表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オテロ 1  作者: 裏表逆
4/4

オテロ 4

周囲で起こった非日常である事件に引かれた大衆は、掃いても掃いても埃の様に数が減らない。

そればかりか、不用意に教会の階段を登って礼拝堂内を撮影しようとした非常識な若者が何人かいたため、警官は余計な所にも人数を割かれるハメになり、レオは頭を抱えた。

「ダメか」

「ええ。呼びかけにも応じません。しかも、スモークを張るってどんな意図があるんでしょうね?」

「分からん。とりあえず、裏から入れ。苦肉の策だが外からの呼びかけに応じないなら、直接会って話すしかないだろう。刺激しないよう言っておけ」

正直なところ、即座に踏み入って制圧したいレオだったが、人質の存在とギャラリーの目がそれを許さない。とは言え手を打たずに、時間を消費する訳には行かないし、何をするにもまず状況を把握したい。

現状打破のために、彼は警官二名を礼拝堂裏から内部に潜入するために向かわせた。



「これは、お前には似合わない」

膝蹴りを叩き込んだ瞬間に、彼女の首からちぎれた十字架をコートのポケットにしまいながらピエトロは言った。

「くはっ。が、かはッ。……何故? 何故ッ?」

マリアは呼吸が落ち着いてついてきたのか、片肘をついて身を起こしながら、ひたすらに問う。

「動きが読まれていた事が疑問か? 実はな、あれはカンニングだったんだ」

「な、にぃ?」

 当然、その説明ではマリアは理解できない。

 彼女が持つ唯一の欠点。

それは拳法の修行をした相手が美鈴のみだったことだ。それは彼女の戦闘での動きから読み取れた。今までの様に一撃で倒されている内は読みようがなかったが、こうして数十に及ぶ攻防を繰り広げると、彼女の動きに美鈴の動きが驚くほど重なるのだ。

「メイリンさんにのみ仕込まれたお前の動きは、完全にメイリンさんという教科書に沿って動く。攻め方も守り方もな。だから、彼女の攻め方の中でも一番明確に覚えていた劈掛拳を取る様に誘導させてもらった」

「だから、わざと、あの構えを、とったのか」

 美しかった鈴の音の様な声は、いまや憎悪と殺意でファラリスの牡牛から聞こえる様なおぞましい音となっていた。

「プライドの高いお前ならば、きっと引っかかってくれると思っていた」

劈掛拳の構えを取る事自体が策だったため、罠であることは彼女にも分かっていただろうが、同時にそこに秘められた挑発にマリアは強く反応してくれた。彼女がもっと冷静であったなら、今倒れていたのは自分だったかもしれない。

「貴様、卑怯、だぞ」

「言っただろう。僕は薄汚い殺し屋だと。……それより、良かったじゃないか。裏社会に行って、慢心によって死ぬ前に安全な刑務所に直行できて」

 ピエトロのその発言を聞いて、マリアは大きく目を開いた。

「な、何を言っている?」

 ピエトロは僅かに顔を伏せながら言った。

「……最後のチャンスだ。僕と一緒に罪を告白して法の裁きを受けろ。でなければ、殺す。お前を業界に行かせる訳にはいかないからな」

 言葉に反して殺気を緩めることなくピエトロが言う。

「ふっ、私が捕まる理由がないが? 証拠が無い」

「あるさ」

 それを聞いたピエトロはいつの間に手に取っていたのか、コートのポケットから先ほど彼女が脱ぎ捨てたベールを取り出した。

「……貴様、まさか……」

 ピエトロは、そのベールを強引に引き裂いた。

「これが無ければ、お前は自己暗示がかけられないんだろう?」

「きっさまああッ」

 彼につかみかかろうとしたマリアを、ピエトロは瞬時に抜いたM八四を突きつけることで止める。

 読み通りだった。

マリアの自己暗示の条件は、ベールないし、何かしらの被り物を身につけることだった。どうして暗示のきっかけをそんな面倒なことにしてしまったのかは彼女のみぞ知ることだが、今はそれが仇になってしまっていた。

今の悪に満ちた彼女の顔を見て、一体誰が擁護するだろうか? 最悪は別人扱いされる可能性があるほどに彼女の持つ二つの気配は真逆なのだ。

「待って」

 しばし無言で睨み合っていたが、突如声をかけられた二人は申し合わせたように教会の奥に続く廊下、そこに立つ人物を見た。

「な、何故、君がここに!?」

「……」

 驚愕するピエトロと、その者から顔を逸して沈黙するマリア。

「金髪のお兄さん。その子を殺さないで」

 怠惰な雰囲気が特徴的だったその第三者は、礼拝堂裏にある宿舎などに通じる廊下の向こうからゆっくりと入ってきた。

 しかし、その顔は普段のように落ち着き、たるんで伸び切ったものではない。声も間延びしておらず、引き締まっていた。緩んだ目も今ははっきりと開かれている。

 外に出た後、教会の裏から入って来たのだろう。このマリアを救出するために。

 アンジェリカは無数に切り裂かれたマリアを見て、苦し気に一瞬目を閉じたが、すぐにピエトロに振り向いて優しい口調で言った。

「お兄さん。あんたが何でこんなことをするのか分からないけど、その子に危害を加えるのはお角違いだよ。その子はここ最近あんたのことで散々悩んでいたんだ。心配だって、何とか助けてやりたいってね。だから、その子の願いと救済を仇で返すようなことは、これ以上、しないでよ」

「アンジェリカ……」

 ピエトロは呟いた。彼女の友情に心打たれたのだ。もっとも、それは彼女の本性を知らないが故の擁護であろう。いや、彼女ならば真実を知った後でも変わらずに接するような気がする。間違った彼女を元に戻すために全力を注ぐだろう。

「アンジェリカ。あなたは以前言っていたね。もし捕まったら、その犯人をストックホルム症候群にしてやると。無血、無論争で解決すると。できるのかな?」

 マリアが彼女から顔を背けたままに言葉を紡ぐ。角度的にその顔はピエトロからも見えないが、口調は表の彼女のものに戻している。

「おう。任しといてよ。三人で助かろうじゃん」

 アンジェリカは微笑みながら確かにそう言った。「三人で助かる」とそう言った。この場にいるのは、間違いなくアンジェリカとマリアとピエトロの三人のみ。彼女にとって、救われるべき人間は二人だけのはずだ。

「……まさか、君は僕すらも救おうと言うのか?」

 ピエトロは、息の詰まる苦しさに胸を抑えながら問い、それに対してアンジェリカは酷く楽観したような口調と、溢れんばかりの笑顔で言った。

「もちろんだよ。今回のこれだって魔が刺しただけでしょ? 本当のあんたはずっと優しい人のはずだよ。一度会っただけだけど分かる。あんたはむしろ神父向きの性格だと思うよ? これが終わったらここの神父になれば? 罪さえ償えば、あんたを敵視するような心の狭い人間は、この教会には一人もいないんだからさ」

「……」

 溢れかけた涙を冷徹な感情で蓋をして抑える。ここで心を崩したらマリアの思うツボだ。小さく深呼吸してからピエトロは目付きを厳しくして言った。

「……アンジェリカ。この女は、君が思うような女じゃない。騙されているんだ」

「……信じられないな。その子とは、ここで四年間過ごしてきたけど、気弱で、ドジだけど、誰に対しても優しい子以外には見えなかった。まあ、その子、拳法習ってるから実は強いんだけどね」

 アンジェリカはピエトロを落ち着けるためなのか、努めて気楽な口調で話す。

「なら、こう考えるといい。君の眼によれば僕は優しい人間だ。それなのに、彼女を殺さざるを得ない程に追い詰められた。他ならぬ、彼女によってね」

 心臓に杭を刺されるような思いをしながらも、ピエトロは気軽に話すアンジェリカを無視して淡々と告げた。

アンジェリカは若干目を伏せ、真顔になって考える。

「……マリアがあんたに何をしたのかは知らない。でも、これ以上のことをしたら、悲しい思いをするのはお兄さんだよ。後、お兄さんの周りにいる人も、マリアの周りにいる人も悲しむ。……死は何も生まないよ」

 ピエトロはアンジェリカを見た。

 彼女は本気で彼自身を憐れみ、周りの人間が背負うであろう悲しみを嘆いている。彼を諭すのは、助かりたいという我欲だけではなく、彼自身を救いたいという博愛も内在している。その献身的すぎる姿勢にあの少年が被る。憎いであろう相手に向かって、救済を示すその深い愛が。それが可能な程の心の強さと優しさが。

「分かっているさ。それは、よく知っている」

この場において喪失による悲しみと死の無意味さを一番理解し、身に刻んでいるのはピエトロだ。彼が睨む人物がそれを丹念に教えてくれたのだから。

 アンジェリカは、ピエトロとマリアを交互に見比べる。ピエトロが嘘をついているとは思っていないようだが、さりとて、それを容認することを無意識にも拒絶しているようだった。

 やがて、自分では対処し切れないと思ったのか、アンジェリカは沈鬱な顔のまま言った。

「……お兄さん。とにかく一緒に表に出て欲しい。警察には、私からも事情を言うから。続きはそれからゆっくりと……」

「ああ、もう全然ダメだな、アンジェリカ。やはり、お前の言は理想論だったようだ」

 慈悲深き修道女の健闘を、悪魔の権化が鼻で嗤う。さも下らないと言った具合に。

 その普段聞き慣れないマリアの声音に、アンジェリカは怪訝そうに彼女を見ると、マリアも彼女に振り向いた。

猛禽類の様に鋭い目に狼の様な口を歪ませ、蛇の様な舌がその唇を舐める、この世の邪と悪を結晶させたようなその顔を、アンジェリカに向けたのだ。

「…………ッッっ!?」

 アンジェリカが息を呑む。

驚愕のその表情は、誕生日の祝いに屍山血河の光景を贈られたような、親がわが子を殺し、犯している様を見てしまったような、そんな表情だった。

闇を知らぬ者には想像もつかないものだったに違いない。彼女は金縛りにあったように視線も、体すらも動かせずに固まってしまった。

マリアは、救出に来てくれた友人の悲劇を見たいがために、正体を明かさずにいただけだったのだ。

混乱の極みに陥った彼女の姿を見たマリアは、高らかに笑った。

「きぃはははははははは。いい顔だぞ。お前の健闘は散々な結果だったが、構わん。十分にお前の道化ぶりは堪能させてもらったからな。あっははは、やはり、喜劇は友と見るに限るな。その友が劇に参加していれば、より面白いものとなる」

「貴様ッ」

ピエトロは、顔を怒りに歪めてマリアを威嚇した。流石に今の状況ではピエトロを恐れているらしく、マリアは口を閉じたが、アンジェリカを見るその顔から、獲物を追い詰めて嬲り殺すことに喜びを見出す獣の笑みが消えることはない。

 アンジェリカは、がくがくと脚を震わせて、尻もちをついた。

「あ、ああッ、あんた、だ、誰っ? ……マ、マリア、は、どこに?」

 もう理解が限界を超えているのだろう。哀れな修道女は震え、かすれた声でそう言うと、彼女が探しに来たであろう心優しいマリアを探すためか、迷子の子供の様に周りを見回し始めた。

「おかしなことを言う。お探しの者はここにいるだろうが? んん?」

マリアは、ピエトロがアンジェリカに気を取られている隙をついて、座り込んでいるアンジェリカに瞬時に近寄ると、彼女のベールを乱暴にはぎ取った。アンジェリカは碌な抵抗もできず、隠れていた茶髪のショートヘアが露になる。

「立て」

マリアは、彼女の腕を引いて無理やり立たせると、ベールを持ったままの左手を背後から腹にまわし、右手を「酔盃手」の形にして、彼女の喉に食い込ませた。

「くッ」

 ピエトロは油断を嘆いた。まさか、まだあの速度で動けるとは思っていなかったのだ。

マリアはアンジェリカのベールを手に入れて、自己暗示をかけるつもりだろう。

しかし、それを手にしたところで、ここから逃げられなければ意味がない。今の弱った彼女に彼の足から逃げる手段があるわけもない。その考えも油断に繋がった。

「……お前、どうやら罪を償うつもりはないようだな」

彼女を見たピエトロはそう言った後、小さく唇の端を噛んだ。

対してマリアはにやりと嫌な笑みを見せると、茫然としたアンジェリカを盾にしながら、未だに白い煙が充満している礼拝堂の扉に向かい始めた。

どこかの窓が開いているらしく、煙は徐々に減ってはいるが、まだまだ外から中の様子を伺える程ではないため、人質が、救出しにきた人間を盾にして犯人から逃げるという常識外れな光景が見られることはない。

「……マ、マリ、ア。ま、りア。……ダメだよ。コ、ンな」

「やかましい。黙っていろ」

哀れな人質は、悲しみと恐怖が入り交じった目から涙を流しながら、魚の様に口をパクパクと開いて虚しい呼びかけをしているが、背後の悪魔にそれが届くことはない。

二人はじわじわと礼拝堂の中央、信徒席の列の間をゆっくりと後退していく。壇上のピエトロは人質の喉がちぎられることを恐れ、そこから動けない。

「……」

まずい。ピエトロは思った。

アンジェリカのベールを奪って本性を晒したということは、つまりアンジェリカはここから生きては出られないということだ。

マリアは、煙で見えなくなっている扉付近でアンジェリカを殺して口封じした後に、ベールを被って外に逃げるつもりだ。表の姿で、自分の代わりにアンジェリカが犠牲になったとでも言えば、この状況で彼女を訝しむ者は一人もいない。適度に傷つけられた体がより強い説得力を持つだろう。全ての罪はピエトロが被ることになる。それは構わない。アンジェリカは死なせるつもりはないが、罪は自分が被ってもいい。だが、彼女を逃すことだけは許されない。それだけは決して。

二人は、礼拝堂の中央までさしかかった。煙で見えなくなるまで後十歩というところ。

 ピエトロは、どんな状況になっても対処できるように、体を待機させておく。彼女が殺しをする際に発生する殺気を感じた瞬間に、ピエトロも瞬時に対応するつもりだった。

 しかし、彼女も武術家として気配の察知は可能だろう。ならば、彼女が煙の中に入って視界がゼロになっても、それに乗じて彼女に接近することはできない。この壇上にいたまま対処しなければならないのだ。

もう、祈ることしかできない。

思えば、彼はギャンブルが嫌いだが、この人生の内で神頼みは多かった。もっとも、神がこんな殺人鬼の祈りを聞くことはなかったが。

その厳しい現実に薄く口元を歪める。

 しかし、自らの皮肉を嘲るためのその笑みが、結果的に良い方向に導かれたのは、間接的な神の加護だったのかもしれない。

 彼の笑みを余裕の表情として見て取ったマリアが、警戒心からその歩みを慎重なものへと、つまり小刻みな歩へと切り替えたのだ。

 そのために、マリアはそれを踏んでしまった。そのままの歩幅で進めば踏まなかったであろうそれを。足元を舐める煙のせいで見えなかったという奇跡も相まって、隙のない彼女をしてその偶然に足をかける結果に繋がった。

「っくッ」

 後一歩で煙の中に身を隠せるといったところで、マリアはアンジェリカと共に仰向けに転倒した。

――今だッ!――

それと同時に、カラカラと音を立てながら壇上の方に弾き飛ばされてくるものがあったが、ピエトロはそれに一瞥をくれることもなく二人の方へと踏み出していた。

 彼女が滑って転んだ瞬間に、その原因を悟っていたからだ。

彼女が自ら蒔かせた種、彼の緊急の逃走手段。既に煙を出し終えて役目を果たした円筒状の発煙筒を踏みつけたということは、予想がついていた。

 ピエトロは、二十メートルの距離を瞬きの間に半分以上縮めながら、銃の照準を彼女へと定めた。

 マリアは転んだ瞬間に、条件反射で受身を取ったことでアンジェリカから手を離していたことも僥倖だったし、アンジェリカは倒れた反動で、彼女の腕の上に乗ってしまったのだが、それが結果的にマリアから回避行動を奪うことに繋がった。

 マリアがアンジェリカを盾とすべく、その腕を引こうとすると同時に、ピエトロは引き金を引いた。

 

 

乾いた音が礼拝堂の中から聴こえ、場の空気は一層重くなった。だが、大衆の生み出す騒音はそれに刺激を受けて更に増すばかり。

「たった今、礼拝堂内から銃声が聞こえてきました。犯人が立て篭ってから三十分以上が経過しています。人質は無事なのでしょうか?」

「ええ~~、殺されちゃったのかなあ? それとも犯人が自殺とか?」

「映画みたく、人質が銃を奪って反撃したのかもよ」

 無責任な発言が飛び交う中、レオは顔を引き締めて思案した。

結局これだけのことをしておいて、要求なし。周囲を警官達に囲まれ逃げ場はなし。愉快犯にしては人質殺害はやりすぎと言えるし、そもそも、あのスモーク故に犯行現場の緊張を大衆に見せようとしていないあたり、愉快犯でもないのかもしれない。

となると、個人への怨恨かとも思うが、人質の人柄からそれは考え難いし、それにしては自分の存在をアピールしすぎている。

とにかく、人質が撃たれたのであれば、救出するしかない。レオは正面から急襲するように無線で指示を出そうとした。

その時だった。

彼の真後ろに、トラックに似た形の黒い装甲車が、タイヤがアスファルトを擦る音を立てて止まった。

思わず振り向いたレオは、車の側面に横一文字に引かれた特徴的な赤の線と、そのトラックのコンテナ上部に書いてある、部隊名を見て驚愕した。

「カラビニエリ?」

停車と同時に全身を黒で統一された戦闘服を着た完全武装の男達が計六人降りてきて、その部隊の班長らしき男が、レオの元に近づいてきた。

「あなたが責任者ですか?」

「ああ。そうだが、あんた達は……」

「今からここは、我々の指揮下に入ります。陣を解いて下さい」

「馬鹿な。どうしてこんな事件にあんた達が来る? それにその武装はどういうことだ?」

カラビニエリは、この国の国家憲兵で、警察としての立場と軍隊としての立場を併せ持つ部隊である。世界各地でも平和維持活動に従事し、厳しい軍律や技術の高さから一目置かれている存在だ。

よって、この様な事件に彼らが介入してくるのはおかしくない。

レオが疑問に思うのはその展開の早さだった。まだこの事件が重大事件と決まったわけではない。真相がスモークに隠されている以上、最悪の場合、悪戯として片付けられることも考えられる。

 なのに、まるで凶悪犯を捕まえるために派遣されたような体勢だった。そもそも、この事件の事を、いつ、誰が、彼らに伝えたのだろうか?

「我々は、教会内に連続殺人犯が立てこもっているという情報を得て来ました。事態は一刻を争います。警官隊を下げて下さい」

 確かに、軍隊として日々訓練に明け暮れる彼らと、一介の警官である自分達とではその技術差は歴然だった。どう考えても、より上位の専門家に任せるのが正しい判断だろう。

「分かった。だが、犯人は重要参考人である可能性がある。無力化するだけにしてくれ」

「善処します」

 それだけ言うと、日常風景についた黒い染みの様な男達は、礼拝堂の前に展開した。

 

 

 黒いベールがはるか後方に飛び、白い煙にのまれていった。

 ピエトロが狙ったのはまずそれだった。この場で、彼女が盾にしているアンジェリカと同じ位に大切にしている物をはぎ取ることで、彼女の意識を逸すことが目的だった。

 その目論見は的中し、マリアは一瞬ベールの行方を目で追ってしまう。

 その一瞬さえあればピエトロは近づける。彼の思惑に気づいてマリアがアンジェリカを抱き寄せようとするが、マリアの右肩に弾を掠らせ肉を抉って怯ませる。

「くっ、貴様ああッ」

 彼女の怒気を孕んだ声も虚しく、次の瞬間には、彼はアンジェリカを取り戻していた。

 ピエトロは、マリアの姿を見せないようにアンジェリカを抱き寄せて、銃口をマリアに向ける。

 彼女は、初めて恐怖の混じった顔をした。盾を取られた上に今の彼女には銃の弾丸を避けるだけの体力が無いのだろう。

「さて、最後のチャンスだ。アンジェリカの思いを汲み、お前みたいな奴でも殺したくはない。自首しろ。さもなくば今度こそ……」

 そう言ってピエトロは銃口をマリアの額に向けた。

 しかし、ここに至って神の奇跡は終了と相なったようだ。もしくは、人の意志までは奇跡や加護などで奪わないという計らいからだったのかもしれないが。

「ま、待って、お兄さん。撃っちゃだめだよ。マリアは怯えて動転しているだけだよ」

 アンジェリカは意識が戻ってきたのか、彼の持つ腕を引いて銃口を逸そうとするが、力の差故、ピエトロの腕はピクリとも動かない。

「彼女もこう言っている。大人しく改心しろ」

 対するマリアは、再び切り刻むような目でピエトロを見つめ始めた。

 まずい。マリアはそう思った。

 アンジェリカを犠牲にし、自己暗示をかけて外に出る策も失敗に終わった。しかも、この急襲を予測できず、写真の仕掛けを解き、隣家の者に渡して置いた写真は回収したままだった。もっとも、今の彼ならばあの仕掛けに怯えることもないかもしれないが。

 後ろは煙に満ちた視界の効かない空間だが、ここから扉まではまだ五メートル以上はある。ここで背中を見せたら間違いなく殺されるか、足を撃たれて自由を奪われるだろう。

しかも、彼が逮捕された後に、この事件の犯人であるピエトロの家が調査され、自分がいた痕跡などが調べられる可能性がある。死への恐怖が極端なピエトロが、こんなことをするとは露ほども思わなかったため、ピエトロの家でも憚りなく好き勝手できたのだが、まさかこんなことになるとは。調査の手が自分に伸びないように、ここを出たらまずピエトロの家を燃やしに行く予定だったが、それは自分が満足に動けなければ実現しえない。

 今のピエトロには精神面へのダメージは限りなく薄い。故に、今までの様に心を壊すことはできないだろう。だが、もう一人に対してはどうか? 心の弱いこちらならば上手く扱えるだろう。自分の死を嫌がっている点でも使いようがある。

「分かった。罪を打ち明けよう」

 真摯な顔をしながらマリアは言った。

 不運なことにピエトロはその言葉の真意を掴めなかった。悪性に満ちた彼女が贖罪の言葉を口にした時にその表情に滲み出た反応は、善と悪と怒りと悲しみが浮き沈みする、揺らめく陽炎のようなものに見えてしまったのだ。

「マリア……」

 アンジェリカは、涙を流しながら微笑していた。先ほどのマリアの狂乱振りに気圧されたままだが、とにかく、ようやくこれで落ち着いて話ができると思ったのだろう。

 しかし、彼女の安堵も虚しく、ピエトロがその銃口を下げた直後、マリアは立ち上がり、不気味な嬌笑を響かせながら背後の煙の中に沈んでいってしまった。

ピエトロは降ろしかけていた銃を再び構えるが、マリアは煙に紛れた瞬間に周到に気配を消したため、感覚で彼女の位置を掴むことができない。

「マリア。待って」

ピエトロがマリアの突然の行動に際して腕の拘束を緩めた瞬間、アンジェリカが彼の腕を振りほどいて、マリアを追って煙の奥へ向かっていってしまった。

「ダメだっ。行くな、アンジェリカアアッ」

ピエトロが口では静止したが、自らの体は危険を察知したためか、動けない。その間に彼女は煙の中に消えていってしまった。それと同時に何か異様な音がしたのは気のせいだろうか?

数秒後、アンジェリカはすぐに煙の中から顔を出して、ピエトロの方を見てきたので、彼は安堵した。

安堵した? 何に? アンジェリカの気配が消えたことに気づいていながら?

「……?」

最初、ピエトロは自分の言う事を聞いて素直に戻ってきたものと思っていた。

だが、違う。ならば、何故煙の中から顔しか出さない? 何故、表情が死んでいる? 何故その目は虚ろなんだ? 何故口から舌が出ている? そして、彼女の頭の両側面に絡みついた蜘蛛の様な両手は一体なんなんだ?

状況証拠は揃っている。何が起きたかは明白だった。だが、ピエトロは答えを出すのが恐ろしかった。この上なく恐ろしかったのだ。

「これも、お前の失態だ。こんな奴の言う事など聞かずに早く私を殺せば良かったのだ。そうすれば、リューイチの様に無駄死にさせることはなかったろうに」

そう言って煙から出てきたのは、穴の空いたベールを持つ歪んだ笑みをした女と、首と体の向きが反転したアンジェリカの姿だった。頭を鷲掴んで無理やり捻ったのだろう。裏社会でもこの殺され方をした死体はいくらでも見てきたが、ここまで強いショックを受けたことはなかった。

怒りと憎しみに何もかもを支配されたピエトロは、銃口をマリアの頭に向けた。

マリアは思惑通り、自ら追ってきた盾を取り返したが、その頭はまだ隠しきれずに出ていて、ピエトロはそこを狙った。

ピエトロが、アンジェリカの死に対して怒りよりも先に自責を感じるであろうと踏んでいたマリアは、その反応に驚愕し、慌ててアンジェリカだった物に隠れようとする。

だが、遅い。このタイミングならば、確実にマリアの頭を吹き飛ばせる。

しかし――

「……な、何だ?」

引き金が引けない。人差し指がピクリとも動かない。今の怒りに任せた彼ならリンゴを握り潰せる程力が入っているのだが。いや、そればかりか体全体が言う事を聞かない。先ほどのマリアと同様に油を挿し忘れたロボットの如く、関節すら曲がり辛い。

対するマリアは凶弾に襲われることなく、無事に盾の裏に隠れていたのだが――

「ぐ、ぐっ。こんな、時に。またか……」 

 彼女はあろうことか、命綱であろう盾を離した。力無く崩れ落ちたアンジェリカの遺体。

これは、彼女の意志ではない。彼女の体も再び動かなくなっていた。

異常な事態に戸惑っているピエトロに止めを刺すつもりだったが、こうして再び自由がきかなくなるのは誤算という他はない。

それだけではない。二人の体は引き裂ける様に痛む。全身を高気圧で圧迫されるような、低気圧で破裂しそうな、相反した痛みが体全体に走る。まるでこれ以上悪事を重ねない様に、互いを殺し合わないように、痛みによるストッパーをかけているかのようだった。

 第三者が見たら酷く滑稽であろう二人のぎこちない動きに、終わりが訪れた。

 突如として、二人の動きは時が止まったように完全に停止した。

 そして、両者にとってはこれで二度目となる心の侵食が巻き起こる。

 最初にこれが起きた時とは比べものにならない程に強い、確実なる侵略だった。数十万の軍勢が、たかだか民家一つを攻め入る様な、圧倒的な質量でもって異物が入り込む。汚染はされないが、溶け込むこともないが故に自らの心は他者の心に蹂躙される。

 殺し屋の心は黒い悪性の塊によって、自らの心が征服される。

修道女の心は白い善性の塊によって、自らの心が侵略される。 

 互いに望まぬものが、自らの人格が納まっていた心に押し入り、全てを洗い流して行く。

 自らの心が完全に押し出された時、二人の意識は暗い深淵へと落ちていった。

 

 

「位置に着いた」

『了解。そのまま待機しろ』

 無線で繋がれた二人が報告と指示を飛ばしあう。

「りょーかい。へっ、これでまた仕事が増えるぜ。なあ?」

 部隊長である者への応答にしては軽々しい態度で、その黒で統一された武装をした兵士は応じた。

 その兵士は、二階建てビルの屋上から、手前にある公園を跨いで百メートル先にある教会を真正面に見ながら、体を伏せて狙撃銃であるG3SG1を構えた。

 彼は、先ほど到着したカラビニエリの別動隊であり、いざという時に迅速な対応ができるように配置された狙撃班だ。

「てめえを殺せれば、五万ユーロなんざいらねえぜ」

 ほくそ笑みながら、その兵士は狙撃銃のスコープを覗き、照準を教会の扉に合わせた。

 

 

 しばらくの間、彫像の様に動かなかった二人は同時に目を覚ました。

「く、う。うわッっ!」

「何が起こ……あッ!」

目を覚ましたと同時にピエトロはその長い清楚な金髪を振り乱しながらバランスを崩して両膝をつき、マリアは持っていた銃の重さに耐えられず、床に落とした後、その場に尻もちをついた。

そして、霞んでいた視界が元に戻るなり、二人は互いに互いを見た。

「「……あぁッ!?」」

二人はどちらもその青い瞳で相手の姿を、否、自分自身だった姿を見た。

その顔は、どちらも驚愕と困惑を混ぜて塗りつけたようだった。

「何だ!? これはッ!?」

「どうして、僕が、そこにッ!?」

マリアの視界からは、前のめりに倒れた金髪の修道女の姿が見え、ピエトロの視界からは、頭を押さえて座り込む茶色のロングコートを着た殺し屋が見える。

「一体、これはッ!? 何が起こったッ!?」

殺し屋の男が、今まででは一度もありえなかった恐ろしい形相をして目の前の女に叫ぶ。

「……」

対して修道服を着た女は、ベールを外した時には一度としてありえなかった慈悲に満ちた顔をしながら、意味もなく自らの手をまじまじと見た。

その手は、とても美しい。

単に精巧に造られた人形の様な白さと可憐さを持っているという外見的なものではない。その在り方が美しいのだ。この手は今まで数多くの人々を救ってきた。悪の心によって先程死を招いてしまったが、それでもなお善行という光に満ちたこの体は美しかった。

そして、それを見た女は実感した。

生まれて初めて感じた心と体の精緻な合致、自らの存在を心から誇れる自信を。

そして、目の前にいる非情な殺し屋にすら、救済の意志を示すことができる事実を。

裏社会に似合わぬ善行をいくら心で望もうとも、体が拒絶してきた。

表社会では認められない悪行に手を染めようとしても、心が歯止めをかけてきた。

その齟齬が、その矛盾が、その摩擦が、今は微塵もありはしない。

心と体の歯車は、今をもって完全に噛み合ったのだ。

「貴様、ピエトロなのか?」

目の前にいる、殺意を滾らせた殺し屋は、拾いあげた銃を向けながら、男とも女とも取れる中性的な声で聞いてきた。

「ああ」

涙を目に溜めた修道女は、痛々しいアンジェリカの首をそっと元に戻して、彼女の両手を祈りの形にすると、他人の痛みも苦悩も一身に引き受けるような美しい声で答えた。

「説明しろ。私達はどうなったんだッ?」

互いの体が入れ替わるなどという超常現象が起きた理由は、以前この体の元の持ち主が自ら語っていた。間違いなくそのせいだろう。

「自分から僕に教えてくれたことなのに、分からないのか?」

困惑している殺し屋に対して、修道女は、先程から変わらず神聖にして包容力のある柔らかみを見せる。

「自分で言っていたじゃないか? 『善行を積んだ肉体には善の心が宿り、悪行を重ねた肉体には悪の心が宿る』。まさにそれが起こった。院長先生の言葉は正しかった」

「ば、馬鹿な。そんな非科学的なことが起こるわけが……」

「お前の不幸を見出す感覚だって十分に非科学的だよ」

殺し屋は、アンジェリカの死に泣く修道女をまじまじと見る。

「お前の体を得たら分かった。僕らの体か、もしくは心は、ずっと前から互いを欲していたらしい」

「…………私の体は善で満ちていたから、悪を望む私の心を吐き出したということか?」

殺し屋は熟考した後に、慎重に言葉を発した。

「ああ、お前の心は、体が望まない悪行を続け、とうとう殺人まで犯したから善の体に見限られたんだ」

「見限られたのはお前とて同じだろう。お前の身と心も真逆の性質を持っていたのだからな。……なるほど、善は善の元へ、悪は悪の元へ、か。悔しいが院長の持論に負けを認めざるをえんな」

殺し屋は肩をすくめたが、その顔は歓喜、いや狂喜に歪んでいる。彼もまた、自らの心と利害が完全に合致する体を得たことを喜ばしく思っているらしい。

「きははははははは。素晴らしいっ。今までこんなに満足感を得たことはなかった。悪行を積んだ者が悪人たりえるわけでも、善行を重ねた者が聖人たりえるわけでもない。まさにその通りだ、院長。あなたは徹頭徹尾正しかった。私に対する認識以外はな」

殺し屋は、女らしい動きで両手を広げてその場で踊るようにまわる。極限まで達した歓喜が体を動かしているようだった。

「おおっと」

突然、殺し屋が満面の笑みをしながら、先ほどアンジェリカが通ってきた廊下に向けて拳銃を乱射した。

その先には、立て篭り犯に交渉を持ちかけようとした二人の警官がいたのだが、哀れな彼らは何を成すことなく倒れ伏す。

「警官共め。ネズミの様に入りこもうとしたな」

殺し屋は呟いた。

そして、真後ろから近づいてきた警官に感づいたマリアを見た瞬間に、修道女は気づいた。ピエトロは他人の気配を察知することができなくなっていた。

気配を察知する感覚は、経験と環境によって得た体の持つ能力。それを持つ体から離れてしまったために感知能力が失われてしまっていた。マリアの体は表社会で生きてきたため、死と隣り合わせになることで得られるその感覚を身につけているはずもない。

今の体と心の在り方はこの上ない程に調和がとれているのだが、物理的な面はまだまだ馴染んでいない。ピエトロの場合、体中を傷つけられていることもあって、なおのこと動きが悪い。

「くはははは。素晴らしい。以前は悪事を思考するだけでも体が痛んでいたものだが、今はむしろ、体が悪事をするよう急かしているようだぞ」

殺し屋はひたすらに満悦な顔をしているが、彼女はそれに異を唱える。

「やめろ。お前も自首しろ。僕もこの姿になりはしたが、全て話して罪を償うつもりだ」

「私の体の善性にあてられて考えがおめでたくなったようだな。今の私は殺しの犯歴を持っているんだぞ? アンジェリカ殺しの容疑も私にかけられるだろう。今更許されるものか」

マリアは、ピエトロがここに来る時に短機関銃を入れていた鞄の所に行き、中身を物色し始めた。

マリアは普通に背中を見せてはいるが、ピエトロはそこから動けない。気配の察知はできなくなっても浴びせかけられる殺気はピリピリと感じる。動いたら殺されることを体は分かっているようだ。

「ほほう。これはこれは」

マリアの反応を見た修道女の顔が青ざめた。あの中には万が一の時のために実弾が装填された短機関銃の弾倉を一つだけ入れておいたのだ。

おそらく、知識は無くとも体には銃の扱いが染み付いているのだろう。殺し屋はまるで、体の一部のように慣れた手振りで、スペクトラM4を拾い、空になっていた弾倉を捨てて、実弾入りの弾倉に交換した。

あの銃は一つの弾倉につき五〇発の弾丸が入る。上手く使えば、目の前を包囲している警官全員殺すことは容易いだろう。ましてや、躊躇いも一切の情も持たぬ完璧な殺し屋となった彼ならば尚更だ。

「さぁて、突破する手段も手に入ったことだし、私はそろそろ逃げるとするが……」

言いながら、動けずに座ったままのピエトロに悠然と近づいてくる。

「その前に、完璧な修道女となったお前を殺すことで、神との縁を切る証としよう」

殺意と嗜虐がにじむ声でそう言うと、マリアは拳銃を彼女の頭に押し付けた。

「……私達は良き関係だった。最後に何か言うことを許す」

短い逡巡の後に、マリアは最後の一瞬を与えた。

「お前に、神のご加護がありますように」

言ってからピエトロ自身驚いたが、本当に反射的にその言葉が口をついて出た。

「……キキ…キャキキケキャ……キキ、キィィィイイキキキャァァアアアアアア」

それを聞いた殺し屋は礼拝堂全体に響きわたるような奇声を発した。いや、マリアからすれば笑い声であったのだろう。余人にはそう認識できないだけで。

その悪魔に勝る程の嘲笑は、神の家に充満していた荘厳さと静謐さを蹂躙し、汚染するだけに留まらず、それを聴いてしまった大衆や警官達も無意識に耳を塞ぐ。絶対に聴いてはならない声だと本能が感じたのだろう。

そして、あるいはそれが合図となったのかもしれない。

礼拝堂の扉が勢いよく開け放たれた。

それと同時に、充満していた白い煙は逃げるように外に出ていく。まるで、礼拝堂自体が溜まっていた悪気を全て外に吐き出すように。

そして、出ていく白い煙に逆らい雪崩込んできたのは、全身が黒で統一された装備を着た完全武装の四人の男達だった。

「カ、カラビニエリ!?」

殺し屋が慌てて短機関銃を構えるが、その銃が突如、内側から破裂するように弾けた。同時に、銃を持っていた左手とその腕も縦に割れる様に弾け、骨と肉を飛び散らかす。おそらくどこかにスナイパーがいたのだろう。狙撃銃に使われる強力な弾丸なら、人間の肉体を挽肉にすることができる。

「ぐああぁぁあああッっ!」

殺し屋が悶絶しながらも、右手の拳銃を警官達に向けるが、突入してきた男達のMP五A五の連射によって、全身に数十発の弾丸を喰らう。

戦闘技術は殺し屋の方が数段勝っているが、生憎、数で勝る方が勝つのが世の常。ましてや腕を吹き飛ばされて、まともな戦闘を行えるはずもない。

被弾の反動で無様に体を躍らせた殺し屋は、仰向けに倒れながらも、ついに至れなかった牢獄の出口から差し込む光に手を伸ばす。

「ピ、エ……ト……」

そして、その腕が、その目が、やおら修道女の方に向くや、この世全てを憎む様な形相を張り付けたまま、完全に死に絶えた。

「……あ……ああ」

修道女は、その全てを間近で見ていた。一人の男の死を。一つの悪の死を。そして、自らのものだった肉体の死を。

ピエトロは突然眩暈がしてきた。

「君、大丈夫? 意識ははっきりしているか?」

全身を黒い装備で纏い、頭には防弾用ガラスの付いたヘルメットを被っている男が、倒れている彼女を抱き起こしながら聞いてきた。

彼女はそれに小さな首肯のみで返す。泥酔した時の様に意識が定まらないのだ。

眩暈で頭が働かないというのに、彼女は自らを救出に来てくれたその男達に違和感を覚えていた。体が入れ替わっても、知識によって形を成しているが故に、その身に継承された観察術が、何か、何かが間違っていると告げている。

男は、そのまま、彼女の体の傷を素早く見ると、外に向けて声を張り上げる。それに応じて、すぐさま白い服を着た救護班らしき男達が近づいてくると、彼女、マリア――ピエトロ――は担架に載せられて外に運び出された。

外には、多くの大衆が教会の入口を半円状に囲み、待ち構えていた。

報道関係者達や野次馬達の無遠慮なカメラ撮影のフラッシュに目が眩みながら、動き回る警官隊や医療班、カラビニエリの隊長らしき男と警官達の上司らしき男がなにやら言い争っているのが見える。

だが、安堵と悲しみの混じった顔でこちらを見ている修道女達や信徒達が視界に入った途端、申し訳ない気分に苛まれた。

そこでマリアは思い出し、身を起こしながら視線を礼拝堂の入口へ向けた。

「ア、アンジェ…リカ」

友人を救おうと死地に赴いた心優しい修道女。その亡骸は、同じ様に担架に載せられて運び出されているところだった。その顔に白い布が被されているのは、認めたくない現実であったが。

そして、その後ろからは、白い担架に反して黒い布に包まれた何かが、突入してきた四人の男達に運び出されていた。マリアとアンジェリカの遺体が救急車に載せられたのに対して、その黒い布の中身はカラビニエリ専用の黒い装甲車の荷台に乱雑に積まれると、武装した黒い集団は、重要参考人を殺害したことに憤慨するレオの静止も無視して、車に乗り込み、逃げる様に去っていった。

救急車に乗せられた後、付き添いということで院長が救急車に同乗してきた。

「もう、大丈夫ですよ。休みなさい」

そう言って、意外にも冷たい彼女の手が視界を覆うと、意識の混濁が嘘の様に消え去り、マリアの意識はゆっくりと落ちていった。



「そう。始末できたのね」

微かに震えたハスキーボイスが響く。

「じゃあ私から一つ頼みたいんだけど、ピエトロの死体はパラメん所に持って行ってちょうだい。ハイエナの連中には絶対渡さないで。……分かった。あんたのツケを帳消しにしてあげるから言う事聞いてちょうだい」

別れの言葉もなく、エルダは通話を切った。仕事の電話などは大抵こんなものだ。

ピエトロを死なせた、せめてもの償いだ。彼を最も敬愛する人物と共に眠らせてやるのが一番だと思ったのだ。この後、せめて一度位は二人の所に行こうとエルダは思う。

「……済んだよ」

事務所の寝室からキャリーバッグと共に少女が出て来た。その外見はいつもの派手なミッソーニのファッションではなく、派手さを押さえた黒の半袖ワンピースで、靴やハイソックスまで黒く、その色に影響されたように彼女の表情や声まで暗く落ち込んだものとなっている。いつの間にやら彼女が着ていたものだが、そこには喪服の意味合いもあるのかもしれない。彼女が喪服自体を知っているかどうかは分からないが。

「お疲れ様、フラン」

自身の頭を押さえつつエルダが労う。だが、本当に癒しが必要なのは彼女自身なのかもしれない。

「お引越しなの?」

フランが事務所の壁際まで運んだそのキャリーバッグを含めると、三つのキャリーケースが置かれていて、少女はそれをぼんやり見ながら言う。

「そうよ。まだ日にちは決まってないけど、いつでも出られるようにしておこうと思ってね。あなたも持って行きたいものがあるならまとめなさい」

エルダが窓から下の街並みを見下ろしながら言った。

「無い」

あっさりと少女は返した。彼女にとって大切なのは苦痛も恐怖もなく生活できる場だけなのだ。そこに面白い人々が入ればなお良しというだけで、彼女が物質的に望む物はない。

フランは普段伊東が寝そべっていたソファに横になると、ポーチの中からデジカメを取り出して適当に室内を撮り始めた。暇つぶしなのだろう。

「お仕事は?」

「この地域の斡旋はサッチに任せるわ。あいつは前から、この仕事が座ってるだけで金が入る楽な仕事と思ってるみたいだからね」

当然と言えば当然の、そして、子供にしては聡すぎるフランの質問に、エルダはそう返した。

彼女はこの仕事を続けていくことは元より、この業界でやっていくことに疲れてしまったのだ。友を失い、思い人を失い、自らに課した義務すら、あっさり反故にする。以前はそれらに何も感じなかったのだが、今の彼女には、他者の喪失と自らの醜さを無情に肯定することはできなかった。

もう、こんな悲しみを背負うのは、人の道から逸れた事をするのはやめにしたくなった。

だが、思うだけだ。この業界から抜けたら、どこまでも追われて殺されるのだから。

そして、戦闘技術もない自分に殺し屋稼業など望むべくもない。結局はこの仕事をまたどこかで再開するしかないのだろう。

「業界から抜けるわけじゃないけど、この国から離れるわ。あなたはどこに行きたい?」

それを聞いたフランは、まるでその問いを待ちかねていたように即答し、そして、それを聞いたエルダは机の上の書類に目を向けた。

 


 サン・カンチアーナ教会立て篭り事件が発生してから、早一ヶ月が立った。

あの事件は結局、マスコミによって修道女を狙った変質者が起こしたものとして片付けられた。だが、その結論に至ったのは、裏社会からの手回しがあったのは言うまでもないことだろう。

マリアは四肢の切り傷はほぼ完治し、抉れた肩の傷も、激しい運動をしなければよいということになり事件から二週間程で退院し、一週間を教会で過ごした。

そして、その後マリアは教会から除籍した。他の修道女達からは再三引き止めを喰らったのだが、それだけこの体の元の持ち主は愛されていたということだ。いや、愛を騙し取っていたと言った方が正確なのだろうが。ここまでの思いやりと温かみを是とできなかった彼――いや彼女と言うべきか――に対する憐憫の思いが胸を締め付ける。

ピエトロとマリアの心と体が入れ替わり、善と悪は納まるべき所に納まった。しかし、結局のところ人格が取り替えられただけで、記憶までは交換されなかった。

それ故、病院で目覚めて院長をはじめとする仲間達が見舞いに来てくれた後、様々な出来事の後に記憶喪失の振りをした。実際、修道女としての記憶は全て無くなったのだから嘘ではない。

そんな、言わば役に立たなくなった修道女を、見捨てずに助けてくれた多くの人々には感謝をしてもしたりない。本来は救済を求めて教会に訪れる信者達が、逆に右も左も分からない状態になってしまったマリアの不幸を嘆き、手厚く世話してくれた時など、今思い出しても涙が浮かぶ。

しかし、しかしだ。幸福を感じ、救われる程に、彼女の心が痛み出すのも事実だった。

今自分がここに在るのは、カルロの死なくして語れない。伊東、美鈴、父の存在なくしてありえない。自分は多くの死を尻に敷いて笑っているも同然なのだ。

そこに気づいた時、今の善に満ちた彼女に、過去の所業とはいえ悪事を働いた現実は到底容認できないものだったらしく、当初は自殺への欲求が絶え間なく襲ってきた。

そんな時期を通っておきながらまだ彼女が生きているのは、曲りなりも敬虔なる修道女のものだったこの体のせいなのだ。宗教上の理由で禁忌とされている自殺。それを忌避するために、この身は自らを殺すことに異を唱え続けた。

あるいは、それはこの体の元の持ち主が死に際にかけた呪いだったのかもしれない。

この体の痛みを消すには、痛みを得るしかないからだ。心を掻き毟る悪事に対する罪悪感を消すために、贖罪という痛みを受けて和らげる他ないのだ。

だが、マリアはそれを受け入れた。いや、むしろこの痛みは必要不可欠だったと言える。

これを感じぬ者に、悩みを持つ人の苦しみなど分かるはずもない。あの悪魔の様に、自らの歪んだ感性で相手の苦悩を探るのではだめなのだ。その苦悩を受け入れて、共感し、共に涙を流し、克服してこそ真の救済だろう。

彼女はそう結論して、どう足掻いても苦痛しかない生を謳歌した。

そして、嬉々として日々の労働と祈りを捧げて行く内に、はたと気づいたことがあった。

この教会に訪れる者は精神的に豊かな人々が多く、真に救いを必要としている人々は極めて少ないことに。視野を広げれば、仕事や人間関係、自らの業を悩む以前に、日々の生活すらままならない人々がたくさんいる。マリアは先に手を差し伸べるべきはそちらだと思ったのだ。



そして、今に至る。

夏特有の照りつく日差しはない。空には一面に薄い雲が広がっていて、その薄さ故か、太陽の光を受けて、雲が発光しているように見える。

彼女は修道服を脱いでいる。除籍に際してその服は教会に返還した。

今着ているのは灰色の長袖のワンピースとストッキングに黒の靴、そして、頭に黒の帽子を被った出で立ちだった。

この場所に来る以上は、それなりに正装で来る必要があったのだ。何しろ、彼女がピエトロとしてここに来るのは、初めてなのだから。

マリアはここに来てから三つの墓石の前に花と祈りを捧げた。

一つは、教会を襲撃した自分すらも救おうとしてくれたアンジェリカ、一つは一度も会えなかったが、息子の死が原因で死なせてしまった彼女の母、そして最後の一つは、道を示してくれた親友にして弟たるカルロの墓に。

この前までは友だった少年が、今は事実上自身の弟であるというのは何とも奇妙な気分にさせるが、ひっそりと兄弟を欲していた彼女にとっては良い事なのかもしれない。例え、ここでしか会えない関係だとしても。

アンジェリカの葬儀は彼女の入院中に行われたために出席できなかったので、長い祈りを捧げた。感謝の思いが天に昇った彼女に届くことを願いながら。

そして、カルロの墓に花を供えた時に、自分が原因で死なせてしまったことは別に、強く後悔したことがある。エルダに預けた彼の遺品を回収することができないことだ。

この姿になってしまった以上、彼女に真実を話しても無意味だろう。頭のおかしい女として認識されるだけだ。

実際、病室で目覚めてから見舞いにきた修道女達や、刑事のレオと名乗る男の事情聴取で、事実を全て話しても怪訝そうな顔をされるだけだった。しかも、そのせいで記憶障害について医師に検査される始末だった。

やはり、信じてくれるのは、マリアの後ろに立つ長身の女性以外いないのだろう。

「本当に行くのですか、ピエトロ?」

重みを感じこそすれその声によって体が痛み、麻痺することはない。もはやこの身に、そして心に、悪性は無いのだから。

「ええ。困窮する人々にこの身を捧げると決めました。この奇跡は、神がくれたやり直しの機会だと思っていますし」

ベアトリーチェ院長だけは、彼女の異常な体験を真摯に聞いてくれたのだ。自分の正体に、前のマリアの本性、そして、ピエトロの罪の重さを。事実上、彼女のみがピエトロの行方を知る唯一の人物で、あの教会での事件を正しい視点で見ることのできる人だった。

「自らの贖罪の道を見つけられたのなら結構です」

院長は穏やかな口調でそう言った。マリアは今日で長くの別れになる院長に兼ねてより気になっていたことを口にした。

「院長先生、あなたの『善の心は善の体に、悪の心は悪の体に宿る』という考えは、何をきっかけに生まれたのですか?」

「どこで、それを?」

「マリアが、貴方から教わったと言っていました」

「…………それは、犯罪者だった私を拾って下さった、あの教会の当時の院長先生から頂いた言葉です」

マリアは、院長の言葉の前半部分を上手く飲み込めず、カルロの墓に向けていた視線を彼女に向けると、院長は緩やかに語り始めた。

「……私と妹は幼少の頃、両親に捨てられたため、二人でとても貧しい暮らしをしていたのです。しかし、ある時、私は飢えに耐えられず、誘惑に負けて恐ろしい罪を犯しました。

法で裁かれましたが、情状酌量と判断され、十分な罰を受けることができず、私自身はその後も罪悪感が消えませんでした」

こんなに温厚で慈悲深い院長が前科者だったというのは、にわかに信じ難い話だったが、今思うと心当たりがある。

彼女が今日、この墓場に同行してきたのは、彼女自身も弔うべき相手がいるから、とのことだった。院長が花を添えていた墓石に書かれていた名前は、院長と同じ姓ではなかったか? そして、彼女は飢えに耐えられなかった。空腹に喘いでいた。そんな時に、自分の目の前にいる弱りきった肉を前にしたら――

マリアは考えを止めた。院長は罪の内容は伏せたのだ。ならば、その罪を直接聞かずとも、思いを巡らせれば、それだけでも余計な詮索となる。

「私は死を望んでいましたが、偶然出会ったその院長先生が止めてくれたのです。その時に、自殺以外考えられず、駄々をこねていた私を諭してくれた言葉がそれなのです」

 それを聞いたマリアは、その言葉の本質を間違えて認識していたことに気づいた。

その院長先生が、自らの罪に耐えられなかった当時のベアトリーチェに向けて言ったのならば、人は善行を重ねていくことで、自らに染み付いた悪もいずれ善へと立ち直らせることができる、ということを伝えたかったのだろう。なまじ、その言葉に合致した超常現象を体験したからこそ、余計に考えが傾いてしまっていた。

そして、この院長の眼力が強いのはそのせいなのかもしれない。彼女はおそらく、自らがただ一度だけ犯したその過ちを未だに悔やんでいる。彼女自身にその気がなくとも無意識にも悪行を憎んでいるのだ。例えそれが自分自身に対してのものとは言え、悪を侮蔑し根絶しようとする考えが、あの悪性を刺し貫く眼力を形成しているのだろう。

だが、それはいい。小さなことだ。

今はベアトリーチェを、引いてはピエトロを救ったその院長の言葉に心から感謝したい。

一陣の風が吹き抜けた。それと同時に、亀裂が入った薄い雲から陽光が地上に注がれる。

「そろそろ空港に向かう時間です。少しの間、お別れです」

マリアは近くの教会から鳴り始めた鐘の音で、旅立ちの時間が近づいてきたことを知った。

「…………あなたに神の恩寵があらんことを」

院長は、両手を組むと、極小さな微笑を浮かべながら温かい声で言った。マリアも目に薄らと涙を浮かべながら返した。

「院長先生にも、神のご加護がありますように」



手荷物は少ない。

後で行ってみたが、ピエトロの家は証拠隠滅のために、業界の手によって炎上し倒壊していて、彼が持っていた物は全て灰になってしまっていた。

しかも、もはや自身はピエトロではない。使わずにただ溜まっていった多額の金を、銀行から引き出すこともできず、また、フォルトゥナーテ家に残っていた金は僅かだった。

しかも、その金は全て旅費に当てたため、ちっぽけでほとんど空っぽの旅行鞄一つで外国に移住することになった。浅慮に過ぎるとは思うが、これでいい。自分を新しくやり直すならば、周りの物も一新するべきだろう。

空港は賑わっていた。旅行のためか、仕事のためか、多くの人々が動き回っている。だが、総じて同じなのが、彼らの顔に希望と活力が満ちていることだ。

今までは、この人混みは身を隠し、目立たずに標的に近づける自然の煙幕とだけ認識していたが、今では人々の表情や話している内容にまで目が行く。

「さて、まだニ十分あるか」

フライトまでの時間を、待ち合いスペースにある椅子に座って待つことにしたが、既にほとんどの席が埋まっていた。と、そんな中で、奇跡的に空いている席を見つけたので、そこに座りこむ。

しかし、運良く座れたのもつかの間、隣の席で辺りを忙しなく見回していた派手な色彩の服を着た少女が、持っていたジュースを零し、それがマリアのワンピースにも少量かかってしまう。

「あ~~ッ!」

「おっと、大丈夫かい?」

しかし、それに腹を立てることもなく、マリアは茶色のトートバッグに入れておいたハンカチを取り出すと、自分よりも被害が甚大な少女にそれを渡した。

「ちょっとフラン。だから大人しくしてなさいって言ったのに。すみません。ご迷惑を」

「ごめんなさ~い」

マリアは、少女のゴムの様にたるんだ口調と、少女の保護者らしい小麦色の肌をした女性のハスキーボイスによる謝罪を聞くと、反射的に二人の顔を見た。

そこには、顔立ちがそっくりな二人の美女がいた。もちろん年齢的な差や肌の色の差はあるものの、顔の作りがほぼ同じで、髪型も統一され、ウェーブのかかった艶やかな銀髪をしている。

「……どうかしました?」

「……あ、いえ、何でもありません」

しばし茫然としていたマリアに、エルダが苦笑気味に聞いてきた。

これはどれだけの偶然が積み重なった結果なのかと、マリアも微笑した。もはや二度と会うまいと思っていた人達にここで会うとは。

しかし、思わぬ再会を密かに喜ぶと同時に違和感も付きまとう。斡旋屋であるエルダがここにいる間は、誰がその仕事をこなしているのだろうか? そもそも、あれ以降裏社会からマリアは隔絶されたので、現状が分からない。

「……」

と、少女がマリアからハンカチを受け取るものの、濡れた服を拭きもせず、マリアをじっと見つめてきた。

「ええと、ボクの顔に何かついてるかな?」

視線の圧力に耐えられず、マリアは苦笑しながら返した。

すると、少女はその返事に対して大きく目を見開くと、ぽつりと言った。

「……ピエトロ?」

マリアは驚愕を禁じえなかったが、何とかそれは顔に出さず、にこりと笑ってごまかした。どこで判断したのかは分からないが、全くこの子の洞察力は恐ろしい。

「え?」

保護者の女性もピクリと反応して少女の服を拭いていた手が止まる。

二つの視線が彼女に向けられる。

「いや、違うよ。ボクの名前は、マリア」

「……ふ~ん」

「……ほら、フラン。先に拭いちゃいなさい」

「うん」

それを聞いたエルダの目付きは一瞬鋭くなるが、すぐに何事もなかったように洋服の染みを取る作業に戻った。ピエトロと共に写真に映っていた修道女だと気づいたのだろう。

そして、フランが椅子の下に置いておきながら、奇跡的にジュースを被らなかったショルダーバッグの中から、タオルを取り出した。いや、正確には長すぎる故にタオルの半分をだが。

ここまで来ると神の奇跡としか思えないとマリアは感じた。もし、この再会が誰かの意志によるものであるならば、その者が、ここで彼女達と会わせたことの本質的な意味に彼女は気づいた。

マリアは、反射的にタオルを持った幼い右手を掴んで静止した。

「「?」」

当然、訝しむ二人。

「あ、あの、そのタオル。ボクのなんです。ボクが友人からもらった物なんです。返して頂けますか?」

マリアは淑やかなまま、押しは強く言った。

「え? これはあなたのじゃないわ。友人から預かったものなの。まぁ、そいつは死んじゃったから、今は好きに使ってるんだけどね」

「……その亡くなった方、ボクの友人でもあります。金髪で細身の男性ですよね? それはその人からもらったものなんです」

マリアは食い下がる。二人にとっては全く不可解な事を言っているのは分かっている。だが、ここで自分が行うべき行動は、これなのだと確信していた。

「……残念だけど、ダメよ。これは大切なものだし……」

だが、エルダは首を縦に降らない。彼女はマリアとピエトロが仲良くしていたことを知っていたが、だからと言ってエルダと彼女が友人同士という訳ではない。これを渡す理由も義理もなかった。

しかし――

「はい。マリア~。これ、返すよ~」

「ちょっ」

隣の少女はにこやかに、その長いタオルをあっさり渡してきた。

エルダは慌てるが、如何なる心境の変化か、タオルの残り半分をバッグから引き抜く少女をもう止めようとはしなかった。

「ありがとう。……申し訳ありません。あなたのご友人の形見を」

「………ま、この子が言うならいいわ。意外と鋭い子だからね。良く分かんないけど、これが正しいんだと思う。それに……」

エルダは肩を竦めながら言った。そして、彼女の着ていた黒いジャケットの内ポケットからおもむろに取り出したものが、巨大な窓ガラスから射し込む陽光に反射して、輝きを放つ。

「あたしはもう一つ、そいつの形見を持ってるから」

そう言って見せてきたのは、ピエトロとマリアが争った時に奪い取った金の十字架だった。

「……ちょっと、どうしたの?」

「何で泣いてるの~?」

そして、それを見て、理解した時にマリアは、反射的に涙を流した。

エルダがこれを持っていることで、あの時、礼拝堂に突入してきたカラビニエリの正体が分かった。違和感を覚えるのも当然だ。あれはエルダの息のかかった業界の人間だったのだ。

仮にピエトロ殺害の依頼を出したのが、彼女であったとしても構わない。その後に、ピエトロの死体をハイエナに渡さずに回収してくれたのだろう。彼女がこれを持っていることがその証だった。

素っ気無い態度が目立つ女性ではあったが、影でここまで思われていたことが、どうしようもなく嬉しかった。

「すみません。ちょっと、感動しました。……ところで、お二人は旅行ですか?」

涙をぬぐいながらマリアは聞いた。

「いいえ、国外逃亡よ。仕事が嫌になってね。場所を移すことにしたわ」

あっさりとそんな事を言ったエルダに思わずマリアは苦笑すると、同時に不安が少し生まれた。もし業界から逃げようとしているのなら、それはかなりの危険を伴う。戦闘技術の無いこの二人では、襲いかかる殺し屋達に到底対処できないだろう。

「国外逃亡をするほど嫌な仕事なのですか?」

聖女の様だった女に似た質問をする。

「……ええ、少し肩入れしすぎたわ。他人とは深く関わっちゃいけない仕事なのにね」

「はあ……」

なるほど、とマリアは思った。ここまで謎の多い発言をされたら、前のマリアもしつこく真相を聞いてくるのは仕方ないことだったと。

「聞いてよ。本当はさ。一ヶ月前には旅立つ予定だったのよ? なのに、あたしの後任の男が無能でさぁ。仕事を覚えるまでそいつに引き止められて、こんなに遅れちゃったわよ」

ブルーになっていた気持ちを紛らわすつもりなのか、一変して朗らかな笑いを混じえた話に切り替えてきた。そして、その後任者が誰なのかは分からないが、マリアからすれば神の使いにも等しかった。その者が無能でなかったなら、今日ここでカルロの形見を受け取ることはできなかったのだから。

「あなたは、どこに行くの? って、この搭乗口前の椅子に座ってれば分かるか」

エルダは苦笑した。

「ええ。あなたはどうしてあの国に?」

「この子が行きたがったからね。行く理由なんてそれだけで十分よ」

「だって、リューチの生まれた国でしょ~? ちょっと気になったんだもん」

マリアは、内心で大笑したい気持ちを必死に抑える。この世から去ってもあの大男は他者に影響を与えているようだ。そして、その影響を受けているのは自分とて同じ。

そして、それならば、伊東と美鈴が残してくれた希望への道案内が無駄になることはない。彼女にあの書類を渡しておいて本当に良かった。

あの教会立て篭り事件でピエトロが捕まることで、彼の関係者にも捜査の手が回ってしまうが、二つの遺品を預けた彼女が警察に捕まっては元も子もないので、逃走手段としてあの書類を預けておいたのだ。

結局、ピエトロを助けることは叶わなかったが、それで、この二人が救われるのならば、あの二人も文句はないだろう。

「さて、時間みたいね」

飛行機搭乗の案内員が指示を始めたため、近くでたむろしていた人々が腰を上げる。銀髪の二人と彼女自身も。

ついぞ、伊東の形見であるライターを回収することはできなかったが、構わない。幸いにも、伊東の遺体が葬られた国に旅立つのだから。いずれその墓石に酒と煙草を持っていけばいい。

伊東の話では、彼の国は、今震災による被害で酷く混乱しているらしい。ならば、そこで困窮する人々の生活を助けることは、自らの贖罪であり、自らの求めた道だ。

それ以上に貧困や災禍に苦しむ所は数あるが、彼女の記念すべき初仕事を行う場所は、思い入れがある場所にしたい。これ位の我儘なら神も許してくれるだろう。

失ったものの方が多く、得られた幸福は自らの努力で得たものではない。

彼女の、これから始まる表社会での生活は血の滲む努力が必要となる。

だが、それでもなお、溢れる希望を胸にしまい、身も心も善である聖母はかの国へ向けて旅立っていった。


 

                                 終


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ