を覚ましたエレナは、一瞬、どこにいるのか把握できないような表情だった。
アレッシオは、彼女がしっかり睡眠をとれたことに安堵した。
朝食は小さなサンドイッチとフルーツ。
ポットからは暖かいお茶が注がれる。
「エレナさん、いただこう」
アレッシオがベッドから降りやすいよう手を差し伸べると、エレナはコクリと頷き、そろそろと動き出した。
食事中、メイドはエレナをじっと見つめている。
一挙手一投足を見逃さずに。
食事が終わると、少し質問をさせて欲しいとメイドに請われる。
「病院内で、エレナさんの姿を見た方は?」
「昨夜、夜間受付にいた男が一人だけです。
病室まで運ぶのも、会頭の護衛の方が手伝ってくださったので」
「看護師の方は、接触していないのですね?」
「はい。夜勤の看護師は数が少ないですし、私が見ているから大丈夫だと断りを入れました」
「では、見た目で疑われなければ、問題なさそうですね」
そう言うと、メイドはエレナと共にベッドを覆うカーテンの中に入った。
そして、わずか五分後、カーテンを開けた場所に立っていたのは同じ姿の二人。
昨夜、病院に着いた後、エレナには専用の入院着を着てもらったが、どうやって調達したのか、まったく同じ格好だ。
「どうです? ご覧になって、妙なところはありませんか?」
エレナにしか見えない女性は、先ほど耳にしたばかりのメイドの声で話した。
「あの、この包帯の下は?」
本物のエレナが、メイドの腕に巻かれた血が滲んだ包帯を見て顔をしかめている。
「会頭から、エレナさんの包帯の位置を聞いたので、あらかじめ傷をつけておきました。
あまり傷が新しいと、看護師の方に怪しまれるかもしれないと思ったので」
それは行き届いた配慮だと感心するものの、普通の神経では出来ないことだ。
役者としてのこだわりなのか、それとも、そういう性癖なのか……
「もし、カルテと違っていたら書き換えていただかないといけませんが」
メイドの発言に、アレッシオは意識を引き戻した。
「私の姿が問題ないようでしたら、エレナさんには、このメイド服に着替えていただきます」
サイズはエレナに合わせてあるという。
どうやって、と思ったアレックスだったが、そういえば、と思い出した。
『儂は女性のサイズは見ればわかる!』
いつだったか会頭が豪語していた。
そんなに女性関係が派手だったのかな、と想像したアレッシオは怖い顔で睨まれた。
会頭の若い時、演劇の衣装に携わったことがあったそうだ。
ボヤ騒ぎで急いで替えの衣装を用意する羽目になり、駆り出された時に身に付いたらしい。
『応用で、ウシでも豚でも魚でも、身長、体重、スリーサイズは大体あてられるぞ』
商会の会頭にふさわしい、立派な仕事用のスキルだった。
それはともかく、メイドのサイズは元々エレナに近かったのか?
そんな偶然、あり得るのだろうか?
アレッシオの顔に浮かんだ疑問に気付いたのだろう。
メイドはエレナの顔で微笑んだ。
「プロですから」
何の?
このメイドは何者なのだろう。
彼が徹夜で疲れた頭をひねっている間に、エレナにはメイクが施され、カツラが整えられ、どう見ても、先ほど入って来たメイドにしか見えなくなっていた。
「会頭が用意してくださった馬車が待っています」
会頭は事情を知っているし、隠れ家も何軒も持っているはずだ。
アレッシオは、エレナを馬車まで送りたい気持ちを堪えた。
そして、メイドに傷の治療をして包帯を巻き、カルテを確認する。
「お名前をうかがっても?」
「エレナ・ベルトッド」
そう答えた彼女は、もう、エレナと同じ声で話していた。
病院の診療記録によれば、事件によるエレナ・ベルトッドの身体の傷は軽傷であった。
しかし、目覚めて以降、誰に話しかけられても反応することは無かった。
おそらく、突然殺されかけたという精神的なショックに耐え切れず、心を閉ざしたのだろうと診断された。
起きている時はぼうっとしているだけだが、眠りにつくと度々、周りの者が肝を冷やすような叫び声を上げる。
生家は遠く、雇い主であるカルローネ家から来た使いはエレナの状態を確認すると、さっさと帰ってしまった。
引き取り手も無かったため、病院の判断で隔離病棟で保護することとなる。
「結局、あの方はどなたなんですか?」
後日、アレッシオは、エレナを見舞うため会頭の別宅を訪れた。
彼を迎えたのは、元々本宅で家政を取り仕切っていた女性だ。
今は、この小さい別宅を居心地よく整えている。
あの夜会以来すっかり、商会周辺の人々に会頭の主治医と認知されてしまったアレッシオは歓迎された。
「ベアトリーチェ・モランディ。
名前を聞いても、若いやつは知らないだろう?」
会頭は意地悪く笑う。
その言い方からすると二十年、三十年前に活躍した女優、という可能性がある。
幾つなのだろう?
アレッシオを迎えたエレナは、病室から出て行った時と同じようにメイドの格好をしていた。
「お客として、のんびりしてもらって欲しかったんだがな」
会頭が言うと、エレナが答える。
「今まで、周りに流されていただけなのを反省したんです。
自分だけならともかく他の方も巻き込むようなことに、知らなかったとはいえ関わってしまいました。
私は無知が過ぎます。
せっかく、ここでお世話になるのですから、学べることを学びたいのです」
指導してくれているであろう家政婦の、エレナを見る目はとても優しかった。




