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オテロ 1  作者: 裏表逆
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オテロ 3

マリアの出で立ちは、昨夜と違い、自らの素性を隠す格好だった。

そんなコートなど着なくとも、町中を歩く彼女を意識した者は一人もいなかったろう。武術を修めた者は、殺気だけでなく、気配すらも押し込むことで自身の存在を希薄にする事ができる。こうすると、フランと同様に、視界に入っても背景の一部と認識されて目に止まることはなくなる。今の彼女はまさにその状態だった。

流石にこの時間はまだ人の通りがちらほら見られる。普段の格好で誰かの家を訪れるのは目立つと考えたのだろう。

ピエトロからすれば、修道服を脱げば良いと思うのだが、どうしたことか、コートの下の服装は教会における普段着のままだった。

昨夜と同じ流れで、マリアは彼の家に入り込んでリビングに向かい、ピエトロは再び玄関に鍵をかける。昨日との大きな違いは二人の表情だろう。

遅れてリビングに入ってきた彼に、彼女はぶっきらぼうに聞いた。

「貴様、私の命令はどうした?」

既にコートを床に脱ぎ捨てて、頬杖をついてソファに座っていたマリアは、見るからに業腹と言った顔をしており、その眼光の鋭さは猛禽類のそれだった。

彼女は今日、一度も教会に行っていない。だというのに院長がまだ生きていると判断したのは、偏に殺し屋の落ち着いた表情故だった。

ピエトロは少し首を傾げると、そういえば昨日院長殺害の指示を受けていたのをようやく思い出した。

「……あぁ、いやすっかり忘れていたよ。許せ」

ピエトロの驚くほど軽薄な口調に対し、マリアの目つきはとうとう人を刺し殺せる程の鋭利さとなる。

「役に立たん駄犬め。良くそんなザマで犯罪者をやっていられるものだ」

唾を吐きかけるように罵声を浴びせる彼女は、いつ爆発するとも知れぬ爆弾の危うさを持っているのだが、今日のピエトロは平然とその怒気を受け止める。

「いやいや、裏社会を生きるためには殺す人間は慎重に選ばないといけない。覚えていても殺さなかったさ。何せ自分を脅迫してくる女の弱点となる女性だからな」

「……」

それを聞いたマリアは肩にかかっていた艶やかな金髪を乱暴に払うと、彼を睨みつけた。見かけ通り彼女のプライドは高いようで、自らの弱点という一言に強く反応する。

「お前、あの院長先生を殺させて僕を苦しめようとする以前に、あの院長先生自体が苦手なんだろう? 彼女に見つめられると心が痺れて、逃げ出したくなるんじゃないか?」

マリアはつまらなそうに酒棚を物色しようとしていたが、その手が止まった。

図星だったようで、彼女は背中を向けて固まったままだが、その後ろ姿は話の続きを求めている。

「あの先生の目。あれはな、人の持つ悪性にのみ突き刺さる眼力なんだよ。だから、僕は悪事を重ねたこの体が強くあの先生を拒絶した。だから、お前はその存在自体が反応したんじゃないか?」

聞き終わるや、彼女はまた適当な一本を手に取ると、食器棚の中にあったワイングラスも持って戻ってくる。テーブルの上には昨日から出しっぱなしのボトルが散乱しているのだが、彼女はお構い無しに未開封のボトルからコルクを引き抜く。

「なるほどな。悪性のみに突き刺さる、か。……他の連中が何も感じない訳だ」

マリアはワインをグラスに注ぎながら言った。その顔は心持ち満足そうなものがあり、難問が解けた際に見られる得心の表情だった。

「一応、感謝しておこう。おかげで長らく頭に引っかかっていたものが取れた」

されど、傲岸な態度は一切崩さず彼女は言った。

「……ふむ、気が変わった。院長が死んでいない以上、今日は他で無聊を慰めるとしよう。……互いの生い立ちでも語らわないか?」

一口でグラスを空けてから、唐突と言えば唐突にマリアは提案した。

生い立ちを知ることで、更に自身の弱みを握るつもりなのだろうか? はたまた、それは表向きの理由で、何か別の狙いがあるのか?

「妙な深読みはしなくていい。私は純粋にお前という人間をもっと知りたいだけだ」

 ピエトロの猜疑的な顔から内心を察したらしく、マリアがそう付け加える。もっとも、彼女の言葉を信頼するなどできようはずもないが。

交渉術や話術は得意ではないが、話の流れから例の仕掛けについて聞き出すこともできるかもしれない。

そう考えたピエトロの首肯を見て取ると、マリアは早速聞いてきた。

「一応効いておくが、お前の職業は殺し屋であっているな?」

「あの写真を撮った奴が聞くことか?」

「念のためさ。思い込みは重大な危機を招くものだからな。マフィアか何かの使いっぱしりなのか?」

「……ああ」

ピエトロのその返答に、マリアは貫く様な視線をぶつけた。

「……嘘はつくな。私には他人の負の感情は手に取るように分かることを忘れるなよ」

観念したピエトロは大きく嘆息した後に、自分の職業や、業界の事を話し始めた。どう足掻いても、秘め事を隠すことによる僅かな緊張から、彼女には嘘が見抜かれる。下手に黙って逆鱗に触れる位なら、話した方が被害は少ないだろう。

「……よくもまあ、そんな犯罪者の集まりが世界中に存在していて見つからないな」

一通り聞き終わったマリアは、どこか羨望をはらんだ口調で言った。

「さっき話したハイエナ達が、死体の後始末や証拠隠滅などの事後処理をしっかりするからな。それに、業界の人間は基本的に個人で動くから、捕まっても単独犯でシラを切り通せば業界の姿までは表に出ない。出そうになったら金を握らせるのさ」

「素晴らしいな。私もそちら側で生きたかったよ。立場を交換しないか? ふふ」

苦笑混じりのマリアの言に、ピエトロは少し拗ねたような口調で返した。

「それができたら理想だな。だが、それで満足できるのはお前だけだ」

「ほう、何故だ?」

宝物を見つけた様な好奇心を隠しもせずにマリアが聞いてくる。

「僕は、他人の癒し方を知らないからだ。傷つけ方や騙し方、殺し方しか学んで来なかったからな。仮に教会で神父になっても、上手く人々を救済することはできないだろう」

「ふは、ははは。確かにそうだな。院長も言っていたが、お前の体と心は真逆だ。心で癒したいと思っても、体は否応なく傷つけるという形で他者と接してしまう、か。思えば、カルロの時もそうだったな。穏便に私を助けようとして、結局、カルロの触れてはいけない所を触れて奴の心を傷つけた。ま、奴は気にしていないようだったが」

ピエトロは目の前の彼女が本物なのか疑問に思った。マリアは、まるで知己の失敗談をからかうような明るい笑い方をしたのだ。

しかし、その僅かに抱いた彼女への好意は、結局、彼女が自ら打ち砕いた。

「ピエトロ。お前、騙し方を学んだとかほざきながら、至極騙され易いな。今私があんな笑みをしただけで心を許すようでは、ますます業界とやらで生きてこれたとは思えん」

どうやら、彼女の先の明るい笑いは罠だったらしい。そう言って愚かな殺し屋を嘲る彼女の顔は、一転して昨日の様な悪意と嗜虐に満ち満ちたものとなっていた。

ピエトロが内心で己を恥じていると、マリアはそれを見抜いて嗤い始める。

彼女はピエトロの負の感情に敏感に反応する。今の僅かな羞恥でさえ、彼女にとっては甘いデザートなのだろう。

「ちッ。……そう言うお前は? 何故そんな二重生活みたいなことをしている?」

マリアの質問には答えた。今度は自分が聞く番と考えたピエトロは、にたつき始めたマリアに主導権を奪われないためにも問いを投げつけた。

「これはな。幼少の時に出会った、とある女性の助言を聞いた結果なんだ」

 マリアはワインで喉を潤した後に先を話す。

「当時、スラムの貧困生活で荒れに荒れていた私は、道を歩いていたその女性を、金を奪うべく襲った。見事に返り討ちにあったがな。だが、その人は私に危害は加えず、むしろ良い子にしていた方が得であるという助言すらしてきた。不思議と腹が立たなかったんでな。渋々聞いてやったんだ。

私は目を疑ったよ。その人が言った通り、しとやかにしていれば周りの人間は私に優しくなった。私が健気な顔して物乞いをすれば、道行く大人達は金をよこしてくれた。少し恩を振りまけば、同じ貧困仲間共は私に協力してくれた」

マリアは新たに二本の酒を手に取った後、冷蔵庫から勝手にチーズを取り出すと、キッチンカウンターに置かれた籠の中からパンも取って戻ってきた。

「それからだ。私が人前で善人を演じる様になったのは。幼い頃から大人しい人間を演じる練習をしていたおかげで、今周囲の者とも上手く折り合って生きている。自分で言うのもなんだが、私の性格が社会に溶け込むとは思えんからな。彼女の言を聞いていて本当に良かったと思う。

まあ、いい子にしすぎたせいで、母の薦めで修道院にぶち込まれてしまったことには、ずいぶん嘆かされたものだがな」

マリアはいつの間にかもう一つのワイングラスを持ってきていて、それにワインを注ぐと立っていたピエトロに渡して来た。

また、何か罠をしかけているのではないかと警戒しながら受け取った。が、特に何もない。本当に彼と飲みたかっただけのようだ。もっとも、彼は酒に強くはないので、一口飲んだだけでそれはテーブルに置き、自分もテーブルを挟んで反対側のソファに座った。

「なるほど。しかし、子供の頃から善のモノマネをしていたら、どんな人間でも影響されて悪ではなくなるものなんじゃないのか?」

半ばそうであっていればという祈りを込めたピエトロの問いは、しかしマリアの薄気味悪い笑い声でかき消される。

「彼女はそれを願って善人でいろと言っていたようだが、そうじゃない人間がいて何か悪いのか? 私の拒絶は、未だこの国に残る差別問題と何ら変わらんぞ? 何せ、私のこれは生まれつきであり、成長過程で得た嗜好ではないからな」

その屁理屈にピエトロは眉間を押さえた。こうまで価値観や道徳観念が噛み合わないと脳が痛んでくる。

その反応に何を思ったのか、彼女は話し続ける。

「……勘違いするな。先程、存在自体が悪だとお前は言ったが、裏腹にこの身は善に満ち溢れているぞ。何せ彼女に諭されて以来、修道院に入ったこともあって悪に手を染めることなど一度もなかったのだからな。無論、それはお前同様に望まぬ生き方ではあったが」

彼女はグラスの中身を飲み干すと、立ち上がって部屋の中を見物し始めた。

ピエトロは彼女の分析を見誤った理由が分かった気がした。今まで積みに積んだ善行という鎧でその心を囲っていたせいで、その内に潜む悪が見えなかったのだ。

彼の観察術はあくまで観察であって、心を見透かすことではない。対象の人間に悪意を持たずに行動されたら、その動きから悪人と断じる分析をすることはできない。幼い頃から善人を続けてきたのだから、その演技にも筋金が入っていたことだろう。

暖炉の上に置いてある、おどろおどろしい外見の幽霊船の模型をしげしげと眺めているマリアを見ながら、彼はそう思った。

「そういえば、お前はどうやってこの写真を撮った? 修道女は、夜間は外出ができないはずだ」

ピエトロはふとテーブルの上に置かれた写真を見ると、仕掛けについて聞き出すさわりとして聞いた。

「粗末な手だが、仮病を使った。三日程寝ずに過ごしてわざと体調を崩してな。病院に行くという名目で教会から出たのさ。そして、教会を出た後にお前から滲み出る苦悩を追って、しばらく動向を見ていたんだ。あの現場を撮れたのは嬉しい誤算だった」

テーブルに戻ってきたシスターはチーズを齧りながら続けた。

「ああ、それと、私から写真のデータを奪い返すなどという考えは起こさんことだ」

「ッ!?」

今のは、心を読んだ訳ではないだろう。彼の内心には負の要素はなかった。だが、それは何の気休めにもなっていない。つまり、相手の負の感情を読まずとも、彼女には相手の求める物を洞察する力があるということだ。

――忘れていた。曲がりなりにも、普段は人々の悩みを解いているんだったな――

「まぁ、お前は私に飼われていた方が幸福になれるだろうから、それはしないと思うが」

「なに?」

思わせぶりなマリアの発言にピエトロは眉を顰める。現に彼女の接近は彼に一欠片の幸福すらもたらしてはいないのだが。

「分からないか? 今のお前を苦しめている最大の理由は、お前自身の歪さにある。心は善、体は悪。本来ならばこんな状態は長くは続かん。徐々にどちらかに傾いて、完全な善か悪かになるものだが……」

言いながら、今度はリビングの奥にある電子ピアノの椅子に座って、特に曲を奏でるのでもなく鍵盤を叩き始めた。

この女、泰然自若に見えて意外と落ち着きがない。普段の生活の堅苦しさを、ここで発散しているのかもしれない。

「そうならないから、お前は苦しむのだ。もっとも、それこそがお前の価値でもある。生半可な人生を送った人間ではそこまで美味しい素材にはならんからな。とにかく、お前は善と悪の両立などという器用な真似はするべきではない」

ピアノを引く以前に、彼女は音楽そのものの造詣に欠けているのか、目の前に広げられている楽譜に見向きもしない。

「何故なら、お前の救いは心が壊れることだからだ。私にこれ以降も嬲られ続ければ、いずれは確実に壊れ、この辛い現実から逃げ出せて、二度と苦しむことはなくなるだろう。

私は、お前にとっては不幸を呼ぶ鴉かもしれんが、同時に解放に導く青い鳥でもある」

 マリアの発言は、ピエトロには堪えるものがあった。

善と悪を使い分けるというカルロとは真逆の考え方。

 業腹ではあるが、彼女の言い分も間違いではない。業界から逃げられず、死を恐れる。ならば、善の心を捨てて悪の肉体に全てを委ねればいいのだ。完全なる黒になってしまえば、彼女の命令に心痛めることもなくなる。彼女の言う通り、苦痛は感じなくなるし、生きるためなら肉親であろうと、心を痛めずに切り捨てられる。

 だが、それは同時に幸福すらも感じなくなるということ。喜怒哀楽すらも捨てるということになる。残るものは依頼の遂行に対する執念のみ。複雑な悩みを抱える心が消えれば、肉体は殺人技術をほとんど条件反射でこなすだけの機械となるだろう。まさに、カルロを殺してしまった時のように。

――本当に、面白い――

 いつの間にかマリアは、杜撰な演奏を止めて、渋い顔で悩むピエトロを見ながら喉の奥で笑っていた。

自らの悪性を嘆き、取り払おうとして教会を訪れる者は多いが、この青年の様に善性を取り払った方が幸福に到れると悩む人間はいなかった。初めて舌の上を広がるその味は、昨日の様な強烈な悦楽ではなく、焦らされるような痺れを伴う淫靡な心地よさを与えてくれる。

 悶々としていたピエトロは、ようやく我に帰ってマリアの邪悪な視線に気づき、考えるのを止めた。このままでは彼女の思うツボだ。

「そうだ。話は変わるが、私の院長が面白いことを言っていた」

ピエトロはマリアが持ってきたパンを食べながら、期待せずに続きを聞く。

「善行を積んだ肉体には善の心が宿り、悪行を重ねた肉体には悪の心が宿るらしい。お前はこれをどう思う?」

どう思おうと、マリアのこの後の話のつなげ方は分かっていた。

「心と体の善悪が真逆の僕らによってその考えは否定されたと言いたいんだろう? おめでとう。その身を持って嫌いな院長の持論を打ち破ったな」

ピエトロは全くもって素っ気無い口調で言った。彼としては、自首を薦めてきたとは言っても徹底して慈悲深い院長に好感を持っていたので、その考えが否定されるのは屈辱的なものがあった。

しかし、マリアは別に彼の投げやりな態度を気にすることなく、スカートを翻してテーブルまで戻ってくると、二つのワイングラスに酒を注ぎ、一つは彼に渡してきた。

「ありがとう。だが、間違えるなよ。私は聡明な院長を尊敬はしている。相性が悪いだけだ。では乾杯をしよう。偽善と自己満足の第一人者であるベアトリーチェ=コルテッラへの勝利を祝して」

言いながらも彼女の関心と不気味な双眸は、ピエトロの顔にのみ向いていた。

乾杯などどうでもいいし、彼女が欲しかったのは院長への勝利ではない。

好感を持った人物を侮辱されたピエトロがどういう反応を見せるのか。彼女はそれだけが見たかったのだ。

「……悪趣味な女め」

しかし、彼女の期待に反して彼の反応は薄く、ぽつりとそう漏らしただけだった。

内心で反発しているのは分かるのだが、その感情の起伏が表情を変化するには至っていない。昨日の彼ならば、これだけで十分に取り乱したというのに。

「……今日はだいぶ余裕があるようだな?」

マリアは彼に差し出していたワインも一人で飲むと、つまらなそうにソファに座った。

「ぐっすり寝たから落ち着いたんだろう。実際、昨日は精神的に参っていたからな」

「なんだ、そんなことでか。安心したぞ。生理現象で解決した心の傷は、いずれまた疼き出す。貴様の落ち着きは一時的なものだ」

その不気味な宣告を聞いたピエトロは、内心背筋の凍る思いだった。

こと苦悩や不安などの分析に関しては彼女の右に出るものはいないだろう。彼女は観察などという生温いものではなく、全感覚を使って相手の苦悩を見ることができるのだから。

彼女の特異な感性は、理論よりも余程正確で、そして凶々しい。

「ありえないな。カルロの最後の願いを叶えるためにも、僕はもう心を折ることはない」

だから、彼女にはハッタリが全く意味を成さない。何の懸念もなく臆することもなく発した真実でないと、簡単に心と言葉のズレを見抜かれてしまう。

「カルロが死してなお、お前の心を支えていると?」

そして、それ故に彼女はその笑みをより深いものとする。彼の心から発せられる心地よい不安を感じたがために。

「そうだ。お前が自分で教えてくれただろうが」

揺れる断言をしたピエトロは、しかし、急激な寒気を感じて身を震わせる。

その冷気は言うまでもなく彼女から発せられている。兎の赤子を見つけた狼の様なその口から。食材をどう調理していくか吟味するその目から。

マリアは立ち上がり、ねっとりと近づいてくる。

そして、彼のソファの前まで来ると、彼の肩上辺りの背もたれに手をついて、鼻がぶつかる程に顔を寄せてから言った。

「カルロの遺言が本当のことだとでも?」

「……ッ!?」

ピエトロは息を呑んだ。

その言葉は彼の心の支えを一瞬にして打ち砕き、崩れさせる威力を有していたからだ。

「きははははは。良い顔だぞ。やはりお前はそういう顔をしている方が男前だ」

マリアは、そのままピエトロの左目をペロリと舐めた後、勢いよく彼から離れた。

そのせいで、彼女を拘束するべく伸ばした手は空振りに終わる。

「くッ。ほ、本当なのかッ!? カルロの言葉は……」

ピエトロは目をこすりながら立ち上がり、彼女に詰め寄った。

彼は真実を聞きたくはなかった。聞けば砕けると分かっていたから。それでも聞いてしまったのは、好奇心故か、はたまた罰を受けるためなのか。

「ああ、嘘だった。考えてもみろ。今際の際の子供にあんなことを言う余裕があると思うか?」

「……あ……ああ」

瞬間、彼は崩れ落ちるように膝をついた。自らの精神を保つための支えを失った心もまた同様に。

「んん~~? どうしたぁ? 立ってられないのか? そぉおだよなぁ。ありもしない言葉をつっかえ棒にしなきゃ心も保てん男だものなあ」

言いながら、彼女は腰を落としてうなだれた男のあごを爪先で持ち上げた。

その顔たるや、親を見失い迷子になった子供そのもので、マリアは満悦な顔をした。

実際のところ、カルロは病院に搬送された時から意識が無く、ついに家族にすら何も語れずに逝ったのだが、彼女はその事実を改竄して、二重の落とし穴を含んだ悪質なシナリオへと変えたのだ。遺言を聞かせた時と、その遺言を失わせた時とで、一つの悲劇で二度旨味を絞り出すために。

ソファに座って足を組むマリアの姿は、傅く貧民に無理難題を押しつけて悦に浸る暴君そのものだった。

「…………んん? おやおや、つまらん男だなお前は。女一人満足させられないとは」

ピエトロの心の傷に指を押し入れ、引き裂いておきながら、マリアはその重過ぎる代償とは到底釣り合わぬ、落胆を禁じえないといった顔をした。

 ピエトロの心中では、再び負の奔流が泉の如く湧き出しているのだが、涙を流すには至らなかった。昨日までならそれでも良かったのだが、あの味を知ってしまったからには、もはや涙無くして彼女は満足できない。

そのために、マリアの体を走り抜ける快楽の波は極致へと到達する直前で徐々に下降を始めたのだ。前菜を食べ終わり、これからメインディッシュが来るかと思えばいつまでたっても皿が運ばれて来ない。これでは納得ができないのも仕方のないことだった。

「……駄犬。やはり今から院長を殺してこい。ここまで焦らされては収まりが……」

 言いかけたところで、マリアの心臓は危険な程の動悸を始めた。

「かっっはッ……あ、ぐ」

 彼女は力無く膝をついて、胸元を抑える。

 先ほど自宅で起こった症状と似ている。やはり母と同じ心臓の病か、とマリアは思ったが、顔を上げた彼女はその可能性を自ら否定した。

「ぐッ、ふぐうぅッ。なん、だっ!?」

 目の前の男も、彼女と同じ反応をしていたからだ。胸を抑えてその苦痛に耐えている。唐突な異常に意識が戻ったらしい。

 自分達が全く同じ反応をしているのは奇妙に過ぎる事だが、彼女にはその原因は全く読めない。完全に理解も推測もできない現象だった。

「貴様、僕に何をした?」

どうやら、これはピエトロにとっても全く理解不能なものらしい。

 二人は何とか立ち上がろうと足に力を入れるのだが、突如として視界が暗転したため再び膝をつく。

「「えっ!?」」

そして、視界に違和感を覚えて顔を上げると、二人はありえないものを見た。

 目の前には自分自身がいたのだ。驚愕の表情を張り付けた自身の姿が見えた。

 マリアの視界からは目の前で胸元を手で押さえる修道女が見え、押さえている自分の胸元は細身ながらも筋肉質な男のもので、着ている服には武器や装備が仕込まれているせいか、肩にずっしりと重みがかかり、両手を床に突いて転倒を防ぐ。

 ピエトロの視界からは目の前で胸元を手で押さえる殺し屋が見え、押さえている自分の胸元は豊かな乳房だった。驚愕と気恥ずかしさから思わず手を離す。それから、自分の肩に乗っている艶やかな長い金髪の存在に気づいて、それを乱雑に掴んだ。

「な、なんだ? これ……は……」

ピエトロが、修道女の口からその言葉を吐き出すが、それは最後まで発されることはなく、二人の意識は深淵へと墜ちていった。


どかどかという玄関の扉があげる悲鳴によって、二人は飛び起きた。

そして、二人は辺りを見回し互いを見合い、自らの体を確認するという、示し合わせたように同じ行動を取った。

だが、ピエトロは自分の体が薄汚い殺し屋のものであり、マリアは自分の体が清らかな修道女のものであることが分かると、二人は安堵した。

「ピ、ピエトロ。貴様私に何をした?」

「知らない。今のはお前の仕業じゃないのか?」

互いが互いに今の不可解な現象に疑心を向けるのだが、どうやら二人とも心当たりはないらしい。

マリアが更に何か言おうとしたが、外から響いてくる大声が遮った。

「お~い、ピエトロ。いるかあ?」

がっはっは、と続く野太い声がリビングまで響いてきた。インターフォンを使うという発想はないのだろう。

マリアは舌打ちしながら立ち上がった。

ピエトロはその無遠慮だが、同時に温かみのある声を聞いた時、今の奇怪な出来事などどうでも良いと思える程に、喜びに打ち震えた。

「……リュウイチっ!」

彼は心から彼に感謝した。一条の光が差し込んで来たのだ。

伊東が帰ってきた。知りうる限り最高の味方。彼と共に二人がかりで押さえればこの女も敵うまい。

だが、マリアの周到さと用心深さは、ピエトロの証拠隠滅に対する考えと同じ位の神経の尖りようだった。

伊東から希望をもらったかと思うと、マリアはすぐさま不安の種を植えつけていった。

「私が三十分以内にこの家から出られなかったらお前は終わりだぞ。いいな?」

そう言うなり、自分が使っていたワイングラスとコートを持ってキッチンの方に向かい、曲線状のカウンターの裏に隠れてしまった。

そして、今の言葉で写真に関する予想は確信に変わった。やはり彼女は写真が自動的に世間の目に触れる様な仕掛けを働かせていたのだ。それが、分かったのは大きかったが、同時に伊東と二人で彼女を捕まえることもできなくなった。

二人で抑えるにしても、マリアの実力を考えると、捕らえているだけでも時間を食うし、拷問などで仕掛けについて吐かせるのには更に時間を食う。

今の彼女の脅しが真実であるという保証はないが、昨日、悦を惜しんでまで帰ったことを考えると、嘘であるとする方が間違いだろう。

ならば、伊東を帰すのは涙が出る程悔まれるが、居留守を使うのが最良の選択肢だろう。このまま帰ってもらえれば、マリアも素早く帰すことができる。

「おいおい、ピエトロォ、いないのか~? キーピックで開けちまうぞ~?」

あの男はやって欲しくない冗談こそ本当に実行に移す。

ピエトロは、慌てて玄関へ向かった。居留守を使うにしてはいささか床を踏み鳴らしすぎていたが、今の彼にそれを気にする余裕はなかった。

「リュウイチッ。待っ……」

手遅れだった。玄関へ続く廊下に走り出た時には、扉は見事に開け放たれていた。

彼の内心の陰りを知らない大男は、対照的に愉快そうに破顔する。

それは彼が待ち望んでいたものなのだが、今の状況では悪魔の微笑みに等しい。

「いるじゃねえか。ちゃんと祝いのパーティに出席してやったぞ。ありがたく思え」

夜中だというのに、大声で笑う伊東。

しかし、いつもの爆発的な笑いなのに、何か違う気がするのはピエトロの気のせいだろうか? 言うなれば音だけで殺傷力のない爆弾のような、中身が空虚な印象がある。

「……あ、ああ、入ってくれ。だが、長居はさせられない」

心にかかった陰りを顔に出すことなく、ピエトロは言った。

「何ぃ? せっかく来てやったのにか?」

勝手なことを言いながらも伊東はリビングに入っていった。急いでピエトロも後を追う。

「って、お前、酒の準備をしてるのはいいが、既におっ始めてるのはどういうことだ? こんなに呑み散らかしやがって」

テーブルの上の惨状を見た彼はそう言うものの、さほど気にしていないようで、先ほどまでピエトロが座っていたソファに座ると、ボトルの一本を取ってラッパ飲みを始めた。

「いや、その……寝酒代わりさ。今日は、早く眠りたくてね」

「なんだよ。これから、俺様の素晴らしい仕事っぷりを自慢する予定だったのによぉ」

気軽な口調で言っているが、伊東の目は笑っていない。何かピエトロに対して負い目があるか、聞き出したいことがあると彼は読んだ。

だが、目が笑ってないのはピエトロも同じ。

笑顔の中にも困惑の色を浮かべたピエトロの視線に伊東は気づいたようで、彼は溜息をついて言った。

「……分かった分かった。今日はさっさと帰るさ。だが、その前にいくつか聞かせろ」

「ああ。なんだ?」

質問の了承を得られたというのに、伊東は口をつぐんで視線を泳がせ始めた。いつもの直情的な彼らしくない。伊東は言いたい時に言い、やりたい時にやるという、豪放磊落な性格をしているとピエトロはずっと思っていた。幼少時まで記憶を巡らせてもここまで挙動不審な伊東は見たことがない。

彼はどうにも落ち着かないらしく、立ち上がって暖炉の上にある幽霊船の模型を誰かと同じようにしげしげと眺めた後、ようやく口を開いた。

「ピエトロ。お前、今の生活はどうだ? 相変わらず嫌か? それとも満足か?」

体は幽霊船に向けたまま、珍しく厳かな口調で言った。

その唐突な質問に首を傾げながらも、ピエトロはすぐさま心の内を暴露したくなった。自分をこのどん底から救い上げて欲しいと懇願したくなった。幸い背を向ける伊東に、縋りつく様な表情を見られずにすんだが。

「……ああ。嫌だが、こっちで生きていこうと思ってる」

 だが、それを言おうものなら再び彼に心労をかけてしまう。ここは、そう言っておくのが良いだろう。ピエトロはそう判断した。

「……そうか」

伊東は安堵とも、落胆ともつかぬ返答をした。

「なら、いいんだ。……俺が留守の間はどんな仕事をしたんだ?」

伊東は振り向いて笑顔を見せた。いや、笑顔のような顔を見せた。

「……特にしてない。しばらく休んでいた」

「三日間もか? そりゃずいぶんと長い休みだな? 少なくても二日に一度は仕事しろと言っといたろうが?」

「ここ最近は多忙で、疲れていたんだ。ちょっと休むくらい構わないだろう?」

「……ま、確かに。だが、良いことじゃねえぜ。俺やダルダーノだって一週間ベガスに行って帰ってきたらあっさりしくじりかけた時があったんだぞ。美鈴も一度腹に弾喰らったことがあったろ? あれ中国から帰省した直後の依頼でだぞ?」

もちろん覚えがある。

以前、負傷した彼女から連絡を受けた父と伊東が、血相変えて飛び出して行ったことは記憶に残っている。あの時はまだ未熟という理由で、一人家に残されたことには悔しさを覚えたものだった。

「なるほど。お前達や父さんでもそうなるなら、僕も気をつけないとな」

「そうしろ。ま、あいつの場合、また立ったまま寝たところを撃たれたのかもしれんがな。が~っはっはっはっは」

伊東の大笑につられて彼も笑みを浮かべる。この声を聴けただけでも、ピエトロは彼に会えたことを喜ばしく思えた。

「そうだ。なまり解消のために、簡単な仕事でもどうだ? エルダからマフィアの護衛やガキの誘拐とかの簡単な仕事を紹介して……」

「ダメだッ。そんなことは許されないッ」

伊東の何気ない提案に、ピエトロは必要以上の声量で怒鳴ってしまった。

固着した伊東の顔を見て、ようやくピエトロは自らの軽率さに気づいた。

「……どうした? らしくねえじゃねえか?」

「……な、なんでもない」

 目を伏せて、歯を食いしばる。

「そうは思えんが?」

そういうピエトロの顔に伊東は見覚えがあった。いや、忘れるはずがない。それは父を失った時に幼い時の彼が見せた顔と全く同じものだ。

「…………知り合いが、死んだのさ」

長い逡巡の後、ピエトロはぽつりと漏らした。

やはりそうだった。伊東は他人事だと言うのに、まるで己に不幸がふりかかったように、ビクリと体を震わせた。

「お前の知り合いだぁ? 誰だ、そいつは?」

「……最近仲良くなった、男の子だよ」

伊東は、あの写真に映っていた茶髪の少年を思い出す。

二人で談笑しながら歩いている一枚の写真からでも、その関係がどれほどのものかは分かる。そして、この脆い青年が、その喪失に耐えられるとは到底思えない。

ピエトロは伊東から目を逸した。

彼は叱責を恐れたのだ。

それ見たことか、と。あれほど注意を受けたにも関わらず、表の人間との会合を未だに続けていたことに対する罪悪感がそうさせた。

「この、馬鹿野郎。んなこと気にしてんじゃねえよ。お前のせいじゃねえんだろうが?」

彼の大きな体が倍に膨れたような威圧感と共に伊東が怒鳴る。意外にも、そこに青年への怒りはなかった。もっとも、予想に反した彼の慰めは叱責以上に青年の心を抉るのだが。

「……」

無言のピエトロを見て、伊東が何を判断したのかは分からないが、少なくともその顔には憎悪が生まれ始めた。ピエトロに対してではない。彼の中で憎しみの対象となっている誰かに向けて、冷ややかな殺意が向けられていた。

「分かった。今日はゆっくり休め。復帰できたら簡単な仕事をするといい。

……後、最後に一つ聞きたい。ちょいと小耳に挟んだんだが、お前宛に変な手紙が来ただろ? あれはどんな内容だったんだ?」

伊東の目は、気遣いの際に柔らかくなったかと思うと、手紙の件を口に出した瞬間再び鋭くなった。相変わらず理由は分からないが、何故かその声には怒気が内在している。

どうにも今日の彼には余裕が感じられない。笑ったり怒ったりと感情がぶれている。

ピエトロは、滅多に見せない伊東の怒りに動悸を早めながらも、落ち着いて答えた。

「……あれか。なんでもない。その少年からの手紙だよ。彼は携帯を持っていなかったからね。また今度会いたいという他愛の無い内容だった」

適当に嘘をついた。本当のことを言おうものなら、カウンター裏にいる者が後で何を言い出すか分かったものではない。

伊東が手紙の存在を知っていることは疑問だったが、そこを問い詰めると、更に時間を食うのは目に見えていたのでやめておく。

「……本当だな?」

伊東はより一層目つきを厳しくするが、ピエトロは何とか涼しげな顔で首を縦に振った。

そこに殺気が乗っていたら、恐ろしさのあまり白状していたかもしれない。それだけ、彼の威圧は強かった。

伊東はしばし黙った後、煙草をつけてのっそりとリビングから廊下に向かう。

「そうか、分かった。……じゃ、俺は帰るかな。飲みはまた今度にしよう。あ、あそこがいい。エルダん所の下がバーになりやがるそうだから、開店したらあそこで飲むか」

その時、ピエトロは一転して軽い口調になった彼の口から出た、エルダと伊東というキーワードが重なった時、兼ねてより聞こうと思っていたことを思い出した。

「……リュウイチ。メイリンさんは、最近どうしているんだ?」

「ん? 知らなかったか? 奴は日本だ。そこで……」

「拳法の講師をしてるんだろ? それは知ってる。だが、何故?」

「何故も何も、……儲かるからだろうよ」

……嘘だ。ピエトロにはそれが分かってしまった。彼の表情や、微妙にくぐもった声が、それが真実でないと語っていた。もっとも、それがどんな嘘なのかまでは分からないが。

「そうか。なら、いいんだ」

先の伊東の様な返し方をするピエトロ。

「なんだ? 野郎の俺だけじゃむさ苦しくて堪らんってか? そりゃ悪かったな」

「いや、そういう意味じゃない。単純に彼女と最近会ってないから気になったのさ」

伊東は拗ねた振りをしながら顔を背けると素っ気無い口調で言った。余程知られたくないのか、話題をさりげなく変えてきた。それが分かっていながら、ピエトロは慌てて弁解してしまう。

「へっ、エルダやシルヴィア、あとフランもか。美女はお前の周りにうようよいるじゃねえか。なのに、まだ満足できねえとは、お前も好きだなぁ」

伊東はニヤニヤしながらピエトロの肩をポンポン叩く。

「違うよ、そんなんじゃない。……さて、そろそろ寝たい。話の続きはまた今度にしよう」

ピエトロは苦笑混じりに否定しながら彼を急かす。何だかんだで既に十五分が経過している。自分や、引いては伊東自身を危ぶめる事態になりかねないので気が気でないのだ。

伊東は無理やり話題を作ろうとしている様子だった。もしかしたら、もう少しここでゆっくりしたかったのかもしれない。

ピエトロはのそのそと玄関の方に向かい始めた伊東を見送る。

だが、伊東は玄関のノブに手をかけたところで振り向いた。

「……ピエトロ。もし、お前が今の生活が本当に嫌になったら、俺に言えよ」

「? ……ああ」

ピエトロは反応に困り、曖昧な笑みを作って応じた。

そして、珍しく後に続く笑いがないまま伊東は家から出て行った。



彼の帰りを見届けたピエトロがリビングに戻ると、ちょうどマリアが待ち惚けを喰ったような顔でカウンターの陰から出てきたところだった。

座り込んでいたようで、腰元を手で払っている。

「おい。僕が終わりとはどういうことなんだ? 説明しろ」

ピエトロは彼女に迫った。長居して欲しかった伊東を追い払った分の情報は得なければ割に合わない。

しかし、ピエトロの怒りや不安に満ちた詰問は彼女にとってはご馳走のはずだが、予想に反して、マリアはにやつくでもなく怒るでもなく、真摯な目をしながら言った。

「……リューイチが言っていた、立ったまま眠るメーリンという人物は、もしや緑の服を来た長い茶髪の中国人のことか?」

「……は? あ、ああ」

マリアの口から彼女の名前が出た事実を素直に飲み込むことができないまま、彼女の意外な顔つきに気圧されるピエトロ。

「そうか。どうりでぷつりと現れなくなったわけだ」

虚空に向かって誰に対してでもなく声を発するマリア。

「何故、お前がメイリンさんを知ってる?」

「言い忘れていたな。さっき話した女性は、私の武術の師匠でもあってな。中国拳法はその人に教わったんだ。だが、いつの日か急に現れなくなってな。どうしたのかと思っていたが、まさかお前らと同じく業界の者だったとはな。あんな穏やかな性格だったから、ついぞ気づかなかったよ」

ピエトロはその事実に愕然としたが、これで彼女の強さの秘密が分かった。あの美鈴から武術の手ほどきを受けたのなら、この実力も頷ける。

美鈴はピエトロへの訓練を済ませると、人と会う約束があると言って帰っていくことが多々あったが、その相手こそがこのマリアだったのだろう。まさか、自分と彼女に幼い頃からそんな接点があったとは。

彼女は、薄く笑ってはいたが、その顔はいつもの尊大さが無くなっていた。もしかしたら、こんな女でも美鈴がいなくなったことを寂しく感じているのかもしれない。今思えば、マリアは美鈴の言う事は素直に聞いていた節のある発言をしていた。

「……お前みたいな女でも、メイリンさんを気に入っていたのか?」

「当然だ。理由は知らんが、彼女を殺して金を奪うつもりだった私にずいぶん良くしてくれた。生活費もくれたし、生き方も教えてくれた。善人の真似すらできなかった私に、条件一つで人格を変えられる自己暗示法も伝授してくれた。人生の恩人だよ」

ずいぶんらしくないことを言う。ピエトロ同様、マリアの中でも彼女の存在はかなり大きなものとなっているらしい。

そして、マリアを救った理由は、美鈴自身もスラムの出だったから、似た境遇を持つマリアに思うところがあったのだろう。もっとも、仕事外でなら誰彼構わず優しい彼女なら素でマリアを助けていただろうが。

「僕も、彼女から中国拳法を教わったよ。向いていなかったらしく、全てを習得するには至らなかったがな」

マリアは、しばし祈るように目を閉じていたが、数秒もしない内に彼女の顔にはいつもの表情が戻り始め、それ故に、彼も本来の目的を思い出した。

「おい、それよりも教えろ。時間内にお前を帰さないと僕が終わるとはどういうことだ?」

「ああ、それはな。十時までにとある人物に連絡を入れないと、あの写真とここの住所が入った封筒を警察に出す事になっている。もちろんそいつは封筒の中身を知らないがな」

「し、信じられないな。そんな怪しい頼み事を聞いてくれる物好きがいるとは思えない」

「いるとも。親切な人間の明るい笑みは、人を盲目にさせるのだからな。誰もがお前のように人間観察ができる訳ではない。いや、お前の観察眼ですら私を見抜けなかったのだ。平和にふやけた常人共には到底無理だろうよ」

ピエトロは時計をちらりと見やるとシスターに言った。

「……なら早く連絡を入れろ。後十分程度しかないんだ。僕が捕まるのは、お前にとっても良いことではないだろう?」

「確かに。だが、その前に新たな命令を聞け」

嗜虐心に顔を歪ませた彼女は腰に手を当てると、死刑を言い渡す裁判長の様な口調で言った。

「殺害対象:リューイチ。期日:今夜の十二時まで」

ピエトロは自分の顔が青ざめているのが分かった。鏡よりも正確に、彼女の笑みは彼の顔の悲痛さを映していたから。

「か、彼は関係ないだろうッ?」

 悲鳴のような声が部屋に響く。

「あるから命じている。もっとも、ないなら親しくさせてから殺させるがな」

肩をすくめてマリアが言う。

しかし、ピエトロは伊東の殺害に関して、ふと気づいたことがあった。

「残念だが、僕ではリュウイチに敵わない。彼は業界の中でも指折りの殺し屋だからな」

単純にそういうことだ。ピエトロの親しい人間を殺させて悲しみを絞り出すのは、あくまでも対象を殺せることが前提となる。

「それでも男の子か? 心配するな。あの男は絶対にお前を傷つけたりはしない。先ほど感じたが、奴はお前に対して罪悪感を、そして、他の何かに対する憎悪を抱いていたからな」

「なに?」

ピエトロは困惑した。伊東の言いつけを守らなかった上に嘘までついた自分に、何故罪悪感を抱くのか? そればかりか彼がピエトロに迷惑をかけたことなど一度もないのに。それに業界内でも温厚な彼が憎悪を抱く人物とは誰なのか。

「……理由は知らん。流石の私もそこまでは読めない」

そういうと、マリアはコートのポケットからベールを取り出して慣れた手付きで被ると、次は携帯を取り出して、おそらく例の仕掛けの相手に電話をかけた。

「夜分にすみません。あの封筒ですが、出すのは少し待っていて下さい。……はい……はい。またかけ直しますね」

器用なのか、不器用なのか、シスターマリアは温和な口調で話す時はいちいち暗示をかける必要があるらしい。実際、切り替えずとも穏やかな口調で言うことはできるだろう。その言葉に温かみを乗せられないだけで。

そして、死刑執行猶予が延長されたために、ピエトロは落ち着きを取り戻す。

「それで、結局僕にはリュウイチを殺す手段はないが。この依頼は続けるのか?」

「殺しなんていけません。命は尊く儚いものなのです。例えそれがどんな悪人の命であろうと。……あなたの心は人を救うことだけを望んでいるはずです。自分に嘘をつかないで」

「!?」

シスターは彼に詰め寄りながら言った。美しい糾弾の表情。言い負かすのではなく、考えを解きほぐす様な優しい話し方。久しく聞いていなかったシスターマリアの声音に、ピエトロは気圧される。

「『求めよ。さらば与えられん』という言葉があり、あなたの人生を満たすためには、そうあれかしと友人が言っていました。ですから、あなたは悪事に身を委ねることはせずに、自分の求めるものを素直に求めるべきです!」

「……」

彼女の自分の使い分けの凄さを改めて思い知った。別人と錯覚する程に目の前の人物は変わっている。他人の気配に敏感な彼だからこそ、外見以上の違いを感じることができてしまうのだろう。

しかし、それ故にこの見せかけとは言え温かい気配が、外されたベールと共に零下へと落ちていったのはなかなかに堪えた。

「……何故、私はあんなことを言ったのか? さっさと暗示を解けば良かったのだが」

堪えたのは、どうやらピエトロだけではなかったらしく、マリアは僅かに赤面しながら視線を逸した。一般的には、道徳に沿った良い言葉だったはずだが、彼女からすると致命的な失敗であるらしい。

「と、ともあれ、リューイチを殺せ。この際、お前の手を介さずとも構わん」

柄にもないことを言ってしまったせいなのか、拗ねた様にマリアは話を戻した。

「無理だ。僕の友人はメイリンさんとリュウイチ位だ。他に協力してくれ仲間はいない」

ピエトロは徹底的に否定する。先ほどの院長の時と同様に、押し切ればうやむやにできるかもしれないと考えたのだ。

「……では、携帯をよこせ。確か、依頼の仲介人はエルダとか言ったか? その女を通して、他の殺し屋に殺させるとしよう」

だが、甘かった。先ほどメインディッシュを食べ損なったせいなのか、マリアは伊東の死を看過することはできないようだった。

「渡すはずがないだろう? 仕掛けを解いている以上、僕は何も恐れるものはないぞ」

マリアは何がなんでも伊東を殺したいらしい。だが、ピエトロとて何が何でも携帯を渡すわけにはいかない。

「はは、昨日私に負けたことをもう忘れたのか?」

そう言って、マリアはピエトロに迫る。

彼女が距離を詰めたと同時に、ピエトロは跳躍で大きく後退した。彼は中国拳法が未だに得意ではないため、接近戦では分が悪い。

だが、後退しながらナイフと銃を抜いた時、彼は、マリアの技が美鈴直伝たるが所以を知るのだった。

発勁の応用でエネルギーを集められた右足で床を踏み込み、マリアは跳躍した。いや、跳躍と言いつつも、彼女は床から僅かしか浮いていない。地面から足が数ミリ浮けばそれで充分なのだ。

中国拳法の八極拳や螳螂拳の技の一つである「絶招歩法」を彼女は放った。

本来ならば、高く、長く跳躍して放物線を描くように敵に近づく技なのだが、勁によって威力を増した彼女のそれは、矢の如く直線上に接近することを実現していた。

ほとんど、床を滑るに等しいマリアの動きは、あまりにも現実離れしており、美鈴でも見せなかったその動きにピエトロは完全に虚をつかれた。

一瞬で懐に潜り込んだマリアは、ピエトロが突いてきたナイフを右手で払いのけた後、先に着地した左足で踏み込み、その全身のバネを使って下から突き上げる掌打を放つ「天王托塔」を彼の顎に打ち込んだ。

「ぐふっっっ」

それを、ピエトロはまともに喰らった。

掌打の速度に反して物理的な痛みは少なかったのだが、由々しき問題がある。

視界がぶれている。その目には天井が写っているのだが、まるでピントがずれているようにぼやけて見える。首から上が楽器の弦の様に揺れているのだ。彼女は放った掌打にも発勁を用いたらしく、昨夜、腹部を震わせたあの力を頭部に叩きこまれた。そのため、脳が揺さぶられて三半規管が狂い、彼は床に倒れ伏した。

「……ぐっ、く、くそ、う」

「心配するな。すぐに動けるようになるさ。お前にはリューイチを殺す大事なお仕事があるんだからな」

片膝で立つことすらまままならないピエトロの背中を踏みつけて押さえた後、彼のコートのポケットに手を入れて、携帯を取り出した。

「や、やめ、ろ」

ピエトロは声が上手く出ないようで、ほとんど空気が漏れるような音にしか聞こえない。

「こほ、うん……あ~、あ~」

マリアは、自分の喉を押さえて何度か咳払いをすると、声を整え始めた。

「かっ……待て、何を……」

そして、彼の静止もどこ吹く風で、マリアは奪った携帯をいじると、それに耳に当てて、信じられないことをし始めた。

「エルダさん? ちょっと依頼があるんですけど」

カルロの声真似をした時と同様に、ほとんどピエトロの声と同じ声色を発したのだ。もともとピエトロの声もあまり高い方ではないため、似せ易かったということもあろうが、伊東すらも騙せる程に、その声は酷似していた。

「く、待て、やめろ」

彼女の考えが分かり、止めさせようとするピエトロの喉を足で踏みつけながら、マリアは容赦なく続けた。

「リューイチの殺害に五万ユーロ出すので、この情報を流してくれますか? え? そうです、あのリューイチですよ。何故? 彼は僕に過酷な人生を背負わせたんですよ。もう我慢できません。でも僕だけじゃ殺せないんで、皆に協力してもらおうかと思いまして。……はい、……ええ、後悔はありません。……では、お願いします」

そして、マリアは携帯を切った後それを踏み壊し、近くにあった彼の家の固定電話を持ち上げると、暖炉の中に思い切り投げ込んだ。

「と、言うことだ。奴が他の有象無象に殺される前にお前が殺してやれ」

 マリアに業界のシステムを漏らした事を心底後悔した。まさか、こうまで臆することなく社会の裏側に足を踏み入れるとは。

「お前、なんて、ことをッ」

怒りに任せて立ち上がり、殺意に満ちた目でシスターを睨む。

「急がなくていいのか? お前の大切な友人が他者の手によって死ぬことになるぞ?」

目の前でにやける女がどうしようもなく憎くて、己の不甲斐なさがこの上なく情けなくて、この女と共にここで心中してもいいとすら思える程の憎悪が彼の内で渦巻く。

「貴様ああああああッ」

あの黒い青年を殺した時のような、いやそれ以上に強い憎悪の表情で彼女に迫る。

「どうしたッ? 早く行かねば手遅れになるぞ?」

全ての行動に先手を打たれた屈辱と嫌悪からマリアに殴りかかろうとしたが、その言葉一つで彼の体はピタリと止められる。

「ちぃぃっ、くそっ」

そう喚いて、ピエトロはリビングを飛び出し、玄関を開け放したまま夜の街にのまれていった。



 走る。走る。走る。

最初に行ったのは彼のマンション。

いない。

 次に行ったのは彼が良く口に出していた、レストラン、バー、風俗店。ここにもいない。買い物中と思い、近くの通りの売店や酒屋、裏の人間しか知らぬ店にも行ったが、はずれ。

途中、道で出会った何人かの同業者が「あの金額ホントかよ?」と、聞いてきたが無視する。

走りに走り、彼の心臓は破裂寸前になっていたが、それでも速度は緩めない。

夜の街を全力疾走しているピエトロを怪訝そうに見てくる通行人達。だが、一切気にならない。今だけは、見てくれなどどうでもいい。

途中で、跡がつくのも構わずにバイクか車を奪おうとも思ったのだが、こういう時に限って駐車してある乗り物が見つからない。

彼は臆病な自分を殺したくなった。

家の外に乗り物を置くことすら、裏の人間である事を見透かされる気分になるため、免許を持っていながら乗り物を所持していなかったのだ。

入れ違いになったかと思い、再び彼のマンションに行く。まだ帰ってきていない。

「どこ、だ。どこ、にいる。リュウイチ」

伊東の名を出したら涙が出てきた。既に一時間は過ぎている。エルダが依頼を回し、それを受けた者達が伊東を狙い始めるのには十分な時間。伊東が凶弾に倒れるという最悪のシナリオが、脳裏を幾度となくよぎる。

流石の伊東と言えど、多勢に無勢では限界があるはず。彼以上の実力を持つマルコとシルヴィアは幸い国外だが、近い実力を持つジャンやマルコまで動いたら――

(いや、あのリュウイチが簡単にやられる訳がない)

走りながらそう思い込む。そうしないと心が折れてしまいそうだった。

もう、当てが無い。考え付く限りの場所には立ち寄った。

エルダに依頼のキャンセルをしたいが、彼女は自分の登録してある番号以外からの電話に出ないので、連絡のしようがない。

「は、はっはあ、はあ」

一時間近く走り続けたせいで、とうとう体力が限界に達し、今いる繁華街にある建物の壁にもたれて息を整える。許容を超える走りを続けた反動で、吐血しかける程に苦しい。

全く見つからない。

あれだけの存在感を持つ男がどうしてここまで見つからないのか不思議だった。

現在、夜の十一時近く。街の中心辺りまで来るとまだ多くの人々が歩き、幸福な生活を堪能しているため、捜索にかなりの障害となっていた。

先ほどから業界の人間の気配を感じるのだが、必ずバイクか車に乗っているため、足では追いつかない。追ったところで、その先に伊東がいる保証もない。

こうなったら、ここからは車で十分はかかるが、走ってエルダの事務所に行って直接話をつけようかと考えた、その時だった。

「……ん?」

近くに複数の車が路上駐車して、十数人の一般人が降りてきた。と見えるのは表の人間だけだ。

ピエトロの目からすれば、それが業界の人間達だということがすぐに分かった。彼らが着ている服の左脇の微妙な盛り上がりや、銃を入れるのに丁度良さそうな鞄、未熟故、抑えきれずに漏れている殺気から、既に戦闘態勢に入っていることが読み取れた。

「あれは、ヴェロッキオさんか」

ピエトロが最後に車から出てきた背の高い男を見てそう呟く。突如、あの高層ビルでの出来事が思い浮かぶが、頭を振ってそれを打ち消す。今はそれを考えている場合ではない。

ヴェロッキオの他にも何人か見た顔がある。五万ユーロに釣られて集まり、一時的に結託しているのだろう。伊東という何人もの金持ちの依頼主を持つ者を消すことで、高額の依頼が自分達に回ってくることを夢見て。

集めたのはおそらくヴェロッキオだろうが、彼がどんな思惑で結託などという手段を取ったか、他の殺し屋達は理解しているのだろうか? 

これだけの人数がいると必然的に分け前が減るのだが、彼は同業者を伊東にぶつけて半数以上削られることを計算に入れている。伊東を消耗させるための鉄砲玉だ。数で圧倒することで、強敵に挑む緊張感を緩めるという意図もあるだろう。もしかしたら、伊東を始末した後に、あの時と同様、他の殺し屋も殺されたと見せかけて消すかもしれない。

ヴェロッキオが無線で何かしら指示を出した後、他の殺し屋達は繁華街にある小さな路地に入って行った。挟撃するつもりなのか、何人かは別ルートから路地に入る。その後、ヴェロッキオも後に続いていった。

「そうか。そこか」

あの路地裏に伊東がいる。そう確信した彼は、ふらつく足取りのまま男達の後を追った。



通りから外れて路地裏に入ると、がやがやと賑わう人々の生活が奏でる、やかましくも光ある騒音がおさまるため、この先で戦闘が起こっていることがすぐに分かった。

彼らの銃には当然サプレッサーが装着されており、銃声はほとんど聞こえてこないが、この路地裏の曲がり角の先にある開けた空間、バスケットコートが設置されているその場所から、壁に銃弾が当たる音や先の男たちの足音、くぐもった悲鳴が耳に届く。

ホルスターから、M八四を抜いてサプレッサーを装着して構えつつ、壁に沿いながら奥へと向かう。

曲がり角にさしかかったところで、最後の悲鳴と共に現場が静かになった。

「リュウイチッ!?」

その事実に悪い想像をして冷静さを欠いた彼は、半ば反射的に現場に踏み込んだ。

すると、ピエトロは全身の血が瞬時に冷却されたような感覚を覚え、その場に凍りついてしまった。そして、その開けた空間の中央に立っていた人物が刹那の間に振り向き、ピエトロに銃を向け……動きが止まった。

「……あっぶねえな。お前かよ。ぶち殺しちまうとこだったぜ」

がっはっはっは、と続く温かい声を聞かせてくれるあの人物は間違いなく――

「リュ、リュウイチ。……あ、ああ、良かった」

ピエトロは安堵のあまり、全身の筋肉が弛緩してその場にへたり込む。

伊東が彼を視認した瞬間、強烈な冷気も消え去った。あれは伊東の殺気だったのだ。

殺気の強さは、ほとんどその者の実力と比例する。マリアのそれもかなり強かったが、伊東のそれは彼女の比ではない。おそらく、子供や老人はその強力な殺気を浴びせられただけで、体が生きてはいけないと判断して、死んでしまうかもしれない。

「だが、ピエトロ。一体何があったんだ? らしくねえ依頼を回したようだが?」

 伊東の無事を確認したのもつかの間、返答に困ることを彼は聞いてきた。

だが、ピエトロはどこから話すべきか考える以前に、違和感を覚える今の発言を即座に聞き返しかった。伊東は何故ピエトロ――正確にはマリア――が依頼を回したことを知っているのかを。

ここで、伊東がそう聞いてくるという事は、すなわち業界のネットワークに回された伊東殺害の依頼は、あろうことか伊東本人にも送られていたということを意味する。

そして、それが可能な人物は一人しかいないが、彼女がそんな伝達ミスをするとは考えられない。となると、必然的に彼女が伊東を庇ったという結論が出てくる。だが、それはあまりにもリスクが大きい。伊東に密告したも同然の裏切り行為であり、下手をすると、その事を感づいた者に報復を受ける可能性とてあるのだ。

ピエトロは、内心の疑問を伏せながら、弱々しく言葉を発する。

「それは、僕が回したものじゃなくて……」

「そうか。やはり強要させられたんだな?」

かき消えそうな青年の声の続きを伊東は発した。

そして、まるで自身の現状を見透かしているような彼の発言も、ピエトロには疑問だった。マリアが本格的に接触してきた時、伊東は依頼中だったはず。ピエトロのここ数日間の動きを把握している訳がない。

「…………色々言いたいことはあるだろうが、先に言わせてくれ」

伊東は贖罪の眼差しをピエトロに向けながら――

「すまん。お前を巻き込んだ」

ピエトロが言うべきことを彼は呟いた。


 

「エルダさん? すみません。もう一つ依頼をお願いしたいんだけど、いいですか?」

ピエトロに良く似た声が狭い電話ボックス内に響く。先ほど彼の携帯を使った時に彼女の連絡先を記憶しておいたのだ。

『ピエトロ? またあんた? 今度は何? 後、次に携帯以外から電話かけたらシルヴィアあたりを送り込むからね』

 エルダは何故か公衆電話からの電話に出た。情報の漏洩を極端に恐れる彼女は、知り合いからの電話にしか応じないはずなのだが。

そして、エルダの声には明らかに怒気がこもっている。しかし、言葉に反して、その怒りは公衆電話から彼女に連絡を取ったことに対するものではないようだが。

「リューイチを殺せる実力を持っている人の中で、今すぐに動ける人っていますか?」

『ハァア。またその話。…………もうほとんど動いているわよ。マルコとかヴェロッキオとかを筆頭にずいぶん大勢が動いてるわ。後はここにジャンがいるけど?』

わざとらしい溜息や投げやりな口調は、あからさまに電話の相手に対する非難、いや憎悪だろうか、とにかく強い怒りが込められていた。仕事の話でなければ即座に電話を切られかねない程に。

「じゃあ、ジャンさんに直接会って依頼をお願いしたいんですが、いいですか?」

『馬鹿になったの? ダメに決まってるわ。依頼人と仕事人は直接会わないって暗黙の了解があるでしょ? 業界の人間同士でもそれは変わらない』

呆れ気味にエルダが言う。

暗黙の了解という以前に、普通、誰も依頼人と会おうとは思わない。依頼を頼まれて事件を起こすのはあくまでも業界の人間だが、その事件が捜査された時に真っ先に警察の目が行くのは、事件の被害者の不利益が直接利益になる依頼人の方である。

そして、事件が起こる近日に依頼人とコンタクトをとった業界の人間が、巻き添えを喰らってクライアント共々豚箱行きになるという事態が過去に何度もあったからだ。

『いや、私で良ければ構いませんよ。会おうじゃありませんか』

しかし、それはあくまでも、普通は会わないというだけのことであって、普通じゃない人間はそんな細かいことは気にしない。

エルダの言葉から事情を察したらしく、電話の向こうからでも軽薄であることが分かる軽い口調の男が割り込んできた。

『ちょっと、ジャンッ。何勝手なことを言ってるの? こんなこと許されないわッ』

『良いじゃないですか。あのピエトロ君がこんなに仕事に積極的なのは初めてですからね。エルダさん。かわってくれますか?』

『……ちっ。ご勝手にッ』

乱暴にその携帯が投げ渡された事が、受話器越しにも分かった。

『……お電話変わりました。ピエトロ君。イトウさんを殺すことについてでしたね? どこで待ち合わせますか?』

「はい。急いでマラリア通りに来てください。エノテカの前にいます」

『……エノテカ。あの酒屋ですね。分かりました』

男は、あっさりと承諾して電話を切った。

黒いハットに黒コートを着込んだ依頼主も電話を切って、電話ボックスから外に出た。

五分程待つと、赤と黒で燃え上がる炎をイメージしたバイクが盛大に駆動音を響かせながら、一人の男を乗せてきた。

「やあ、待たせてしまいましたか?」

ヘルメットを外して、中肉中背の男が近づいてきた。ニコニコと笑っていて、極めて温和な性格をしていそうだが、その心根が完全に冷え切っていることは、男の独特の気配から読み取れた。

「よく私が依頼主と分かったな」

 コートの主は、僅かにハットを持ち上げあげながらそう言った。

「気配を消して自分の存在を目立たせていたのはあなたじゃないですか。ぽっかり空いた穴は、出ている杭と同じ位に目立つものです」

「ふふ。優秀だな。お前の様な者が依頼を引き受けてくれて嬉しいよ」

依頼主は尊大な口調で言った。

そして、気配が読める者がここにいれば、二人の気配が酷く似通ったものであるということに気づいたろう。しかし、この人々の笑いざわめく表の場には、致死的な劇薬とも言える二人が、公衆の場で堂々と混ぜ合わされていることに気づく者は一人もいない。

「私もあなたの趣味のいい遊びに一枚噛ませてもらえて嬉しいですよ。さて、ピエトロ君をどうやって苦しめるつもりです?」

「ふははは、重ねて嬉しいぞ。こんなところで同好の士を得られるとはな。そして、やはり優秀だ」

ものわかりが良く、頭の回転も早い彼をコートの者は心から賞賛した。バレては困るものの、自分に騙され続け、全く本質を見抜けない表の人間の愚鈍さには辟易していたのだ。

「あなたもなかなかやりますね。そっちの人間にしておくには惜しい逸材です。あのピエトロ君の観察眼をすり抜けるんですから」

そのジェスチャーで何を伝えたかったのか、ジャンは掌を拳にしたり開いたりしながら言った。どうやら、よく分からない行動を取るのは彼の癖らしい。

「……私のことを知っていたのか?」

「ええ、ひょんなことから」

「そうか、まあ、それは事が終わってから聞かせてもらうとして、本題に入ろう。依頼は簡単だ。あの路地裏の奥にリューイチとピエトロがいる。手段は問わんから、私が合図したらリューイチを殺してもらいたい」

黒コートの主が路地裏に続く小道を指さしながら楽しそうに言う。それは、これから大好きな映画が始まるのを心待ちにしている子供のようだった。

「分かりました。……ふふ、ピエトロ君に呼ばれたと思ったら、彼の親友のイトウさんを殺せと命じられた、か。実に面白い」

何が面白いのかは分からないが、優雅に笑いながら依頼を承るジャン。

元々は、ピエトロに好感を抱いていながら、彼の親友を殺せと命じられたらすぐ殺す決意ができるジャンは生粋の殺し屋と言えよう。この過酷な業界の中でも、彼がトップクラスに食い込めるのは、その卓越した殺人技術だけではなく、切替えと無情さを持ち合わせているが故だ。ある意味、最も業界を象徴した性格をしていると言える。

「では、私はあの建物の三階から狙撃します。構いませんね?」

ジャンはバイクの後部にくくりつけられていた、エアコンと同じ位の大きさのアタッシュケースを持つと、依頼主が指さした方向にある建物を指す。

この辺り一帯を彼は熟知しているらしく、その建物が丁度、あのひらけた場所を見るのに絶好のポジションであることが分かっているようだった。

「構わん。ああ、それと、これが大切なことだ」

「?」

「よく聞け。…………」

そうして、依頼主は殺し屋に悪辣なる指示を出した。



「え? 何故、お前が謝るんだ?」

ピエトロは困惑していた。どんな理由があろうと、迷惑をかけたのはどう見ても自分だ。

思えば、伊東は家で話した時もピエトロの忠告無視を責めないばかりか、慰めることまでしてきた。今まではピエトロの失敗には呆れるか、怒るかで応じてきたというのに。

「……お前はハイエナの連中に利用されただろう? 俺を殺すように依頼をしないと、近しい人間を殺すと、あの手紙にはそう書かれていたはずだ。それを拒否したから、仲の良かったあの小僧が殺されたんじゃないのか?」

「な、何を言ってるんだ?」

彼の言葉の意味を理解できないピエトロのその反応は、伊東の目には自分に対する気遣いの様に写っているのかもしれない。

「……とぼけなくていい。あの小僧を死なせちまったのは、元はと言えば俺が原因だ」

伊東はひたすらに訳の分からないことを言ってくる。彼とピエトロの持っている情報には決定的なズレがあるようだ。

「待て。さっきからお前は何を言ってるんだ? あの手紙にはそんなことは書かれていなかったし、ハイエナからの物じゃない」

「……なにぃ?」

ピエトロは、互いの認識を噛み合せるためもあり、最近の出来事をまとめて話した。自分が写真をネタに脅されていること。マリアの悪性に関すること。少年を殺したのは自分自身であるということ。

「……なるほどな。どうりでおどおどしてやがった訳だ」

伊東は腕を組んで呟いた。悔やみ半分、憐れみ半分といった顔をする。

「すまない。僕のミスに巻き込んでしまった」

悔恨に耐えられないようで、滝に打たれている様にうなだれるピエトロ。

「まぁ、気にすんな。どうせこのザマを見せつけりゃ、おいそれと狙ってくる馬鹿はいなくなるさ」

ピエトロの肩をバンバンと叩きながら、伊東は辺りを見回す。

「だろうな。僕だったら絶対に狙わない」

そう言ってピエトロもその惨状を見る。

そこは死体置き場と言って何の差し支えも無かった。二十人以上の死体がそこかしこに横たわっている。到底一人で対処できるものではないはずだが、卓越した殺し屋にはそれが可能であるということを、この大男が生きているという事実が物語っていた。

「ところで、何でお前がハイエナから狙われるんだ?」

ピエトロは伊東に向き直って聞いた。

ハイエナには、直接的な攻撃力は無い。戦闘能力や特殊な技術を持たない落ちこぼれや、未発達の犯罪者が集まった集団であるからだ。

唯一誇れると言えば、その死体処理による証拠隠滅と需要の高さだ。一回の報酬は少ないが、殺し屋に仕事が来れば高確率で彼らにも仕事が来る。それは、殺し屋が殺した標的の死体を始末するためであり、万が一殺し屋が死んだ時の遺体処理のためでもあるからだ。

しかし、だからこそおかしい。普通ならば、伊東とハイエナは協力関係にはなりえても、敵対しあうことは無いはずなのだ。

その顔に困惑の色を浮かべているピエトロの問いに対して、伊東は――

「…………まだ知らねえ方がいい」

長く黙った後に、ぽつりとそう言った。彼らしくない、か細い声だった。

「……構わない。知れることは知っておきたい。教えてくれ」

対するピエトロは強い口調で言い放った。伊東の反応から、その内容が重い話題であることなのは読み取れたが、それでも聞きたかった。何故かは分からないが、知らなければならないという使命感を感じた。

そんなピエトロを見た伊東は、深く溜息をつくと、暗い口調ながらも滔々と語り始めた。

「…………一ヶ月前、美鈴は黄金の三角地帯から香港までの、阿片運搬の護衛をマフィアから任されていた」

そのことは、エルダから既に聞いていたことだ。が、何故その話を今ここでするのか?

「あいつがその依頼を受けていた時、偶然俺も近くの街にいたんだ。奴とは別の依頼でな。

あいつとは、護衛の仕事が終わったら飲む約束をしてたんだが、時間になっても店に来やがらねえ。気になって携帯のGPSを辿って奴のところまで行ったら……あの国の麻薬取締班と、かなり激しいドンパチをやらかしたらしくてな。多くの死体が転がる中にあいつもいた。…………心臓に弾をぶち込まれててな。……もう手遅れだった」

ピエトロは目の前がぐにゃりと歪んで、平衡感覚まで狂う程に気をやりかけたが、不思議と倒れることはない。美鈴とハイエナのキーワードが揃った時に、半ばその結末を予想していたというのもあるが、もういい加減に、失うという事に慣れてしまったのかもしれない。

「……じゃあ、メイリンさんが日本に行ったっていうのは……」

「半分嘘だ。お前に余計な心労をかけたくはなかった。ましてや、お前がこれからこの業界で生きていくことになって間もない頃だ。未熟なお前に死の恐怖を与えたくはなかったんだよ」

もうとっくに死の恐怖には染まっていたが、それは口には出さない。彼の優しい嘘を、無かったことにするのは憚られた。

「俺が行った時には、美鈴の死体はハイエナの奴らに回収されているところだった。奴ら、あいつの死体をゴミみてえに車に投げ込んでいやがった。俺ぁもう頭にキてな。……つい、あのバカ共を皆殺しにしちまったのさ。軽率だったよ」

「……でも、きっとっ、僕でも、そうッ、しただろうと……」

目に涙を溜めながらピエトロは言った。

最近泣いてばかりで情けないにも程があるのだが、こればかりは抑えようがなかった。

彼女はピエトロの憧れだった。ついぞ彼女の中国拳法を習得することはできなかったが、それでも彼女の優しさには何度となく助けられた。ともすれば、今の殺し屋に似つかわしくない心は彼女の影響なのかもしれない。

「あいつの遺体は回収して、そのまま奴の故郷に埋葬した。今度一緒に行くか」

「……ああ」

「ま、それが、奴らに狙われるようになった理由さ。奴らは俺を暗殺する力なんざねえからな。誰かに殺してもらうしかなかったわけだが、マリオやシルヴィアとかを雇って俺を殺すなんて大それたことをしたらその後、自分達への目つきが厳しくなる」

 だから、死亡率の高い依頼を伊東に任せることで、自分達の手を汚さずに彼に報復しようとしていたらしい。しかし、何度死地へ向かわせても一向に死ぬ気配がなかったため、伊東が最も心を許し、まだ比較的年の若いピエトロを狙ったと彼は思ったらしい。

「はあぁあ……。結局、あいつの乳を揉めなかったのは残念だったなぁ。が~っはっはっはっは」

伊東は、深海のように重い暗さを、長い溜息に乗せて吐き出した後、いつもの気楽な口調に戻った。いつまでも落ち込んではいられないということだろう。

「……そればかりだな。少しは女から離れたらどうだ?」

彼の笑い声に影響されたせいか、普段ならば尾を引くであろう絶望にも素早く気持ちを切り替えられる。彼の大笑には、聞く者の精神状態をどん底から脱する効果もあるのかもしれない。

「逆にお前はこの国生まれにしちゃあ女っ気がなさすぎるがな。ようやく手を出したかと思えばクソ尼だ。見る目がねえなぁ」

と、笑いながらそう言った伊東の右腕は、まるでその腕だけ殺気の感じた方向に銃を撃つと設定されていたかのように、勝手にホルスターから拳銃を引き抜き、目も向けずに後ろの建物の窓に向かって発砲した。ピエトロもコンマ一秒遅れて銃を抜いて彼と同じところに撃つ。

だが、銃声はない。ピエトロのM八四はサプレッサーを装着していたし、伊東が使っている銃はベトナム戦争時に活躍した六四式微声券銃という全く銃声を発しない銃だからだ。

銃身自体に消音器が組み込まれたその銃は全く銃声を発しない。弾にも音速を超えない特殊な加工がされており、これと通常弾と見分けるために、緑色に着色されている。

美鈴の遺体を回収していたハイエナを全滅させておきながら、後に伊東の犯行であると判明したのは、一重にこの緑色の弾が死んだハイエナの組員の体から出てきたためだった。

二発の銃弾を受けたその者は、建物の三階の窓から落ちて、地面に激突した。銃声が無かった分、骨が砕ける異音がやけに大きく聞こえる。

落ちてきたのは長身の男で、額と心臓に一発ずつ弾を喰らっていた。

死体を見たピエトロは伊東の実力に改めて驚かされた。まさか視認もせぬままターゲットの眉間を正確に撃ち抜くとは。ピエトロとてあの一瞬で心臓に撃ち込んだが、あくまでも彼の立ち位置からは、標的の姿が見えたからというのが前提にある。

「おいおい、ヴェロッキオもかよ。マルコはここに来る途中でぶち殺したが。……しかし、俺を狙うとはなぁ。結構仲良かったのになあ」

伊東は、やるせない顔をしながらぶつぶつ言っている。

「忘れてた。リュウイチ。お前の携帯を貸してくれ。この依頼を取り消さないと」

ピエトロはようやくそこに気づいた。美鈴の話にショックを受けて失念していた。

「お~、そうだったな」

伊東は呑気に答えると携帯を渡し、ピエトロは素早くエルダに依頼の取り消しを伝えた。

当然ながら、エルダは突然のキャンセルや、依頼人のピエトロとターゲットの伊東が共に行動していることに驚愕した。

しかし、今キャンセルすると参加者から猛烈な反感を買うとか、仲介手数料は後できっちりもらうなどと怒鳴り散らすが、最後に、伊東が死ななかったせいで大損だ、と安堵したように笑って、通話を切った。

対応は迅速で、その後、一分もかからずに依頼キャンセルの連絡が業界のネットワークを通して伊東の携帯に届いた。

「ふう。とにかく、これで一段落したな」

「いや、まだだ。あの女が写真を持っている限り、僕だけじゃなくお前も危険にさらされたままなんだ」

相変わらず緊張感の無い伊東にそう言うと、第三者の声がこの場に響いた。

「その通りだ」

猛烈な怖気と共に、その玲瓏な声は響いてくる。

透き通る様なその声はもはやどうしようもなく耳障りで、他人を玩弄することを明言しているも同然のその気配は、毒霧の様に彼らの体を侵す。

「お前達が私の篭の中から出られるのは、慟哭の果てにその喉が潰れた後のみだ」

「貴様っ……」

ピエトロが牙を剥く。

その声の主はゆっくりと角の向こうから現れた。コートを脱ぎ捨てると腰に手を当てて悠然と立ちはだかる。どこまでも傲岸に、どこまでも悪辣に。

「……こりゃひでぇな。表の人間がよくもそこまで腐れたもんだ」

彼女が放つおぞましい気配を感じたのだろう。伊東は嫌味たっぷりに言い放った。

「なぁに、裏の人間が曲がらずにいられるんだ。その逆があっても不思議ではあるまい?」

対するマリアは特に怒ったそぶりも見せず、ピエトロを見ながら苦笑混じりに言い返す。

「どうしてここに来た?」

業界の新手が来るならばおかしくはないが、何故彼女自身がここに来たのか。今までの様に殺しを強要した彼を家で待っていればそれで済むはずだが。

それを聞いたマリアは大げさに首を傾げ、ダムが決壊したかの様に嘲りの言葉を浴びせかける。

「今まで何を見てきた? 今まで私に何をされてきた? 思い返せば私が何を求めてここに来たかなど容易く理解できよう? この私が、お前の苦しみが最も熟す瞬間を目の前で鑑賞したいことなど猿でも分かるぞ。お前がいないと始まらない。お前がいないと愉しくない。何故なら、私はお前に恋焦がれているからだ」

しかし、彼女の表情は恋を打ち明ける少女のものでは断じてなく、首がもげかけた蟷螂の動きを興味本位で観察する無垢な子供のそれだった。

「……」

「……」

二人は言葉も出ないようでその場に立ち尽くすが、彼女は気にせず熱のこもった語りを続ける。

「リューイチの死という熟成を通して、お前という葡萄は最高のワインに仕上がってくれる。きっと、カルロのそれよりも遥かに芳醇な風味と味わいを生み出すことだろう。

苦悩の涙とワインのブレンドが美味であるなど誰が知っていたか。多くの子供を虐殺したジル・ド・レ伯爵や、血の湯船につかったエルジェーベト・バートリ、虐殺の限りを尽くしたカリギュラ。過去に多くの人々の不幸と嘆きを蒐集、研究してきた先達達でもこの至高の味は知りえなかったろう。……喜劇は友と、歌劇は妻と、そして悲劇は酒と共に観るものだ。……きちんと、お前の分のグラスも持ってきたぞ。リューイチの死体を肴に一杯やろうじゃないか?」

さながら賛美歌を謳う修道女と言った具合だが、紡がれるものは悪魔でも後ずさる程の狂気を含んでいた。

マリアは鞄の中からタオルに包まれた二つのワイングラスを見せた。鞄の口からは未開封のワインボトルが頭を出している。全てピエトロの家にあったものだ。勝手に拝借したのだろう。

「どこまで人を馬鹿にすれば……」

そこまで言いかけて彼は半ば直感的に気づいてしまった。

あのグラスを包んだ物が誰からのもらい物だったのかを。そして、リビングにいたマリアがグラスを割らないために、あの部屋に置いてあったタオルを使うのは必然であったということに。

そして、それに気づき、不安を覚えてしまったという事実は、すなわちピエトロが致命的な失敗をしたということを表していた。

何故なら――

「ん~~? まだ何もしてないというのに、何故お前はそんなに焦っている?」

負の感情は絶対に彼女に気付かれてしまうからだ。

「ピエトロ? どうした?」

「……」

伊東がピエトロの異常を見て話しかけるが、彼は何も言わずにマリアの手元を見つめ続けている。

あのタオルは、彼にとってとるに足らない物ではない。少年を殺してしまった手前、使うこともないが、粗末に扱わぬようにしていくつもりだった。

少年が残した唯一の品。他人に対する優しさと込められた大切な物。

それを彼女に持たれるのは、家族を人質にとられているも同然だった。

「…………ふ~む、どうやらこの鞄かタオルのどちらかが大切なものらしいな? 親の形見か何かか?」

しばし考えていたマリアは酒器とコルク抜き、そしてワインを地面に置くと、ピエトロの関心が鞄かタオルにあると判断し、それらを目の前に持ち上げて品定めするように見比べ始めた。

「ふふん。これは思わぬ収穫だ。両方引き裂いてみ…………」

マリアの言葉はそこで途切れ、残像ができる程の速度で体を捻った。

「いきなり撃ってくるとは、危険な男だ」

「てめえに言われたくねぇよ。変態女め」

伊東が六四式微声拳銃で音も無くマリアの頭部を狙ったのだが、ピエトロの時と同様にそれは避けられてしまい、彼女の代わりに弾が当たった鞄が吹き飛んでいった。

「しかし、躱されたのは予定外だ。最後の一発だったつぅのに」

伊東は舌打ちしながら、銃をホルスターにしまい込む。先ほど十数人を相手したせいで、もう予備の弾倉も使い切ってしまったようだ。

「それは良い事を聞いた。どうやら、お前は侮れない相手のようだからな」

完全に躱すことはできなかったらしく、彼女は頬から滲む血を拭った。

マリアは横目にピエトロを見ると、鞄に穴が空いてもその感情にいささかのブレがない事が分かり、にんまりと笑った。

「そして、ありがとう、リューイチ。お前のおかげでピエトロの関心がこちらにあると分かった。くひひ」

マリアはタオルを指でつまんで揺らしながら言った。

「き、貴様……」

気づかれないことを願っていたピエトロだったが、またしても祈りは神に届くことはなかった。

「そうだ。思い出したぞ。カルロが話していた。あいつがお前に物を恵めたと大層喜んでいたが、これのことだろう?」

ピエトロは心臓を握り潰される様な痛みと、血が抜ける様な冷たさを伴う恐怖を感じた。

「……当たりだな? きはは。ならば少し早いが、カルロにも酒の味を教えてやろう」

言うなり、マリアはタオルを地面に落とすと、コルク抜きとワインを取って、小気味良い音と共にコルクを抜いた。

「憧れの男のあんな顔を見ながら酒が飲めるなんて、お前は幸せ者だぞ、カルロ」

マリアは遺品であるタオルにカルロの魂が宿っているかのような演出をしているようだ。それが分かっていながら、彼女がタオルの上でボトルを傾け始めたのを見たピエトロは、反射的に怒声を出した。

「止めろッ。それ以上やったら殺すぞッッ」

しかし、彼女の歪んだ笑みは小ゆるぎもしない。

酒好きの故人を想うため、墓石に弔いの酒をかける者もいるが、当然ながらマリアにはカルロへの想いなど微塵もない。事実、マリアの視線は慈しむべき弟の遺品に対してではなく、終始ピエトロの表情に向けられているのだから。

「けっ。快楽殺人者ってのは珍しくねえが、てめえみたいな奴はそういないぜ。他人の不幸の何が面白い?」

唐突に出た伊東の言葉にマリアの動きは止まった。

口調は軽いのだが、彼の殺気は先ほど同様に人を凍りつかせる程の強さになっている。

「さてな。私も何故こんなに人の嘆きが愉しく感じてしまうのか、実のところ分かっていない。生まれつきと解釈している。だが、これは私に限った話ではない。一昔前には私よりも幼い小娘が、葬式で哀しむ人々の顔見たさに友人を殺したそうだぞ?」

「つまり、その友人は、お前にとっての弟だったってことかッッ?」

ピエトロが牙を剝く。

「そうだ。そして、次の友人役は……お前だ」

そう言って、彼女が伊東を指さした瞬間、怒りに顔を歪ませ駆け出そうとしたピエトロを抑えて、代わりに伊東が踏み出していた。

その巨体ながら、スピードはマリアやピエトロに全く引けを取らない。

距離にして約十メートル。それをほとんど一瞬で詰める伊東。

「くッッ」

あのマリアが、戦闘において初めて驚いた顔を見せる。さしもの彼女でも彼の外見に反した素早さには虚を突かれたのだろう。

伊東は素手のまま迫り、彼女の顔に拳を叩き込んだ。

何の未練もなくボトルを放り出し、顔の前で両腕を構えて攻撃を防いだマリアだったが、その一瞬の隙を狙った伊東の二撃目の拳が、ガラ空きになっていた彼女の腹に見事に入った。空手の「山突き」という技で、顔面と腹部に同時に拳を放つ技である。人は反射的に顔を優先して守るため、簡単に腹部への攻撃が可能となる。

彼女の体がくの字に折れ曲がり、僅かに浮く。

「ぐぅッッ、かッっはッ!」

そして、一体どんな筋肉がそれをなし得るのか、拳を腹に突き入れた状態から彼女を片手で軽々と持ちあげると、放られたボトルの後を追わせるように地面に叩きつけた。

「ふぐぅッッ――くかっっッあッ――」

マリアは空気の塊が出た様な声を出し、体を痙攣させながら、腹を抱えて苦痛に悶え苦しむ。

一瞬で事を終えた伊東が、ゆっくりとタオルを拾い上げる。

「そういや、美鈴がお前に拳法を仕込んだんだってな。女を見る目がなかったのはピエトロだけじゃなかったって訳だ」

圧倒的な実力差だった。

ピエトロがあしらわれる程の実力の持ち主を伊東は簡単に捻じ伏せた。単純な技術の差というよりも、生きて、戦い抜いてきたキャリアの差と言えるだろう。

「う、がッ、あッぁッ……」

余程ダメージが大きかったらしい。マリアは依然苦しんでいるままだ。今の彼女は完全に無害な存在となった。

否、それはマリアを知らなければという場合の認識だ。

本性を晒した彼女との付き合いが長いピエトロには、無害になったとは到底思えない。むしろ、腹を抑えて苦しむその姿は痛み故ではなく、こみ上げる笑いを堪えている様に見えるのだ。

警戒心が持ち上がる。

「リュウイチッ。気をつけろッ!。何かある」

 そう忠告したが、遅かった。

 マリアが苦痛に耐えながらニヤリと笑うと、指をパチンと打ち鳴らした。

 途端に、伊東とピエトロはどこかから強力な殺気が送られてきたことに気付いた。

「……ちぃっ!、くそったれッ」

伊東はその殺気を出している者の位置を瞬時に判断した。敵の場所は先ほどヴェロッキオがいた場所と同じ、建物の三階の一室だ。

そして、その殺気の対象は――。

全ては計画されていたのだ。マリアは囮。本命にして伏兵の者はこの瞬間を、ピエトロと伊東の立ち位置が大きく離れるこの瞬間を待っていたのだ。

マリアの挑発で注意が散漫になっていた二人に、ましてや、裏社会を知ったばかりの彼女に協力者がいるなどと推測するのは不可能だった。

「っくぅッ」

ピエトロは伊東よりも僅かに遅れて殺気の送り主の位置をつかみ、誰に敵の銃口が向けられているのかも理解し、一番近くにある身を隠せる木箱の方に全力で走りながら、その敵に銃を構える。

しかし、その僅かな遅れが命の奪い合いにはどれだけ致命的なことかは、ピエトロとて分かっている。

木箱までたったの二メートル弱。だが、この状況下では絶望的なまでの長距離だった。

そして、今、ここで仕留めないと伊東も殺されてしまうだろう。

伊東の銃は弾切れ。マリアも死んだ訳ではない。

自分のこの一撃に全てがかかっている。

(せめて、刺し違えるッ)

ピエトロが三階の窓の角から顔とライフルをのぞかせている敵に照準を合わせる。

しかし、その視界に伊東が割り込んでくる。彼の巨体が敵の凶弾からピエトロを守るように近づいてきた。

伊東はピエトロを木箱の影に押しのけながら、彼の持っている銃を掴み取る。

次の瞬間、敵の殺気が最高潮を迎えた時、放たれた凶弾が容赦なく伊東の胸を貫いた。



ジャンはちょうど、通りの路地裏奥にあるバスケットボールのコートが、楽に見渡せるマンションの三階の一室に陣取り、愛銃のL九六に消音器を取りつけながら、現場を見ていた。

本来ならば、こういう近距離同士では拳銃か短機関銃が向いているのだが、生憎持ち合わせた銃はこれだけだった。だが、もとより彼はライフルが気に入っていて、その嗜好から狙撃を主として活動しているため、例え屋内でも長い銃を扱うことには慣れているし、十二分に戦える実力を持っている。

この建物はマンションだったが、既に誰かが押し入ったようで、マンションのどこからも人の気配がしない。ここからは、あの空間での出来事が簡単に見渡せてしまうため、口封じのために居住者は皆殺しにされたようだ。

彼の入った一室にも両親と娘の一家族が住んでいたようだが、三人とも大口径弾によって撃ち抜かれ、無残な肉塊となっていた。

「あちゃあ、イトウさんを甘く見ていましたね。彼はシルヴィアさんやメイリンさんと同じ位に接近戦が強いのですよ」

窓際に背を預け、部屋に会った手鏡に反射させて下の様子を伺いながら、足と残る手で銃を組み立てていたジャンは、いいように殴られ、叩きつけられるクライアントに届かない忠告をする。

銃に弾倉を装填したと同時に、彼女からの合図が来た。

(上手いタイミングですね。敵を無力化して油断したところを狙わせるとは)

標的との距離は約十五メートル。本来ならばこの距離で狙撃銃など不利でしかないのだが、扱い慣れた愛銃を小さな窓枠に引っ掛けることなく、窓から身を乗り出したジャンは、瞬時にピエトロに照準し、殺気を送る。

しかし、彼の狙いはピエトロではない。ピエトロは絶対に殺さないように依頼主からは厳命されていた。

ここでピエトロに殺意と銃口を向けたのには他の意味がある。

すなわち、標的の誘導。

彼への依頼内容は「ピエトロを庇った伊東を殺すこと」だった。

依頼主はピエトロから伊東を奪うだけでは飽きたらず、彼の死に強い罪悪感を覚えさせることが目的だったのだ。

ジャンは照準をピエトロに向けたまま、気配の察知は伊東に向けている。

「あなたとはもっと話したいことがありましたが、これも仕事です」

にこやかな表情はこの局面に至っても変わることなく、冷徹に過ぎる言葉を紡ぎだす。

そして、コンマ一秒後に彼の視界に飛び込んで来た標的に、伊東への尊崇の念が零割、ピエトロの精神崩壊への興味十割の思いを込めて、引き金を引いた。

ジャンは銃弾が彼の背中から入り胸を貫くのを見て、依頼の完了を見て取った。

――流石のあなたも、誰かを庇いながらでは対応しきれませんでしたか――

そう思った。いや、それはいい。そこまではいい。否、そこまでで終わるはずだった。

「なッ!?」

だが、胸を貫かれた伊東がこちらに振り向き、こちらに銃を向けて、こちらに発砲するのが見え――

パジュッという音と共に銃弾はジャンの右目を潰し、脳を完全に破壊したため、彼の思考はそこで終りを迎えた。



「リュウイチッ!? リュウイチッッ。おい、しっかりしろッ」

ピエトロが叫ぶ。その声は頼りなく震え、なによりも苦しげだった。

「……あ~あ~、叫、ぶな。今、二日、酔いみたく、頭が痛む。後、胸も」

片膝をついたままの伊東が手でピエトロを制止しながら言う。その声は絶え絶えだったが、意外と声量は大きく、口調は軽い。

弾は貫通したため、その二つの傷口からは致命的な量の血が流れており、左の肺と心臓の下部を掠めるように穴が開いている。吐血も繰り返していて、こうして倒れずにいられるのが不思議な位だった。

「待ってろ、止血するから。それと携帯借りるぞ。パラメさんに連絡を取りたい」

そう言ってピエトロは伊東が奪い返してくれたタオルを取って、止血のために彼の体に巻きつけた。

「っぐぅあ……ふぅ。止めろ。あの闇医者は、やかましい、から好き、じゃない」

「そんなこと言ってる場合か? やかましくても腕は確かなんだ。早く携帯を……」

蹲る伊東のコートの胸ポケットに手を入れようとした瞬間に、ピエトロは気づいた。

そもそもそのポケットが銃弾の通過によって破壊されていることに。そして、その中身も同様の運命を辿ったということに。

「ジャンめ。携帯も、狙いに、入れてやがった、な」

そう言うと、伊東は、ピエトロを押しやった木箱を背もたれにして脱力することで、呼吸を落ち着けた。

「いいか、ピエトロ。俺はここで終わりだ。よく聞け」

ピエトロはそれを聞いた瞬間、銃で自分の頭を撃ちたくなった。しかし、それは伊東に対する最大の侮辱であると叫ぶ理性によって止められる。いや、悪の体が醜くも生きたいと願って止めたのかもしれないが。

「美鈴が日本に行っていたと言ったよな」

「……ああ、だが、それは嘘だったんだろう?」

ピエトロが絞り出した言葉と共に涙も溢れだす。それは、彼の出血と同様に止めようのないものだった。

「半分は、と言っただろう? ……ぐ、がは」

「リュウイチッ!」

「……構うな。喋らせろ。いいか、美鈴と俺は日本に定期的に行っていたんだ。お前をそこに逃すためにな」

伊東は衝撃的な事実を明かしたが――

「無理だ。この業界からは抜けられない」

「大丈夫だ。おそらくな。今、日本は地震災害、に見舞われてるが、基本的に、治安が安定してる。……そのせいで、あの国は裏の、依頼が少なすぎて、業界から、見捨てられ始めてる。後一押しすれば、業界は日本から、手を引く」

だんだんと顔が青くなっている伊東を、しかしピエトロは止めない。ここで止めることの方が、彼の死をより無残なものにしてしまうから。

「ぐ、後の諸事は、俺ん家で、見ろ……」

伊東は痛むのも構わずにコートのポケットから、鍵の束を取り出してピエトロに渡した。

彼のマンションや車などの鍵だ。

あくまでも気軽な口調のまま、伊東はずるずると倒れかけたが、その瞬間、血塗れになるのも構わずにピエトロは伊東を抱き止めた。本来ならば、寝かせるべきなのだろうが、彼が地面に横たわった瞬間、そこで終わってしまうような気がしたのだ。

「……おう、サンキュ」

伊東は死が間近に迫っているというのに、次の瞬間には笑い出しそうなほど軽い雰囲気を醸している。およそ、死を恐れるピエトロには信じられない程の精神力だった。

「……だが、だがな。…お前は、好きに、生きろ。お前の人生なんだ。ダルダーノや、俺らの作った、道を通る必要、はなかったんだ。だから、これからは、自分の、やりたい事をしろ。ほら、あれだ。聖書の、あの言葉……」

「『求めよ。さらば与えられん』か?」

記憶からすっと出てきた。まさか彼女から教わったことが役に立つとは。

そこで、マリアのことを思い出した彼は、先ほどまで彼女がいた所を見たが、鞄から割れたボトルの破片に至るまでのものが、綺麗に回収されて、姿を消していた。おそらく、後々警察にここを検証された時に指紋や証拠を調べられないようにするためだろう。

考えてみれば、ピエトロは伊東に二重の意味で助けられていた。

伊東がジャンを倒してくれていなければ、優位を保ったマリアは撤退などせずに、このメインディッシュを絶対に味わい尽くしていた。となれば、ピエトロはあの狂って歪んだ禍々しい魔性の語りを聞かされて、とっくに精神が崩壊していただろう。

「ああ、それだ。それを、すりゃいい。やりたくな、い事をし続けて、きたんだ。……そろそろ、自分に甘く、なっても、……神も許して……くれるさ」

「死ぬなリュウイチッ。頼む、死なないでくれっッ」

どんどん鼓動が弱まるのが密着した体越しに伝わってくる。その事実を認めたくなくてピエトロは彼から身を離した。

「………………へ、俺様は、不滅……だ。……ひょろっと、生き返……って、……やる。その間、……良い、……奴らと、……楽し、めよ。…………人生を…………」

伊東はいつもの笑顔のままに、いや、いつもに増して、どこか満足気にゆっくりと目を閉じた。

まるで眠るように。

まるで生きているように。

「……リュウイチ?」

返ってくる言葉はない。そんなのは分かり切ったことだった。

残された者への、敬愛する者を失う覚悟も情けも一切ない、それは確実なる終わりだった。

漆黒の夜を引き裂く程の慟哭が薄暗い路地裏に響く。

地上のカタコンベとも言えるこの場所で、死をもたらす殺し屋が死を嘆く。

青年は、駄々をこねる子供の様に逝った者に抱きついた。

幸いにも、それを良しと嗤う者はここにはいない。

だが、慰めてくれる者もいない。

そして、悲しみを共有してくれる者もいない。

彼を育ててくれた者も、憧れていた者も、今の今まで彼を支えてくれた者も、誰一人としてこの世からいなくなってしまった。



「ですから、それが確実に行われるという証拠はあるんですか? それさえ見せて頂ければこちらとしましても……あ、切っちまった」

青い制服を来た若い男が、受話器越しに電話の相手を非難するように受話器を睨む。

「どうした、アルベルト?」

コーヒーを飲みながら近くに立っていた同じく青い制服を来た中年男が、椅子に座っていたその若い男に話しかける。

「あ、レ、レオさん。いや、近い内にサン・カンチアーナ教会が強盗に襲われるっていう電話がありましてね」

アルベルトと呼ばれた若い警官は電話の内容に対して半ば呆れるように言った。だが、その声音には若干の緊張にも似た恐れが含まれている。

「タレコミか。誰からだ?」

若い男の上司に当たるレオという男は、コーヒーを飲み切った後に呟いた。その呟きたるや、小さい声ながらも威圧感が尋常ではない。アルベルトを萎縮させている正体はまさにそれだった。

「すみません。男のような女のような、中性的な声でしたのではっきりとは……名前も言いませんでしたし。いずれにせよ、ウチに言うってことは、悪戯だと思いますが」

事実、嘘の情報で警察をからかうと言った悪戯が、多くも無いが後を絶つこともない。それでいて、過去の事件はタレコミによって解決されたものが少なくないため、警察当局としても処理に困るものなのだ。

しかし、タレコミをして、それを考えなしに鵜呑みにするのは、週刊誌やマスコミであり、警察では余程の証拠を並べないと信じるようなことはせず、最悪は嘘の情報を流したことを公務妨害として罰することもある。

そのため、警察にタレコミをしても益になりにくいが故に、からかっているだけと認識されてしまうのだ。

「教会に強盗ね……」

金目の物とは縁の無い場所としては下から数えた方が早いそこに、何故強盗が入るのか。上司の男は首を傾げる。まさに悪戯として挙げられそうなネタだ。場所によっては高価な石像や天井絵がある場所もあるが、まさかそんな物を盗めるはずもない。

「……だが、その情報も信じたい気分だ。五日前の事件を考えるとな」

不快な空気を吐き出すように言う。どうやら、レオにとってその日に重い出来事があったようだ。

「あのトレド通りの路地裏で四十四人の死体が発見されたやつですか?」

「ああ。大きな繁華街裏であれだけのことをされたからな。ここの裏で戦争されてて気づかないようなもんだ」

レオは四角いコロッセオの様な外観をした、この警察所の建物裏を親指でくいくいと指しながら言った。

「見つかった二十九人の死体は身元不明者だったり、指名手配を受けているものばかりでしたね。唯一の目撃者証言だった、大男の死体を抱えた金髪の青年の行方も、分からず終いですからね」

レオと目を合わせることすら辛くなったのか、若い警官は、パソコンに向き直りキーボードを叩きながら答える。

「それは今調べている。あれだけの死体を調べれば、関連する人物や組織が必ず見えてくるはずだ。まあ、俺はかなり大きな組織が影に潜んでいると見たがな。マフィア共とはまた違う形で色んな裏組織があるようだ。……少しでも尻尾を見せれば、とっ捕まえてクソ共の腸引きずり出しやれるんだがなぁ。ふふ」

――やっぱり、この人は……――

 次第に狂気を帯び始めたレオの言葉を聞くアルベルトは内心で嘆息していた。

 六日前、ジェノヴァであった爆弾テロで家族全員を殺された彼は、それ以降何かに取り憑かれた様に、犯罪者狩りに精を出していた。

書類を通して、ここ最近の彼の実績を見れば、輝かしいという感想が出てくるだろう。だが、現場を見ている彼の部下達は、その評価を苦い思いで否定するしかない。

彼が犯罪者の逮捕に至る過程は、戦争捕虜を玩具同然に殺してまわる、暴走した兵そのものの陰湿さを醸していた。捕まえた組織の人間を、正当防衛を言い訳に拷問し、仲間の場所を吐かない場合、わざと逃して隠れ家や組織の本部に逃げ帰るその者を追跡してそこを強襲。捕まえた人間を更に拷問。場合によっては事故を装い射殺する。これの繰り返し。

正義を掲げる組織に身を置く一人としては、アルベルトは複雑な思いで自分の上司を見ていた。悪を潰すという仕事をまっとうできるならば、自身が悪人同然でも良いのか。

そんなことはない。善人を幸福にするのは、善人の手に寄るものでなくてはならないはずだ。だが、そんな美しい考えは、頭の片隅から染み出してきた必要悪という言葉が論破してくる。

 答えなど無いのかもしれない。誰かにとって不要なものは、他の誰かが必要とするものなのだから。ましてや自分は組織の手足、しかもその指にすぎない。今は無心で働く以外の選択肢はないのだ。

「……教会の方には、とりあえず、二人ほど張らせておこう。やらんよりもくたびれ儲けの方がマシだし、ゴミが捕まりゃ儲けもんだ」

そんな彼の内心など微塵も察することなくレオは命じた。



その重厚な扉はいつにも増して重い。だが、同時に儚く感じるのは何故なのか。

重く感じるのは、この家の主が悪しき彼を拒絶しているからだろう。あの磔られた男が真に全知全能たるならば、彼がここで行う災厄も先読みできるだろうから。

儚く感じるのは、結局かの者は、容赦ない暴力を持ちこむ彼を止める術がないと諦めているからだろう。

彼は、自分でも意外に思うほど力を込めてその扉を開けた。だが、いざ押してみると、その扉はあっさりと開く。少し拍子抜けだ。

「…………っ」

扉の隙間から漏れ出てきたそれに、彼は思わず息を呑む。

美しい。

彼は、ただそう感じた。

今から自分が行おうとしていることを忘れるぐらいに、それは美しい旋律だった。

そう感じているのは彼だけではないようで、二十四脚ある信徒席の半分以上をうめる人達がそれに聞き入っている。

 敬虔なる修道女達が自らの祈りを歌に変えて、主を讃えている。

 教会全体に反響するその音色は鐘の音に似ている。それは聞かせる者を選ばず、私情を挟まず、与えるものは平等に、あまねく全ての者へ愛を伝える、銀色の賛美歌だった。

 彼は半ばそれに導かれる様に教会に入り、二十人が三列に並んだ修道女達の所に近づいていく。そこにいた一人の女を彼は見やる。

「……」

 そして、その女もまた彼に気づいたようで、一瞬だけ目が合った。

 考えは如実に体に表れるものだ。

 彼が大人しく歌を聴き、いつものように祈りに来たのなら、信徒達とて訝しむこともなかったろう。しかし、修道女達の方に近づいていく彼が、歌を静聴する気が無いことを直感的に感じたようで、いくつもの怪訝そうな視線が刺さる。

 そして、次の瞬間、その眼は大きく見開かれることになる。

 彼がおもむろに手に持っていたバッグの中から、無骨な短機関銃であるスペクトラM四を取り出して天井に向けたと同時に、火薬が紡ぐ赤黒い旋律が銀の賛美歌を盛大に引き裂いた。

 かくも荒々しく、かくも無機質なその音の出現を一体誰が予想しえただろうか?

 否、できるはずがない。ここは、最も神聖にして、最も暴力とは無縁な場所なのだから。

「きゃああああああッ!」

教会を聖で潤していた賛美歌は、今や聞くに耐えぬ阿鼻叫喚に堕ちてしまっている。

再び彼の手から響いた暴力の権化が、今度は阿鼻叫喚を引き裂くと、神の家はようやくいつもの静謐さを取り戻した。

「逃げたい者は一分以内に逃げて下さい」

教会内に響く自分の声の何と淡白なことか。そこには哀しみはない。喜びも、楽しみも、怒りすらない。

 その言葉と共に信徒席に座っていた多くの人々は脱兎の如く逃げていく。

しばしそれを見ていたピエトロは、ふと壇上の方を振り返った。

 流石は神に仕える身と言ったところだろう。

修道女達は誰一人としてその場から離れることはなかった。逆に何か言ってくることもないが、そこにいるという事実が、自分達が不屈であるということを訴えていた。

 しかし――

「お願いです。あなた方に危害を加えたくありません。どうか逃げて下さい」

 壇上で歌っていた修道女達は、襲撃した男の真意が読み取れず、おどおどしながら、数人の修道女達と共に信徒席に座っていた院長を見る。

「…………あなた方は外に出ていなさい」

 院長がいつもの穏やかな口調を崩すことなく、あの重みのある声で言うと、修道女達は十字を切った後に彼の側を通り過ぎて立ち去っていった。

ただ一人を除いて。

「どうしてですか、ピエトロさん? 何故こんなことを?」

 思えば、ベールを被った彼女を見るのは久しぶりだ。ここでシスターマリアの声を聞くのも。だが、怒声を聞くのは初めてだった。苦悩を飲み込み、救いをもたらす声には違いないが、そこには責めるというより叱るという意味合いが付与されている。

「マリア。今はそんなことを言っている場合ではない。早く逃げなさい」

 院長の鋭い一喝を聞いたのも初めてだ。どうやら、責任者として院長はこの場に残るつもりらしい。

「いえ、すみませんが、院長先生。あなたが出て下さい。残るのは彼女だけで結構です」

落ち着いた声のまま彼は言った。

「…………彼女に危害は加えない。約束してくれますね?」

 射すくめるような鋭い視線をピエトロに送る院長。しかし、その目の鋭さから伝わるものは怒りではなく、これ以上踏み外すなと釘を刺しているようだった。

「それは、彼女の対応次第です」

 ちらりとシスターマリアを見たピエトロはそう言った。

「…………」

 院長は、彼の意図を読むためか、しばし目を細めて彼を見ていたが、諦めたのか彼女なりに納得したのか、無言のまま教会から出て行った。

「さて、貴様、一体どういうつもりなんだ?」

 院長が出ていくのを見ていたピエトロは、突如湧いたドブクズの様な気配と、怒りを孕んだ声に反応して振り返った。

 そこには、もはや見慣れてしまった、ベールを脱ぎ捨てたマリアの姿があった。表の人間が出払ったことで彼女は遠慮なく自分を晒したようだ。

「その銃で私を殺しに来たか? だが、それが実現しえないことは分かりきっているはずだ。……まさか、リューイチが死んだ悲しみで狂ったのではあるまいな?」

 道化のような戯れ口調でマリアは言うが、その読みが外れていると自覚していることは、激しい怒りで固まった彼女の顔が物語っていた。

「この銃で人は殺せない。全て空砲だ。音だけの虚仮威しさ」

 ピエトロは自嘲しながら銃を床に落とした。

「……なおさら読めんな。では、何をしにきた?」

「罪を償うため」

「…………死ぬ気か?」

彼の罪の程を知らない彼女でも、彼の達観した表情から最悪の場合に対する覚悟もできていることが読み取れた。そして、彼女にとってはその顔がどうしようもなく腹立たしい。

「死ぬかどうかは運任せだが、とにかく僕は法の裁きに身を委ねることにした」

 ピエトロはどこか清々しい顔のまま言う。

「お前は私の玩具だぞ? 持ち主の許しもなく、己の運命をどうこうできるとでも?」

 悪魔の様な殺気をより強めながら彼女は言った。本来愛らしいであろう頬や眉は痙攣していて、握りしめた拳は小刻みに震えている。ことここに至った以上、ピエトロの正体が公になり、この最高の玩具を失うハメになると思ったのだ。

「できるさ。僕は僕の生きたいように生きることにした。……表の世界で生きるためには、院長先生の言った通り、贖罪が最初の一歩だ」

 ピエトロは、キリスト像を見ながら言った。

 その表情は晴れやかで、死を覚悟したものながら、生を諦めたものでもない。それは本人が言う通り、罪を償うことで穢れた生涯を浄化しようとする聖者の顔だった。

 しかし、マリアはその表情も言葉も耐えきれない程虫唾が走るようで、罅を入れそうな勢いで床を踏みつけた。

「私は、再び貴様に会うのを楽しみにしていたんだぞッ? リューイチから受けた傷が癒えて、お前に会えると思っていた矢先に、家族の埋葬があるからと教会に呼び戻され、ようやく今夜会いに行こうと思っていたんだッ。奴の死で歪んだお前の顔を見たくて数日耐えて来たというのに、だというのにッッ、この有り様だッ。貴様、迷いはどこに捨てたぁッ? 苦悩はどこに落としてきたッッ!?」

 マリアは怒り散らすと同時に困惑もしていた。今のピエトロからは全く負の情念を感じない。不安もなく、怒りもなく、恐怖もなければ、絶望もない。今までの彼には一度としてこんな落ち着きはありえなかった。

「自由に生きろという、リュウイチが残してくれた言葉が効いた、と言っておこう」

 ピエトロは彼女の怨嗟を半ば以上無視しながら、マリアの横をゆっくり通り過ぎて、壇上に立った。

 伊東にすがりついて彼の死を悼む内に思ったのだ。死に怯えることこそが死を招くと。

 彼の部屋にあった、ピエトロ宛ての日本に移動するための計画書類にもくどい位に書いてあった。計画に従う必要はないと。自分の意志を大切にしろと。やりたい様に生きろと。

 だから彼は自らの意志で贖罪の道を選んだ。

 望んでいた道は、業界から抜け出して表の世界に行くことだったが、これは少し違う。

 クリスを救った時に、この心に舞い込んだものはなんだったか?

彼が普段からこの教会に来て、聖職者達の何を見て羨望の眼差しを送っていたか。カルロの何を見て幼い彼に尊崇の念を抱いていたのか?

 それは博愛だ。神の教え通りの万民への愛と救済こそが、彼が求めていたものだった。

「僕は罪を償った後、もし幸運にも命があったら、全生涯を他者の救済に使うことにする」

「っはッ。笑わせる。貴様の心がそれを望んでも、体は言うことを聞くまい。自分で言っていたではないか? お前の体は他者を傷つける以外の機能は持っていないと。手始めに私で試してみろ。散々貴様に辛酸を味あわせてきた私を、お前は救えるのか?」

 マリアは笑みを浮かべながら言った。その言葉で彼の心を再び崩そうと考えたのだろう。

だが――

「言ったろう? 僕が救済をするのは罪を償った後だ。今はまだ、薄汚い殺し屋なんだよ」

 そう言うなり、ピエトロから殺気が立ち上り始めた。静かだが燃える様に熱く、一点に絞り込んだ槍のような殺気。

 武術家としての高揚感と、特異な感性がピエトロの怒りと憎しみを感じ取ったことで、恍惚感に身を震わせたマリアは、薄気味悪い嬌笑を漏らし、手に持っていた十字架を首にかけ、構えた。

 体を真半身にし、左手を相手に向けて伸ばし、右手は引き手にして自らの腰の高さで維持する、形意拳の三体式という構えをとり、周囲の空気を冷却する様な殺気を放ち始める。

 対するピエトロは幽霊の様にぼんやりと佇むだけだが、構えないことこそが、彼にとっての構え。それが父から学んだ最良の格闘術だった。

「……昼間の教会を襲ったのもそれが理由だ。これでお前も僕も逃げ場はなくなった」

 マリアは嘲るように呟いた。

「今更だな」

元々、彼女の生活に逃げ場などなかった。

マリアにとって、この教会は彼女の魂を封じ、善人たれと強要する牢獄だったのだから。

数え切れない祈りと献身の果てに研ぎ澄まされた、聖の空気で満ちた場所。そんな毒ガスの充満した檻の中で呼吸もままならない人生を送ってきた。

だから、外から出られたあのわずか二日間は、彼女にとっては自我に目覚めた子供の様な初まりであり、己の生まれた理由を存分に探究することのできた、まさに人としての生き方だった。

あの空気、あの時間で、彼から得た不幸は一生忘れることのできない、今までの人生が報われた幸福の一瞬だったのだ。

そう思うと、マリアは腑に落ちたことがあった。

この胸の内で暴れる、今の彼への猛り狂う怒り。この源は、羨望だったのだ。

彼はもう裏社会から足を踏み出した。体に浴びた血を落とし、善人足らんとして、命の危険も顧みず、自分を縛っていたものから解き放たれている。

求めたものを与えられているのだ。

「ならば……」

自分にとて、その権利はある。

やりたくもない救済、意味を見いだせない祈り、不必要な清貧。

己は充分に削った。怖気の走る善の人格まで拵えて、それに人生を任せてきた。己を心の底に沈めてきた。

時間も体も、その魂すらすり減らして、他者に尽くしてやったのだ。もうそろそろ自分の番だろう。相手の苦悩に傷をつけて爛れさせ、染み出た膿を舐めまわして何が悪い。他者を自分の食い物にして何が悪い。

迷える子羊共。お前達の肉に手は出さん。その人生を味あわせろ。

求めるから与えろ。

私が与えてきた様にッ。

「どう足掻いても、お前を許せそうにない。だから、これが僕の人生で最後の殺人とする」

 マリアは目を細めた。

「……法に縛られてこそ、法から最大の自由を得られるこの時勢。不服ながらも、表社会で一生を過ごす予定だったが、いいだろう。私もリューイチの遺言に従おう。やりたいことをやるためにここでお前を殺し、裏の世界へと移ろうじゃないか。死んだら奴に礼を言ってくれ。お前の助言で私はようやく救済されると」

 ピエトロの目が大きく開く。

 この悪魔が、あらゆる人間の不幸が渦巻く業界に入ったら、確実に己の欲望のままに、無垢な人々にまで手をかけるだろう。いや、無垢な者にこそこの女は近づき、不幸に叩き落とす。絶対に裏社会に入れてはいけない存在。この世から間引くべき邪悪な魂。

「……それは絶対にさせない。絶対にッ」

「では、私を殺してみろぉッッ!!」

 光を求めんとするピエトロは、コートの左袖からナイフを抜き、

闇に沈まんとするマリアは、特殊な呼吸法で体内の気を練り、

今ここに、互いの自由を賭けた、聖と悪の最後の対決の幕が切って落とされた。

 

 

「レオさん。教会に張らせといたディーノからの連絡です。タレコミは本当でした」

 アルベルトが慌ててつつも、口調は冷静に報告した。

「何だと? 現場の状況は?」

 それに対して勢いよく椅子から立ち上がった上司のレオが、アルベルトの机の近くまで来ながら聞いた。

「……犯人は一人。短機関銃を所持し、人質一名と共に礼拝堂内に立てこもっているとのことです。犯人からの要求はなし。現在は死傷者ゼロ。礼拝堂内にいた他の者は犯人によって教会の外に出され、今、被害者達に中での状況を事情聴取しているそうです」

 アルベルトが携帯の向こうにいるディーノの報告をそのまま、よく通る声で伝える。室内の視線が集まり、空気が一瞬で緊迫したものとなる。

 レオは一風変わった手段を取る犯人の真意を掴めずにいた。一人だけ残したのは人質としてというのは分かるが、その他を逃すことに何のメリットもない。交渉術や作法を心得てない素人の仕業か、もしくは本当の目的から目を逸すための陽動なのか。だが、彼は直感的にだが、この犯人は自らの所業を世間に見て欲しいと考えているように思えた。

「……緊急出動だ」

 色々と理解に苦しむ事件の発生に頭を痛めながらも、レオは上着と銃を身につけた。

 

 

誰も見向きもしない建物の一階に、哀れな犠牲者が己の夢を叶えるために、店を開こうとしている。

一階のスペースは珍しくも賑わいを見せていた。改修工事で、だが。

ここで二人以上の人を見られるのが、開店前と閉店後というのは悲しいことだ。

だが、二階に満ちた悲しみは一階のそれとは比較にならない。

先が暗い幸福よりも、続いたはずの未来を断たれた悲哀の方が、いや、断たれた人間に残された者の喪失感に勝る悲しみはないだろう。

ここでは遺体の無い葬式が行われているようなものだった。

一時間前、ここにいたピエトロはエルダに、数日前の夜にあった事の発端と顛末を全て伝えた。今回の件で、彼女をだいぶ翻弄してしまったし、結果的に彼女の仲介相手である三十人近い人間を死なせてしまった。その説明責任は果たすべきであろうと考えたのだ。

ピエトロは伊東が何故死んだのかを話したが、マリアのことは伏せた。

「……まあ、あいつらしい生き方と……くたばり方ね」

呟きながら、エルダは執務机の回転ソファを、正面にある来客用ソファに座っているフランに対して九十度回すと、少女に近い方の手で顔を覆う。

「う~、ひっく、う、う~」

その点、少女の反応は素直だった。目元をこすればこするほど、顔全体が濡れていっているが、どうあっても流れるものは止まらない。当然と言えば当然だ。彼は命の恩人でもあったのだから。

エルダは、嗚咽を繰り返しながら隣の寝室に入って行ったフランを横目で見やると、視界に入ってきた机の上の何枚かの書類に目を止めた。

「……」

ピエトロは、伊東の家に残された自分宛ての書き置きを見つけ、熟読した後に、それをここに持ってきたのだ。

その意図を聞くと、『あなた方にこそ、これは必要になる』と言うだけであった。

そこには、第一に、日本に移住するための手順が克明に書かれており、ここ数日ピエトロを尾行していた告白や、美鈴が死んだ原因。しまいには、彼とダルダーノとの馴れ初めまで書き記してあった。

この書類で最も価値を持っている部分は、間違いなく始めに書かれている内容だろう。

計画の概要はこうだ。

ピエトロの仕事場を仲介人のエルダを通して、日本に移し、その後に伊東と美鈴が集めた裏社会の情報を日本の警察に匿名で提供することで、日本にある弱体化した業界を警察の手で潰してもらう。こうすることで、ピエトロは直接裏切ることなく業界から解放され、フリーの立場に成れるというものだった。

ピエトロはここを読ませたかったに違いない。もっとも、その理由までは分からないが。

『リュウイチの遺体は、パラメさんに預けました。彼がメイリンさんにしたように祖国に埋葬してもらいます』

伊東の亡骸に関して聞いたエルダに、ピエトロはそう返した。

「優しすぎるのよね、あの子」

さも下らないという様に嘆息気味に言うが、彼女の声に怒りはない。それ以上の情動が心を満たしているからだろう。はたまた、それは感謝の裏返しだったのかもしれない。

彼女も彼女で、つくづくこちらの世界に合わない性格をしている。

まさか、普段熊と罵っていた大男に特別な感情を抱いていたとは。

ピエトロが――正確にはマリアだが――伊東殺害の依頼をしてきた時に、はたと気づいたのだ。この胸中を埋める息苦しさに、霧の中を歩く様な不安に、その依頼をまわすことの是非をついぞ断じられぬまま、実行した自らの無情さに。

「……」

彼女は、執務机の上に置いてある二つの物を見た。ピエトロが書類を渡すと同時に、半ば強引に預けていった物。

伊東が持っていた、十字架のレリーフが特徴のジッポーライターと、やたらに長いタオルだ。安物であるのが分かる位に粗雑なタオルだが、彼にとっては大切なものらしい。

ピエトロは、いずれ再会した時に返して欲しいと言い残して、去っていった。という事はしばらく遠出でもするのか、危険な場所にでも行くのか。

エルダは咥えていた煙草を灰皿に押し付けて両手で顔を覆った。これ以上、それらを見ていられなかった。

ライターを見ていると、抑えているものが溢れてきそうだった。

ピエトロは、妙に解放された顔をしながら、全て自分の責任であると言っていた。望んで彼を殺したのだと。殺さざるを得ない程自分は弱かったのだと。

だが、その顔は、その懺悔が全くの虚言であることをありありと語っていた。彼女とて表で探偵をし、裏では交渉術を多用する立場にある。あの青年程でなくても相手の真意くらいは読めた。だから、彼を恨んでもいない。

伊東を死なせた原因は、彼女にもあるのだ。殺害の意志を示したのがピエトロだったとしても、その意志を形にするのは斡旋屋としての彼女の役割だったからだ。

「……」

伊東と美鈴はピエトロを守って死んだらしい。ならば、あの大男に秘めやかなる好意を抱いていた義理として、年が同じだったために古くから親交があった美鈴への友情の証として、彼を守るのは自らの責務であると彼女は思った。

「ふふ」

空虚な笑みが漏れた。

優しすぎるとピエトロに言っておきながら、結局は自分も十分に生温い。我ながら似合わないと思うが、たまには益にならないことをしても悪くない。

アンティークな室内に無遠慮な機械音が響いた。

 突如鳴り出した携帯。また新しい依頼が来たようだ。しかし、彼女は新しい金の収入源であろうそれに、微塵も食指が動かなかった。とは言え、出る以外の選択肢はないのだが。

「はい」

『ディーノだ。ヤバイことになった。ピエトロのバカが白昼堂々、サン・カンチアーナ教会を襲撃しやがった。このままあの野郎がサツにとっつかまったらコトだ。奴を始末して、死体を回収しなきゃならねぇ。誰でもいいから殺し屋をすぐに送り込んでくれ』

「…………え?」

 あまりにも予想から外れた内容に、エルダはしばし意識がかすんだ。

彼の言葉は十分に明瞭ながらも、今の彼女には後数回の咀嚼が要された。という以前に飲み込みたくない内容だった。

『しかも、あの野郎どういうつもりなのか、この襲撃の情報を事前にサツにタレコんでたみてぇだ。今、そのせいで俺ともう一人が、ボスに言われて教会前に張ってるんだが、まだ警官共は集まって来てない。やるなら今がチャンスだ。急げよ』

 口早にそう言って通話を切ったディーノ。おそらく、近くに本物の警官がいたのだろう。彼は、終始掠れるような小声のまま話していた。

教会の現場にいるのが彼だけならば、ピエトロの暴挙をそのまま見てみぬふりをしてくれたのだろうが、お付きがいたせいでそれも叶わなかったようだ。

 業界の情報漏洩に顔を青くしたエルダは、即座にハイエナと実力のある殺し屋数人に連絡を取った。これは業界の存在を露見する危険性を十二分に含んでいるため、跳ね返ったボールの様に一瞬で了承の返事が来た。

 ピエトロ殺害の段取りが手早く済んで、ようやく安堵したその時、エルダは自らの携帯を呆然と見つめた後、震える手は携帯の重みすら支えられなくなったのか、力無く垂れてそれを床に落とした。

「……ハ、アハハ、アハハハハハハハハハ」

 一体、自分は何なのか?

 ピエトロを守るなどと決意していながら、いざ行動すればこのザマだ。一度として彼を守ることも、支えることもなく、伊東の時と同様に、容赦なく彼に死を送り込んだ。

 気が狂ったように笑っている内は良かったのだが、彼に預けられた二つの物が目に入った瞬間、それらが彼女に対して強い憎悪を放ち始めた。彼女にはそう見えてしまった。

「ぅあ、……あ」

 その見えざる威圧に彼女は後ろのガラス窓まで追い詰められ、口を開けた奈落の穴に落ちるようにすとんと腰を落とすと、膝を抱えてすすり泣き始めた。

 

 

 先にしかけたのはマリアだった。

一見棒立ちで無防備なピエトロの構えは、その実、全く隙がない。

昔、筋力を瞬時に最大稼動させられる者は、どんな攻撃にも一瞬で対処できるために、そもそも構えを必要とせず、自然と棒立ちという結論に至ることを、苦々しい笑みをする美鈴から聞いたことがある。

構えを取ると、必然的に次の動きは読めてくる。重心移動や引いた腕などから、拳や蹴りがどういう軌道で繰り出されるかが分かるのだが、そもそも構えを取らないことで、先読みをさせないのがピエトロの構えだった。

しかし、それはピエトロが動かなければの話だ。攻撃されたら必ず体の部位を動かさざるを得ず、動けば、その後の相手の攻め方や守り方は分かってくる。

故に彼女は踏み込んだ。どんな動きにも発展できる彼の構えに手を出すのは、自殺にも等しい行為だが、この一手を以てピエトロの出方を見る。

彼女は右の拳を彼の腹部に向けて突き出した。

それに対して、ピエトロが動く。マリアからすれば大きい彼の体が、彼女の視界から一瞬で消えた。逆手に持ったナイフを握った右手だけ残して。

「ちぃ」

彼の動きに瞬時に気づいて、放った拳を中断し、ナイフが握られた彼の手に両手を乗せると高く跳躍した。身軽なことに、マリアは彼の手を軸にして倒立回転飛びをしてのけた。

ピエトロは彼女の拳が放たれた瞬間に、その拳打の軌道上に自らのナイフを構えたまま、自身は大きく腰を落として、彼女の足が踏み込むであろうその場所に自らの蹴りを出していた。これが決まっていれば、マリアは拳の先に用意されていたナイフを自ら殴りつけて、更に足を払われて前に傾いた重心によって、ナイフはより深く刺さっていただろう。

「危ない危ない」

辛くもそれを回避したマリアは、即座に先とは違う構えを取った。

真半身、左手は先程と同じだが、右手は弓の弦の様に手前に引き切り、両膝を軽く曲げ、重心は右足に乗せる。

対してピエトロは、低く腰を落としていた状態からバネの様に立ち上がり、再びだらりと構えなき構えを取る。

「はっ、芸が無いな」

言いながらマリアは再び拳を放った。

先の攻撃に対するピエトロの対応から手の内がおおよそ分かった。

中国拳法が苦手であるのは変わらない。故に、自ら攻めるのではなくカウンターで以て、冷静に対処し、彼女の隙を作っていくつもりらしい。

ならば、冷静さを失う程の連撃を放ってやればいい。対処をしくじって一度でも受けが崩れれば、後は簡単にくびり殺せる。

そのマリアの戦略を実現すべく、後を任されたのは、猛烈な手数を得意とする翻子拳で、拳撃の連打を彼に叩き込んだ。

散弾の様な突きが来たかと思うと、円を描いて側面から拳や肘が回り込んでくる上、意識が上半身に集中したところに、足払いや脛を蹴り込む「斧刃脚」が繰り出される。

マリアは、今までと違って十分な殺傷力を持つ攻撃を、絶妙なタイミングで急所に攻撃しているのだが、それでもなお、一度としてクリーンショットが入らない。

全ての攻撃がピエトロの腕や脚によって叩き落とされ、無駄の無い動作で避けられる。

隙あらば構え無き構えを取ることで、マリアの攻めに迷いを与えつつ、防戦に徹するピエトロはまさに鉄壁の守りを誇っていた。万全の彼と闘うのはこれが初めてだったため、マリアはピエトロの本来の実力を見誤っていたようだ。

彼女は、一度大きく後退した。

「ふん。ずいぶんと躱すようになったじゃないか。正直驚いたぞ」

かなり激しい運動をしたにも関わらず、二人の呼吸の乱れは僅かしかない。

「今まではお前の脅迫を恐れていたからだ。冷静に対処すれば捌けるさ。それに、中国拳法においては、僕とお前の師匠は同じなんだからな」

とは言え、幼少期からこの武術を倦厭していたピエトロと、天性の才能を持つマリアとでは、その習熟には歴然たる差がある。彼が互角同然に攻防を続けられているのは、彼女よりも発達した筋力と、実戦で培った経験によるものが要因の一つとしてある。

美鈴とは中国拳法の手合わせをそれこそ何千回と行っていたし、ほぼ全ての攻撃に発勁を用いてくる彼女と比べると、ここぞという時にしか勁を使うことができないマリアには、まだ勝率があると言っていい。

それには、マリア自身とて気づいている。現状では自分がアドバンテージを持っているようで、実質僅かに不利だ。

ならば、別の糸口を見つけるまでと、マリアは彼に堂々と聞いた。

「貴様、中国拳法は苦手で、全て学ぶには至らなかったと言っていたな?」

「ああ」

どうせ隠しても無駄だ。素直に頷いた。

「ならば、一つずつ試してみるか。お前の知りえない流派の拳法こそが、その守りの抜け道というわけだ」

そう言うと、彼女は次々と新しい構えを取っては彼に襲いかかった。

中、近距離戦で素早い攻撃を行う螳螂拳で近づかれ、超接近状態での攻撃を得意とする八極拳に、攻撃の流れが千変万化する八卦掌、螺旋の作用で敵の力を流す太極拳など、様々な攻めをぶつける。

めまぐるしくその攻撃手段を変えてくるマリアの器用さと、習熟の度合いはピエトロをして舌を巻く程だった。

だが、彼とて受けているばかりではない。徐々にだが、彼女が攻撃で突き出してくる手足をナイフで切りつけてはいる。しかし、相当な胆力を持っているようで、彼女は顔に張り付けた笑みを絶やさず、攻撃の手を緩めることもない。

数十という数の攻撃を捌き続けていたピエトロだったが――

「ぐぁっはッ」

突如、力なく膝をついたマリアの行動に惑わされた瞬間、彼女が上体を捻って繰り出した強烈な肘打ちを腹部に喰らってしまった。

「ふふん、これか」

マリアはそのまま、両足で彼の足を挟んで倒そうとしたが、ピエトロは跳躍による後退をして間一髪で避ける。

「酔拳、か」

ピエトロは痛みに顔を歪ませながら言う。

その武術は、とりわけ習得が難しいということで、かつて美鈴は実演してみせただけで教えてくれることはなかったものだった。

そして、トリッキーな攻撃と回避が目立つその拳法は、彼の調子を大きく狂わせる。

「はは、やはり、これがお気に召さんらしいな」

事実、ピエトロは攻めてくるマリアから逃げることに全力を注いでいた。

元よりピエトロが中国拳法を苦手とする理由として、攻撃手段に定型が無いように見えてしまうというものがあった。父から教わった独自の武術と、伊東の空手、柔道は、型がシンプルで動きも読みやすいのだが、この中国拳法は先程のマリアの攻撃が示している様に、円かと思えば線、線かと思えば螺旋の軌道を描く攻撃手段があり、まるで、風や水のように形の無いものから攻撃されているような気にさせるのだ。

「がぁッ」

形無き怪物を思わせる彼女の攻撃は、とうとうピエトロの鉄壁の防御の隙間をすり抜けて、肩と背中による打撃技である「鉄山靠」を喰らわせた。

ピエトロは吹き飛ばされ、先ほどまで修道女達と共に賛美歌を奏でていたオルガンに叩きつけられる。

「では、死ね」

そして、マリアは体勢を崩したピエトロに全力の「崩拳」を叩き込むべく猛進した。

 

 

サン・カンチアーナ教会の前は、今だかつてない程の騒ぎが起きていた。

 教会内にいた被害者達の泣き声に、暇つぶしに集まってきた野次馬の無責任な興味と、どこから嗅ぎつけたのか、突如出現したネタを頂戴しようとする報道関係、それらを抑える警官の注意勧告、続々と集まるパトカーのサイレンが、この静寂こそが誉れとする場所の前で混沌としていた。

「まさか本当とはな。人を送っておいてよかったよ。で、状況は?」

 現場責任者のレオは、パトカーの背を肘掛けにしながらぼやいた。軽い態度ではあるが、その実、彼の中では憎悪の炎が煉獄の如く燃え盛っている。

「相変わらず犯人側からの要求はなし。人質一名と共に礼拝堂内に立て篭っています」

 アルベルトが素早く答えた。

「目的が分からんな。じゃあ、こっちから呼びかけしろ。後、いつでも踏み込めるように準備しておけ」

 頭をぼりぼり掻きながら彼は言う。

「はい。後、……話に寄ると、犯人の男はトレド通りの件で話題になった金髪の青年である可能性があるらしい、です」

 レオの手にかかる犯人に同情してか、アルベルトは躊躇いながら言った。

「本当かっ!?」

「はい。情報と照らしたら、外見は良く似ていたそうです。それと、こちらが教会の院長の方です」

 そう言うなり、アルベルトは踏み込みの指示を出し始めた。

「院長さん。あなたが最後に教会から出たそうですが、犯人の様子はどんな感じでした?」

 院長は、短い沈黙を伴った後、明朗に語った。

「悪人には見えませんでした。少なくとも、私達に危害を加えたくないような面持ちでしたから」

「うっ……な、中に残った人質は誰です?」

院長の声の重みによって心と体に負荷を受けたレオは、戸惑いながらも質問を続ける。

「当教会の修道女です。まだ二十歳前の優しい子ですので、他人に恨まれる様なことはありえないと思うのですが……」

レオは院長の話を聞きながら無意識にネクタイを緩める。どうにもこの院長の声はレオに合わない。彼女の声は酷く穏やかなのに、存在を拒絶されているような気がし、その鋭い視線は彼を侮蔑しているような気がするのだ。

「分かりました。では、下がっていて下さい。必ず救出し……」

院長を教会入口への階段を囲むようにして張られた黄色のテープの外に出そうとしたところで――

「いっ、院長先生」

レオの言葉を遮って、初老の修道女が、かなり慌てた様子で近づいてきた。

「どうしました?」

ただならぬものを感じた院長が顔を険しくする。

「ア、アンジェリカが、アンジェリカがいません」

「なんですって? ……まさか、マリアを助けるために中に入っていったのでは……」

 院長とレオは、目を見開いて教会の方へ振り向くと、何が起こったのか、その神の家の窓という窓から白い煙が立ち上り始めていた。

 


「ど、どうした?」

 痛む胸元を押さえながらピエトロは問う。

 おかしなことに、止めを刺しに来たマリアが、彼の目の前でその拳を止めたのだ。

「……むッ、う…」

 しかし、それは彼女にとっても予想外の事態であるらしく、驚愕した彼女は問いに応じず、ガクガクと震える自らの手を見ている。それは、無数に傷つけられた痛みによるものではないようだが。

 彼女は、ピエトロに向けて再度拳を放とうとするが、まるで油をさし忘れたロボットのように、各関節が上手く動かないらしく、ぎこちない後退を余儀なくされる。

「き、貴様、何をした?」

むしろ、それはピエトロこそが知りたいことだ。

 何であれ、これはチャンスだ。

ピエトロはオルガンにもたれた体を起こし、マリアに反撃しようとしたその時、突如響いてきた音に動きを止めた。

 サイレンの音が教会の外から響いてくる。教会の表に面した窓から、パトカーの青いサイレンの光が断続的に照らされている。

「なに? 早すぎないか? っと……動く。……久々の実戦で全力を出したのが悪かったのか?」

礼拝堂の扉の向こうから聞こえてくるサイレンの音に舌打ちを送るマリアだったが、いつの間にか体が動くようになったらしく、体の各部位を動かして状態を見ている。

警察の到着が早いのも当然だ。ピエトロは昨日この教会を襲うことを、自ら警察に密告していたのだから。

「……ピエトロ、爆弾か何かは持ってないのか?」

そして、振り向いた彼女はいきなり物騒な事を言い出した。おそらく、教会前に集まっている警察に対して使うつもりなのだろう。裏社会に入ると決めたからには、見境なく人を殺すことも辞さないようだ。

「そうか。……あるんだな?」

また内心を読まれた。

確かに、コートの内側には殺傷力は皆無だが、緊急逃走用の発煙筒がある。

マリアの怪しい瞳と、にやけた顔をよく見たピエトロは、一見、太いマジックペンにも見えるそれを取り出して着火すると、教会の扉の方に放った。

一瞬にして、表に面した壁が白い煙で覆われ、見えなくなった。二人のいる壇上にまで煙は来ないが、化学反応による刺激臭は僅かに鼻に届く。

「これで満足か?」

「ああ」

彼女の表情から真意が分かった。どうやら彼女はピエトロと決着をつけることに、彼以上に執心しているらしい。外の人間を殺すかどうかはともかく、邪魔されないことが第一であったようだ。中の様子が分からなければ、連中も軽率な行動は取るまい。

「さて、続けようか?」

マリアは余裕の笑みを顔に貼り付けたまま、再び、酒に酔った様にゆらゆらと体を揺らしながら近づいてくる。

そして、彼女が自らの技の攻撃範囲内にピエトロを捕らえた瞬間、裏拳と回し蹴りを同時に放つ「張果老」を繰り出す。

ピエトロは紙一重で防いだが、その代償として姿勢を崩し、仰向けに倒れてしまった。

マリアは間髪入れずに彼の心臓を踏みつぶすべく右足を持ち上げる。対して、ピエトロは持っていたナイフを彼女に投擲した。嘲笑と共に避けられたが、体勢を立て直して起き上がるのに十分な隙は作れる。

「しぶといなぁ」

 マリアは嬉しそうに言う。基本的に一撃で殺すよりも、じわじわと追い詰めて嬲るのが好きなのだ。

 現状を打開すべく、ピエトロは彼女の分析を行った。

類稀なる武術の才能、最高クラスの師から受けた鍛錬が、尋常でない技量を彼女に与えている。

武術ならば、彼女の方が勝っているだろう。それが先ほどまで拮抗していたのは武器の有無で、それによって互角の闘いを生み出していたのだが、それもたった今、命と引き換えに彼の手から離れてしまった。

そして、搦め手も彼女には通じない。嘘は全て見抜かれてしまうからだ。どんな策かまでは彼女も読めないようだが、罠があることを事前に知られていては策など成り立たない。

 だが不落とも思える彼女にも唯一つだけ欠点がある。これまでの彼女との会話、態度、思考、戦闘における癖からそれが見えてきた。それは彼女ですら鍛えようがなかったもの。

 ピエトロは結論を出すと、相手に対して真半身に構え、足を広げて、やや腰を落とし、磔られた様に両腕を一杯に伸ばす構えを取った。

 それを見たマリアは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにいつのもの笑みに戻ると、嘲る様に彼と同じ姿勢を取った。彼と彼女では師は同じでも習熟には絶対的な差がある。それが分かっているから彼女はそうしたのだ。

 マリアの構えから伝わってくる。

曰く、「これが本物の劈掛拳だ」と。ピエトロのお粗末な代物とは訳が違うのだと。

 次の瞬間、マリアは踏み込んだ。彼女はピエトロに向かって勢い良く襲いかかり、右の手刀を振り下ろす。全身の体重をのせたその手刀は鉄すら凹ませる威力があるだろう。

しかし、ピエトロはマリアの踏み込みと同時に脱力して構え無き構えを取り、彼女の攻撃を幽霊のようにゆらりと動いて回避した。しかも、彼は反撃しやすく、且つ敵の追撃を受け辛い彼女の右側面に自らの位置を動かす。

「ふんっ」

しかし、彼女はその動きを予測済みだった。と言うより相手が自分の右側面に入り込み易い様に初撃を繰り出していたのだから。

予定通りに動いたピエトロに、マリアは予定通りの右膝蹴りを打ち込む。体勢の問題で視線を彼の方に向けられないが、彼は接近戦をする以外、自身に勝つ手段はないため、ほぼ密着する距離でもって避けると判断していた。

彼女が狙うは、後頭部へ二発の手刀を叩き込む「倒発鳥雷撃後脳」。これが決まれば、ピエトロの首の骨を粉砕し、頭蓋骨を陥没させられるだろう。

「なッ!?」

だが、相手の腹目がけて放った右膝蹴りは空を切るのみとなる。

膝蹴りを当てる反動で体勢を立て直し、そのまま追撃に持ち込む予定だったマリアは、大きくバランスを崩す。

ピエトロがその巨大な隙を見逃すはずもなく、彼は防御ががら空きになっている背後で、改めて劈掛拳の構えをとると、腕を鞭の様にしならせて敵を打つ劈掛拳の打撃技「烏龍盤打」を放った。

「ぐああっ」

肉と肉がぶつかる異音と、彼女の口から漏れた苦悶の声が礼拝堂内に反響する。

マリアは空いていた左腕で辛くも防御したものの、それでも背中と腕の肉が破裂した様な痛みに顔を歪める。だが流石と言うべきか、彼女は痛みに耐えつつも素早く振り向いて構え直す。

 しかし、振り向いた時にはピエトロが続けて放った攻撃が迫っていた。

「ぐっっは、あ。その技は……貴様も、使うのか」

 彼女は体を九の字に曲げながら、歯軋りした。それは、伊東から喰らった屈辱の技。すなわち、空手の「山突き」だった。一度受けた攻撃だったというのに、冷静さを欠いていた彼女は、再び条件反射で顔だけを守ってしまった。

ピエトロは一切の容赦なく、彼女に追撃する。

「ちぃ」

彼女は痛みに顔を歪めながら形意拳の三体式の構えを取り、両腕で×印を描くと、今までとは比較にならない程の速さの拳を放つ。左腕で、突き出そうする右腕を抑えて力を溜め、それを瞬時に解放することで、ただの「崩拳」に爆発的な威力を与えたのだ。

想定外の速さで襲ってきたその拳を、ピエトロは全力で躱したのだが、わずかに腹をかすめた。殴打ではなく擦過による火傷の様な痛みが脇腹にじわりと広がる。

しかし、ピエトロは構わずに突き出されたその腕を両手で掴むと、マリアに背を向けるように体を反転させて、自らの右肩に彼女の腕を乗せる。

対するマリアはこの動きを知っていた。日本の柔道で有名な「一本背負い」という投げ技だ。だがそれを対処できない彼女ではない。投げられても、足をついて着地すれば良い。そして、足が地についてこそ真価を発揮するのが中国拳法。掴まれてない左手から、今度こそ最大の勁力を込めた拳を叩き込む。

「があッっ」

そう考えていたマリアだったが、「一本背負い」はブラフだったようで、ピエトロが突如彼女の腕から手を離して放った肘打ちを右の頬に喰らう。

鼻と口から血を垂らしながら彼女が再びとったのは酔拳の構えだった。もはや、武術の動き以前に素でふらついている彼女だが、それでも、ピエトロは歩を止めない。

「うおあああああッっ」

マリアは、猪口を持つような手付きが特徴の「酔盃手」という構えを取り、ピエトロの喉目がけて突き入れる。これは、親指と人差し指によって喉を千切り取る危険な技であるのだが、遅い。遅く、鈍い。ダメージが溜まりに溜まった彼女の動きは、戦闘開始時と比べると格段に技の質も速さも落ちていた。

ピエトロは、彼女の首から垂れた金色の十字架を掴んで手前に引きながら、上体を大きく逸らしてマリアの攻撃を躱しつつ、その回転力を使って持ち上げた左脚で、彼女の鳩尾に膝蹴りを抉り込んだ。

マリアは声も出せずに仰向けに倒れる。

「―っ…っ…―っ――」

呼吸ができないのか、彼女は胸を抑えて喉を掻きむしっている。

最早、彼女には対抗できるだけの体力も余裕もない。

ここに至って、二人の殺し合いはようやく決着をみた。


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