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フールレディ

作者: 照岡葉子
掲載日:2021/03/17

 赤色が目にまぶしい夕暮れ時だった。

 歩道橋を登り切ったところで、史は足をとめた。

 学ラン姿の男の子が、欄干から下をのぞき込んでいた。帰宅する車で往来が激しい様子を眺めているようだった。

 男の子は史の顔見知りだ。同じ美術教室に通う、十歳も下の男の子。

 野暮ったそうな、癖のある髪。その髪に埋もれた顔は非常に幼く、まだ小学生のようにあどけない。いつもは重たそうな眼鏡をかけているのに、今日はそれがなかった。

 その幼さが残る彼の顔は、強ばったように固まっている。夕日に照らされているのに、妙に青白く見える。

 史は彼が歩道橋にいるのを、ここ数日、この時間帯によく見かけている。彼が歩道橋の上からカメラを持って写真を撮っているのを見たことがある。そこから見える中学校を写真に収めているようだった。

 そこは、ふつうなら彼が毎日通っているはずの中学校だ。

 今日はカメラを持っていなかった。様子がおかしいことを察した史は、けれどその光景を昔に見たことがあるような気がした。

(あそこにいたのは私だ)

 史はそう思った。

 どこか冷めた気持ちで彼を見ていた史だったが、不意に少年は橋から身を乗り出した。

 ぐっと前屈みになる。唇を強く結んで何かに耐えているように見える。

 史は一歩進み、さらにまた一歩と彼に近づいた。腹の底から黒い感情が沸き上がる。欄干に体を押さえつけている彼の腹部の圧迫感が、そのまま史に伝わったかのように。

 夕日が正面から彼の顔を照らしている。身を焼くほどの真っ赤な光は手を広げているように見える。

 史は手を伸ばした。そして、とん、と彼の肩に優しく置いた。

 自分の手は震えていないだろうかと史は懸念した。少年は振り返り、その死にそうな顔で史を見とめた。

 目が合って、彼は驚いた顔をした。何か言おうと口を開く。小さく開かれた口からはなんの言葉も出てこない。

「危ないよ」

 史は何にも気付いていないかのように言った。

 少年がすとんと足をおろし、ゆっくりと歩道橋から見える道路を見下ろした。一、二歩下がって、また史を見る。

「夕日が見たかったの」

 彼の声は震えていた。自分がしようとしていた行動に、驚いたような様子だった。

 史はそっと彼の右手をとる。そして何も言わずに歩き出した。手をひかれた少年は大人しくついてきた。

 歩道橋をおりて、車が走り去る車道を脇に二人は歩く。

 夕日は沈んでいく。

 つなぐ手から伝わる彼の震えを、史は黙って感じていた。

 やがて小さな嗚咽が聞こえてくる。必死で抑えたような泣き声が痛ましく思えて、史は帰り道を真っ直ぐに見てこう言った。

「きっと、夕日はここからでも見えるよ」

 出てきた言葉はそれだけだった。

 史は彼の方は決して見なかった。少年がどんな顔をしているのか確かめる勇気もなかった。

 彼はやがて泣き始めた。とても大きな声で。

 行き交う車は無関心に二人の横を通り過ぎる。

 わんわんと泣く彼の手を、史は優しくひいて歩いた。


 その日の夜は美術教室の日だ。

 瞼を赤く腫らした彼の表情が目に焼き付いたまま、史は教室へと訪れる。家から徒歩で通えるほどの教室だった。地元の作家が、子供から成人向けに教室を開いている。史はその教室に学生の頃から通っていた。

「あれ、今日眼鏡してないじゃん」

 近所に住む高校生の片岡が、少年に向かって無神経に声をかけた。

 明るい性格の彼女は誰と話す時でも臆さない少女だった。

 声をかけられた少年は怯えたように手を止め、すっと顔を伏せてしまう。

 片岡は少年のその壁を気にせず、にっこり笑う。

「イメチェンってやつ? 清水くんも最近コンタクトにしようか悩んでるっぽくてさ。コンタクトってやっぱ怖いって言ってたなー。ねこくん、コンタクト無理そうなのに」

 ねこくん、と呼ばれた少年は顔を伏せたままだ。

 しかし、

「コンタクト、には、してない」

 です、と敬語を付け足すが、それは小さくて片岡の耳には届かなかった。けれど彼女もそんなことを気にするような性格ではない。

「そうなの? 急に目、よくなったの?」

「マキナちゃん」

 と、そこで先生からの仲裁が入る。30歳ぐらいの先生は痩せた手をのばして二人の間を割ってはいる。

「集中しなさい」

 片岡にだけぴしゃりと言う。片岡は、はーい、と反省の色が全く見えない返事をして自分の席に戻った。

 美術教室は片岡のおかげで賑やかでもある。年齢は問わず教室は開かれているが、小学生で通っている子供はいない。最年長は史である。大人しい性格の史は、下の子たちに必要以上に話しかける性格ではない。最年少がねこくん、と呼ばれた、引っ込み思案な中学生の少年。

 歩道橋の、あの男の子だ。

 史は片岡とのやりとりを注意深く見ていた。

 眼鏡をかけていない理由はなんとなく分かっていた。

 あの柔らかく、氷のように冷たい彼の手を思い出す。

 筆を持つ右手を見つめながら、史はお腹の中に黒い何かが蠢くのを感じた。

 ねこは史の紹介でこの美術教室に通うことにした。

 学校へ行けない彼が、少しでも他人と関われる場所を作ってあげたかったのだ。ねこというあだ名は片岡がつけた。自由課題でよく猫を描く彼を見て、片岡はそう呼ぶようになったのだ。猫が好きな彼はその呼び名を気に入っているらしかった。

 そんな彼が命を絶とうとしたことを、しかし史は何も咎める気も、非難する気もなかった。

(あれは、昔の私の姿だ)

 史は思う。

(あの夕日を、私は知ってる)

 あの時なくなったはずの【死】という感覚が、自責の念につられて思い出しそうになる。

(ちがう。私はもう前を向いているんだ)

 そうして、筆を紙にのせ、一つ色をおく。

 史は覚悟を決めた顔をしていた。

 ねこと史は美術教室を終え、並んで自宅へ歩を進める。

 家が隣同士であるため、史は保護者のようにねこと一緒に帰っている。

 なんとなくの気まずさがあった。

 ねこは何も話さない。暗くなった道をただ見つめて歩いている。

「ねえ、ねこくん」

 史は切り出した。

「明日、コンタクトの検診があるんだけど」

「……」

「ねこくんも一緒にこない?」

「……え?」

 さりげなく誘ってみたが、やはり唐突だったか、ねこは驚いた表情をして立ち止まった。

 なんで、と消えそうな声でねこは呟いた。

 史は歩みを止め、その問いをちゃんと拾う。

「眼鏡が欲しいんじゃないかな、と思って」

 そういった瞬間、一瞬ねこの表情が強ばった。

 史はそれについて、何も指摘しない。直接的な表現であったが、核心を避けていたのは史の臆病さからだった。

「不便だし……危ないと思う」

 弟がいたら、姉はきっとこういう気分なんだろう、と史は片隅で思う。

 ねこは、でも、と歯切れが悪い。

「ぼく、お金……」

 史は胸が熱くなるのを感じた。

 自分の命を投げ捨てるぐらい、自暴自棄になった彼が、それでも他人に対して何も責め立てず謙虚でいることが、ひどく悲しくなった。

 彼のその態度に、自分は傷ついているんだ、と史は思う。

 彼に特別な感情があるわけではない。家が隣同士で、母親同士が仲が良いだけで、お互いずっと一緒にいたわけではない。ただ、自分のことを慕い、顔を合わせれば史ちゃん、と呼んで懐いてくれる彼が、無性にかわいかった。

 その上で、彼の苦しみに対して見ないふりをし続けてきたのだ。史は自分に冷たさがあることを自覚していた。彼が抱えている問題について、史は意識的に触れないようにしてきた。

 その罪悪感を消すように、史はねこに対して何かお詫びをしたいと思ったのだ。

「いいよ。私からのプレゼント」

 彼に何かを与えたいと思ったのだ。

 ねこは困った顔をしながら、それでもほほえみながら、

「うん」

 と頷いた。


 翌日、二人は一緒に眼科へと行った。

 史は定期的な検診のために。そして、ねこは眼鏡を選んだ。

「史ちゃん、ありがとう」

 ねこは帰り道、少し気まずそうにお礼を言った。

 最後まで、史は眼鏡がなくなった理由を聞かなかった。しかし、ねこが学校でどういう扱いを受けているかは、母親づてに大まかに話は聞いている。

「片岡さんが、眼鏡がないと黒板見えないんじゃない? って、昨日言ってきてね」

 ねこは寂しそうに、

「ぼく、うまく答えられなくて」

 と、俯いた。

 史はその小さな頭を見て、ゆっくりと視線を外した。

 すると、横切った公園の端に、猫が寝ているのを見つけて立ち止まった。

「ねこくん、見て」

 調子をあげてねこに声をかける。

 ねこは不思議に思って顔をあげ、黒い猫が日向でごろごろしている姿を瞳に映した。

「猫だ」

 弾んだ声色で言い放った途端、ねこは黒猫の元へ歩み寄っていた。

 残された史はほっと肩を落として、公園の中に入った。

 秋を感じさせる冷たい風と、夏の残りを置いてきた強い日差しとが、公園の小石に光を落とす。コスモスの花が穏やかに揺れている。

 史は黒猫に夢中になっている彼のじゃまをしないように、そっと見守るようにベンチに座った。

(家でも猫飼ってるんだっけ)

 猫の扱いを心得ているその様子に、史は感心した。

 動物を一度も飼ったことのない史は、動物との接し方が分からなかった。動物が嫌いというわけではなかったが、触ろうと思う気持ちも無い。

 黒猫は大人しく撫でられている。

 癖っ毛の向こう側に見える横顔は、他の子供たちと変わらない無邪気さに満ちている。

(一体、何が違うというんだろう)

 史は確かな悪意というものについて考えた。彼は、理不尽な問題をたたきつけられているのだ。以前の自分のように。

 前に勤めていた職場のことを思い出す。

(理不尽……理不尽ばかりだった)

 史は嫌な気持ちになるのを止めるように、一度目をつむった。

 ねことはきっと状況が違う、と暗い気持ちに捕まりそうになるのをこらえる。

(ねこくんは、周りの人の気持ちに振り回されてる)

 そうして、苦しくなって、あの歩道橋に立っていた。

 史は昨日の彼の姿を思い出して、また胸が苦しくなった。

「史ちゃん、どうしたの?」

 気がつけば影ができていた。

 史は顔をあげ、心配そうに顔をのぞくねこに微笑んだ。

「蟻とか、久しぶりにまじまじと見たな、と思って」

 なんでもない、と答えると取り繕ったように思われてしまうと懸念して、あえて無邪気な返答をした。

 史は息を吐くように嘘をつくことができた。彼女は優しく穏やかな人間だったが、それは嘘をつくことで作り出してきた生き方だ。

(本当の私は冷たい人間なんだ)

 そっか、と安心したように笑顔になる少年。その笑顔を見ながら史は思う。

 ねこは史の隣に座った。

 黒猫はいなくなっていた。

 しばらく二人は無言だった。

 キジバトのふくよかな声が聞こえる。

「日にあたるのは心にも良いことだよね」

 いつか、病院の先生に言われたことを史は言った。

「うん……」

 ねこは頷いて、俯いた。

 雰囲気の変わった少年に気付きながら、史は知らぬ顔で公園を眺めた。

 日を浴びた草木の香しいにおいが鼻をくすぐる。

「史ちゃん、昨日のこと、誰にも言ってないの、どうして」

 小さくねこは言った。

 史は自分の靴を見た。

「ねこくんはそれを望んでないと思って」

 それは嘘ではなかったが、心中の全てでもなかった。

「ぼく、あんなことをしたのに……」

 消え入りそうな声だった。

 お腹の中に、黒く、蠢く何かを史は感じる。

 ねこのお腹の中にも、同じものがあるような気がした。

 横目で少年を見る。

 横顔は癖っ毛に隠れて表情は伺えない。

 けれど、今、彼は勇気を出して自分と向き合っているのだと気付いた。そう思った瞬間、どこからか罪悪感のようなものが史の心を撫でる。

「死ぬことは悪いことじゃないと、思うから」

 史は言った。

 何故か胸がどきどきしていた。それは、自分が心の底から思っている本心を口にしたからかも知れない。

 こんなこと、普通の人に言ったら異常者だと思われる。ねこではない他人であったなら、史は嘘をついて取り繕い、こんなことは言わなかっただろう。けれど、今は本当のことを言わなければならないと思った。

「めがね、ありがとう……」

 ねこは言って、小さく嗚咽が漏れる。

 俯いたまま泣く彼と、史は、同じ穏やかな風に吹かれている。

「今の職場の人たちはすごく良い人たちでね」

 史は優しく続ける。

 自分の命を諦めた日をすぎてから、史は転職をした。職を変えてみると、人間が優しいことを知った。

「私はその優しさに返せるものがなにもなくて、申し訳ないなあ、って思ってる」

 彼は小さく泣いている。

「でも、きっと、私は返せないものを、一生かけて返していくんだろうなあ、って思うんだ」

 空は青く、白い雲は途切れ途切れで並んでいる。

 ねこの泣きじゃくる声が傍らで聞こえた。

「トイレから出て、そしたら、突然眼鏡を、とられたの」

 つっかえながらも、ねこは言った。

「それで……」

 言葉は消えて、残ったのは悔しさと、痛みの声だけだった。

 史はそっとねこの背中を撫でた。

 手で顔を抑え、少年は泣いた。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙は、日の光に反射して輝いている。

「気付かなくてもいいから、助けて欲しかった」

 ねこは言った。

 史はその言葉にはっとして、一瞬手を止めた。

 海のさざ波と、燃えるような夕日を思い出す。

 そして、彼の中にある、どうすることもできないほどの大きな恨みを知って、史は安堵した。

 優しく穏やかなだけでは、食い物にされてしまうことを史は知っていた。自分を守るために相手を傷つける痛みに耐えられないことも分かっていた。それは、前の職場で痛いほど身にしみたことだった。

 少年の葛藤が誰よりも心に入り込んでくる。史はのどが熱くなるのを悟られぬように、その熱に耐えた。

 空の青さはどこまでも続いている。

 史は、彼が優しいまま生きていけるようにと、しかしそれは叶わないと冷たい心で思いながらも、そう祈った。


 翌日、史は交際相手と食事をした。

 前の職場に勤めていた際に、先輩からの紹介でつきあい始めたその人は、史より七歳年上の穏やかな男性だ。掘りの深い顔立ちの彼は、見た目は厳しそうに見えるが史を非常に可愛がって甘やかした。

「何か悩み事?」

 食事の進まない史を心配して、目前の男性は首を傾げる。

 史はとっさに無言で首を振った。優しい微笑みをたたえたまま、スープをすすった。

 史はあまり親しくない相手との食事が苦手だった。

 熱さだけを感じる液体がのどを通り過ぎる。

 朗らかな午後の日差しが入り込む店内には、ゆったりとした音楽が流れている。丘の上にあるこの店は、付き合ってからよく利用する。

 霞がかかった遠くの山が曖昧な姿で見える。

 史の心の中には、ねこの姿が焼き付いていた。

(私ははじめて、あんな、本当のことを言った)

 公園での自分の発言を思い出して、今でもどきどきと鼓動が早くなる。

「無理せず食べて。残ったら俺が食べるから」

 彼はそう優しく言った。

 史は困ったように微笑んだ。やはり、何も言葉は浮かばず、唇は堅く結ばれている。

 ねこの前では優しく穏やかな自分が、できる限りの言葉を吐くというのに、交際相手の前では何一つ感情が動かず、ほとんど無言でいた。

 何を言われても苦笑いか頷くかで返していた。そうして二ヶ月付き合っているが、相手は史が非常に奥ゆかしい女性だと思っているらしかった。

 それに煩わしさを感じながらも、本当の自分を披露する気は、史にはいっさい無かった。

(猫をかぶっている私のことが好きなんだから)

 史は思いながら、小さく切った野菜を口に含む。

(付き合うのも私がはじめてというのだし、女性に対して夢を抱いているところがあるんだろうな)

 史は冷たく思う。

(もう先輩とも連絡はとっていないし、そろそろこの関係を終わらせた方がいいんだろうか)

 そう思ったが、すぐさま母親の顔が脳裏に浮かぶ。

 彼氏ができたと報告した時の、母の喜んだ顔が頭に張り付いていた。そして同時に傷つく自分も認識する。

(自分のことのように喜ぶ、っていうけど、お母さんは、自分のことでしか喜んでない。二十五になった娘がきちんと男性と付き合い始めたことに、親として安心しただけなんだ)

 母親のために付き合っている、という節もあった。そして、はじめての彼女で、七歳も年下の女の子と付き合えて明らかに舞い上がっている彼に地獄を見せるのも、史には気が引けた。

 交際を持ちかけられて、それに頷いたのは自分なのだと、その責任感のために別れが切り出せずにいるのだ。

 人を傷つけられないがために、幾層にも嘘を吐きながら、史は生きている。

 それでも、あの日死ななかった自分は、いつかこの人を好きになる日が来るかもしれないと、思っていた。

 史は自分の心の冷たさを少なからず申し訳ないと思っていた。嘘を吐いて優しい人間を演じているだけの自分が、いつかほんとうの人間のように温かい心を持ち、ほんとうの気持ちで温もりを伝え合える日が来ることを、心の片隅で待ち望んでいた。

(なんて、愚か)

 史は結局、目の前の料理をほとんど残した。


 史はまだ明るい内に帰宅した。

 夜は別で用事があるのだと嘘をついた。

 彼と長い時間をともにするのは苦痛だったのだ。

 リビングに行くと母がいた。

 史は母の夏子に気付かれない内に自室に戻ろうとしたが、おかえり、と声をかけられた。

 史はそれを苦笑で返す。

「早いね。調子でも悪いの?」

 夏子は何気なく聞いてくる。

「ううん」

「友哉さんって、何歳だっけ」

「30」

「本当に悪い人じゃないんだよね? 変な人だったらすぐに別れなよ」

 借金してるとか、と、夏子は史のことを心配した。

 しかし、その夏子の言葉が史を苛つかせた。

(前までは彼氏ぐらい作りなさいって言っていたくせに)

 内心毒づきながら、史は何も言わない。

「結婚とか、べつに急がなくてもいいんだよ。史のペースでいいから」

 夏子の言葉はどこまでも優しい。

 夏子の発言はいつも支離滅裂だった。一言言った後の、次の発言が全く正反対の意見であることがしばしばあった。娘であり、夏子の機嫌を伺って生きてきた史にとって、それが人生の苦痛でもあった。

 しかし史は、実際に夏子を目前とすると彼女の発言すべてを懸命に、まじめに飲み込もうとした。だから、夏子の労るような優しい言葉に史はどことなく申し訳なくなって、明るい口調で言った。

「仕事も変えて、今はすごく楽しいから、結婚はまだ先かな」

 母はその言葉に振り返り、史を見据えて言った。

「今、良い思いをしてるなら必ず苦労するときが来るから気をつけなよ」

 友達に言うみたいに、軽く放つ。

 その一言は、鋭利な刃物のように史の心を貫く。

 深く傷ついた史は、その言葉に何の返事もできずに自室へ戻った。


 娘が退職をすると決意したとき、夏子は非常に不安になった。

 隣の家に住んでいる、不登校の男の子が脳裏をよぎったのだ。娘は彼と仲が良い。怠け癖が移って、そのままずっと働かないつもりなのでは、と思ったのだ。

 しかし娘はすぐに次の職場を見つけて、また毎日通勤をしている。

 精神面が弱く、病院に通っている夏子は娘の強さに嫉妬した。優しく、誰にでも好かれる器用な娘に対して無性に腹立たしさも感じていた。

 退職前は元気がなく、彼女を心配していたときにはなかった感情だった。

 そして、夏子は思ったことはすぐに口に出す性格だった。

(ダメな母親だ)

 夏子はリビングでテレビをつけたたまま、思った。

 娘が黙る姿を見る度に自分への嫌悪感が芽生える。

 そのたび、自分の言った言葉を反省した。省みると同時に、自分は病気なのだから仕方ないと思った。

 だから娘の史も、夫も、もっと自分に優しくするべきだと思っていた。

 史はとても穏やかな娘だったが、夫と同様、通院している自分を労う言葉を一つもかけてくれなかった。

(冷たい子)

 夏子は思う。

 そう思うと、心がとてもすっきりとした。

(早く孫を生んで欲しい)

 夏子はそれだけが望みだった。

 一人娘に負担をかけたくないと思いながらも、今の交際相手とはうまくいってほしかった。

(結婚だってべつにしなくていい。ただ、子供さえ生んでくれれば)

 そんなことすら思っていた。

 しかし、娘が友哉と会って帰ってくるたびに、わき上がるのは嫉妬心だった。自分は誰にも相手にされず寂しく病気と戦っているというのに、自分が生んだ娘が幸せに向かっていくことが許せなかった。

(今、良い思いをしているなら、きっといつか苦労する時がくるんだ)

 夏子はそう思うことで心を落ち着かせた。


 二人は電車に揺られていた。

 古いその路線の行き先は海だ。

 史は次の風景画を海にしようと決めた。そのスケッチのために海を見に来た。

 ねこを誘ったのは自分でも不思議だった。

 しかし、あれ以来史はねこの心の機微に注意していた。

 変にゆっくりと揺れるその電車は川と一緒に下っていく。山を切り崩してひかれた線路は不穏な音を立てている。

「川がきらきらしてるね」

 窓から見える景色に、ねこは無邪気に笑った。

「そうだね」

 史は微笑んで頷いた。

 外の日差しは強く、車内の冷房も効きが悪いのか、じんわりと汗が滲んでくる。

 史は静かに立ち上がって車窓を少し開けた。

 強く入り込む風に、ねこは一瞬目をつむった。

 そしてその瞳を開くと、川のきらめきを反射させたように輝く。

「電車と一緒に走ってるみたい!」

 ねこは興奮気味に言った。

 不規則に鳴る枕木の音が今の史には心地よかった。

 空は雲一つ無い秋晴れだ。

 終点の一つ手前に着くと、無人駅の先にはすぐ海が見えた。

「海!」

 さざ波の音に招かれるように、ねこは駆けだした。

 史はねこのはしゃぎようを見て安堵しながら、駅のベンチに座る。

 そこからでも十分海は見えるので、リュックをおろした史は小さいノートを取り出す。

 鉛筆を持ち、白い紙面に黒い芯を置く。

 顔をあげると、波打ち際でねこが濡れないように行ったり来たりしている。

(もう入っちゃえばいいのに)

 波と追いかけっこをしては笑っている彼を愛しそうに見つめる。

 太陽の反射がまぶしく、ねこが白い魚たちと遊んでいるようにも見えた。

 その姿に、あの日自分がいた場所とは全く別の場所のように思えた。

 あの時の海は赤く揺れていた。

 退職をした翌日、史はここに来ていた。

 そして、あの歩道橋に立っていたねこと同じ顔をしていたんだろう。

 夕日に照らされた自分を想像する。

 あの時に聞いた波の音はこんなにも穏やかなものではなかった。薄暗さが忍び寄るように、足首に冷たい無数の手が撫でるようだった。

 史はとっさに自分の足下をみた。

 石畳の上に置かれた自分の足はかすかに震えている。

 すると、影が近づいてくるのに気付いて顔をあげた。

「史ちゃん、来て来て!」

「えっ」

 ねこは笑顔で史の手をとる。

 史は咄嗟に持っていたノートと鉛筆をベンチにおいて、ねこに強引に引っ張られていく。

「向こう側、水平線がちょっと丸いんだって!」

 ねこが大きな声で言う。

 史はうんうん、と困った顔をして頷いた。

 その困惑した表情に、ねこはやっと気付いたようで、

「あ、ごめんなさい……」

 と、突然しゅんとした。

「ううん。楽しそうで、私はうれしい」

 それは史の本当の気持ちだった。

 友哉といた時の自分と比べて、少し薄暗い気持ちになる。

 ねこはその言葉に、海よりも、太陽よりも表情を輝かせて笑顔になった。

「綺麗な青だね」

 史はどうすればこのままの青がキャンバスに残せるだろうかと考えた。

 あのね、とねこは小さな声で話しかけてきた。

 史はねこの方を振り向く。

 ねこは顔を赤くして、その大きな瞳でまっすぐに史を見つめた。

「こんなにも空が青いのはね、ぼくが史ちゃんを好きだからだよ」

 震えながらも迷いのないその声に、一瞬、海の音もかき消えたような気がした。

 史は驚いた顔をして、しばらく黙ってしまった。

 ねこはすぐに顔をそらし、海を懸命に見つめる。白いきらきらした光の魚はねこの瞳に宿って揺れる。さざ波が鼓膜の中で行ったり来たりしている。

 その横顔を見つめて、史はこの冷たい心がどこまでも温かくなるのを感じた。

 そして、あの日、死のうとしたことを謝りたくなった。

 けれどそのことをねこに言ってはいけない気がした。このことは、優しく穏やかな自分が隠し通さなければならない「本当のこと」だった。誰よりも優しく、何もかもを許す人間だと思われたい史にとって、この出来事は隠し通さなければならない事実だった。あの時胸にわき上がった、全て捨ててしまえという感情は、隠さなければならなかった。

(私は、私を誰にも暴かせたりはしない。でも)

 史は、口を開いていた。

「あの時、生きようとしたのはねこくんの強さだと思う」

 あの日の自分を重ねて思う。

 冷たい波に体が浸かったとき、ふと見上げた真っ赤に燃える夕日が、史の死への衝動も消し去ったように。それは、まだ自らの中に生きる力があったからだと、史は思った。

 ねこは史を見上げ、その瞳に涙を浮かべた。

 それを隠すように、波打ち際に一歩踏み込む。

 飛沫が柔らかくはねあがる。ねこはばしゃばしゃと音を立てる。

 その背中をまぶしそうに見つめて、史はぽつりと呟いた。

「好きじゃないのに、好きっていうのは、だめだよね」

 ねこは振り返った。

 その表情はとても寂しそうだ。

 波は一定に、ねこの足を行ったり来たりしている。

「あの日からね、史ちゃんの名前を呼ぶと、勇気がわいてくるんだ」

 ねこは肩をすくめて言った。

 涙はもうどこにもない。

(この子が、このまま優しいままで、幸せに生きていって欲しい)

 史は滲む視界の中で思う。

 ねこは微笑む。史を愛しそうに見つめる瞳が、彼女を捉えて離さない。


 不安定に揺れる電車内は、ねこにとって子守歌のように優しい振動だった。

 真っ赤な太陽の光が窓から差し込んでいる。そのまぶしさに目を細める。そのまま目を閉じて眠ってしまいそうだった。

 山を切り崩してのばされた線路の上を、電車は進んでいく。

 木々は夕日に照らされて、葉のふちはオレンジ色に輝いている。

 その光景を穏やかなまなざしで見ながら、ねこは目の前に座っている女性のことを思って胸がいっぱいになった。

 先ほど自分が口走ったことは、ただなんの考えもなしに飛び出した感情だった。あんなに思いがけない言葉が出てくるとは、自分でも思わなかった。言い放ったあと、すぐに取り消すか、取り繕うかしようと思ったが、結局それはしなかった。

 胸の中にたくさんのうれしさがあったからだ。

 ほんとうのことをいえることが、ねこはとても嬉しかった。

「ねこくん、見て」

 不意に史が、ねこの膝をとんとん、と叩いた。

 顔を上げて史の視線を辿る。

 オレンジ色がまぶしくて、一瞬目を閉じた。

 その中に、きらきら光るひかりの粒をみた。

「天気雨だね」

 史は言った。

 光の雨が空に舞う。

 窓に雨水がぶつかっては、太陽を反射させて煌めいて消えていく。

「きれいだね」

 ねこは言った。

 その声は震えていた。

 ねこは自分で吃驚した。何故か、と省みると、胸の内には、今、こうしてこんなにも美しい景色を見れている不思議さがあることに気付く。つい最近、自らの命を絶とうとしていた自分が、遠くに思えた。

 気がつけば、ねこは涙を流していた。

 その様子に気付いた史は一瞬、驚いた顔をしたが、ゆっくりと窓へと視線を移した。史は、ねこの泣いている理由を知っていた。

 自分も同じ気持ちだったからだ。

 ねこは俯いて、その涙を必死に拭った。けれど涙はとめどなくあふれ出てくる。静かにねこは泣き続ける。

「ねこくんは、ゆっくり生きていけばいい、って、私は思う」

 史がやわらかく言った。

 金色に煌めく雨と、晴れ間が見える。虹がかかりそうな空だった。

 けれど二人には虹は必要なかった。

 お互いの虹彩には、何にも代わりのない美しい空がある。そして、胸の内には確かな鼓動が絶え間なく続いている。

 電車はゆっくりと二人を乗せて走っていった。


「あれ、今日も友哉さんとデート?」

 帰宅すると夏子が意外そうな声をあげた。

 頻繁に友哉に会いたがらない史を知ってのことだった。

「ううん。今日はねこくんと海に行ったの」

「ふーん」

 聞いた途端、少し不機嫌になる夏子。

 夏子はねこと親しくすることをあまりよく思っていないようだった。

「学校行ってないんでしょ。そんな子を連れ回すのよくないでしょ」

 ねこが悪く言われているような気がして、史はむっとした。

「土曜日だからべつにいいと思う」

 冷たく返す。

「学校は行けないのに、海には遊びに行けるんだね」

 意地悪なことを言ってきた。

「本当につらい人って、外にも出られないんじゃないの」

「……」

 史は唇をぎゅっと結んだ。

(お母さんと話していると、死にたくなる)

 青い空ではない、夕日のまぶしい海の気配がする。

 夏子の冷たい言葉は史の心をまっすぐに傷つけた。

 夏子自身も精神的に弱く、仕事をよく休んでいるはずだった。しかしそんなことは全く頭にないような口振りだ。

「クラスの子に意地悪されてるんでしょ? そうだ、私が学校に電話して言ってあげようか」

「それは」

 自分が思うよりも、大きな声が出て史はびっくりした。

 しん、としたような気がした。

 夏子は口を結んで史を見ている。

 史がおそるおそる母の顔を伺う。睨むような視線に、体が冷たくなった。

「それは、やめて」

 小さな声で、しかし強い言葉で返す。史はねこを守りたかった。たとえ、母が不機嫌になろうとも。

「いじめってダメだけどさ、いじめてる側は絶対にあとで痛い目見ると思うんだよね」

 夏子は言う。

「人生って、幸せも不幸も半分ずつでできてると思うのね。だから、いじめてる人は絶対に不幸になるのよ」

 それは夏子の労いの言葉なのだろうと、史には理解はできていた。しかし、夏子のその考え方が史は嫌いだと思った。

 夏子のその持論は、夏子が自ら幸せになろうとしなくても良い免罪符になっているような気がしていたのだ。今まで自分は不幸だったと嘆く夏子は、これからは幸せになる権利も、必然性も感じている。

 だから夏子は何もしない。

 それが、史はひどく怠惰に見えて情けなかった。

「いいよね、ねこくんと遊んで、友哉さんとも楽しそうで。若いっていいね」

 これは夏子の娘への嫉妬心であったが、史はそれに気付くことはなかった。

「私もさっさと離婚して、自分の人生を楽しみたい」

 夏子のいつもの台詞だった。この言葉を史は何度も聞かされていた。

 離婚して自分の人生を歩みたいと夏子は思っていた。しかし、そのためにどうすればいいかなど、全く考えてはいないのだ。

 史は自分の部屋へと戻った。

(幸せになる気なんて無いくせに)

 暗い部屋の中で、史はひとり悪態をつく。

 離婚、という言葉に傷つくことはない自分がいることに、最近気付いた史だった。

 母と父が離婚する。その事実は、史の背中を強く押すような響きだった。


 片岡は同じクラスの清水のことが好きだった。

 眼鏡をかけて利発そうな彼の顔は他の誰よりも格好良く見えた。なにより、部活をしている彼の姿が片岡は好きだった。

 弓道部に所属している彼を見るのはいつもフェンス越しだったが、弓をひく彼の横顔と、骨ばった首筋に胸が高揚した。

 彼が弓をひき、その矢を放って的に当たる。甲高い音が片岡をはっとさせる。視線を落として伏し目がちになる姿も、手首から分かる骨の太さも、自分には絶対にない、男性的な魅力があった。人物を描くのは苦手だったが、清水が弓をひく姿を、いつか絵に納めたいと思ってしまっていた。

 この青い空も一緒に。

 けれど、それが出来ない理由が片岡には理解できていた。

 絵を完成させた後に、何度も感じるあのうんざりとした感覚。

 他人が見ているものと自分が見ているものが同一でないことを、片岡はよく知っていた。

 周りの子たちが美術に興味がないように、片岡にも最近のアイドルの話に興味はない。

 みんなに合わせて話は聞いて、盛り上げようと笑顔を振りまいているが、本当は少しも関心はないのだ。

 だから片岡は本当に描きたいものは描けなかった。

 自分の目に映ったものを美しいと思い、感動して、それをキャンバスに表現したところで、それを見た他人が自分と同じ気持ちになってくれないことを知っていたからだ。

 だから片岡は描かなかった。

 伝わらない寂しさを知っている。

 史と、友哉との関係を羨ましく思った。

 同じ気持ちの量だから、付き合っているのだと、彼女は信じていた。それが彼女にとっての希望でもあったかのように思う。

 ほんとうに同じ気持ちで互いを思い合うことができるのだと、史は証明してくれるのではないかと、期待していた。

 それが証明され、片岡の中にも光がさせば、きっとほんとうの絵が描けるのだと、片岡は信じていた。


 史はぼうっと水面を見つめた。

 母との会話の中で、自分が死にたくなったことに驚いたのだ。

 あの時死ぬことはやめたはずだった。しかし、史の内にはまだ死にたい、という感情が存在しているのだ。

(私は、生きていこうと決めたはず)

 水面に浮かぶ蓮の上に鮮やかな鳥がとまる。

 温室のその部屋には太陽の日差しが粒のように降り注ぎ、ため池を揺らす。

 あの海のあと、気配はすっかり消えて、翌朝、目を開ければ新しい太陽が昇っていた。白い朝だった。その日の光を浴びたとき、自分の中に死にたいという気持ちがなくなっていることに気付いたのだ。今までぴったりとくっついていた死神がいなくなったかのように。

「……」

 隣を歩く友哉を見る。

 背の高い彼は頭上を飛ぶ鳥に驚き、すっと頭を低くした。

 ばちりと目が合う。すると友哉は照れたようにはにかんだ。

「苦手じゃないですけど、間近で飛んでると怖いですね」

 そう言われて、史は苦笑で返した。

 目に入る景色はどこまでもうつくしい。温室で丁寧に育てられた草木は鮮やかな緑色を放ち、極彩色の鳥は頭上を飛び交い、高く声をあげて鳴いている。けれど、史の中にはため池に潜む暗闇のように、はっきりとした暗さが佇んでいる。

 あの海の日から、自分はどれほど変わったのだろう。

 心の動かない交際相手とのやりとり。家に帰れば、自分を追い込む母親の言動。不満を言わず、苦笑するだけの自分。

 孤独感や焦燥感でも怒りでもない。

 史の心の中には何もなかった。

 海の日から日々を数えて、どれだけあの日から離れようとも、離れるほどに、自身の心が何も感じなくなってくる。

 映える緑を見つめて、唇を強く結ぶ。

(そうだ、自分はあの日、すべてを捨ててしまったんだ)

 家族も職場の人たち、今まで関わった人、ここまで見てきた景色も、多く積み重ねてきた思い出も。史はすべてを捨てて、投げ捨てて海に行った。死のうとした。

(あの日に捨ててしまったものを、どうしても取り戻す気になれない)

 価値がないから捨てようと思ったのだった。あってもなくてもどうでもよいと思ったのだ。死んだらすべてが終わりになる。自分が死んだ後のことなんてどうでもいい。あとのことなんて自分には関係がないからだ。

 だから捨てた。それらの価値がないと決めて捨てたものたちに、再び感情が戻っているわけではないのだ。

 史は自分の心のむなしさに気付く。

「餌をあげられるみたいですよ」

 友哉はそう言って史に紙コップを渡した。中には鳥の餌が入っていた。

友哉のほほえみに拒絶する間もなく、それを受け取る。しかし、史は見る分には平気だが、鳥は苦手だった。動物の触り方など知らなかった。

「え……」

 突き返そうとした瞬間、柔らかく頬を撫でる風圧に目を閉じた。気がつけば、腕には軽くも確かな重みもある小鳥がとまっていた。鮮やかな黄色と朱色の彩りをたたえたその鳥は、怯える史を意に介さず餌をつついている。

「……」

 困ったように友哉に視線を送ると、友哉はにこにこ笑いながらその様子を眺めていた。

 腕にとまる柔らかな温かみに、不審なまなざしを送る。

 生きて食べているその姿が、ただ奇妙だと思った。

 すると、また一羽、史の腕にとまり餌へと進んでいく。食い込む爪が少し痛みを残すが、自分の元へ鳥がとまる姿に、だんだんと不思議さだけを感じるようになり、ぽかんと眺めた。

「重そうですね」

「思ったよりは、ぜんぜん」

 小さく答える。

 友哉は写真でも撮りますか? と提案してきたが、それは断った。

 一通り散策し、夕食のためにカフェへと入る。

 薄暗さも感じる落ち着いた雰囲気の店だった。アンティーク調の椅子に腰掛けて、友哉を真正面にして座る史。

「今日は一緒に出かけてくれてうれしかったです」

 交際関係だというのに、友哉は律儀にそうお礼をのべた。

 史はその言葉に照れ笑いをしてみせる。

「とても楽しかったです。鳥、はじめて触ったんですけど、かわいいですね」

 友哉との会話の中で、一番長い会話のような気がした。上機嫌さが伝わったのか、友哉はさらに嬉しそうに笑った。

 その笑顔に、史はほほえみながら、その心うちでは冷え切った感情を持っていた。

(どうして、こんなにも嘘をついてしまうのか)

 最初についた嘘を守り通すだけのために、こんなにも嘘を重ねることになるとは思わなかったわけではない。史にはこうなることがわかっていた。何故なら、こういう行為は史にとってはじめてではないからだ。

 今まで、ずっとそうして生きてきた。

 本心を隠すために嘘をついてきた。本当は誰にも関わりたくない、冷たい人間なのだと知られるのが怖くて嘘をついてきた。史は人間が嫌いだったが、ただ誰にでも好かれていないと気が済まなかったのだ。

 優しい人間を演出してきた。だから友哉からの告白も断れなかった。優しい人間は拒絶しないと思ったからだ。

 結果的に友哉に対して残酷なことをしているのだと、気付いたのは、こういう笑顔を向けられた時だ。

 友哉の今の幸せは、史が嘘をついていることで成り立っている。

 史の偽りの好きを信じて成り立っているのだ。

 そう考えると、自分は悪魔か何かのように思えてきた。人の心をもてあそんでいる。それが世間的に悪いことだと思うから罪悪感が募るだけで、史自身の心の中から罪悪感が現れているわけではないから、さらに史は気が滅入った。

(友哉さんのこの笑顔も幸せにも興味がわかない。あの時、捨てたときからずっと、変わらない)

 その事実が史を傷つけた。

 ねこに自殺しようとしたことを謝ろうと思いながら、でもそれがいえなかったのは、今、生きようとしていないからだ。嘘もつけなかったし、本当のこともいえなかった。それが悔しかった。

 ねこがあの時、自分のことを好きだと言ってくれた。ほんとうの自分がその好きだと言わしめる人物ではないことが、史は悔しかった。

 史も同じ青空を見たはずだった。けれど、ねこはずっと遠い。

「あの、史ちゃんがよかったら、なんですけど」

 友哉の声色は浮ついている。

 その耳障りな声に、史はそれでもほほえみを絶やさずに顔を上げた。

「今度、イルミネーションでも見に行きませんか」

 緊張も混じっていた。

 その緊張が史にも伝わったのか、史は一瞬どきりとした。そしてその一瞬間だけで、様々な思いが巡った。

(イルミネーションって、夜に見に行くということ? 絶対に泊まりになる。外泊の許可をお母さんにとらなきゃ……そもそも、この人と一日中一緒ということ? 絶対に無理。ずっと笑ってなきゃいけないの? 外って寒いでしょ。断る理由を……)

 そして、史は頷いた。

 それは今までと同じ理由だった。

 史は優しい人間なのだった。

 だから、断るという選択はしない。

「ほんとうですか? あ、夜に見に行くので、泊まりになってしまうんですけど……」

「大丈夫だと思います。両親には了解は必要ですけど、私の親は、たぶん、大丈夫」

 歯切れが悪くなりそうになるのをこらえる。

 自分は今、死にそうな顔をしていないだろうか。

 史はそんなことを懸念していた。

 しかし、舞い上がる友哉には自分の表情を伺う注意力など持ち合わせてはいなかった。

 史の痛みは、また一つ募る。


 夏子に外泊の許可をとろうと話題に出すと、夏子は友哉と似たような浮ついた雰囲気を醸し出した。それが史には腹立たしかった。

「あんたが泊まりなんてはじめてじゃない?」

「……」

 史は返事をしなかった。確かに史にとってはじめての外泊だった。学生の頃、一度誘われたことはあったが、その時は断ったのだ。親から禁止されていると嘘をついて、本当は、一日中優しい自分でいられる自信がなかったから。

 嘘をつくなら嘘をつき続ける努力を史は怠らなかった。

 もし自分が本当は冷たい、どうしようもない人間だと知られてしまったとき、手をついてみんなに謝らなければならないような気がしていた。そうして、もう生きることは許されないような気がしていた。

「寒いから暖かくしていきなね」

 夏子の言葉はひどく優しい。

 その優しさの裏では、友哉との結婚を望む姿が見えてきて、史は今すぐにでもこんなことやめてしまおうか、と考えた。しかし、優しい嘘をついて周囲から生かされてきた史にはできなかった。

(優しく穏やかな私で居続けなければ。冷たい人形だと知られないように。人間みたいなことをして、溶け込まなければ)

「写真、撮ってくるね。おみやげも、買ってくるから」

「そんな気にしなくていいの。楽しんできて」

 夏子の言葉に、史は照れたように笑った。

 嘘をつく度に、作り笑いをする度に、胸が痛むのを史は自覚していた。自分が選んだ生き方だというのに、何故痛むのかは分からなかった。ただ、最近その痛みが増したような気がしたのだ。

 相手が望む言葉がわかる自分が嫌だった。その言葉を平然と吐けることが悲しかった。

 胸が痛むごとに、ねこの顔がいつも思い浮かぶ。

 自分を偽ることができず、周囲とうまく交わることもできず、危害を加えられ、優しい性格を食われている彼の姿が思い浮かぶ。

 もっと賢く生きられる方法はあるはずだ。史はそれを知っている。

 でも、それを教える気は一切なかった。

(何故?)

 史は思う。

 答えはすぐにでる。

(当たり前だ。だってこんなの、全く幸福じゃない)

 史は知っていた。

 自分が賢く、愚かな生き方をしていることに。


「イルミネーション見に行くんですか!?」

 片岡の食いつきに、史は思わず身を引いた。

「うん。誘われたから」

「誘われた、ってデートでしょ。いいなあ、好きな人とイルミネーション!」

 片岡はひどく羨ましがって見せた。

 しかし、すぐににっこりと表情を綻ばせる。

「でも、わたしだって遊園地行くんですよ! クラスの人たちとですけど。でもね、その中に清水くんがいるんです!」

 どうやら意中の人と出かける約束をしているらしかった。

 片岡はくるくると回りそうな勢いで当日に思いを馳せる。

「冬の遊園地だってムードあっていいですよね。カップル多そうですけど」

「そうだね」

 青春を謳歌している片岡に、ついほほえましい気分になる。

 その後ろの、自分の暗い背景を見ないようにしながら、史は微笑む。

「イルミネーションって泊まりでしょ。いいなあ、好きな人とずっと一緒なの。学校の時の清水くんしかしらないから、普段どんななのかなあ。史さん、そのまま結婚しちゃったり! あ、結婚式行ってみたいから招待して下さいよ」

 片岡の話題はあっちこっち行く。

 結婚、という単語に、胸を刺されたような痛みを覚える。

 友哉と結婚する自分は容易に想像できた。自分も夏子のように、文句を言いながら不幸だと嘆く、ただの女に成り下がるのだろうか。

 恐ろしさを感じもしなかった。ただ、うまく偽り続けられるのか、また、あの夕日を見に行くことがないといえるのだろうか。それが不安だった。

 表情が暗くなりかける前に、片岡の隣に先生が立っていた。

「マキナちゃん」

 彼女を呼ぶだけで、あとはまなざしで威圧感を与える先生。

 片岡はあからさまに拗ねたような顔をして、

「はーい」

 と自分の席に戻った。

 彼女の前に立つのは大きなキャンバス。百号とせがんで手に入れた望みのキャンバスだ。

 下書きだが、観覧車を描いているような気がした。遊園地に行くことは前から計画されていたのだろうか、と史は思った。

 片岡はそれから黙って絵の制作に集中した。色を塗りながら、とまりながら、何かを楽しみにしながら。

 直線的な建造物の色は次々に塗り重ねられていく。

 ただ、空の色は白い。


 凍てつく空気が頬を刺した。

 日が沈むと急に冷え込んでくる。

 史は足下を照らし始めた照明に視線を落とした。

「そろそろですね」

 時計を見ながら友哉は言った。

 周囲にはカップルばかりだった。自分もその中に溶け込んでいるのであろう。その事実がもどかしく、そして悔しかった。

(一人でも見に来れた)

 そう思うが、今、隣には知った人がいる。

 優しく友哉が史の手をとる。そして恋人つなぎをした。その瞬間、母が送ってきたメールを思い出して、氷で頭を殴られたような気がして吐き気がした。

 何かにすがるように、友哉を見やる。照れたように顔をそらす友哉に、どうしようもないほどの愛しさと哀れさを覚えた。

(かわいそうに)

 胃から何かが逆流してきているような気持ち悪さを抱えながら、史は思う。そして史も友哉と同じように照れて笑った。その横顔を、愛を込めた瞳で見つめる。

「手、あたたかいですね」

 ねこと手をつないだことを思い出す。あの子の手は冷たかった。でも、柔らかくて心地よかった。

「寒くないですか?」

「いいえ。なんだか、恥ずかしくて、ぽかぽかしてきました」

 押し寄せる同情の念を突き返して、いじらしく愛らしい彼女のふりをする。

 太陽はすっかり姿を消して、あたりには小さな明かりが点々と灯り始める。写真を撮る音がし始める。史も夏子に見せようと携帯をとろうとするが、片手が塞がっていて叶わなかった。

 友哉は川辺のすぐそばに史を誘導した。向こう側の通路を眺める。

 すると、音楽が一帯に流れ始め、ぱっと一面に光が走る。

 カップルたちがため息に似た感嘆の声をあげる。

 史は人工的なその光に、目を細めた。

 隣に立つ友哉の方を振り向くと、友哉は熱っぽい瞳でイルミネーションを眺めていた。

 史ももう一度向こう側を見る。

 青く、白く光が並んで、足下には暖かなオレンジ色が灯り、木々がぱちぱちと瞬きするように輝いている。

 凍える冬の夜に、頬を刺す冷気の中で、冷たい光が並べられていく。

「きれいですね」

 友哉は言った。

「はい、きれいですね」

 史は復唱した。

(この人の目には、この景色がどれほど美しく映っているんだろう)

 川に揺らぐ明かりを眺めがら、史は遠い気持ちで思った。

「写真を撮りましょう」

 友哉は史の了承を待たずに携帯で二人の姿を撮ろうとする。

 拒否することもできず、史はその画面に微笑んだ。

 彼女が手をつないでいない右手を強く握りしめていることに、友哉は気付かない。

 それから二人は公園を一周し、予約していたホテルへと向かった。

 ホテルの部屋につくと、友哉は不意に史を抱きしめた。

「……」

 史は拒絶しなかった。

 強い力で抱きしめられて痛くもあったが、心は一切動かなかった。

 しばらくお互いに何も言わず、互いの体温だけを感じていた。

 友哉の心臓の音が聞こえた。

 それがひどく哀れに思えた。

(この状態は楽かもしれない)

 表情が見られる心配がなく、今、なんの感情もない顔をしている史は静かに思った。

「ごめんなさい」

 友哉は我に返ったように史との距離を自らとった。

「いいえ。びっくりしたけど」

 史は言って、

「でも、嬉しいです」

 と付け足した。

 友哉はまた嬉しそうに笑った。

 静かな部屋には自分の声と、友哉の声だけが響くのが気持ち悪かった。

 別々で風呂に入り、やがて、友哉が寝そべるベッドに史は進んで入っていく。友哉は史を招くように掛け布団をそっと持ち上げた。

(避妊はしなよ。お母さんはべつに、しなくてもいいと思うけど)

 夏子から送られてきたメールの内容を反芻する。

 どうしようもない吐き気に襲われる。

 心の芯がずっと冷たかった。

 イルミネーションの目障りな光と、冬の冷気がずっと残っているかのようだった。

 ベッドに入ってきたことが嬉しかったのか、友哉は史に優しくキスをした。

 嫌悪感でいっぱいになったが、史は驚いた表情をしてみせた。

「嫌でしたか?」

 友哉は気を使うように聞いた。しかし、その声色は心の底から確認したような色をしていた。

「……」

 史は沈黙を作った。

 やがて、友哉の胸に顔を埋め、首を振った。

「びっくりしただけ」

 史がわざと作った沈黙が気がかりだったのか、友哉はそれ以上は何もしてこなかった。

 友哉は史を抱きしめたまま眠る。

 史はその気味の悪い温もりを感じながら、一人、朝が来るまで冷たさに耐えた。

 翌日、帰路へつく二人。運転席に友哉が座り、助手席に史はいた。

 赤信号になり車は停止する。不意に視界の端に生き物がいることに気付いた。史がそっと顔をあげると、車窓の際に蜘蛛がいた。飛ばされない丁度よい位置で身を潜めているようだ。

 史はその蜘蛛をじっと見つめた。

 蜘蛛には右足の二本と、左足が一本なかった。さらに左の前足は一節欠けていた。

 史はその蜘蛛に少なからず同情した。

(目に見えて欠けているものは同情してしまう)

 史は思った。

(自分も、こんな風に欠けていたなら、周囲に哀れまれていただろうに)

 自分の身を引き裂きながら、上手に生きている自分を思った。ねこのように立ち止まることができていたなら、自分はもっと楽に生きられる。周囲もそれを許してくれる。

(目に見えて、欠けていたなら)

 歪な形をしていない己が悔しかった。

 張りつめていた糸が切れたとしても、誰にも気付かれない自分の分かりにくさが嫌だった。

 一人で帰ってきたあの海の日を思う。

 隣にいる友哉は上機嫌に見える。

 史はただ、ただ悔しかった。


 家の前まで友哉が来るのははじめてだった。今まで、家の場所を知られるのが嫌で、近づけなかったのが原因だ。

 夕食に誘われる前に、史は用事があるかのように友哉に言い、日が暮れる前に戻ってきた。少し赤い空の色が、史の心を多少落ち着かせた。

「お疲れさまでした。風邪とか、気をつけて下さいね」

 小さな子供に言い聞かせるように友哉は言った。

 それをくすぐったそうに受け取る史。

 友哉は史の顔をまたしっかり見て、幸せそうな顔をしたまま離れていく。

 史はその時、もう一つ何かしてやりたい、と思ってしまった。

 もう一つ、彼に自分のパフォーマンスを見せてやりたいと、思ってしまった。

 史は友哉の腕を引っ張る。

 友哉は驚いた顔で振り返った。史がじっと自分を見つめている。友哉は少しかがんで、史に一つ口づけをした。

 その口づけに史は満足したようにほほえみ、手を離した。

「じゃあ、また」

 友哉はめいっぱいの愛しさをこめて挨拶をした。

 離れていく交際相手を眺め、その場に立ち尽くす史。

 心はいつまでも冷たい。

 すると、視界の先に少年の姿を見て、史はどきりとした。

 彼の手にはカメラが握られており、いつもの散歩なのだと気付いた。

「……」

 何か言おうと思ったが、何も思い浮かばなかった。

「あの人が、友哉さん?」

 ねこが気を使ったように言った。

「仲よしだね」

 史は心臓がばくばくと鳴り、うまく考えることができなかった。

 けれど、彼の前では、嘘をついてはいけないと思った。このまま彼にさえ嘘をついてしまったら、自分はほんとうに人間に成れなくなる気がした。

「ほんとうは、好きなのか、分からないのにね……」

 そう弱々しく告白すると、それが本当のことだからなのか、やっと言えた秘密だからなのか、心がすっと軽くなった。

 しかし、ねこはショックを受けたような顔をしていた。

 カメラを力強く握りしめ、何かに耐えるようにふるえをおさえた。

 そして史を見据える。その瞳は失望の色をしていた。

「あんなことをして、一体どうやって幸せになるの?」

 冷たい言葉だった。

 史ははっとしてねこを見据えた。

 ねこの瞳はうるんで揺れている。唇を強くひいて、必死に耐えているように見える。

 それはねこの嫉妬心も混じった言葉だったが、史は殴られたような衝撃を覚えた。

 自分の幸せを願ってくれているねこの思いを無碍にする行為であったことは、史にでもすぐに分かった。

 ただ、その言葉が史の胸に刺さって抜けない。

「……」

 まったくその通りで、史は何も言い返すことができなかった。

「あら、お帰り」

 玄関から夏子が顔を出した。

 話し声が聞こえたから出てきたのだろう。あたりをきょろきょろみまわして、史に言った。

「友哉さん、来てたんじゃないの?」

「……もう帰ったよ」

 史はなんとか振り絞って答えた。

「あら、ねこちゃん」

 夏子は二人の様子を意に介さず、にこりとねこに挨拶した。

 ねこは夏子に人見知りをしているせいか、おずおずと会釈するだけだった。その会釈を別れの合図にしたのか、ねこが立ち去ろうとする。

「あ、ねこくん、お土産」

 史はとっさにねこを呼び止めた。

 こんなことになってしまって、渡すわけにもいかないと思ったものの、このままねこと別れるのは憚られた。話題のきっかけとして、史はねこに寄って紙袋を渡す。

「みんなで食べて」

 懸命に笑顔を作る。

 ねこは暗い顔で紙袋を受け取った。

「ねこちゃんなら結婚式ぐらい呼んでもいいかもね」

 不意に夏子が水を差すように言い放った。

 二人は固まった。

 夏子のその発言は牽制のようでもあった。夏子は二人の仲が良いことをあまり良く思っていない。それよりも、友哉を優先してほしいと願っていた。

「……史ちゃん、結婚するの?」

 おそるおそる尋ねてくる、目の前の少年の顔は暗い。

「……」

 する、とも、しない、とも答えられなかった。

 それは今までの自分の生き方が落とした影だった。

 ねこの前ではほんとうのことを言わなければならない。そうしなければ、自分は本当に人間として終わってしまう。けれど、夏子の望む答えを言いたがる自分もいる。

 夏子の機嫌を損ねると、史はどこに行ったらいいか分からなくなってしまうからだ。

「……」

 何も答えずにいる史を見て、ねこはその暗い表情のまま微笑んだ。

「お土産、ありがとう。お母さんとお父さんと、食べるね」

 優しく労るような声色だった。

 その声が、史にはひどく痛々しかった。

 ねこがいなくなり、振り返ると夏子の姿もなかった。

 史は一日ぶりに自宅へと帰ってきた。

 リビングに行くと、夏子はソファでくつろいでいる。

「……」

 史は声をかけずに自室に向かおうとした。

「お土産は?」

 史の気配を感じた夏子の声が飛んでくる。

 何も持っていない自分の両手を見つめた。

「ねこくんのしか買ってない」

 と、半ば反抗的に返すと、

「えぇ、ありえない」

 夏子の声がした。

 史は自分の部屋に戻った。

 扉を背にして立ち尽くした。

 何もかもが暗く沈んで見える。

 おなかの底から黒いものがわき出てくるようだった。

(どうして、どうして)

 ぐるぐると考えた。

 ねこのあの瞳が忘れられない。自分の幸せを願うねこが、あの瞬間、どれほど失望したことか。

 歩道橋にいたねこを呼び止めた自分が、どれほど卑怯で無責任だったのか、史は思い知る。

(どうして自分を大切にできないんだろう)

 史は唇を強く結んだ。何かが漏れ出てしまわないように、押し込めた。

 そして、今まであった嫌なことをたくさん思い浮かべた。

(幼稚園で、友達が作れなかったこと)

(小学校の時、授業中騒がしい子たちを注意して、死ね、と言われたこと)

(病院に行ったとき、恥ずかしくて挨拶ができなかったら先生に注意されたこと)

(報告しなきゃいけない仕事をずっと黙って叱られたこと)

(保護者からの伝達の欄は、いつも「母」としか書いてくれなかったこと。それを、先生が私が書いていると疑ってきたこと)

(勇気を持って手をあげて発表したら、間違っていたこと)

 覚えている限りの恥ずかしかったこと、嫌だったことをとにかく思い浮かべた。今の自分を罰することが、史の贖罪だった。

 心が痛かった。

 とにかく心が痛くて、耐えきれなくなって、遂に涙を流しかけた。

 すると、部屋に茜色が差していることに気付いた。

 もうすぐで日が沈む。

 史ははた、と回想をやめて、その茜色を見つめた。心のうちが痛むほどに傷ついている。とにかく胸が苦しい。

 しかしその光は史の罪悪感を消していくようだった。

 そして振り返り、部屋を出て外にでた。

 何も考えてはいなかったが、確かに足はどこかへ向かっていた。

 冷たい風が頬を刺す。強い風に我に返ると、歩道橋にのぼっていた。

 あの日、ねこがいた場所にいた。

 夕日の赤色が世界を染めていた。

 この夕日を見るのは三度目のような気がした。

 史は橋の欄干に手をおいた。

 夕日を眺める。自分も通っていた中学校が見える。

 ねこの居場所がない中学校が見える。

 足下には車の往来の気配がする。

 夕日が眩しくてふと顔をそらすと、誰かが自分の腕を掴んだ。

 びっくりして振り返ると、そこには彼がいた。

「ねこくん……」

 目を丸くして少年を見る。

 ねこは肩を上下させて、真っ青な顔で史を見ていた。

「だ、だめだよ」

 つっかえながら、ねこは訴えた。

 史は一体何のことを言っているのか検討がつかず、きょとんとした。

 その反応に今度はねこもきょとんとして、やがてかっと顔を赤らめた。すぐさま手を離して後ろに距離をとる。

「えっと、史ちゃん、なんでここに?」

「なんでだろう……夕日が綺麗だったから?」

 まじまじ聞かれると、何故ここにきたのかは分からなかった。海へ向かったときとは違う感覚だった。あの日は、確かに死のうとして、覚悟を持ってあの場所へ足を向けたのだ。

 今は、どうしてなのか分からなかった。

 夕日を見つめて答えを探す。

(あの日、死のうとしたのは自分を思ってのことだった)

 史は思う。

(自分を守ってやりたくて、辛さから逃げようとしたんだ)

 今の自分にはそんな覚悟さえなかった。

 とにかく心が傷ついてしまえばいいと思っていた。

 それがとても悲しかった。

「……自分を大切にして生きていきたかった」

 小さく呟いた。

 それはねこに向けて言ったのかもしれなかった。

 その言葉を受けたねこは、とても嬉しそうに笑った。

「史ちゃんだって、ゆっくり生きていければいいよね」

 のんびりと、願うように返した。

 史はねこを振り返り、にじんだ瞳で確かに頷いた。

 夕日が二人の顔を赤く染めている。

 影は重なり合って一つになる。

 茜色は世界をどこまでも照らしているような気がした。


 美術教室に着くと、珍しく片岡だけがいた。

 暖房をつけはじめたばかりなのか、外の温度と大差なく、肌寒かった。

 片岡は百号キャンバスを目の前にして、ぼーっと自分の書き途中の絵を眺めているようだった。

「こんばんは」

 挨拶をすると、やっと史がいることに気付いてたのか、片岡はそちらに視線を向けた。

「こんばんは」

 返事をしたが、その声色に元気がない。

 先日、遊園地に行く、といってはしゃいでいた彼女とは思えない落胆ぶりだ。

 史は心配になったが、わざわざ話しかけるまでもないと思い、自分の席に座った。

 片岡の傍らにはココアの缶が置いてあった。

「……」

「……」

「……先生、家に忘れ物したから取りに戻ってる」

 片岡はぽつりと言った。

「そうなんだ」

 史は気まずい雰囲気を感じながら頷いた。

「……」

 片岡の手は進んでいない。ただ、観覧車と思われる線を眺めている。

「息詰まってるの?」

 史はおずおずと尋ねた。直接聞くことはなんだか憚られた。

 史は片岡が彼に振られたと思った。

「うーん、なんか、描く気失せちゃって」

 椅子に片足をあげて、行儀悪く座りながら、悩んでいるようだった。

「あ、この間遊園地行ったんですよ」

 思い出したように、片岡は史に言った。その様子はとても軽く、何かあったようには感じられなかった。

 彼女はほんとうに絵に息詰まっているだけのようで、史は少しほっとした。

「で、なんと最後に観覧車乗ったんですけど、その時に清水くん指名で二人っきりになったんですよ!」

 きゃっきゃとはしゃぐ片岡。

 遊園地は楽しい思い出となっているようで、史はうんうん、とうなずきながら自分の支度をし始めた。

「清水くんと二人とかはじめてだし、めっちゃ緊張したんですけどね、めっちゃ嬉しくて舞い上がっちゃって」

 片岡は史に体を向けた。

「で、清水くんから告白されたんだけど、断っちゃったんだよね」

 史はその一言に、一瞬手がとまり、驚いた顔をして片岡をみた。

 彼女はさして気にもとめた様子もなく、平然と言っているようだった。

「どうして?」

 思わず聞いてしまった。

 片岡はきょとんとした顔で、史をみた。その反応に、こちらが間違っているんだろうかと不安になった。

「なんだろう。真正面から見ると、そんなにかっこよくないから?」

 首を傾げて、曖昧に答える。

「なんていうのかな。部活やって一生懸命なとこがかっこいい、みたいな……わたしのほうを見ていない時が良い、みたいな」

 最後の言葉に自分で納得したのか、そんな感じ、と付け加えた。

「もちろん、清水くんと付き合えばもちろんめっちゃ幸せだけど、べつに今はいらないかな、みたいな」

 その一言で史は気付いた。

(片岡さんは幸せになる気がないひとなんだ)

 そう考えている人を、史は身近で一人思い当たった。

(不幸なままでいたほうが楽だと思っている人なんだ)

 史はそう思っても口にはしなかった。

 片岡はそれで満たされているようだったからだ。

 教室の暖房が部屋中に循環しはじめて、冷たさもなくなってきた。

 片岡は傍らにある缶を持ち上げる。

「清水くんを見てるときの空、青くて綺麗だったんだよね」

 誰にあてるでもなく。

「夕日だったからだめだったのかな」

 そうして一口、ココアを飲む。

「あーあ、冷めちゃったな」

 彼女はぽつりと呟いた。


 史が仕事から帰ってくると、夏子が一人、座っているのが見えた。

 今日も仕事を休んだらしい夏子は、書類を眺めているようだった。

「史、ちょっといい?」

 いつもはおかえり、とだけ言う夏子が史を呼び止めた。

 史は首を傾げて、夏子の声に素直に従う。

 食事をするテーブルに、いつものように自分の席に座った。

 夏子は真正面に座っている。

 その書類を見ると、離婚届と書いてあった。

 それを見て、史はなんとも思わなかった。

 夏子は史がその紙を見たことを確認すると、口を開いた。

「離婚することにしたの。来週、出て行くから」

 冷静に言い放つ。感情の読めない声だった。

「……」

 正直、史にとってはどうでもいいことだった。ただ、母がいなくなることは自分にとって良いことのような気がした。

「お父さんは?」

「お父さんは、良いって。史も、もう子供じゃないし」

 父は人の意見に口を出すような性格ではない。史のことも自由に育ててきた。夏子のことは、あきらめていたように思う。

「……そう」

(来週)

 史は思う。

(来週、お母さんがいなくなる)

 今日は金曜日だった。美術教室の日だ。それから土日が来て、月曜日には、夏子はいなくなる。

 史は止める言葉を一切考えていなかった。

 ただ、これだけは言わなければならないと、頭に浮かんだ言葉を必死に口に出そうとしていた。

 声が震えるのではないかと思った。

 何故なら、それはほんとうのことだからだ。

「これは、私のほんとうの気持ちじゃないかもしれないんだけど」

 史は言った。柔らかく聞こえるように前置きをしたわけではなかった。口に出そうとしてみると、ほんとうに、これが史が思った本心なのかが自分でも分からなくなった。

 ただ、心の底から貴方が嫌いだと言いたかった。たとえ、この身が引き裂かれるほど傷ついたとしても。

「私、お母さんと縁を切りたい」

 史は真っ直ぐに夏子を見た。

 夏子は驚いた顔をしていた。

 しばらく沈黙があったが、夏子は笑った。

「お父さんと離婚するだけで、史はずっと私の子供なんだら……史は決めなくてもいいんだよ」

 と、窘めるように言った。

(届かない)

 史はふっと寂しくなった。

 夏子は自分の都合の良い言葉しか聞き入れない。それは、ずっとそうだった。史が夏子と出会った時から、ずっと。

(そう、私は知っていた)

 史は目の前に座る女の優しい微笑みに応えて、やわらかく微笑んだ。

(ほんとうのことを言っても届かない。だから私は嘘を吐くんだ)

 夏子は父と縁を切るなら自分も切らなければならないのか、娘が心配しているのだと解釈した。

 夏子はそういう女だった。

(そして、嘘をついてばかりの私だから、ほんとうの言葉も届かない)

 史は立ち上がった。

 もうこの場所にはいたくなかった。

 まだ日は沈んでいない。どこか散歩でもしようか。

 とにかくこの家にしばらくはいたくなかった。居場所がないような気がした。

 夏子がいるかぎり、ずっと。

「お母さん」

 史はリビングを出かけて、立ち止まった。

「私は、お母さんが幸せなのが一番だと思うよ」

 これが母に送るめいっぱいの愛をこめた嘘だった。

「あと、友哉さんとは別れたから」

 これは本当のことだった。

 史はそう言い残して立ち去った。

 靴を履き、玄関の扉を開く。

(お母さんはお父さんと離婚しても幸せにはなれない)

 史は知っていた。

 夏子はあの青い空を知らない。

 片岡と似ていると思ったが、片岡は自分の幸せの在処を知っているような気がした。知っていてなお、手に入れることはしなかったのだ。夏子は幸せの在処も、手がかりも知らない。

(幸せをくれる誰かをずっと待っているだけ)

 いつかそんな人が現れると良い、とも思った。

(私の知らないところで、お母さんが幸せになれると良い)

 のどの奥が熱かった。

 扉を開き、史は家をでた。


 歩いていたように思ったが、もしかしたら走っていたのかもしれなかった。

 ただ涙がこぼれてきたから息が苦しかったのかもしれなかった。

 史は誰にも気付かれずに、泣きながら進んでいく。声をあげずに、ただ流れてくる涙を拭うこともしなかった。

 もうすぐで日が沈む。薄く茜色がかかる雲が流れている。

 それでも、まだ青空は残っている。

(あぁ、あぁ……!)

 思い浮かぶのはあの少年の顔だった。

 自分の幸せを願ってくれた彼を、好きだといってくれた彼の名前を心の中で呼んだ。

 自分のことは大切に思えない史が、自分を大切に思うための手がかりをくれた人。

 彼の名前を呼べば、勇気がもらえるような気がした。

 あの青空を願った。夕日の中でも、ずっと青くあってほしいと願った。

「……ねこくん」

 史は思わず呟いた。

 いつの間にかたどり着いた公園に、彼の姿があった。

 ねこは木の枝にぶら下がっている布の袋を懸命にとろうと腕を伸ばしていた。学ラン姿の彼を、久しぶりに見た気がした。

 給食用の袋であろうそれを、ねこはとろうと必死に背伸びしている。

 史の涙はとまっていた。

 涙の後が残った視界はきらきらして見えた。

「どうしたの?」

 後ろから声をかけると、ねこはびくりと肩を震わせた。

 こんないたずらをしたのが誰なのか、史は検討がついていたが、何も知らないようなふりをした。

「いたずらされちゃって。持って帰らなきゃいけないのに」

 ねこは少し頬を膨らませて拗ねたような顔をした。

「ちゃんと洗わないと。今日はちゃんと使ったから」

 その言葉に、史は驚いた顔をしてねこを見た。

 彼の姿と、鞄と、袋を見て、史は喜んでしまいそうになるのを抑えた。大げさに反応するのは良くないと判断したのだ。

「私がとるよ」

 身長は史の方が少しは高い。

 史が木の幹に手をついて、袋に手を伸ばした。

 指の先が少し袋に触れる。

 木の葉の間からのぞく光が眩しくて目を細めた。

「届きそう?」

 ねこは心配そうに聞いた。

 史は頷いた。

「うん、あとちょっと」

 夕暮れの気配がする。

 それでも、青い空はどこまでも続いていることを、知っている。








第37回太宰治賞の一次通過をしてくれた作品でした。

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