表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オテロ 1  作者: 裏表逆
2/4

オテロ 2

「クリス坊ちゃん。本当にやるんですね?」

 周囲を囲む黒スーツの男達を代表して、レナードが四つ積まれたタイヤの上に座っている少年に言う。

クリスと呼ばれた少年は、セミショートの黒髪に黒瞳、そして、黒のスーツ姿に黒コートを着込んでいた。その幼い容姿さえどうにかなれば、ボスの風格を感じなくもない。

「もちろんです。そしてこれで全て終わる。今まで、俺の我儘に付き合ってくれて本当に感謝しています。これが終わったら、俺に構わず自由になって下さい」

 先ほど電話でピエトロに向けていた憎悪を微塵も見せずにそう言った。どうやら、彼の態度は相手によって極端なまでに変化するらしい。もしくは、目の前の男達以外は皆敵と認識しているのかもしれないが。

 クリスの殊勝な発言を聞くと、周囲にいた五人の男達は笑い始めた。

「何が可笑しいんです?」

 少年が苦笑気味に聞くと、レナードが代表して答えた。

「私達は、ボスを尊敬しておりました。マフィアとしての最低限のルールすら守らず、敵も味方も構わず殺す、保身に腐り切ったドン・アルバートと縁を切ったあなたの父を。そんな方のご子息を、見捨てなどしませんよ」

 クリスは大きく目を見開いた後、柔らかく微笑んだ。

 明るく笑う少年に、男達も笑みを返す。

「……ですが、クリス坊ちゃん。だからこそ、やはりこれだけは言っておきたい」

「なんでしょう?」

 急に真面目な顔つきになったレナードに、クリスの表情も自然と強ばる。

「例え、手にかけたのが奴だとしても、それでも奴は犬にすぎないんです。ただ頼まれたことを実行しただけで……」

 少年は、更に表情を強ばらせた後、頭を横に振る。まるでその言葉を理解するのを拒むかの様に喚き、駄々をこねる子供の様に弱々しく男の言葉を遮った。

「やめて下さい。俺は奴に復讐する。それこそが俺のすべきことです。それ以外はない」

 自分に言い聞かせる様なクリスの言葉に、初老の男は目を閉じて、小さく息を吐いた。「分かりました。我々はあなたをお守りすることに全力を注ぎます」

レナードの言葉が響いたと同時に、駐車場の車用通路から聞こえてくる足音に、男達はとっさに警戒体勢をとった。

――ようやくだ。父さん。母さん。ようやく仇を討てる――

 少年は、今一度両手を組んで悲願の成就を見届けるよう、自らの両親に告げた。

 

      ✽   ✽


 まさか、もう一度ここに来るとは思わなかった。

 このビルがほんの数時間前に、彼にとって忌まわしき場所となったのをあの少年は分かった上で呼んだのだろうか。それとも、完全に無人となっているこのビルが、呼び出す場所として好都合だったからだろうか。

 ピエトロは、マルコ達に誘拐された少女の事を考えないようにしながら、地下駐車場に通じる螺旋上の車用通路を降りつつ、持ってきたアタッシュケースの中から、小型グレネードランチャーであるM七九ソードオフを構えて、指定の場所に踏み込んだ。

駐車場内は、左右に何台かの乗用車と一台のキャンピングカーが停められており、その奥の壁にはおそらく物置代わりの大きな木箱が置かれ、隣には使い捨てられた物なのか、タイヤが四つ積み重ねてある。目的の相手と取り返すべき相手はそれらの上にいた。そして、その手前には黒スーツを着た体格の良い男達五人の姿があり、銃を所持している。

彼はそちらに歩いていった。と、同時に後ろからこの駐車場への入口のシャッターが降りる音が聞こえ始める。

これで彼は退路を封じられた。だが、構わない。今は前だけを見る。

木箱の上に寝かされているシスターマリアは、公園で会った時の黒いロングワンピースの服装のままで、後ろ手に縛られて口をガムテープで塞がれていた。意識はないようだ。薬か何かで眠らされているのだろう。

彼は、クリスから十メートル程離れた所まで近づいて、足を止めた。

「さぁ、約束通り来た。それと、僕は英語も喋れるから無理しなくていい」

 ピエトロは、彼らの容姿からアメリカ人であると、しかもアメリカン・マフィアであることを悟ると、そう言った

「余計な気遣いをありがとう。随分物騒なモンを持ってきたようだが、それ撃ったら人質も死ぬこと位分かってるよな?」

 悪態をつきながらも、少年は躊躇いなく自分の国の言葉で話し始めた。慣れない言語を使うのはやはりもどかしかったのだろう。

ピエトロの持つ銃は基本的に爆発による殺傷を主としているため、クリスは彼が銃を所持していながらも余裕を崩さない。

そして、少年の肉声は、電話越しよりも強くピエトロの心に何かを訴えるが、その困惑は顔に出さないよう努める。まじまじと少年の顔を見るが、やはり見覚えはない。

「待ちわびたよ。お前を殺せるこの時をな。お前を探す手がかりは声だけだったってのに、よくも一ヶ月足らずで見つけられたもんだと、今更ながらに思う」

 クリスは、その幼さに反して粘り気のある笑みを作りながら言った。

「声?」

 という事は、この少年に以前どこかで会ったことがあるというのか?

「ああ。初めてお前と会った時、お前は顔を隠していたからな。それしかお前に関する情報がなかった。そんな時、あの教会でこのメス犬と話しているお前の声を聞いたんだ。あの時だけは神のお導きと思ったね。お前を見つけられた上に名前まで知れたんだからな」

 シスターマリアを親指で指しながら彼は心底愉快そうに笑う。

――やはり、あの時感じた殺気の主はこいつか――

 となると、最近の一連の出来事が全て結びつく。

「そうか。情報屋を使って僕の情報を集めていたのも、彼女を誘拐するためにチンピラを使ったのも、僕の写真を撮ったのもお前だな?」

「ああ、お前の詳細情報や行動パターンが知りたかったからな。ちなみにあの役立たずのチンピラ共は、今頃蝿にたかられてる」

 殺したのか。年に似合わず過激なことをする。

 ともあれ、これは好都合でもあった。あの写真を撮った相手がこんなに堂々とコンタクトをとってきてくれるとは。

 だが、その前に――

「一つ聞きたいが、シスターマリアと共にいた弟はどうした?」

 彼が公園で二人を救った後に再度誘拐を試みたのなら、隣に彼もいたはずだ。

 それを聞いたクリスは、部下の一人を見る。男は僅かな手振りで少年に事情を伝えた。

「家で寝てるそうだ。家に忍び入ってこの女だけ攫ってきたから、殺しちゃいないらしい」

 その言葉にピエトロはほっと安堵するのだが――

「だが、そいつもお前の大事な知り合いのようだな。なら今から引きずってきて、目の前で撃ち殺してやるよ。

ジョージ。その弟も連れてきて下さい」

 少年は、狂気に染まった視線を彼に向けていたが、部下の一人に命じる時は、極めて温和な視線となる。

「やめろ。あの子は無関係ない」

 ピエトロは少年の突然の変化に眉をひそめながら、持っていたM七九を、カルロの誘拐を命じられた男に向ける。同時に男達が一斉に臨戦状態になり、彼に銃を向けた。

「あるさッ!。お前が俺から父さんと母さんを奪ったように、俺もお前から大切な人を奪ってやるんだよッッ」

 一転して鬼の様な形相になった少年。

「なッッ!?」

 そして、その発言を聞いたピエトロは息が詰まる程に狼狽した。彼の心で疼いていた違和感の正体に気づいたのだ。

 アメリカン・マフィア。少年の声。そして、前にその声で聞いた「父さん」という悲痛な叫び。それらの条件が結びつき、ピエトロの耳奥で、とある豪邸から聞こえてくる少年の悲鳴が生々しく再生される。

「……ま、まさか、お前は……」

 一ヶ月前、伊東と美鈴と共に行った、孤島の邸宅にいたアメリカン・マフィアの暗殺依頼。この少年はあのターゲットの息子!?

「ようやく気づいたかよ」

 クリスは、嘲る様に鼻を鳴らす。

 ピエトロが無意識にも胸元を抑える。

まさか、あの少年と再び出会うとは。いや、それは十分にありえた事だ。極論、一つの依頼達成は、一つの恨みを買うということ。なら彼が親の仇を討つのは予想しえた事。

だが、自分は何をすればいいのか? 少年に何をすべきなのか?

彼が親の後を継ぎ、マフィアのボスとして悪事を働くのならば、悩むことなく銃弾を撃ち込めただろう。だが、彼は元々罪なき子だった。そして、彼をこの様な復讐の鬼にしたのはピエトロ自身だ。ならば、自分はここで死んで、彼の心を癒すのが正しい選択ではないのか? そう思うと、銃を持っている彼の腕は力なく垂れていく。

「そら、その物騒な武器をこっちへ寄こせ。携帯している銃もだ」

――いや、それは違う――

 ピエトロはもう一度クリスを観察した。

 今の彼の目には狂気と憎悪が渦巻いているが、本来の彼がとても温和な性格をしているのは、先の部下に対する態度で見て取れた。

 今の彼は憎悪をエネルギーにして動いているだけだ。父と、おそらく自殺したか殺された母の喪失から目を逸すため、ピエトロの殺害に固執しているだけなのだ。

 そんな少年が復讐を完遂して我に帰った時、目の前に転がるのは、ピエトロと、何よりピエトロと親しかっただけの修道女とその弟の死体。それを見たらどうなるか? 意趣返しとは言え、大切な存在を奪われるという彼自身のトラウマを自ら体現し、自身の醜悪さを直視するハメになる。目を背けていた両親の死という現実も再び戻ってくるだろう。

 間違いなく、少年の心は砕け散る。

――それに、何より……――

「さあ、早く捨てろよッ。そしたらこのムカツク女の解体ショーを始めてやっからよぉ」

 言いながら、クリスは懐からナイフを取り出すと同時に、シスターマリアの髪を乱暴に掴んで引き上げ、その首筋に切っ先を当てた。

「…………いいだろう。受け取れ」

 ピエトロは熟考した後、脇のホルスターから抜いたM八四と、M七九をクリスの方へ放った。

 ようやく、武器を手放したことにクリスは口元を歪ませるのだが、その顔はすぐに愕然としたものになる。

「坊ちゃんッッ」

 レナードが、ピエトロの狙いに一早く気づいた。

 彼が放り投げたM七九の銃口から、遠心力に引かれて、閃光手榴弾が飛び出してきたことに。既に安全ピンは抜かれており、銃口から出たと同時に閃光弾のレバーが外れた。

迂闊だった。人質がいる以上、榴弾を使われる訳がなかった。あの銃には初めから弾など入っていなかったのだ。あの殺し屋は、銃を奪われることすら計算に入れてここに来たのだろう。

 レナードは、盾になるべく少年の方へ疾駆する。

 次の瞬間、駐車場内は太陽を直視したと見まごう程の光と爆音に塗り潰された。ピエトロは威力を落とすため、閃光弾内の成分を半分以下に抑えていたが、それでも十分に強い音と光がこの場に満ちる。

 クリスは、レナードが盾になり耳を塞いでくれたたおかげで、その影響を受けずに済んだのだが――

 ゆっくりと目を開けて、最初に叩きつけられた光景は、ぐらりと傾いて彼の足元に倒れ伏したレナードと、その後ろで、隠し持っていたらしい小型拳銃デトニクスを持った殺し屋の姿だった。

「レ、レナ、レナード。レナードォォオオオ」

 クリスはタイヤから飛び降りて、レナードの体を必死に揺する。だが、閉じた彼の目が開かれることはなかった。

 …………どうして、どうして、この男は俺の大切な者を奪うのか? どうして、こいつは、俺の、どうして、こいつは、こいつはこいつはあああああッ。

「殺せッ。こいつを殺せえええええッ」

 クリスが目に涙を浮かべながら、男達に命じる。

 男達は、僅かに閃光弾の影響を受けたらしく、耳や目を押さえながらも、背を向けているピエトロに銃を向ける。

 その瞬間、ピエトロは体を反転させながら一番近くにいた男の所まで跳躍すると、その男の銃を持つ右腕を自らの右肩に乗せ、デトニクスを持つ右手を男の肩の上を通した。近すぎるこの状態では、密着された男はピエトロに銃を向けられない。

 そして、ピエトロはその男を盾代わりにしながら、後ろにいた三人の男達の銃を全て撃ち抜いて破壊し、そのまま流れる動作で盾にしている男に足をかけてうつ伏せに倒した。

 そして、クリスにピエトロの拳銃が向けられる。

 自棄になったのか、クリスは銃を向けられた状態にも関わらず、持っていたナイフをピエトロに投げつけたが、至近距離にも関わらず、親指と人差し指で挟み取られてしまった。

「クソ、クソオっッ。畜生ッッッ」

 万策尽きた少年は、煮えたぎる様な怨嗟の声をあげる。男達も、咄嗟にナイフを取り出して構えたものの、クリスに銃を突きつけられた状態では迂闊に動けない。

 完全に主導権を握ったピエトロだったが、少年に向けていた銃を降ろした。

「な、情けのつもりかッ!? 殺せよぉッッ!?」

 なおも喚き続ける少年に対して、ピエトロは至極冷静に答えた。

「それはできない。お前の父親との約束を破ることになるからな」

「なぁッ!? 父さんとの、約…束?」

 その言葉に驚愕しながらも、少年は一ヶ月前のあの夜を脳裏に描く。

ピエトロが誓った約束。母と共にベッドの影に隠れていた少年が聞いた、たった一言のピエトロの言葉。今までその声質にしか興味を持っていなかったが、彼は確かにこう言っていた。

「『お前と母親は標的じゃない』。だから、僕がお前を殺すのは道理に反する」

「な、に? おま、お前は、だって……」

 この男は父を殺した。その結果、母は命に狙われる恐怖で首を吊った。自分の人生はこいつが滅茶苦茶にしたはずだ。そんな卑劣な男が死んだ父との約束を守っている? 散々侮辱し、殺そうとした自分を見逃す? むしろそれこそが道理に反するのではないのか?

 いや、それ以前に、道理を踏み外していたのは――

「ぐぅ、坊ちゃん。もう、分かったのでは、ないですか?」

「ッ!? レナード。無事だったんですか?」

 そこを突かれて気絶させられていたのか、首元を押さえつつも何とか立ち上がるレナードに、クリスは肩を貸す。

「ええ。問題ありません」

 良く見れば、他の男達もほとんど怪我をしていなかった。この殺し屋は自分ばかりか、部下すらも殺すつもりがなかったというのか?

 レナードは立ち上がって、マフィアにしておくには惜しい程に穏やかな笑みを浮かべた。

「坊ちゃん。はっきりと言いましょう。あなたは、父親の死の原因がこの男だと思い込んでいるだけだ。この男は、ただの犬なのです。依頼を遂行しただけなんです。ならば、我々が本来狙うべきは、その依頼を出した者なのではないですか?」

 とうとう自分の歪みの最奥を突かれ、少年は子供の様に涙を流した。偽りで糊塗されていた自らの義務を直視した恐怖故に。

 レナードの言う通りだ。本来彼が憎むべき相手は、父に殺し屋を送り込んだドン・アルバートのはずだ。この青年ではないのだ。だが、大組織であるニューヨークマフィアのドンを殺すなど、この六人では永劫に実現しえぬ事。だから、まだ殺せる可能性のあるピエトロに、クリスは矛先を向けたのだ。

 しかし、現実を直視した以上、これからはそのドンを狙わねばならなくなった。彼に下手に噛みつけば容赦ない死に行き着くだろう。その事実にクリスは身も心も震わせた。

「復讐をやめればいいんだよ」

 ピエトロがクリスに投げつけられたナイフを使って、シスターマリアを縛る縄を切りながら言う。

「それは、お前の自己満足にすぎないんだ。不必要なものなのさ。だが、お前の父は、お前が生きることを望んでいた。だから、その願いを叶える事を、生きる目標にすればいい」

 そう言われたクリスは泣くのを止め、その目からは怒りや憎悪という黒いうねりが徐々に消えていった。

 それを見て、優しく笑うレナードは、あまりにも唐突な発言をする。

「坊ちゃん。実は私、一度ローマを観光してみたかったのですが、これから行きませんか?」

それを聞いた他の男達は彼の真意を理解したのか笑みを浮かべる。

「こ、こんな状況でですか?」

 クリスが、素っ頓狂な声をあげるが、すぐに笑みを取り戻すと、はっきりと頷いた。

 父が望んだように、ピエトロに諭されたように、自分がすべきなのは復讐ではなく、この人生を謳歌すること。レナードはそう伝えたいのだということを、彼は理解したのだ。

 そして、クリスはピエトロに向き直る。

「……ピエトロ=べレッサ。俺はお前には謝らない。……でも、ありがとう」

 少年は初めて怒りのない言葉をピエトロに送ると、男達と共にキャンピングカーに乗り込んだ。

 当然だろう。如何に仕事だったとはいえ、ピエトロの罪が消えることはない。

最後に残ったレナードが、視線だけでピエトロに感謝を伝えて、車の方へ向かう。

「待て。僕を隠し撮ったカメラとデータを渡してくれないか?」

 ピエトロの言葉を聞いたレナードは、無言で車に乗りこむと一つのデジカメをピエトロに放ってきた。そこで、ピエトロはようやく完全に安堵した。これで取り返すべきものは全て手に納まった。

 キャンピングカーが駐車場から出て行ったところで、ピエトロは木箱の上の修道女を見た。外傷はない。呼吸も安定している。目の前で一波乱あったというのに、この娘はのん気なことに安らかな寝息を立てていた。

 ピエトロは苦笑しながら思う。

彼女はこれでいいのだ。聖母は常に明るく笑って、人々を癒すのがふさわしい。

ピエトロは、渡されたデジカメからメモリーを抜いて踏み壊した後、駐車場の車を一台拝借して、彼女を自宅まで送るべくこの場を去った。

 

 

二日後の午後五時頃に彼は教会に来た。

神の家は、いつになく静かだった。

彼のいる席とは対照的に、この長椅子の最前列にウェーブのかかった赤毛を持つ背の低い人が座っている位で、他には誰もいない。

 今日、カルロとここで会う約束があったのもあるが、あのビルで見捨てた少女が彼の脳裏にちらつき始めてしまい、その罪悪感を祈りによって吐き出したかったのだ。

 自らの悪事が人を不幸にするのに、いい加減耐えられなくなってきた。

 せめてもの救いは、ついぞ名前を知ることができなかったが、あの少年を破滅から救えたことか。

あの時、少年の瞳から憎しみの色が消えていくのを見て取った時、ピエトロは密かに歓喜していた。丁度あの少年の悲痛な叫びによってこの業界に違和感を覚えてより、初めて感じた幸福感だった。

人を救う事の喜びを、彼はあの時に初めて実感したのだ。

 だが、同時にあの少年を妬んでもいた。あの少年はこれから光ある表社会で生活するだろう。死や不幸とは無縁の世界で過ごすのだろう。それはまさに自分が欲する世界なのだ。そこに行く事ができれば、自分も憚ることなく他者を救えるというのに。

如何に罪滅ぼしのためでもあったとは言え、他者に先んじられれば、醜い感情が胸に去来するのも仕方のないこと。

 いつかは自分も到れるのだろうか? あの少年と違い、業界の人間たる自分には死という枷が常につけられているが、それを取り払える日が、いつかは――

「また一人で悩んでおられるのですか?」

彼が暗い絶望に身を潰されるような思いをしていると、それを飲み込んでくれる声をかけられる。これも恒例となりつつある。

「…………シスター、マリア」

ピエトロは、相も変わらず聖母のような笑みを浮かべるシスターの顔を見ると、途端に泣きつきたい衝動に駆られる。彼の精神状態がそれを求めていたというのもあるが、このシスターの纏う全ての苦悩受け入れる姿勢や声がそれを促すのだ。

「外出していたんですか?」

教会の扉を開けて入ってきた彼女に、ピエトロはそう聞いた。

「いえ、少しの間、所用で実家の方にいたのです。ですが、今日は日曜礼拝があって、教会に多くの信者の方々が集まる日です。その後片付けがあると思って手伝いにきたのです。まぁ、遅過ぎたようですけど」

 そう言って彼女は自嘲気味に、小さく舌を出した。

確かに、今はもう前の方の席に一人座っている位で、日曜礼拝、すなわちミサで使われたであろう道具は全て片付けられていた。

「この間は本当にありがとうございました。後、カルロもお世話になっているようで」

 最初、誘拐から救ったことに対して礼を言われたと思い焦ったが、続く言葉であの公園での事を言っていると分かり、安堵した。自身が殺し屋であるなど、彼女には絶対に知られたくない。

「どういたしまして」

「そのお礼、と言うのはおかしいのでしょうが、当教会の院長先生にあなたのお悩みの解決に協力してもらうよう約束して頂きました」

 まさか、自分のためだけにそこまでしてくれたのか。あまりの事に、ピエトロはどう返事をしていいか考えていると――

「ここで、待っていて下さいね」

シスターマリアは、足早に教会の奥へと向かって行った。


暫し黙って懺悔をしていると、二つの足音が聞こえてきたため、ピエトロは頭を上げる。

「ピエトロさん。よろしいですか?」

駆け寄ってきたシスターが言う。そして、礼拝堂の奥からシスターよりも頭一つ分背の高い中年の女性がゆったりと近づいてくる。

近くまで歩み寄り、彼の目の前に立った長身の修道女は、何を言うでもなく、まるで糸でつながっているようにピエトロの青い目を見つめ始めた。

すると、ピエトロの体はバネ仕掛けの様に反射的に立ち上がってしまった。自分だけが座っているのは、失礼であると感じてしまったからなのだが、彼女の持つ緊張感と眼力はそれだけ強かった。見られていると、体全体が麻痺するような感覚すらある。

ピエトロはこの女性に対して、忠義を重んじる騎士を連想した。この女性の持つ雰囲気はそう思わせる程に鋭く、そして思いやりがあったのだ。

「初めまして。私はベアトリーチェ=コルテッラ。このサン・カンチアーナ教会の院長です。…………ピエトロ。あなたの身の上は彼女から聞きました」

院長は持ち前の重みのある声で軽く一礼した後に、手早く自己紹介をした。

 身の上話と聞いて内心逃げ出したくなるピエトロだったが、習慣には逆らえずに彼女を分析する。とりわけ、その不思議な威圧感の根源を推し量るために。

 彼女の声は、聞き始めは重いが、その後は抱えあげてもらう様な浮遊感をも同時に感じさせる。目付きは槍の様に突き刺さるが、それは暴力でもって見る者を暴くというより、その人間の内に宿るあるものを突き刺す感覚だ。この目は、何度か見たことがある。

これは――

「…………辛いでしょうが、私にはあなたを救う助言となると、これしか持っていない。……自首なさい。一度、法の裁きを受けて、その身の悪徳を落とし切りなさい。そして、あなたを縛る仕事のことを公にしなさい」

彼女の口から語られた言葉はあまりに衝撃が強く、分析を強制終了させ、彼の心臓を強く握りしめた。

同時に隣のシスターマリアも、半ば肝を抜かれたように院長を見る。彼女からしても院長の発言は思いも寄らなかったものに違いない。

「……な、何をおっしゃっているのですか? 僕が何をしたと?」

冷静を取り繕うピエトロに対して、真実冷静な院長は厳かに言葉を返す。

「知りません。これは単なる推測です。こちらのシスターマリアから聞いたあなたの話や、あなた自身の特徴を聞いて、そう判断したまでです」

院長は、あっさりとそう言った。何の証拠もなく、彼を犯罪者であると断言したのだ。

「推測だけでそんなことを言ったのですか? し、失礼でしょう」

「そうですよ、院長先生。彼を救って下さるのではなかったのですか? ピエトロさんの心は限りなく善であると、ご自身で仰っていたではありませんか?」

幼い二人は、院長の提案を良しとできず、何が何でも別手段を講じる旨の発言をする。

「……然りです。しかし、あなたが真っ当な人間としてこの社会を生きていくには、犯した悪行は神の赦しではなく、法の裁きで以て正さねばなりません。そして、あなたの心を束縛する現状を打開するにはこうするしかないのです。これによって、あなたは望まぬことを強要されることもなくなるでしょう」

自分の罪を告白し、贖い、業界の存在を公にすることで裏社会との繋がりを断ち切る。

それは彼にとって、他の全てを犠牲にしてでも手に入れたい天から垂れる一本の蜘蛛糸だった。しかし、それに触れることは許されない。触れた瞬間に、周囲の罪人達は、共にその糸をたどろうとするどころか、真っ先に断ち切りにくるのだから。血と恐怖だけで形を成している世界の住人は、別に光も清浄さも求めてはいないのだ。

彼女達に命運を任せるという、険を冒す価値は十分にある。

その結果、この心の重荷は消され、羨望の眼差しで見ていた表社会の生活に、ようやく傍観者としてではなく、当事者として関われる。それはきっと彼に幸福をもたらすだろう。

「私達は、あなたがどんな人間であろうと受け入れます。例えそれが、恐ろしい殺人鬼であろうと。ですが、それではあなた自身が納得できないでしょう。その為に罰は必要なのです。罪を感じるなら、悪事を罪と感じられるあなたなら、何をすべきか分かっているはずです」

「……何のことか、分かりませんね」

しかし、彼は心臓に食い込んだナイフを抉られるような痛みに耐えて、内心とは真逆の言葉を吐き出し、院長とシスターの間を抜けて出口に向かう。

彼の体は院長の意見と、幸福を求める自らの心に、完璧なる拒絶を示した。裁きを恐れて、いち早くここから逃げることを望む。気を抜くと、彼女らを口封じとして殺しかねない程に彼の右手は隠し持ったナイフを抜きたがっている。

「ピエトロさん。待って……」

シスターマリアの手が彼の左手を優しく包み込むが、彼は凶刃を放たんとする手を何とか御して、負の情念を溶かしてくれそうな程温かい彼女の手を丁寧に解く。

一度だけ砂漠のように乾いた笑顔を彼女に送ると、踵を返して扉に手をかけるピエトロ。

そんな彼を――

「あなたの心は、それを望んでいるのですか?」

院長は、たったの一言で、彼をその場に釘付けにした。

「…………」

名を呼ばれたせいか、彼の心は、逃亡の思いで満ちた体を押さえつけて、法の裁きに運命を委ねたいと乞い願う。今ここに至って、彼の心と体は完全に拮抗していた。

「苦しいのでしょう? あなたは、存在自体が非常に不安定です。心と体の質が真逆なのです。それすなわち、心の欲望と体の欲望も真逆になります。心では、あなたは罪を浄化したがっている。だから、巡礼をするようにここに来ているのです。違いますか?」

「…………違いますよ。僕は、ただの信者ですし、罰を受けるような事をしたことはありません。神に誓って」

すらすらと、罰を恐れる体は心を黙らせて調子の良い嘘を並べ立てる。

ピエトロは彼女らに振り返って、信頼の証とでも言うように仮面のような痛々しい笑みを作った。

それを見る二人の目付きが緩む。シスターマリアに至っては両手で口元を覆って、小刻みに震え始めた。

そして――

「ならば、何故泣いているのですか?」

沈鬱気味な声で院長が言った。

「っッ!?」

ピエトロは、咄嗟に手で自分の顔を触れるのだが、無論濡れてなどいない。

その反応は、確実に二人を確信に至らせるものであり、二人の修道女は、見ているこちらがいたたまれなくなる程に、深い慈愛と悲哀の目で、哀れな殺し屋を見つめている。

「…………ご、ご冗談を」

ピエトロはそれだけ漏らすと、怪物から命からがら逃げるような体裁で、扉を開けて外へと逃げ出した。

 


哀れな罪人が神の家から去った後、しばらく二人はその場に立ち尽くしていた。

「…………シスターマリア。手は差し伸べました。後は彼次第です。私は彼が自ら罪を償おうとする時まで、彼の事は沈黙しています」

院長は、あの青年の反応で、予想が的中した事を悟ったらしい。

「…………」

シスターマリアは扉の方を見つめたまま、小さく頷いた。

院長は、礼拝堂奥にある主の像を見上げ、短く祈りを捧げると奥へと戻って行った。

院長が立ち去っていく足音と同時に、こちらに近づいてくる大理石の床を滑る音が聴こえてきて、シスターは何事かと振り向いた。

すると、彼女の目には、静寂と貞淑の空気には全く合わない派手な色彩の服を来て、赤くウェーブのかかったロングヘアの小さな女の子が映った。

「え?」

場の空気と服装の配色のギャップがあまりにも大きく、シスターはぽけっとした顔でその女の子に魅入ってしまった。

先ほど教会の奥から院長を呼んできた時に、彼女が最前列に座っていたのを見かけてはいたのだが、ピエトロとの話が先だったため、じっくりと目を向けなかったのだ。

ふと、女の子は自分を見る二つの目に己のそれを合わせる。

「……ふ~ふ~ふ~」

単純に、その笑顔が可憐だったからというだけではない。視線が交わった瞬間に漏れた鈴の音の様な声、それでいてゴムの様に緩んだ口調の愛らしさ。そして、何よりも少女らしからぬその茶色の瞳の深い輝きに魅せられてしまったのだ。

通り過ぎざまに、少女はさりげない動作で持っていたデジカメでシスターを撮った。

だが、彼女は子供のやることだからと考え、特に気にすることはない。と言うより、少女が横を通り過ぎて、うんうん言いながら教会の重い扉を開けて、外に出て行った後でようやく我に帰ったのだった。

「な、何だったのかしら、あの子?」



待ち構えていたように、夕暮れの光が冷え切った彼を癒す。あれだけ、温かみのある人達だというのに、体が感じたものは恐れを伴う寒気だけだった。

「っはあ、はあ、……ふう」

外に出てようやく気づいたが、教会内にいた時の彼は余程息が詰まっていたらしい。まさか、水中から顔を出した時の様に、空気のありがたみを感じるとは。

閉じた教会の扉に背を預け、胸を押さえて呼吸を整える。

しばらく心を落ち着けてから、我が家に向けて歩を進めた。

「……」

院長は、罪を償えと言った。

だが、彼女は彼が何人殺して、何百回の依頼を受けて悪行を重ねてきたかを知らない。

予想していたとしてもせいぜいが、一人二人程度の殺人に、強盗やら脅迫やら薬の運び人、それぐらいだろうか。表の人間に考えつくとしたらそれが限界だろう。だが、実際はその程度では済まない域に達しており、必然的に償いの方法も苛烈を極めることとなる。

仮に、彼女達がどんな罪に対しても寛容な姿勢を取ってくれたとしても、世間や法はそれを許すまい。極まった悪事を働いた自分に課される罰は、文字通り、刑の極みがふさわしいと判断されるのは簡単に予測がつく。

なのに、彼の心はそれでも良いと、むしろそれこそが正しいのだと、贖罪の考えを曲げる気はなく、彼女達に全てを任せようとした。

しかし、それで心は救われても、待つものは確実なる終わり。それだけは、容認することはできない。

「また姉さんが迷惑かけちゃったかな?」

悶々としたまま、足早に立ち去っている彼の鼓膜に電流が走った。ピエトロは耳の奥に刺激を受けて、はっとして振り返る。

「……どうしたの? 悪魔でも見たような顔して」

そこには、にやりと口を歪めたカルロが立っていた。

今のおどけた言葉、そして、その顔を見ると、ピエトロは心の中を見透かされた様な恐怖を感じた。なまじ、鋭い感性を持つ少年であるだけに、それがただの妄想であると片付けにくい。

「……本当にどうしたのさ?」

茫然として自分を見てくる青年を怪訝そうに見る少年。

「い、いや、大丈夫。別になんでもない」

自然を装ったつもりだったが、どうしても不安定な今の精神状態では、嫌いな相手に礼儀を示さねばならない時の様なぎこちなさが生まれてしまう。事実、ピエトロが無理やり笑みの形にした顔は、喜怒哀楽のどれともつかないものとなってしまっていて、カルロは尚の事、異常性を感じ取ってしまう始末。

「いや、あからさまにおかしいでしょ? やっぱり姉さんや院長先生にお説教喰らってたのが原因? それでいじけているとか?」

「……話を聞いていたのか?」

先ほど背中にぶつけてきた言葉といい、まるで見ていたかのように少年は語る。

もし全て聞いていた場合、彼女らの発言からこの少年までもが、彼に対して態度を改めたり、深く詮索してくるかもしれない。ピエトロは質問しながらも、回答を聞くのを恐れていた。

「まあね、扉越しに盗み聞きしてたよ」

「え?」

ピエトロはぎょっとした。

「……やっぱり気づいてなかったんだね。あんたが教会から飛び出してきて、胸を押さえてる間、僕ずっと横にいたんだよ? 嫌に苦しそうにしてたし、雰囲気違うから声かけられなかったんだけどさ」

それを聞いたピエトロは衝撃を受けた。真隣にいた少年の気配すら読み取れていなかったばかりか、視界にすら入っていなかったとは。最近の自分の油断大敵さにはほとほと呆れさせられる。

「……そ、そうか」

ピエトロは、カルロから目を逸した。具体的にではないが、およそどんな人間かバレたとなったら途端に後ろめたさが生まれてきた。あれほどしっかり自首だの贖罪だのを話していればどんな子供でも、彼の身の上に気付くだろう。

「あんた、何かしたの? ……ああ、もちろん、嫌なら言わなくていいけどさ」

彼の顔を見たカルロは慌ててそう付け加えてきた。シスターに読み取られた時同様、他人の同情を引くような顔を見たためだろう。

この心優しい皮肉屋の姉は、他人の苦悩に敏感で親身になって接し、救うのが生き甲斐であるという慈悲の念に溢れているのだが、詮索好きであるというのが欠点だった。

しかし、目の前の少年は踏み込んできても、相手の反応次第ではあっさり退場する、素早い引きを心得ている。

「…………まあ……色々、悪事を、働いたことが、ある」

視線をあちらこちらに忙しなく泳がせながら、途切れ途切れにピエトロは言葉をしぼりだした。その姿は目の前の少年よりも余程幼いものだった。

ふと、彼は思ったのだ。他者を心底大切にしてくれる彼女達が、自分の罪の程を明言したらどんな反応をしたのだろうか、と。

そして、この少年は姉のシスターを尊敬しているし、そのせいか考え方も彼女に良く似たところがある。故に、彼女らとこの少年の見せる反応は限りなく同じなのではないかと。自らの行いと存在に対する是非を、この少年に見極めてもらおうとしたのだ。

彼の告白を聞いた少年は、多少驚いたように彼を見たが、すぐに元の顔に戻ると、あっさりと言った。

「……そうか」

「……そうかって、それだけか? 僕は……とても悪い事を何十回もしてきたんだが?」

あまりに、あっけない返事と反応だったため、殺し屋は拍子抜けする。彼は、悪事の度を強めて改めて聞く。

「まあ、当然、悪事を働いたんならあんたは間違いなく悪人さ。でも、あんたはそれを後悔してるんでしょ? この前だって、僕らを助けてくれたけど、あれはむしろ善行じゃないの? 姉さんに聞いたけど、ちょくちょく教会に来ては、祈りを捧げてるんでしょ?」

「…………」

まとまりの悪い少年の言葉を、しかし、ピエトロは静聴する。

「……人間、悪人の時もあれば、善人の時もあるんだ。でも、悪事を働いた人だからと言って、その悪い部分だけを見るのは、ダメなことでしょ? だから、あんたも別に完全に悪くないと言うか、何と言うか……」

「…………」

「……それに、あんたはなんだかんだ言って僕らには手を出さないでしょ? 知り合いや善人に迷惑をかけたりはしない性格なんじゃないか? 手を出すとしたら、悪人だけと見た。

 知らないの? それって義賊って言って、良い悪人のことを言うんだよ」

ピエトロは、急に心身が軽くなった気がした。

重ねた罪の汚濁は心に染み付いたままだというのに、先ほどまでとは圧倒的な違いを感じる。

彼が犯罪者であるという事実は覆らない。重ねた罪は一つも清算されてない。しかし、それでもいいように思えてきた。確かに彼は今まで善人にだけは手を出さないようにしてきた。善を害する悪のみを殺めてきた。それは、誇れる悪事と思ってもよいのではないか。

そう思えれば、表社会への後ろめたさも消える。

表の人々との接触に臆することもなくなる。

伊東にやめろと言われている手前、心苦しさはあるが、今後は思い切って表の人間達と付き合って行くのもいいのではないか。

「……そうだ、そうだよ。何を勘違いしていたんだ、僕は」

今思うと、彼は伊東の忠告を重く考えすぎていた。

伊東が表の人間とつき合うなと言ったのは彼が中途半端で未熟な心を持っていたが故だった。ならば、それを完璧に御し、オンとオフの切替えができるならば付き合っても良いということだ。

他の業界の人間だってそうだ。情報屋の人間達だって、普段は表の人間と接する機会の方が多い者もいる。多少特殊だが、あのエルダも多くの一般人と関係を持っているし、副業で探偵をしている位なのだ。

業界のルールでも、抜けるのは厳禁だが、表社会に関わるなというようなものはない。

珍しく、自分が満足できる方向に頭が働く。

善を助け、悪を誅する。

義賊とは良いことを言ってくれた。彼自身もそこまで輝かしい存在と思うほど自惚れてはいないが、それでも自分の行いに胸を痛めることはなくなるだろう。

「…………ちょっとは救われた?」

カルロが言ってきた。

「ああ、君のおかげだよ」

迷いは無くなった。やはり表の人間達は素晴らしい。人はこうして互いに助け合い、救うことで生きるべきなのだと、改めて思った。

「じゃあ、お返しってことで、人間観察のやり方をもっと教えて欲しいね」

その後、二人はこの前と同じように、笑い、語らい、親交を深めながら我が家に帰るべく歩を進めた。

もっとも、どうせいつもの様に寄り道をするのだろうが。

 

 

人目を全く引かない立地の上に建ってしまったがために、閑古鳥に住みつかれてしまったパスタ専門のその店は、ついに分かり切った結末へと至った。

彼は一寸先すら見えてない目をした小太りの店主が、店を閉めるために店先に飾られた花と看板を片付けているのを横目で見ながら通り過ぎる。

そして、彼はその建物の階段を上がり、二階にある探偵事務所に我が物顔で踏み込んだ。

「いよぉ、帰ったぞお。大いに喜び、俺様に酒と飯を持って来い」

「あ、ごっめ~ん。なぁんにも準備してないわ。ざまあないわね」

「相変わらず壮健そうで何よりです。イトウさん」

大柄な体格故、扉をくぐって入ってきたその大男は、しれっとした態度の女性と、笑みが張り付いた中肉中背の男によって出迎えられた。

伊東は酒も飯も無いことには全く落ち込んでない。元より用意されてないことが分かっていたのだろう。それはそれで虚しいのだが。

伊東は来客用の長いソファに無遠慮に寝そべると、事務所の主にコーヒーを頼む。彼女は大きくため息をつくと、革でできた回転椅子から立ち上がって奥のキッチンに向かった。

「ジャン。おめえと会うなんて久しぶりだな」

「ええ、長らくドイツの方にいましたのでね。カルステンは羽振りが良くて、しっかり稼がせてもらいましたよ」

テーブルを挟んで向かいのソファに座っていた人物が応じる。

年齢は三十代後半。背丈は高くなく低くなく、長い茶髪を後ろでまとめた髪型をしていて黒瞳。何が起きても落ち着いて受け入れてしまいそうな温和な笑顔が特徴の男だった。

背広が似合いそうな顔だが、彼の服装は黒革のジャンバーを羽織い、濃い紅色のシャツに、ところどころ破けた灰色のジーパンを履いているという、ギャップが溢れるものだった。

「カルステンって、テロリストのボスじゃなかったか?」

伊東が身を起こして聞く。

「ええ。彼の兵隊への殺人術の指導と、何度かテロ行為を手伝うのが依頼でした。ま、楽なものでしたね」

そう言って苦笑混じりにわざとらしく肩をすくめたその姿は、この人物に合っている。というより、自分のイメージをよく理解した上での計算された仕草だと言った方が正しいかもしれない。

「しかし、イトウさん。エルダさんに樽一杯のカクテルでもプレゼントしたんですか? 飲み物を入れてくれる親切な彼女を初めて見ましたよ」

 ジャンが伊東に顔を近づけて小声で聞く。

「いやぁ、あれだ。たぶんちょっと前、あいつとべろんべろんに酔っ払った時、そのままふらっとホテルに入って、一発ヤったからだな。ごがッッ!」

 その発言を両断する様に、彼女のかかと落としが伊東の頭に振り下ろされた。

「余計な事を言うんじゃないわよ。このレイプ熊」

 エルダが頬を僅かに赤くして言いながらも、コーヒーをテーブルに置く。

「人聞きの悪いことを言うなよ。お前だってノリノリだったじゃねえか。それにあれでも紳士的にしたつもりだぜ俺ぁ」

さほどのダメージではなかったのか、伊東はケロっとしながら出されたコーヒーを飲む。

「ま、まぁ、確かに見かけによらず優し……いや……むぅ」

 クールな彼女にしては珍しく、頬を赤らめながら視線を彷徨わせるエルダだったが、ニヤニヤ笑っているジャンの視線に気づくと二人に背を向けて大袈裟に溜息をついた。

「はぁあ。なんであれ、人生最大の汚点だったわよ。…………それにしても、あんたずいぶん仕事が早かったわね。四日はかかるんじゃなかったの?」

エルダは暫し力無く額を抑えていたが、気持ちを切り替えるためか、伊東に聞いた。

「あ~、襲ってきたマフィアや殺し屋共が一昨日の夜に総攻撃をかけてきてな。殺して殺され、お互いにジリ貧気味になってて結構やばかったが、何とか全員ぶち殺してやったよ。おかげでその夜で追手はほぼ全員始末できたんでな、後は、オープンカーに乗ってても大丈夫な位安全だった」

伊東は、意気揚々と言った。

「一度で兵を使い果たすなど、敵は素人ばかりだったんですね」

ジャンは苦笑しながら言う。

「みたいね。いくらこの熊が相手だからって、一度に攻めて殺せないなんて、雑魚よ雑魚。ましてや戦況がひっくり返って引かないなんて馬鹿よ。そうでしょ、リュウイチ?」

エルダも肩をすくめて、伊東の護衛対象を襲った敵の集団をボロクソに罵った。

「あ、ああ、うん。……そうだな」

同意を求められた伊東は、何故か居心地悪そうに視線を逸しながら言った。

二人は顔を見合わせて伊東の様子を訝る。

その懐疑的な視線に気づいたらしく、伊東はコーヒーを飲み干した後、再びがらりと話題を変えた。

「……ところで、お前らは、次なんだと思う? 俺は中華」

「……私は花屋だと思うけど」

「バーではないですかね?」

急な話題の変更にも、突然の質問にも二人は落ち着いて応じた。

「バーかぁ。それ良いわね。もしそうだったら通いつめて長生きさせてやろうかしら」

余程その回答が気に入ったのか、消沈していたエルダの顔に活気が満ちる。

どうやら、彼らは床の下にある本日限りで空くことになったスペースに、この後どんな店が入るのかを当てようとしているらしい。

しかも、それで賭けまで始め、ベットを言い合い、終いには下の店のパスタの味に文句をつけ始めた。

「……ところで、イトウさん。その左腕はどうしたんです?」

笑顔はそのままに、口調だけは真剣な雰囲気を帯びたジャンが、談笑の途切れた瞬間を突いて目の前の男に聞く。

別段、伊東の姿はいつものだらしのないもので、何も異常があるようには見えないが。

「あ~、バレたか」

伊東は、先ほどと同様にそわそわし始めた。

「……まさか、俺様が弾ぁ喰らうなんてなあ」

伊東は「歳かな?」などとぼやきながら、恥ずかしそうに頭をかく。

彼は別にあからさまに左腕を動かさないようにしていた訳ではないのだが、ジャンは目ざとく気づいたようだ。

「なんと、あなた程の人に弾を当てるとは驚きです。一度その人の顔を見てみたい」

「悪い。ムカついて、その野郎の頭はぶっ飛ばしちまったからもう無い」

が~はっはっは、と続き、一般人が聞いたら反応に困るようなことを言うが、この場の人間にとっては笑いのネタらしく、二人もつられて笑い出す。

「あ、ちなみに弾を喰らったというか、余波を受けただけだぞ。そいつ、すごいんだが、意味分からんクソバカでよ。何故かバレットライフルを片手で撃ってくんだよ。しかもなんでか近距離でな。ギリギリ当たらなかったものの、衝撃で肉が裂けちまったよ、ったく」

その後、伊東は、恥ずかしさを紛らわすためなのか、依頼中の出来事を珍しく饒舌に語る。護衛したマフィアのボスに気に入られて、予定よりも報酬が割増しにされたこと、色々と話のネタに尽きない殺し屋やマフィア達を見たことをひとしきり話した。

「……そういや、今日は、フランはいないのか?」

そして、彼はふと思い出したように事務所をぐるりと見回す。

「フラン?」

聞き慣れない名前に、ジャンは首を傾げる。

「あたしの助手よ、ジャン。今度会わせてあげる。……あの子はまだ尾行中よ。自分が戻るまで続けろと言ったのはあんたでしょ?」

エルダは言いながら、隣にある彼女の書斎兼寝室に入ると、何十枚かの写真と短い報告書を持って戻ってきた。

「写真に写っている子達の詳細と、あの子のおよその行動パターンをまとめといたわ」

「ああ、別にそんな形式ばらなくて良かったんだがな。……フランの仕事っぷりはどうだ? あ、親の贔屓目はなしでな」

伊東はエルダからそれを受け取ると、写真はテーブルの上に無造作にぶちまけ、書類の方に目を通しながら聞いてくる。

「客観的に見ても優秀ね。尾行初日は間違って直接会っちゃったらしいけど、その後は気配に敏感なあの子に一切ばれてないわ。これが一番すごいわよ。夜間の尾行は流石に危ないから、あの子にこっそり護衛をつけといたんだけど、あの子ったら、そいつに気づいたのよ。しつこく追ってくるそいつが怖くて逃げるのに必死だったってさ」

それを聞いた二人の男は盛大に笑いだした。

「くは、くはははははッ。これは傑作だ。大した子ですね」

「が~はっはっはっはっは。そんでもって、ちびっ子に尾行を気づかれたそいつはお仕舞いだな」

「でしょぉ? すぐにクビにしてやったわよ」

そうして、ひとしきり笑った後、伊東が書類を読むのに夢中になり始めたため、場は沈黙した。

エルダが何枚かの写真を拾い上げると、そこには、礼拝堂に座って修道女と語らったり、幼い少年と楽しそうに歩いている金髪の青年の姿が写っていた。

「殺し屋よりも神父にでもなりたいって感じね。かわいい修道女や坊やと一緒にいる時の方が嬉しそうに見えるわ」

彼女は、青年が普段見せないその顔を、半ば遠くを見るような目で見ながら言った。

「イトウさん。ピエトロ君の動向を調べて何をするつもりです?」

話についていけないジャンは、ピエトロと茶髪の少年や優しい微笑をした修道女がそれぞれ写っている写真を眺めながら聞いた。

「…………いやあ、な。野郎が、柄にもなく教会に通ってるって話を本人から聞いてよ。表社会の道徳に毒されてねえか心配になったんだわ」

「教会ですか。ほぉう、シルヴィアさん以外にあんな所に通う輩がいるとは。……確かにいい傾向とは言えないですね。そういえば、この前マルコ君から聞いたところ、彼は業界に合わない人間だと言ってましたしね。そんな彼が表と裏の境界をまたいで生きるのは危険ですよ。彼にとっても、我々にとっても」

ジャンは手をあごに当てて、ピエトロの写真を見ながらそう言った。

彼の内心は、否応なく殺し屋として生きる運命にあるピエトロへの気遣い半分、ピエトロがヘマをして捕まり、業界の存在が公になることの心配半分といったところだろう。

「ジャンの言う通りだわ。あまりピエトロを甘やかさないでね。あの子のことは嫌いじゃないけど。飛び火はごめぷふ」

エルダの顔を書類で軽く叩いて黙らせる伊東。

「分かってるさ。だから、今までもちょくちょく依頼をあいつにまわしてやってたんだ。訓練のためってのと、心が揺れなくなるようにするためにな」

ジャンは、エルダに叩きつけられた書類を伊東の手から引き抜いてペラペラとめくる。

「……ふぅむ、イトウさん。手っ取り早く彼の心をこちら側に定着させたいのであれば、この写真に写っている者達を消せばいいじゃないですか? ピエトロ君も表の人間には不用心に近づかなくなるでしょう」

ジャンはシャボン玉を割るような気軽さと、無機質な笑顔でもってそう言った。しかし、それを非道となじる様な精神正常者はここにはいない。いくら他人に気遣いを見せようが、いくら同業者と楽しく笑いあおうが、結局彼らの求めているものは自分の利益なのだから。

「それは正論ではある。……とにかく、近い内にまたあいつに仕事をさせるとするか」

そう言った伊東の顔は先ほどとはうって変わって、暗い影を纏わせた沈鬱なものとなっていた。



ピエトロは、カルロとの有意義な時間を過ごした事で、意気揚々となりながら帰宅した。全くあの少年には驚かされてばかりだ。ピエトロの悩みを解決した時から、コツを掴んだらしく、観察術の習熟がかなりのレベルまで上がったのだ。

同じ技術を持つ二人は、互いに相手の思考を読み合うという遊びで盛り上がった。父が自分に行っていた訓練を遊びに転じたのは、良いアイデアだったと思う。

ピエトロは、あの幸福な時間を思い出し笑いしながら、玄関の鍵穴に鍵を挿し込むと、扉の下の僅かな隙間から白い手紙包みの角が見えていることに気づいた。

――?――

 白いだけで住所も差出人も書かれていない地味な手紙包み。

ピエトロはそれを拾い上げて家に入ると、リビングのソファに体重を預け、中身を取り出した。

「なッッ!―にッッ!?―!?!?」

 それを見た時、彼は思考回路がショートした。

中に入っていた折られたコピー用紙の真ん中には、簡潔なる一文と、彼の人生のタイムリミットだけが手書きで記されていた。

【殺害対象:カルロ・フォルトゥナーテ 期日:六月十九日】

だが、彼の心を掻き乱す最大の理由は他にある。

内包物がそれだけなら、彼もここまで驚くことはなかっただろう。

「はっ? くッ…う。ば、ばかなッ!? これが、これが残っているはずがないッ!」

 ピエトロは、嗚咽に近い様な不規則な呼吸をし始めた。動悸が高鳴っておさまらない。

 手紙の後ろから伏兵の如く現れたのは、どこぞの路地裏にぶちまけられた死体と、首をだらんと垂らした全身真っ黒の青年と、その青年を今まさに殴りつけようとしている恐ろしい殺人者が映った、一枚の写真だったのだ。

 これがこの世に残っているはずがない。この写真のデータが入っていたはずのメモリーは、二日前にあの少年達から取り返したと同時に破壊した。

「しかも、期日は、明日じゃないか」

この時間制限は、つまり、明日までに対象の殺害に成功しないと、この写真を世間に公表するということだろう。わざわざ手紙を届けてきたということは、家の住所も送り主にバレている。

もし、そんなことをされたら捕まるのは自分だけではない。

この家は、殺し屋稼業で一生を終えた父が建てた物で、父の代から集められた暗殺や戦闘のための道具で溢れている。これが一つでも見つかったら、証拠品として調べられ、業界を支える重要な要素の一つである武器の密輸ルートまで露見する可能性もある。

道具の量はとても一日で処分できるものではない。他にも、頻繁に家に訪れていた伊東や美鈴の指紋も見つかるだろう。巡り巡って斡旋屋のエルダにまで迷惑が及ぶ可能性もある。

また、この手紙には依頼主の名前はともかくとして、連絡先すら書かれていない。これでは、依頼達成の報告をしようがない。逆に考えれば、この送り主は少年の死をいつでも確認できるということだ。おそらく、どこかで自分を監視しているのだろう。

しかし、なんであれ、目的が分からない。

あの少年が死んで得をする者がどこにいるのだろうか。

いや、そもそも――

「……何故、あの子なんだッ!?」

ピエトロは、唐突な無理難題を処理し切れず、送り主の意図が読めず、消えたはずの写真が復活してきた謎が解けず、目に涙を浮かべた。

何より自らの苦悩を取り去った恩人がその標的にされたのだ。。

他者への配慮を忘れない、優しい皮肉屋。

腹の立つ相手にも思いやりを見せられる立派な少年。

いや、なによりも、自分がどんなに悪徳に塗れようとも彼は許すと言ってくれた。

あのシスター達と同じように、万民への愛を持った貴重な存在。

ピエトロは、ここに至ってあの少年の存在が、伊東や美鈴やシスター達と同様に自分の中で大きな存在となって占めていることに気づいた。それが失われたらどうなってしまうのだろう。果たして、ぽっかりと空いたその空間を満たしてくれる人物が今後現れるだろうか?

望みは薄い。ならば、尚更に、そんな大事な友人がいなくなるのは耐えられない。

しかし、殺さなければ自分の所業が暴露されて、法機関か業界に殺される。

それだけはできない。では、少年を殺すのか?

それもできない。殺すのなら自分自身だ。こんな殺人鬼に価値は無い。

では、自分が捕まって伊東達を巻き込むのか?

それもできない。彼らには大恩がある。

ならば、少年を殺すしかない。

それは許されることではない。

ならば――

延々と同じ所を回り続ける無意味な応酬が始まる。

自分を殺して、少年を生かしたいとする心と、少年を殺して生を掴まんとする体が再び彼の中で戦争を開始した。

その時、ピエトロは手紙を見つめた石像になった。涙を流すだけの石の塊と成り果てたのだ。しかし、その中では心と体の欲望同士が崖を侵食する高波の様に、激しくぶつかり合い、削りあって、果ての無いループを繰り返している。

部屋に響くのは、手紙の折り目でできた窪みに溜まった水溜まりに、石像の目から垂れ落ちる雫の音だけとなった。


時間が過ぎ、とうとう涙も枯れて、水溜まりも干からびてくる頃には、外はすっかり日が落ち込み、一日の仕事を終えた人々が醸す夜の賑わいもなくなる時間になっていた。

電気も付いていない薄暗い部屋の中で、石像の中ではようやく僅かな進展があった。

いや、それは進展などではない。終わりのない戦争などおこがましい。それ以前に、あの手紙を見たその時から、彼の答えは既に決まっていたのだ。

ただ、その結論を導き出した自分を直視したくなかっただけなのだ。

答えが出れば、行動に移すのは容易い。

行動に移れば、結果を出すのは容易い。

結果が出れば、この苦痛からも解放される。

――準備をしなければ――

絶望に身も心も削られて虚ろな人形となった彼は、その顔に、その心に、何の人間味も表さぬまま、ゆらりと立ちあがった。



気持ちの良い週明けだった。

昨日はあの青年の身の上話を聞いて、多少ヘビーにもなったものだが、今の彼の気分は良かった。昨日喫茶店で彼が提案した遊びはとても面白かったし、何より、漫画の主人公の様に正義を行った確信と、年配の人間にして憧れの人物を救えたという満足感と自信が、彼を高揚させていた。

彼は昨日、青年の悩みを解決できたのだ。夢遊病者の様に歩いていた青年が、自分の説得によって今日の空模様のように、明るく笑ったのは、大きな感動だった。

彼は朝起きるなり、登校の準備をすませて朝食を取った。

習慣的に食べているパンとスープ、サラダにミルクも一層おいしく感じられる。味をより深く感じられるようになったと言った方が正しいかもしれない。今まで使われていなかった脳の一部分が開花したような感覚。

幼い少年からすると、一歩成長できたような気持ちになって、知らずに口が綻ぶ。

「あら、ありがとね。後はやっておくから、学校に行きなさい」

病弱になった母に負担をかけないために、彼は自分で朝食を作り、食器を洗っていたのだが、今日は調子が良いのか、母は腕まくりをして皿洗いを引き受けた。

「分かった。じゃ、行ってくる」

「いってらっしゃい」

「気をつけて」と一声つけ足した母の見送りを受けて、彼は家を出て行った。

何一つ変わらない、いつもの登校の道を歩いているだけなのだが、妙に感じが違う。まるで、地面に立っていながら建物の屋上を空から見下ろすような感覚がある。

そして、それは人に対しても言えることで、カルロは通り過ぎる人々の顔から、直感的にその胸の内を読み取れる確信があった。確認のために今の心境を聞きたい衝動を抑える。

彼は思う。いずれは姉の様に人を助け、皆から好かれるような仕事がしたいと考えていたが、徹底して姉と同じ道を歩むのも悪くないと。すなわち、神父にでもなって、教会を訪れた人が内に秘めた悩みを解決するのだ。この観察術は、確実にそれの助けになる。

内から沸き上がる幸福感によって、活き活きと中学校に向かっていると、彼は同じ様な年頃の少年と目が合う。

すると、その少年は、僅かに逡巡したように視線をあちらこちらに動かした後、彼に近づいてくる。

「よお、カルロ。おはよう」

「おはよう、ファビオ。……そんなに見たいなら見せてあげてもいいけど?」

「ん? 何の話だ?」

カルロはファビオと呼ばれた少年の目を覗き込むと、唐突にそう言った。対する少年は、当然困惑するしかない。

「まだ、金曜に出された宿題が終わってなくて、僕を頼りたかったんじゃないのか?」

「は~あ? なんで分かった?」

彼の観察は見事に的中したらしく、少年は間の抜けた声を漏らした。

「はは、秘密だ」

彼はその驚いた顔に十分な満足感を得た。人々の内心を見透かせていた感覚に間違いはなかったと確信できたのだから。

「そういや、お前最近妙に鋭いよな? 心でも読めるようになったのか?」

「秘密だってば」

「なんか、宿題よりもそっちの方が気になるぞ。教えろって」

「ダメだ。まだ教えられない」

カルロは小走りで、しつこく聞いてくる友人から逃げ出した。

「おい、待てよ。いいじゃないか」

いずれは教えてあげようとは思っている。だが、それは自分が十分に観察術を身につけ、あの青年からもっと詳しく教わってからのこと。今友人に教えて万が一簡単に身につけられたら悔しいからだ。

「あはは、いつかは教えてあげ、うわッ」

カルロは追ってくる友人を見ていたせいで、前から歩いている人に気付かず、どすんとぶつかり、大きく体勢を崩す。

しかし、少年は尻もちをつくことはなかった。

ぶつかられたその初老の男性が、倒れかけた彼の腕を茶色の革手袋をした手で掴んでくれたのだ。

「…………あ、ありがとうございます。後、すみませんでした」

腕を握られたまま、カルロは心底申し訳なさそうに言った。なまじ、先ほどまでは有頂天だった分、今の失態による心へのダメージは大きかった。

対する老人は特に何も言わずに、少年の顔を見つめる。

当然、カルロも老人の目を見返す。

年は、六十代後半と思われる。鼻下とあごの周りに髭を蓄え、ハットをかぶり、服装はシャーロック・ホームズのようだと思った。黒のコートを着て品の良い灰色の紳士服を着ている。コート以外は灰色でまとめられた中性的な印象の人物だった。持っている物は、ステッキや懐中時計ではなく、革の鞄が一つだけ。

しかし、とカルロは思う。

何か違和感がある。観察術を教わってなければ、気がつかなかった様な差異。

まるで、時間が弄られたような感じ。何も語らずとも、その老人は体全体で以て、嘘をついているような気がしたのだ。

老人は思い出したように、掴んでいた少年の腕を僅かに強く握ると、その後あっさりと離して何事も無かったように去っていった。

「カルロ、大丈夫か?」

しばし、離れた所で様子を見ていたファビオが心配して近づいてくる。

「…………あの人、どこかで……」

「何だ? 会ったことあるのか?」

ファビオの言葉に首を降って否定するカルロは、老人の去っていった方を振り向くが、人混みも少ない通りだというのに、既にその姿はどこにも見当たらなかった。

彼は、初老の男性と似たような男を霞がかかった記憶の中から引っ張りだそうとしたのだが、思い出せない。いや、該当する人物はいるのだ。だが、全くあの青年とは外見も、何より雰囲気が結びつかない。あの初老の男性からは、暖かい雰囲気とは縁遠い、鉄が持つ冷たさを感じたのだ。

それに――

「…………この季節に手袋?」

そこが引っかかるが、そういう人もいるのだろうと、持ち前の寛容さから納得した。

カルロは、印象的な老人に握られたせいか、ピリピリと痺れ始めた自らの腕に違和感を覚えながらも、再び友人と共に学校へと歩を進めた。



強い欲求を満たした後は、途端に現実が良く見えるようになる。

意気揚々と自分に対してご褒美を与えている間は、どうしても自らの所業の重大性に気づかないものだ。それが善行であれば問題はないだろう。しかし、悪行であるとそれは大抵取り返しのつかない事態へと発展するから質が悪い。

今回のように、つい小さな生命を奪ってしまっても、その行為の是非を正確に把握できるのは、全てが終わった後なのだ。

起きてしまったことは戻らない。

犯してしまった罪は罰無くして消えることはない。

だから、その初老の男性は、我に帰った後に反射的に教会に来た。

昨夜、結局悪逆なる肉体によって、少年を生かそうとする心は完全に抑えつけられてしまったのだ。

そして、その拘束は、あの時少年の腕を握った瞬間にようやく解放された。

幼い生命の終わりをもって、彼の体はようやく満足した。

皮肉なことに、この罪に対する後悔の念を一身に受けているのは、事を起こした元凶である肉体ではなく心の方だったが。

彼は教会に来ていつもの席に座っていた。ぐったりと長椅子に体重を預けて何時間過ぎただろうか。紳士のような出で立ち故に、そのだらしのない体裁は非常に目立つのだが、周りの目など、気にしていないのかもしれない。気にするが故の変装だというのに。

涙は不思議と出なかった。いや、出すべきではないと思ったのかもしれない。自らが望んでしたことを今になって悔いるのは、少年に対する極まった侮辱のように思えたのだ。

善行を行う悪人どころか、悪行を行ったことすらない善人を手にかけたことで、義賊もどきという自己暗示は彼の中から消え失せた。というよりも二度とそんなものは形成できなくなった。

気を抜けば、頭を撃ち抜きかねない程の自責。だが、それを行動に移して死なれては困る体は、その自殺行為を実行させてくれない。そのため、自らの醜さに対する怒りが、自分の肉体を痛めつけるべく極めて暴力的に荒れるのだが、その思いは心から出せないために、渦巻く自己破壊の願望は心自体を掻き乱し、引き裂いていた。

心から自責を解放すれば自らを殺す。解放しなければ自責は晴れず、心をズタズタに掻き回す。永劫に続く無限地獄。

だが、それは自らが背負うべき罰だと観念した。いつか死ぬその時まで、苦しみ続けるのが少年の生命を奪った代償なのだ。

だからこそ、彼は、いつもの様に祈ることはしなかった。神に赦しをもらうことを永久に拒否したのだ。

「マリアちゃん。あなたのおかげで変に落ち込むこともなくなったわ。ありがとうね」

「本当に、悩みを解いてくれて感謝します。シスター」

「お礼と言ってはなんだけど、今度僕とお茶でもどう?」

 聖母の様な修道女を囲む老若男女の声が堂内に響く。

「ええ!? わ、私は主に仕える身ですので、そのぅ――」

神の御家でナンパする青年に、シスターマリアは赤面しながら顔を伏せた。

「あっはは、イエス様越えなきゃダメってことだよん」

「ハードル高いよッ!」

人々の笑い声が響く。

今になってようやく気づいたが、静謐なはずの神の家はいつになく騒がしかった。

椅子の背に乗せていた頭を起こして、騒ぎの源を見やる。

「…………」

彼のその視線はすぐに羨望の眼差しへと変わる。

彼は、彼女達シスターの姿をいつにも増して美しいと思った。何の打算もなく、悪意もなく人々に囲まれて笑いあえる。そんな彼女達が綺麗でもあり、羨ましくもあった。

しかし、同時に不安も沸き上がる。自分が、人として歩くべきレールを大きく踏み外しているという疎外感を改めて直視させられた。

それから逃げるために、咄嗟に彼は目を閉じた。

伊東の言っていた通りだった。これ以上表の人間を見ていると、眩しさに目を焼かれかねない。表の人間を手にかけたためか、彼女らと自分との確定的な差が身に染みる。

そう思った瞬間、彼は気づいた。

今自分がここにいること事態が、次の犠牲者を生み出すことになりかねないことを。

少年が何故狙われたのかはわからないが、それでも自分がきっかけとなってしまったことぐらいは分かる。関わりさえしなければ、あの優しい皮肉屋は非道な死を押し付けられることはなかったろう。

あの時の伊東の忠告にはこういった意味合いもあったのかもしれない。表の人間との付き合いは危険を伴う。自分にとっても、相手にとっても。

「……何かお悩みでも?」

と、これも何度目になるのだろうか。

唐突に注目の的であった聖母の様な印象の修道女が彼の所に近づいてきた。いつものように。いつもの聞き方で。

しかし、老人はそれに答えず、変装道具を入れた革の鞄を持ち上げて足早に立ち去ろうとする。

これ以上関わると、手紙の送り主は彼女まで殺害対象にしかねない。やはり理由は分からないが、少年が狙われた以上、姉である彼女にまで被害が及ぶ可能性は極めて高い。

「あの、待って下さい。どうなさったのです?」

シスターマリアは老人に声をかける。そして、やはり足を止めてしまう老人。

これだ。この声なのだ。

どんなに強く決意をしても、このシスターはひもの結び目を解く様に柔らかく、しかし確実に相手の心をこじ開ける。

 老人は改めて思った。

この他人の不幸や悩みを飲み込んで、苦しみを和らげてくれる声が、自分が無意識にもここに通いつめてしまう理由の一つだったと。

実際、彼女の教えや助言が彼の役に立った試しは無かった。彼女と話す度に安堵は得られるものの、彼女と自身との摩擦に自らの心がすり切れているのも分かっていた。

そして、祈るだけなら、他の教会でもできた。

それをわざわざ、この教会で祈りを捧げていたのは、内心でこの声を聞きたかったからなのだろう。でなければ、心の殻を剥がされて、正体がバレるような危険を犯してまでここには来なかったに違いない。

「当教会には初めていらして下さった方ですね? 悩みがあるなら聞かせて下さい。私は未熟者ですが、口に出すだけでも楽になるものですよ」

驚いたことに、シスターマリアはこの教会に訪れた人間の顔を全て記憶しているらしい。

そして、ここに来たからには何が何でも満足して帰ってもらおうと考えているのだろう。

それが例えどんな極悪人であったとしても。カルロがそうしてくれたように、己の残虐にして卑劣なる行いを全て暴露したとしても。

「…………」

だが、だからこそ無言で彼は立ち去る。

「あ、あの、お顔を見れば分かります。そんな苦悩を背負ったままでよろしいのですか?」

彼女は問い続けるが、しかし、今度こそ彼は足を止めない。彼が教会の扉を開け、いざ外に出ようとしたその時だった。

「シスターマリアッ」

先の温かな談笑とは真逆な質を持った声が教会内に響き渡り、その声を聞く者の肩に見えない重みがかかる。

この場に居合わせた者は、例外なくその声の持ち主を注視する。

「院長先生。どうされました?」

院長の声にただならぬものを感じ取ったのか、そこにいたアンジェリカや修道女達は真剣な顔つきになって聞き返す。

院長は彼の真後ろにいたシスターに足早に近づいてきて、耳元で何やら告げている。

「……カ、カルロがッ!?」

その地面が突如消えて、落ちていくような絶望に満ちたシスターの声を、彼は永遠に忘れないだろう。

「急いで病院に行きましょう」

院長はシスターと共に扉の前に立っていた彼の横を通り過ぎていった。その際に見えた焦りと悲しみが混じり合った彼女の横顔が、彼の脳裏に写真のように記憶される。

しばらくして、黒のセダンが教会のそばにある駐車場から出て行った。院長が直接シスターを送ったらしい。

老人は、しばらく小さくなっていくセダンを見ていたが、それが見えなくなると、この御家の主の方を振り向いた後に音もなく去っていった。



ピエトロは家のリビングで、うなだれていた。

着ていたハットや付け髭に、灰色の服は床に脱ぎ捨てられ、普段着に戻していた。

更に、普段着ている武器や防弾鉄板が仕込まれた愛用のコートを脱ぎ、いつも脇に装備していた拳銃のホルスターも外してテーブルの上に置かれていた。

そして、テーブルの上に無造作に放られた装備や衣服の中で、唯一原型を留めない程に破壊された物があり、それは、通りの裏路地で形を失ったあの女の様に、バラバラに引き裂かれて、止めと言わんばかりにナイフが突き立てられている。

それは、倒れかけた少年の腕を掴んで助けたはずの、あの茶色の革手袋だった。

これは、当然防寒の道具ではなく、手のひら各所に極細の短い針が付いている特殊な暗殺道具であり、その針には一握りで確実に死に至らしめる程強い毒が塗られていた。

最近医療でも使われている、刺されてもほとんど痛みを感じない細さを持つ注射針を改良したものである。これは、本来子供が痛みを感じないように注射ができる目的で製造されたという心温まるエピソードを持っていたが、一度裏の世界に入ってくれば持っていた尊厳を簡単に踏み躙られる。

情けない八つ当たりなのは分かっていたが、胸の内の赤黒く粘つく泥の渦はこうでもしないとおさまらなかった。

一つの犠牲を払い、こうして休んでいると、精神的な苦痛が尋常ではないことが分かる。それは体にまで波及し、体の端々が熱さと寒さをひっ切りなしに繰り返しているように痛み、脳は頭蓋骨を上回る大きさに膨れ上がったように、キツく締め付けられる。

少年に死を与えたという事に対する罪の意識もあるが、あの少年の死が姉の心を抉ってしまうということに、ついぞ気づかなかった罪もある。

「何が、彼女には危害を加えないように、だ。クソッ」

カルロを巻き込んだ以上、シスターマリアをはじめとして、他の表の人間は巻き込まないように配慮していくつもりだった。しかし、彼の行う予定だったせめてもの善行は、既に行った悪行の余波を受けてしまっていたのだ。

親の死を嘆き悲しむ少年の声が蘇ってくる。彼を救えたあの夜以来、耳にすることはなかったのだが――

「うぐうぅぅうッ」

耳の奥が疼く。塞いでも塞いでも鼓膜は勝手に震えてあの少年の声を再生する。

テーブルに刺さっているナイフを引き抜いて自らの右耳に突く。……もちろん、刺さらない。罪など感じぬ体が自傷すら許してくれない。

「ああああッっ」

苛立ちのあまりナイフを放り投げ、溜息をつきながら、うなだれていた頭を上げた。

そこで、視界に入ってくるテーブルの上にある白い物。

藁に縋るような体裁でそれを取るべく伸ばした手は、しかし途中でピタリと止まる。

「……っ」

彼は、もはや遺品と成り果てた、白く長いそのタオルから骨に染みる程の冷気を感じた。

「触れるな」と、お前には最早僅かな温かみも与えないと、泣き濡れた心を拭くために自分を使うなと、そう言っているように感じたのだ。

だが、もちろん感じただけだ。いざ我に帰ると冷気など感じないし、それは物言わぬただの物だ。だが、いっそ本当に冷気が出ていたら、それを抱いてこの身を凍てつかせ、砕け散ることができたろうに――

「ああ、ダメだ。落ち着けッ。考えるなッ」

声を上げて自分に言い聞かせる。

――一度休まないとダメだ――

そう思うも、心労と自責の念で眠れないのも事実。

彼は腰を上げてズタズタの手袋をゴミ箱に捨てた後、伊東に飲みに付き合わされる時以外は出番のないワインを棚から取り出した。

元は父が集めていた物で、美鈴が言うところに寄るとかなり高い酒が揃っているらしい。本来なら寝酒に飲むには惜しいものばかりなのだろう。だが、この声と罪悪感から解放されるならいくら飲んでも構うまい。

「……ああ、リュウイチ……メイリンさん」

二人が恋しくなってきた。あの男の快活で豪快な笑いや、優しく受け止めてくれる彼女の笑顔が欲しくなってきた。

宣言通りならば、伊東の方は今夜には帰ってくるはずなのだが、彼はまだ家を訪れない。明日、エルダに彼が依頼を終えて帰ってきたかどうか聞こうと彼は考えながら、適当に目についたボトルを取り、ワイングラスを持って寝室に向かおうとした。

その時だった。

「……だ、誰だ!? こんな時間に?」

彼は、心臓が張り裂けそうな恐怖にさらされたが、仕方の無いことである。それは、今の彼には死の宣告のようであった。

この時間帯は、交友の無い彼の家には、ほとんど人は訪れない。

だというのに、何故インターフォンが鳴ったのか?

伊東なら荒くノックをするか、キーピックでこじ開けて勝手に入ってくる。美鈴ならインターフォンを嫌に連打してくる特徴があるからすぐ分かる。エルダは基本的に事務所以外では人と会わない。

となると、相手は誰なのか? 誰であれ一般人であるわけがない。

ピエトロはテーブルにワインとグラスを置いて、全く無駄の無い動作で素早くホルスターを装備し、コートを羽織った。

音を立てないように玄関に向かい、のぞき穴から外を見る。

「……は?」

そこにいた人物を見た瞬間、思わず鍵を外して扉を開けた。

予想の内に入ることのなかった人物がそこに立っていた。

「……シスター、マリア!?」

驚愕したままのピエトロの問いには答えず、その目から絶えず涙を流していたシスターマリアは、ピエトロの胸に泣きついてきた。

「カ、カルッ、ロと、母がっ、死んっ、死んだ、の」

それを聞いた瞬間、頭半分背の低い彼女を半ば反射的に抱きしめてしまった。

己のしでかした事が、彼女をこんなにも悲しめてしまったのだから、彼女を癒すのも自分の役目なのだと思ったのかもしれない。

もっとも、彼は表の人間の癒し方など知らない。それはこの十八年間で一度足りとも教わらなかったし、しないように父や伊東達から注意を受けながら生きてきたのだから。

「と、とりあえず、中に入って下さい」

家に面した通りに幸い人影は無いが、修道服を着た女が、夜間に男と会っていたところを見られたら、おかしな噂が流れると思ったのだ。

ピエトロは泣き濡れるシスターマリアを家に招き入れた。



夜間外出するには幼すぎる、そして格好故に目立ちすぎるミッソーニの服を着て、髪型を金髪左サイドのポニーテールにした少女が、存在を全く認知されないその建物に入っていった。

ステップでもしそうな気軽さで階段を上がると、二階にあるドアを開けた。

「あ~、リューチだ~」

探偵事務所に入ったフランがソファに座る伊東の巨体を見つけると、すぐさま彼に飛びついていった。

しかし、伊東の膝に座った後は、彼に見向きもせずにガラステーブルの上にあったピザを食べ始めるあたり、本当のところどちらに興味があったのか。

しかし、それでもなお、伊東は少女の関心が自分にあると思っているようで――

「が~っはっはっはっは。俺も好かれたもんだな。よし、フラン、今日こそはホテルに……だから冗談だってエルダ。マジにとんなよ。てか、M一八六一とは渋いなぁ、おい」

と、ついついフランを妖しいデートに誘うのだが、机の引き出しから取り出した古風な拳銃の撃鉄を起こしたエルダの無言の主張によって、撤回されることになる。

「フラン。マルコへの連絡伝達が済んだところで悪いけど、まだもう一つのお仕事は終わってないのよ。食べる前にその椅子にしてる畜生に報告を済ませなさい」

エルダはデコックした銃をゴトリとテーブルの上に置くと、一変して優しい笑顔になってフランに指示した。

「む、む……これ~」

フランは慌ててピザを飲み込んだ後、ポーチに入れていたデジカメを伊東に渡した。

「ああいや、フラン。写真もいいが、あいつを見たお前の感想が聞きたいんだが」

写真を渡して仕事が終わりと思っていたフランは、再びピザに手を伸ばしていたのだが、引っ込めて首を傾げながら率直な意見を述べる。

「ん~、この前、何とか通りで仕事をした後からすごく恐がってた~。でも最近はすごく嬉しそうだったりしてた~」

「あ、あぁ? 何とか通りの仕事?」

 伊東が渋い顔で聞き返す。

「ほら、ケルネ通りで女を殺す仕事。あんたの仕事と同じタイミングであの子に任せたやつよ。フランの言う通り、あの仕事の後は何かおかしかったわね。珍しく仕事を終えた後の完了の報告を忘れてたり、あの依頼をしていた時に同じ通りで仕事をしていた殺し屋はいたか、とか聞いて来たり。何より、ピエトロの依頼主とその後連絡が取れなくなったことね。おかげであの子に払う残り半分の報酬をまだ受け取れてないのよ」

彼の疑問はエルダによってすぐに解消されたが、その補足は伊東の頭に新たなる疑問を浮かばせることになった。

ともあれ、とにかく全ての情報を盤上に並べようと考えたらしく、伊東はフランに続きを促す。

「ん~、昨日は教会のお姉さんとおばさんと何か喋ってたかな~? その後、茶髪のお兄さんと楽しそうに喋ってた。後は~、ピエトロが家に落ちてた手紙を拾って~、それで、今日はおじさんに変装して、茶髪のお兄さんとぶつかって、教会に行った後、家に帰ってた」

余程好きなのか、喋り終わると再びフランはピザをほおばり始めた。

流石の伊東も、少女のまとまりが悪く、曖昧な話には頭を抱えた。

元々、幼いフランをピエトロの動向調査に使うことで、彼女特有の鋭い着目点とまだ裏社会に浸ってないが故に偏ってもいない、純粋な客観的意見を聞くのが目的の一つだった。

エルダもフランに経験をさせたいという考えと利害が一致し、快諾してくれた。

しかも、何故かフランには気配がないため、視線や殺気に敏感なピエトロにも簡単に近づけるのだ。生半可な者ではすぐにバレてしまっていただろう。

心が壊れた人間は、欲や興味を持たなくなるため、気配もなくなるということを伊東は知っていたが、この少女は普通に喜怒哀楽を示す。

もしかすると、極端な死の恐怖にさらされたことで、幼い心のどこか一部分だけが壊れてしまったのかもしれない。赤の他人である伊東やエルダに一切の抵抗なく懐くという行動からもそれが伺える。

だが、どんなに賢かろうが、尾行調査をこんな幼い少女にやらせるのは土台無理な話。それ故、尾行はできても観察は杜撰となることは一応予想していたのだが、彼の認識はまだまだ甘かった。

伊東は、フランに何度も確認を取り、エルダと立てた推測や事実情報を聞きながら、ここ数日のピエトロの動向をなんとかまとめあげた。

「しかし、なんというか、直接本人に聞けばいいのに。この調査する意味あったの?」

エルダが嘆息と共に煙草の煙を吐き出す。

「ま、色々あってな。意味だってあるさ」

「それは興味深いですね」

 そう言いながら、細長いバッグを背負ったジャンが事務所の扉を開いて入ってきた。

「あら、もう殺してきたの? 流石ね」

 エルダが報酬の入った包みをジャンに渡した。

「あの政治家、なかなか良い護衛を連れていましたが、遠距離狙撃に対応するのは不得手だったようですね」

ジャンは伊東の反対側にあるソファに座りながら、バッグを指で叩いた。ということは、その中身はライフル銃だろう。

「さて、続きを聞かせて下さいよ、イトウさん。っと、君がフランだね? 私はジャンだ。よろしく」

ジャンは伊東の前に座ってから、ようやく伊東の片膝に座っているフランに気づいたようで、持ち前の軽さでもって手を差し伸べてくる。

フランは、気がきく性格故か、ピザを食べていてついた手の汚れをティッシュできちんと落としてから握手に応じた。

「フランだよ。よろしくね~、ジャン」

手軽く自己紹介を済ませた後、ジャンはいよいよ聞く体勢に入ったようで、改めて座りなおした。エルダも執務机の縁に腰かけて、静聴する。

「おめえらを信用して言うぞ。……実はな。ピエトロは最近になって、業界でやってくのが心底嫌になったらしい。昨日も言ったが、そうならねえように俺が前から多くの仕事をやらせて馴染むようにしてたが、どうも無理そうだと思い始めた。

だから、俺はピエトロからその話を聞いた夜からフランに奴の尾行を頼んだんだ。あいつは俺と喋ってても気を使って本音を言わねぇことが多い。そして、俺は表の人間に関わるなと言っておいたんだが、このザマだ。珍しく俺の言う事を聞きやがらねえ。だから、こっそりあいつの動向を調べて本当は何をしたいのか知りたかったんだ。

ついでに、フランに尾行させれば、奴の動きはエルダ、お前にも入る。そうすりゃ、もしあいつが、裏社会に耐え切れなくなって警察に駆け込むような馬鹿をしようとしても、おめえなら穏便に止めてくれただろう?」

伊東はエルダへの信頼の気持ちを吐露しつつ、この依頼の本質的な意味を語った。しかし、それを聞くエルダは背筋が凍る思いをせずにはいられなかった。

「そう。つまり、私を体良く利用して、いざと言う時のストッパーにしたかったわけね。ま、結局あの子はそこまでの馬鹿をしなかった訳だけど。

でも、あの子がそこまで嫌ってるのはマズイじゃない。業界を裏切る可能性だってあるわ。そしたら私もなりふり構っていられない。殺し屋をあの子の元に送ることだって考えるわ」

落ち着いた口調ではあるが、明らかに重大な情報を隠していた伊東への非難の色を帯びていた。

「……ま、心配するな。おめえらに迷惑かけねえように、あいつをどうにかする方法は考えてある」

「それは、私が提案した、親しくなった表の人間を殺していくというものですか?」

ジャンは、そのジェスチャーでなにを伝えたかったのか、人差し指をクルクル回しながら聞いた。

しかし、伊東は手を振ってそれを否定する。

「んなことはしねぇよ。俺が無差別殺人嫌いなのは知ってんだろうが? それに、誰かのでかい利益に絡まねえ殺人は犯人が絞れなくて、却って警察の連中を躍起にさせる危険性もあるんだ。ただでさえ警官の多い国だし、大挙して調べられたら堪らんぞ」

「上層部はマフィアの賄賂で腐った連中ばかりですから問題ないと思いますがね。あぁ、コロンビアマフィア達を見習って、警察署にいる幹部達を狙撃で皆殺しにしますか? 恐れをなして警察を全員辞職に追いやることもできるかもしれませんよ?」

「やめてよ。下手に刺激してカラビニエリとかが出てきたら動きにくくなるし、この辺りでそれができる狙撃手はあなた位のものよ。すぐに捜査線上に名前が上がっちゃうわ。ま、連中があなたの情報をつかんでたらの話だけど」

「それに、警察とマフィアと業界の均衡は崩さない方がいい。あらゆる事は三すくみにするのがベストだ。マフィアと癒着してる幹部を殺したらそっちからも睨まれるしな」

「では、イトウさん。あなたの方法というのは?」

伊東に視線が集まる。つられたのかフランまで彼を見つめてくる。

伊東はしばし気の抜けたビールを飲んでしまった時の様な渋い顔をするが、やがて間近で見つめてくる純粋無垢な視線から逃げるためなのか、彼女を持ち上げてソファに降ろすとのそりと立ち上がった。

「……そいつは秘密だ。気が向いたら教えてやるさ」

そう言って、伊東は煙草に火をつけた。

二人は、それ以上何も言っては来なかったが、伊東の考えが完全に分からない状態故に、納得はしていないようだった。場合によっては、自分達の首を締めかねない青年を守護している伊東を快く思えないのは当然である。

伊東は流石に二人の不満に気づいたようだが、彼の対応策は余程秘匿されるべきものであるのか、それについては言及せずに話を変えた。

「とにかくだ。ピエトロに誰かから手紙が届けられたらしい。こいつはどうも臭うし、フラン曰く、ピエトロは最近何かに怯えているそうだ。どっかの誰かさんに弱み握られて脅迫されてんのかもしれん。ちょっと聞いてくる」

「ちょっと、リュウイチ。さっき来た依頼を済ませるのが先でしょう? 今すぐヴェイラ港に向かって」

 伊東は即座に立ち去ろうとしたが、エルダに止められる。

 実は、フランやジャンが来る少し前にここを訪れた伊東は、ちょうど彼宛ての依頼が来たため、仕事を任されることになった。

エルダとしては、怪我を負って万全ではない彼に任せたくはなかったのだが、依頼主の指名では従わざるを得ない。もちろん伊東に拒否権はあるのだが、彼はこれを受けた。金が欲しいのか、依頼主の信用を得たいのか、真意は分からないが。

「あ~、そうだった。……今になったら嫌になってきちまったな、この依頼」

「キャンセルするには遅すぎたわね。

後、この前港付近で爆弾が爆発した事件があって、あの辺り一帯の警備が厳重になってるから、ちょっと騒いだだけでポリがすっとんでくるわ。気をつけて」

「爆弾テロ!? まだそんなことやってるアホがいたんだな」

「……理由を聞いたら更にアホらしくなるわよ。あんたが殺した警察官のエンリコっていたじゃない。あいつを殺されたことに対するマフィアからの意趣返しなのよ。どこから嗅ぎつけたのか、依頼人の家族が吹っ飛んだわ」

「おぉ~ヤダヤダ。やってはやり返され、なんて犬でもしねえよ。ま、とにかく了解」

伊東は手をひらひら振りながら出ていくが、エルダは言葉を続ける。

「……あ、ねぇ、リュウイチ。そういえば、あなた最近ハイエナに気に入られてるようだけど、あんな連中と仲良くなったの?」

 それを聞いた伊東は、ぎろりと目を剥いてエルダを見た。

「い、一ヶ月前から、ハイエナからあなたへの依頼数がかなり多いから気になったのよ」

伊東の唐突な怒気に気圧されながら言うエルダ。もちろん、それはエルダに向けた威圧ではなく余波にすぎない。それでも彼女は鳥肌の立つ寒気に襲われる。

「……ああ、ちょっと借りを作った。おかげで儲けさせてもらってる。じゃ、めんどくせえが行ってくるわ」

伊東は一転して口の端を吊り上げて笑うと事務所から出て行った。

「……しかし、あの男の物好きにも困ったもんだわ」

彼が去った後、しばらく続いていた静寂をエルダが煙草を灰皿に押し付けながら破った。

「まぁ、イトウさんがピエトロ君に甘いのは今に始まったことではないじゃないですか」

殺し屋としての精神が不安定になっているらしいピエトロの今後の動きを恐れてか、エルダは苛立たしげな表情をしているのだが、ジャンは切り替えが早いのかいつもの笑みを取り戻していた。

「あたしは、裏切り者を始末しなくちゃいけない。それに加担してる奴もね。そこんところをもっと考えて欲しいわ」

それは誰に対する呟きだったのか、エルダは新しく煙草を取り出して火をつけると、大袈裟な溜息をつきながら書斎兼寝室に入っていってしまった。

若干乱暴に閉められたドアの方に男と少女は目をやった後、二人はテーブルに視線を落とした。

「う~ん、しかし彼はどうするつもりなのか。やはり、不用意に表の人間に関わるとその人達を巻き込むことを教えるために、このシスターや少年を殺した方がいいと思うんだが」

ジャンはそこから離れられないらしく、テーブルの上にある写真に映る、シスターと茶髪の少年をとんとんと交互に指で指す。

「え~? ジャン~、この人は表の人じゃないよ~」

フランは、写真の人物を指さしながら、そこで意外なことを口にした。

「なんだって? この子が一般人ではないと?」

流石のジャンも笑みを消して聞き返した。

「うん。一度会ったんだけどね~。ピエトロと同じ感じがしたもん」

ジャンは、再び笑みを戻した。

それは普段の笑顔の仮面を付け直したわけではない。彼の本心からの破顔一笑といった感じだった。

「ほう、ピエトロ君と同じ感じとは?」

「嫌々生きてるところ~かな~? でも、落ち込んでるピエトロとおしゃべりしてる時はすごく楽しそうだった」

男は、その言葉の意味するところを十分に吟味した後に、自らの歓喜を表現したのか大きく手を打ち鳴らした。

少女の言葉が本当ならば自分達はそもそも根底から見誤っていたことになる。

ピエトロは縋る相手を間違えていたということだ。彼は表社会の蝋燭の火の如く温かい光に触れたと思っていたようだが、それは自らを焼きかねない地獄の業火だった。それに気付かず、彼の身はゆっくりと焼かれ、爛れていっている。

その皮肉がジャンのツボに入ったらしく、くくっと喉で笑いながら胸の前で嫌味たらしく十字を切った。

騙されていた純真なピエトロへの憐れみ二割、観察眼に優れるピエトロを欺き続けたその人物への賞賛八割を込めて、邪なる祈りを捧げた。



彼女を家に招き入れ、玄関のドアを閉じた瞬間、ピエトロは恐怖とも畏怖とも取れぬ猛烈な違和感を感じた。その覚えのある感覚に身を凍らせたピエトロのショックは、あの声も全身の痛みすらも忘却の彼方へと追いやる程に強いものだった。

それ以前に、何故この気配に今ここで包まれているのか?

いや、分かる。呆れる程に明瞭に。思考をするまでもなくしっかりと。

それを分かろうとしていないだけだ。ここであの怖気を感じたということが、彼を悩ませていた謎を解明するに至ったのだが、断じて喜ぶことはできない。

処理しきれない感情、理解しきれない状況が彼の精神を痛めつける。

「……リビングに入って、かけていて下さい」

玄関のドアに鍵をかけた体勢のまま視線も向けずに彼女を促す。それは、絞り出したような弱々しい声だった。

「……僕だって泣きたいさ。……信じていたのに」

しゃくり上げながらリビングに入っていった彼女に彼は呟く。ピエトロは玄関の戸に自分の頭を押し付け、頭痛に耐えるように眉を寄せ、強く目を瞑る。

何故初めて会ったときに分からなかったのか。自分の分析をすり抜ける者は今までいなかったという自信が、油断に繋がったのかもしれない。

しかし、そんな事は問題ではない。この心を啄まれるような痛みと喪失感に比べれば、何ということはない。

信頼を裏切られたことに対する孤独感。差し伸べられていた救いの手を引っ込められた絶望。彼が見つけた銀の蜘蛛糸は、他の罪人を蹴落とさずとも、極楽一歩手前に差し掛かると、自動的に切れる仕組みがなされていたようだ。

ピエトロはゆっくりと目を開けた。もう今までと同じようには接することはできない。

彼は気持ちを切り替える。受けてきた笑顔も、心からの憐憫も、地獄から脱するための導きも、全ては虚構に過ぎなかったのだ。

ピエトロは自分の装備を再確認し、彼女の後を追った。

「……カルロとお母さんが亡くなった、と?」

ピエトロは、上品にソファに座っているシスターマリアから少し離れたところに立って、話を切り出した。

「……はい」

彼はシスターマリアに、何故その修道服を着ているのか聞きそうになってしまった。

「母は、カルロが、病院で死んだ、ショックで、心不全を、起こ、して……。カルロは、原因不、明の症状で……」

呼吸がままならないと言った様な不規則な呼吸をして、シスターマリアは途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

ピエトロは続く言葉を侮蔑の眼差しを向けながら聞く。

「……どうして、カルロや、母が、死ななければ、ならな、かったのか、私には、分かり、ません」

家族の死に対して悲しみの涙を流す聖女。それは、美しくも穢れない姿に見える。

「それは困るな。どうして、お前が僕にカルロを殺させたのかを聞きたかったんだが」

ピエトロは唐突に言った。恐ろしく冷淡な声で。

それに対して、うつむいていた彼女は驚いた様に目の前の殺し屋を見た。

「……え!? な、何を言って……」

全く現状を把握できてない善良な修道女の様に彼女は言った。

「気づいてないのか? 自分から醜悪な気配が滲んでることに。……お前の気配はな、あの時、ケルネ通りで感じたものと全く同じなんだよッ」

ピエトロの声は次第に怒気を含んだものとなっていった。

「もう芝居をするのはよせ」

「何の事でしょうか?」

眉を寄せて怪訝そうに首をかしげる聖女のはずの女。

「写真のデータを渡してもらおうか? お前だろう? あの日、あの路地裏に来たのは」

殺気を漲らせてシスターマリアに近づく。

「ですから、何の事でしょうか?」

とうとう彼女は場違いな笑みすら浮かべて、悠然と立ち上がった。

「……いいだろう。なら、その体に聞くさ」

そう言って彼はコートの袖裏に仕込んでおいた隠しナイフを取り出して、三メートル近い距離を瞬時にと言っても過言ではない速度で彼女に迫った。

狙うは彼女の右肩。痛みを与えて彼女の反応を見る。

しかし、彼はまだまだ彼女を分析し切れてはいなかった。

彼女は彼が危険な殺し屋と分かって近づいてきた。ならば当然それに対する策無しで猛獣の檻に入って来るはずがないのは明白だったのだ。

殺気が満ちるこの場には不釣合なほどにこやかな顔をしたシスターマリアは、彼がナイフを抜いたのと同時に、自らのベールを鷲掴むと一息の内に脱ぎ外した。

ベールが頭から取れる瞬間、彼女の顔が隠れ、そして再び露わになって見えたのは、背中を覆う程に長い、美しくも淫靡に輝く金髪と、悪魔も裸足で逃げ出すほど邪悪に歪んだ彼女の笑みだった。

マリアはピエトロが突いてきたナイフを、腕であっさり逸らして手首を掴み、そのまま彼の右腕と共に背後に回り込んで、その腕を捻り上げた。

「がッ、くあっ」

予想外の事態だった。まさか素人と思い込んでいた相手に、あの突きをかわされるとは思ってもみなかったのだ。

「この動き。殺し屋というのは誰もがこんなに強いのか? ああ、動くなよ。さもなくばこの腕が二度とおイタをしないよう厳しく躾けてしまうぞ?」

口調まで全くの別物だった。

「それにしても、よく私がカメラを撮ったと気付いたな。少し驚いたぞ」

完全に相手を見下すその口調は暴君さながらだ。

マリアは彼の肌を切り裂ける程鋭い狂気を背中から浴びせかけ、捻りあげた手が握っているナイフを乱暴に奪い取った。

ピエトロは彼女の気に屈しないように、自らも全力の殺気でもって応じる。

「それだけおぞましい気配なんだ。間違えるわけがない」

それを聞いた瞬間、マリアは右手でピエトロの頭を鷲掴み、片足を払ってうつ伏せの状態に押し倒した。

「おぞましいのはお前が言えた事ではあるまい。この写真に写っている殺人者の顔はどう見ても悪魔の類だぞ?」

倒れ伏した彼の背中に腰を乗せてそう言うと、どこからか一枚の写真を取り出して彼の目の前でひらひらと振る。

体の重心に乗られているためか、彼は立ち上がることができない。しかも、余程引き締まった筋肉を持っているのか、マリアは外見の細さに反してかなり重かった。

彼の目の前で踊っている写真は、この前手紙に入っていたあの写真と同一の物で、それを見た瞬間、彼は肉体的にも精神的にも彼女に支配された気がした。

「……それより、答えろ。お前は何で僕にカルロを殺させた? 何故僕に近づいてきた?」

その言葉を聞いたマリアはにやけながら彼の拘束を解き、先ほどの椅子に今度はどっかりと座って足を組むと、目の前に置いてあったワイングラスとボトルを取って彼の酒を飲み始めた。

「おい、答えろッ」

立ち上がったピエトロは彼女に詰め寄った。

「急かすな。私の可愛い玩具よ。……ふぅん、美味いな、これは」

彼女は、酒の味に感嘆した後にグラスを置くと、幼子に言い聞かせる様な嘲りを込めて語り始めた。

「……理由は単純明解。お前とカルロは仲が良かったろう? そして、カルロはお前に心酔していた。だから殺させた」

意味がわからない。

マリアはそれで十分伝わったと思っているようだが、その実、何の説明にもなっていない。たったこれだけの質疑応答でピエトロは今の彼女との意志疎通は半ば以上不可能であろうと踏んだ。あまりに常軌を逸した思考のせいで観察術すら上手く働かない。

「……理解の悪い奴だな。私はお前の嘆きが見たかったんだよ。無実なカルロを殺した罪の重さと、大切な知り合いを無くした喪失感を同時に味あわせてやったら、どんな顔をするのか知りたくなったのさ」

マリアはあごをくいっと上げた。それだけの仕草で座って見上げている彼女が立っている彼を見下す様な絵になる。

 具体的になされた説明すらも理解できない。いや、そもそも理解したくなかった。

「お前に近づいた理由はそれだ。私は生まれつき他人の不幸や苦悩に敏感で、そして、それらを見てこの体で感じるのが大好きなんだ。苦悩の気配ならば目を瞑っていても分かるぞ。今どこに誰の苦悩があるのかすらな。大したものだろう?」

マリアは一度言葉を切って、再び透明なグラスに紅色を注ぎながら先を続ける。

「故に、他人の幸福は私の不幸だ。人の悩みを解く聖職者など虫酸が走るし、そう言った思想を持つ連中と一緒にいるのは本当に辛かった。今、ようやく落ち着いたよ。お前から滲む不幸と苦悩の味わいはなかなかに芳醇だ。このワインを泥水と断じてもいい位にな」

彼女は、余程その鬱憤を溜め込んでいたのだろう。語って吐き出す程に酒の美味さも相まって上機嫌になっているようだ。

「そ、そんな、ことの、ためにッ?」

震えるピエトロの声に、マリアは酷く気安い口調で応じる。

「言ってくれるな。私にとってはこれが唯一の楽しみだ。人が嘆き、悔やみ、絶望し、憎み、争い、恐怖する。人の負の面しか面白く感じないのだ。心の死活問題だよ。だから、お前という玩具を見つけた時の喜びと言ったらなかった。神に赦しをもらいながら日に日に増していくお前の苦悩は素晴らしかったぞ。その矛盾が良いスパイスにもなっていた」

教会から帰る際に必ず言われた「また来い」という言葉の真意はそこにあったようだ。

彼の来訪を望むのは、救いのためではなく、壊れゆく玩具を自身に繋ぎ止めるだけのものだったのだ。

苦悩を飲み込む声は、他者のためではなく、快楽の源を頬張る際の、副産物にすぎなかった。

おそらく、他の人間に対してもそうだったのだろう。献身的な救済はスケープゴートの苦悩を間近で味わうための口実に過ぎなかったのだ。

「くっぐぅ…う」

――そんなことのために、そんなことのためにカルロはっ……――

拳を握り締め、肩を震わすピエトロから溢れる殺意は尋常ではない。それは、あのクリスが発していたのと同じ、狂気一歩手前の燃え盛る憎悪だった。

だが、マリアはそれに恐怖するどころか、快楽によって体をぞくりと震わせる。

「くふっ。くひひひ、あっははははは。そう、それだよピエトロ。そういう感情を抱いて欲しかった。そういう表情をして欲しかった。きひははははははははははは」

抱腹し、足をバタつかせて喜ぶマリアを見た時、ピエトロから理性は無くなった。

手をかけたのは紛れもない自分であるが故、全ての責任が彼女にのみあるわけではない。死に対する恐怖を抑えられなかった自分とて少年の死の原因なのだ。

そんな考えはピエトロの頭から完全に弾き飛ばされた。いや、飲み込まれたのだ。目の前にある人の形をした悪を殺せと叫ぶ憎悪の渦によって。

ピエトロはホルスターからM八四を取り出して、その銃口を彼女に向けた。

「ははっ」

対する彼女は瞬時に反応して立ち上がるものの、銃を向けられてなお笑ったまま余裕で構えている。

「死ねえええッッ!」

ピエトロが殺し屋として生きてきて、殺意をもって引き金を引いたのはこれで二度目。一人目はあの黒い依頼主。二人目は彼女。

しかし、あの無知な依頼主と違ってマリアの危険度は段違いだった。あの男は自らの欲と無計画さによって消えたが、この女はそんなヘマはしないだけの慎重さ、狡猾さと実力を持っている。

彼の危機察知のセンサーは、この女を生きて返さないようにと警鐘を鳴らしていた。

狙いは胴体。腹部と心臓。二発で沈める。

ピエトロは狙いを定めて引き金を引いた。

乾いた音が室内に響いて、死をもたらす凶弾が命を刈り取るべく拳銃から飛び出した。

「……ほう、できるものだな」

だが、彼女が発したのは苦痛の呻きではなく、余裕の混じった嘲笑だった。

恐るべきことに、彼女はピエトロが瞬時に放った二発の弾丸を躱したのだ。

卓越した身体能力のなせる技だが、弾速を上回るという人間離れした速度で避けたわけではない。彼女はピエトロが銃を構え、狙い、発射の反動を抑えるために僅かに動かした重心移動という、銃を撃つ前の土台造りを見て取って、あらかじめ弾が当たらない場所に移動していたのだ。

あまりの出来事に虚を突かれたピエトロは一瞬だけ隙を作ってしまう。それは一秒にも満たぬ小さな油断。

「もう撃たせん」

しかし、マリアが安全圏に逃げ込むのにはそれで充分だった。

「っく、しまっ……」

銃に対する安全圏。すなわち、照準が定まらない程の超密着状態。射手の懐。

マリアは、彼の真正面まで迫るや否や、右の拳をピエトロの腹部にあてがい、足から根を張っているような安定した重心を確保した後、床を踏み込む「震脚」によって生み出された爆発的なエネルギーを、腰の回転と腹筋で上半身へと持ち上げ、肩の捻りを通して、碗の筋肉に伝導し、終着点である右手の拳に全て集約させ、ピエトロの腹部に送り込んだ。

「っかはッッっ」

次の瞬間、彼はしゃっくりのような声を出して地から足が浮いた。体が宙を舞ったのだ。

場違いなのは分かっていたが、それでも彼は懐かしい感覚を覚えずにはいられなかった。

嫌に緩やかに流れる風景、遠ざかる相手。そのビジョンにどこぞの廃墟と一人の中国人女性が被る。

「がああッっ。……つッ、うう、ぐッ」

彼は、背後の壁に叩きつけられた。

内臓がビクビクと震えている。それだけではない。腹筋だけでなく胸筋にまで振動が起こっており、彼は胃からこみ上げてくるものをなんとか飲み下す。

「がっハあァあ。な、なんて、威力、だ。……お前、中国、拳法を、使え、る、のか」

まだ腹部の筋肉が痙攣しているため、息継ぎもまともに出来ぬまま、何とかそれだけ絞り出す。

「ご名答。幼い頃から習っていてね。これには多少の自信がある。師曰く、もともと才能もあったらしい」

吐気による残心で気持ちを落ち着けた後に、彼女は悠然と言い放つ。

多少なんてものじゃない。

今シスターがくりだした「寸勁」という技は成長したピエトロをもってしても、習得が叶わない中国拳法の極意の一つ。しかも、相手を吹き飛ばす程の威力を連綿と続く攻防の中で出してくるなど、相当な鍛錬を積まないとできない芸当だ。それをこの若さで行うということは、自称した通り彼女は真の天才なのだろう。

「しかし、これを人に当てたのは初めてだが……意外と軽いんだな、人の体は。命の価値と同じだ」

最後にぽつりと、修道女にあるまじきことを言いながら、マリアは酒のしまわれた棚に目を向けると、勝手に物色を始めた。

「……ど、どうして、ここに来た? いつも通り、教会で会えば、正体もばれなかった、ろうに」

途切れ途切れにそう言うピエトロ。今の一撃の影響がまだ残っているため、腹筋に力が入らず、それ故、腕や足を力むことすらままならない。

 マリアは棚から何本かのボトルを持ち出してテーブルに並べると、未開封のそれを根こそぎ開けて利き酒を始めつつ、問いに応じた。

「言っただろう? カルロを殺してしまったお前の反応見たさに来たとな。家族の死に取り乱したふりをして病院を抜けてきた。……イマイチ。まぁ、確かに、来て早々に正体がバレたのは誤算だった。……美味い。カルロ殺害を命じた私を必死に励ます、滑稽なお前を見たかったのだがな。…………そ、そうだ。励ますと言えば、さっき、病院で、なぁ……」

マリアの声は、肺の中の僅かな空気さえも使っている様に、だんだん小さくなっていくのだが、どうやら、それは込み上げるものを必死に抑えているだけの事だったようだ。

「きひゃはははははは。お、おおお前にも見せてやりたかったぞ。馬鹿な母の死もさることながら、思いがけぬ収穫はあの院長の涙だ。家族を亡くした私を慰める院長の道化ぶりは最高だったよ。彼女と共に嘘泣きするのがどれだけ辛かったことか。きっひひひ、あっはははは」

ピエトロは目を逸した。

その姿は、彼にとっては冒涜以外のなにものでもなかった。こうまで彼の求め欲していた表の人間の優しさや思いやりを嗤われ、侮辱されて、どうしてこれを許せようか?

しかし、今の彼は彼女に抵抗する手段すら無く、拳に力を込めて彼女に対する怒りを心の内に溜め込むのが精一杯の足掻きだった。下手に感情を外に出すと、再び彼の心と体に手痛いしっぺ返しを喰らいかねない。

「おやおや、そんなに怒ってどうした? そういえば、お前に聞かせてやらないとなぁ。カルロの、お前宛ての遺言を」

驚愕した。

彼女の鋭い嗅覚は、秘めたる感情の機微すら嗅ぎつけられるようだ。信じ難いことだが、先ほど言っていた生まれつきの感性というのは真実であるらしい。

「カ、カルロの?」

そして、半ば縋るように、怯えるように彼女を見るピエトロ。マリアはその姿を良しとして、悪魔の邪悪ささながらに、にんまりと口の両端を釣り上げた。

「あいつめ、実に殊勝な事を言っていたぞ。『姉さん。もし、お兄さんに会ったら、僕はしばらく用事で会えないと言っておいて。病気になったなんて知ったら、あの人きっと悲しむから』だとさ。ひははっきははははははは」

器用なことにマリアは声帯模写までできるらしく、カルロにそっくりな心地よい声を出した。が、直後耳障り以外のなにものでもない本来の声に戻り、彼の鼓膜を掻きむしる。

「……あ」

心に、亀裂が走る。

『所詮、お前は醜い殺し屋。誰かを幸福になどできはしない。ただ我欲のために死を運ぶのみ』――カルロの最後の言葉は、今の不安定な彼にそう解釈させてしまう程に他者への優しさと愛が込められていた。

少年は自らの死を理解した上でそれを言ったのだろう。迫りくる死を直視してなお、消えゆく自身よりも残される者を優先したのだ。その自己献身、その思慮深い博愛は、並の精神力では成しえぬものだ。ましてや十歳そこらの少年には。

そんな彼に対して、自分は一体何をした?

ただ、己可愛さのために、少年を自分の命を繋ぐための生贄にした。そこに慈悲など一片もない。未来ある若者よりも、未来など見えない殺人鬼を優先したのだ。いつものように、悪人を殺す時と同じように殺した。

それだけだ。それしかできなかった。それだけが自分の存在意義。人を殺して殺して殺して殺して優しさの真似事をしてはまた殺して殺して殺してこれではマリアとなんら違いはないじゃないかなにが人を救うだ陰で永遠に醜い仕事をして手を血に染めていればよかったんだそうすればこんなことにはならなかったぼくはみちをまちがえたんだこれからはむしんでひとをころしていったほうが――――

ピエトロは完全に脱力し、後ろの壁に頭を預けて虚ろな目で天井を見つめた。いや、天井に向いているだけで、その両の眼には何も見えてはいなかっただろう。

「さあ、乾杯をしようじゃないか。優しいカルロの最後の善行を祝して」

マリアはわざわざ彼の分のワイングラスを用意して、それに酒を注ぎ、嬉々としてピエトロに渡してくる。

「……」

しかし、当然のように彼は微動だにしない。

マリア自身、彼が受け取るとは思っていなかった。しかし、せめて払いのけられる位の反応は期待していたのか、固着してしまった彼を怪訝そうな顔で見る。

「……んん? 壊れたかな?」

マリアは差し伸べていたグラスをゆっくりと傾けて、哀れな殺し屋の額にワインを浴びせかけた。……目を瞑る反射行動以外の反応はない。

どうやらカルロの遺言は余程堪えたようだ。彼はショックのあまり茫然自失になっていた。まさにこれは彼女が望んでいた精神的な圧迫であるのだが、その苦悩もろとも心の中に逃げられては、面白さは半減である。

しかし、彼女は幸福の狩人。平穏の処刑人。自らの内に閉じこもった苦悩を燻り出すなど、赤子を自殺に追いやるよりも容易いこと。

「カルロはお前に何を願った? 『悲しむな』と言ったんだぞ? お前は勇気ある少年の、最後の望みすら叶えられないのか?」

マリアは、ピエトロの前に膝をついて耳元でそう囁いた。

「…………だ、まれ……」

途端に心無き人形が口を開いた。彼にとっては笑い声よりもカルロにまつわることの方が余程耳に入れたくないようで、力が入らないはずのその両手は弱々しくも耳を覆う。

しかし、彼女は容赦なく言葉を続ける。

マリアはしおらしい顔で、人の死にやるせなさを感じているといった声音で言った。

「カルロは、お前の事を本当に尊敬していたよ。まるで、悪に立ち向かうヒーローのようだとな。いつかお前から教わった観察術とやらを有効に使いたいとも言っていた。結局、その望みは絶たれてしまったわけだが」

「…………カルロ……」

ピエトロはぽつりと言った。それがきっかけとなって、外に出すまいとして抑えていたものが溢れてくる。それはもう抑えようがなかった。

ついにピエトロの虚ろな眼から流れ出た悲しみの雫を見て、マリアは心をしぼられるような強烈な息苦しさと、心臓から体中に広がる痺れと震えを感じて思わず胸を押さえた。そうでもしないと、溢れ出て止まらない快楽を抑えられるとは思えなかったのだ。

「ふひ、きひひひひ、キィィィィキキキィッ!」

マリアは体を弓の様に反らせながら、最早笑いとも苦悶の呻きとも取れぬ、いや、そもそも何の感情を表現しているのかも分からぬ声をあげ始めた。

ようやく、一番見たかった嘆きを見れて彼女は満足する。

後にとっておこうと思っていたカルロの遺言暴露によるピエトロの反応を、我慢できず今見てしまったのは惜しかったかもしれないが、彼の反応は予想以上に彼女のツボにはまった。今後も自分を十分に楽しませてくれる確約を得られたと考えれば安いものだと、彼女はそう判断した。

その苦悩に歪んだ表情も、涙の儚さも、心の嘆きも、今まで教会を訪れた悩みを持った数ある玩具の中でも極上の一品だった。

「泣くんじゃない。涙は感情の結晶だ。それを流すということは、お前の心を苦しめる悲しみを外に出すことに他ならない。そんなことをしたら私がつまらないだろう?」

マリアは彼を滂沱させておきながら、それを止めるように促す。

彼女の嗜好では、気をやる程悲しみながらも涙を流すまいと悶える人間が最も好ましい。

爆弾が爆発しないように自らを抑えるその無様さ、その矛盾、その足掻き。抑えようもないものを無理に抑えようとするその時こそ、人の心が痛みで身をよじる最大の瞬間だからだ。

ふと、涙とワインで顔を濡らしたピエトロを見たマリアは、新たな趣向を思いつく。

ピエトロの前に膝をつき、彼の体に己の身を委ねるように密着した。

そして、マリアはうなだれた彼の顔を自分に向かせると、悲しみの結晶とワインが滴るあご先に自らの舌を這わせた。

「な、お前ッ……」

ピエトロは拒絶したいが、今の彼は物理的に拒む力さえない。

舌はそのまま、彼の左頬を伝って雫の源へと登ってくる。

美女に抱きつかれるなど、本来なら喜ぶべき事だろうが、相手が彼女では断じてそうは感じられない。マリアの体は重さに反して相応の柔らかさを持っているが、彼にとっては毒クラゲに抱きつかれたようなものだった。舐め上げる舌もてらつくナメクジそのものだった。

頬を舐められる間は何とか我慢する彼だったが、その舌が悲しみの源泉へと至るために、彼の瞼をこじ開けて眼球に触れた瞬間、あまりのおぞましさに半ば反射的に身を捻って、無理やり彼女を振りほどいた。

「やめろッ。異常者め」

ピエトロは吐き捨てるが、彼女は気にも止めない。

マリアは身を起こすと、彼の悲しみの涙とワインのカクテルを舌の上で味わっているようで、目を閉じて口をゆっくりと動かしている。

そして、存分に堪能した後に、僅かにあごを上げて喉を鳴らすと、途端に痙攣した様に体を震わせて、再度ピエトロの体に力無くしなだれかかる。

腰を抜かしたのかもしれない。

「……あ、はあ……あ……」

マリアは熱のこもった吐息を彼の胸元にかけながら、しばし茫然としたまま動かない。

全身の血が冷えた気がした。ピエトロは目の前で動かなくなって恍惚とした顔をする今の彼女にこそ、もっとも強い恐怖と危険性を感じた。

百歩譲って他人の不幸が好きな人間がいるのは認められても、他人の苦悩を無理やり絞り出し、飲み干して、あまつさえそれで絶頂を感じる者など、容認できるはずがなかった。

もう目の前の存在が本当に人間なのかも怪しく感じられる。冗談ではなく、本当に悪魔の類なのではなかろうか?

「……聖母に、向かって、悪魔はないだろう」

 息遣いが荒いマリアは唐突に、しかし、ぼんやりと彼の心を見透かして言った。

「……だが、許そう。良い体験をさせてもらったからな」

体中を走り抜ける快楽の余韻を愉しんでいるようで、マリアは暫くピエトロに跨ったまま茫然としていたが――満足したらしい彼女は、いまだ快感から覚めやらぬまま、おぼつかぬ足取りで立ち上がった。

「このまま、ヘソの下のうずきを抑えてもらいたいところだったが――」

マリアが目を向けた部屋の時計の短針は十一時に近づいていた。

彼女は一瞬残念そうな顔をしたが、床に落ちていたベールを拾うと、暴君さながらの口調で命じた。

「ピエトロ。新たな命令だ。殺害対象:ベアトリーチェ=コルテッラ。期日:明日の夜八時まで」

 ピエトロは、怒りに顔を歪ませてマリアを睨むが、彼女は笑みを返すだけだ。

「くひひ、せいぜい励めよ。では、私は帰るとする。今度は肌を重ねて語らいたいものだ」

それが済むと、再び修道女にあるまじき事を言いながら、その長い金髪をまとめ直してベールを被る。

それと同時に、先ほどまでの暴虐武人さも、陶酔したような顔つきも彼方へと消えうせ、まるで慈悲深き修道女のような優しい微笑に戻っていた。

纏う空気すら変質し、あのねっとりと絡みつく砂嵐のようないやらしさが、今では暖かな風が野原を撫でる清らかさへと変わっていた。

「では、私はこれで失礼します。あなたに神の御加護がありますように」

冷酷とは程遠いであろう、温もりのある声でそう言うと、シスターマリアは家から出ていった。

残ったのは重苦しい沈黙と狂気の残滓だけで、身も心も玩弄されつくした彼は、そのまま彫像のように動かなかった。


 

伊東龍一はぼんやりと煙草を吸いながら薄暗い部屋の天井を見つめていた。

部屋の中には人工の光は無く、カーテンの隙間から漏れる朝日が辛うじて室内を照らしているにすぎない。

寝そべっているソファは、どこぞの事務所にある高級なそれとは違って安い造りで、手すりや背もたれの端には埃が溜まり、なにより、柔らかさに欠けていた。

部屋のそこかしこには空き缶や酒のボトルが散乱しているが、そのソファとキッチンとバスルームに繋がる通路には、熊が作った獣道の様に足場が形成されている。

三LDKの部屋に男一人が住んでいるというのは、普通なら贅沢かつ広々とした居住まいを妬まれそうなものだが、彼の巨体を見れば、その広さすらも手狭に感じさせるため、むしろこれで丁度いいのだと考え直すだろう。

「……」

伊東は、天井に紫煙で作った輪を吹きかける。

「……んん」

ソファの上で意味もなく寝返りをうつ。

「……?」

テーブルに置いてある、空なのが分かっている酒のボトルの残量を見る。

「……む」

煙草を一気に二本咥えて吸ってみる。

これらの一見謎めいた行為が意味するところには、実は余人には予想しえぬ重大な意味が隠されて……いるはずもない。

……つまるところ、彼は悩んでいたのだ。

自分が今後取るべき行動の是非を自らに問うていた。

昨夜、ヴェイラ港を縄張りとするマフィアの許可もなく、海のルートから物資の密輸をしていた新参闇商人を潰す仕事についていた時も、彼の頭はこの悩みで一杯だった。

商人が雇っていた護衛は二十人を超え、かなり激しい銃撃戦が繰り広げられた。

しかし、伊東の体は敵を確実に屠りながらも、思考は銃弾飛び交う死地から遠い所に飛んでいた。その飛んだ先で彼を悩ましていたのは、闇の中、羨望の眼差しで光を見つめる青年の姿だった。

伊東は彼の悩みを可能な限り取り除き、幸福にしてやろうと考えている。それが、亡き親友に対する唯一の弔いであると信じているから。

だが、自身が良かれと思ってやったことが、結果的に彼の心を傷つけることになるのかではないか?

事実、業界に馴染めない彼の心の負担を消してやるために、かつて自身がそうであったように、慣れで以て解決してやろうとしたが、それは却って余計な重荷を背負わせただけに終わってしまい、あまつさえ、あの青年はその重荷に耐えきれず、最も回避すべきだった、表の人間との接触をするに至ってしまった。

自分の考えは、どうも空回りしてしまう。――伊東は苦笑した。

心の弱いあの青年には、表社会との接触は、自分の世界との摩擦が大きすぎて身を削るだけになると考えていたが、その実、あの写真を見る限り彼は思った以上に表の世界に順応しているようだった。

今では、彼の最大の幸福はあの教会にいることなのかもしれない。

もしかすると、彼はうす汚れた世界で生きる事を是とする自分とは、これ以上付き合いたくはないと考えているかもしれない。

まさか。心優しい彼に限ってそんなことはあるまい。

いや、もしかすると――

「が~っはっはっはっは」

景気づけに思い切り笑ったが、表情に感情がついて来ないのでは意味がない。

彼を業界から解放する手は考えてある。

しかし、それを実行して再び彼を傷つけることになっては堪らない。その手段の実行は、つまりあの教会の人々から彼を引き剥がすことに繋がるからだ。

彼は何に重きを置いているのか。業界の手の届かない安全な生活か? それとも教会のあの子達と一緒にいることなのか?

情報が欲しい。

彼の真意が知りたい。

今更になって、ダルダーノから観察術を習わなかったことを後悔する伊東だった。

一歩先に踏み出した足は果たして大地に触れるのか? それとも奈落へ続く穴を踏み抜くのか? 皮肉にも、伊東はそれが分からないがために、自身との会話を望んでいる、かの者の望みとは真逆のことをしているのだった。



ベールを外したマリア=フォルトゥナーテは一人になれて満足していた。

今は、このアパートの二DKの部屋には彼女一人。

小やかましい弟も、床に伏せがちになった役立たずの親もいなくなり、ようやく自由になるのだと心踊らせていた。

彼女は、現在家族が死んで喪に服すためと、精神的にも参っているだろうという院長の配慮から一時的に自由行動が許され、自宅に帰って来ている。

「……くく」

彼女は今、ワインを煽りながら自室のベッドに寝転んでいた。

実家にある安酒は実に不味かったが、快楽を得ながら喉を潤すにはこれしかない。昨夜、飲んだものはどれもかなりの美味さだったために、舌が肥えてしまったらしい。

「ふふ、あっはは」

しかし、それでも笑いは溢れる。

まずい酒を口にしていること以外は何もかもが上手くいっている。

カルロを殺したもう一つの重要な目的であった、一時的に教会の規律から解放されるというのも思惑通り実現した。院長の性格からして、そういった配慮をされる確信があったのだ。そして、母が死ぬのは予定外だったが、嬉しい誤算と言えるだろう。

彼女がまだ幼い頃、貧困に陥った家庭を父が捨てたことで一家の生活は一時期スラム街に住む程に落ち込んだ。

その時に、再び小さな家を持つことができる程に金集めに尽力したのは、ほとんどマリアで、彼女の母は、自分よりも子供に食べ物や贅沢を分け与える優しさはあったが、底辺に落ち込んだ現状を受け入れて、そこから復帰する努力をしなかった。

故に、彼女は母を怠惰なだけの人間と幼い頃より早々に見限っていた。

「……ピエトロ。お前はまた泣いてくれるか?」

今の彼女は悲劇の聖女の様に死者を悼むよりも、恋する乙女の様に一人の男を想う方が大切だった。

昨日、ピエトロの家から出て教会に帰った後、気を使ってくれたのか、葬式の手はずは院長が整えると約束してくれたため、弔いの準備などという無駄な時間を過ごす必要はない。だが、昨日彼に与えた命令のせいで、それが無事に成されるかは分からなかった。

院長が夜八時までに葬式の作業を全て完了させてくれていれば儲け物だ。手間は省ける上、苦手な彼女は本日づけでこの世から消えるのだから。

その約束の刻限から既に三十分は経過している。いい加減ピエトロが殺害を済ませ、涙の跡を残しながら帰宅した頃だろう。

時計を見やった後、彼女は腰を上げる。

彼が極端に死を恐れるというのは、院長による自首説得の際に見せた反応で確信した。

彼は必ず院長を殺しているだろう。

自分を気遣ってくれた人物を再び殺させれば、彼はまた涙を流す。首尾よく行けば、昨夜感じたあの絶頂をもう一度味わえるのだ。

あの味に比べれば、世界最高の美酒でさえ霞むだろう。爽快なのに濃厚、芳醇かつ成熟した風味。舌に毒な程の涙の甘味に、葡萄の渋みが混ざり合って言葉にできぬ程の快楽を与えてくれる。それは舌から全身へと巡り、爪先や骨の髄にまで有り余る快楽を叩きつけるのだ。悦楽で心が破裂しそうな感覚をもたらし、体も心地よく痺れる。

いや、実のところ痺れを通り越して痛む。今回に限らず、修道女として過ごし始めてより、他者の不幸を感じる度に自らの肉体は神経を潰される様な痛みを覚えるのだが、彼女は特に気にしない。快楽が痛みを凌駕しているからだ。単純な損得問題で、利益が損害を上回るならば目くじらを立てることはない。

昨夜の絶頂を、あの淫らな感覚を思い出すだけで、自分の頬が赤く染まるのが分かる。ともすれば、これが恋なのかもしれない。そんなことを思った自分に対し、瞼を閉じて自嘲気味に笑う。

あれだけの逸材はそういない。眉目麗しく、愚かだが強い。肉体面は完璧なのに、中身は幼子と同然の脆さを併せ持つ。まるで柔らかいのに噛みごたえのある肉のようだ。いくら噛んでも旨味の消えない魔法のステーキ。

――ああ、泣き顔が目に浮かぶ。瞳から溢れた涙がその頬をどう伝ったのかも思い出せる。しかも、あいつの心の内で渦巻く自責の念と言ったら、とても言葉では言い表せん。《なんて可哀想なんでしょう》大丈夫だ、ピエトロ。いくら心が壊れても私が直してやる。だから何度でも壊れてくれ。《彼には贖罪が必要です。早くその苦痛から解放してあげなければ》……ん? 私は何を考えてる? 贖罪などさせてはつまらんだけだ。《私は人を救わなければならない。私は人を救いたい私は人を助け………

「……んん?」

 思考を中断してマリアは身を起こした。

唐突にそれは来た。

何の前触れも前兆もなく。

まるで海がその水位を上げて陸を飲み込む様に、漆黒の夜が日の光でいつの間にか白み始めているように、全く自然に。何の違和感もなく。

次の瞬間――

「な、何?」

視界が暗転した。瞼を開けているのに、一切の光が突如として闇に飲み込まれたのだ。そして、間髪入れず、間欠泉が沸き出るように、マリアの心の中に異物が極めて強引に入り込んできた。

「か、―くッ!―ぁ……」

――まるで、中世の水責めの拷問だ――

マリアは、突然の異常に思考をかき乱されながらもそんな事を思った。

心という器が破裂する程に大量の水を無理に流し込まれる。一切の容赦なく、問答の余地すらなく致死量の水を飲まされる。

その水とは、彼女からすれば猛毒でしかない、清らかで潔白なる一つの心だった。

どこかの誰かが考えていそうな甘い考え。平和ボケした博愛主義。訪れるはずのない悪のない世界。恒久的世界平和。憎しみも争いもない幸福な世界。

それらが、彼女の心に押し寄せる。

その暴力的な侵略に対して苦痛は無い。ただ、流し込まれる物によって自身が押し出されるという、強烈な喪失感を覚える。人間として、一つの個性を持つ存在として、自らが消えるという根本的な恐怖だけがある。

「うッ、があッ―、ああああっッ――」

マリアの心は自分とは全く噛み合わないその侵入物と溶け合うことができず、あろうことか自らの心の器から、押し寄せる謎の圧迫に異物として排除されかけている。

破裂しそうな自らの心を守ろうとした防衛本能なのか、胸元を抱えてベッドに倒れ、のたうちまわる。感電したように体を仰け反らせていた彼女だったが、しばらくすると対照的に死んだ様にその動きを止めた。

「…………………………っはああっッ。あ、はッ、っはあ」

目を覚ますと同時に、肺に勢い良く空気が入ってくる

気を失っていたらしい。

「な、何だ!? 今のはッ!?」

彼女は、慎重に身を起こして、呼吸も落ち着かぬまま、自らの状態を確認する。

特に異常は無い。痛みも無ければ先ほどの違和感も無い。

「…………?」

一体なんだったのか。

――単純に疲れ。無意識にも家族の死を悼んでいた。先のワインが不味過ぎた。恋の病発症。今後のワクワクの裏返し。まさかピエトロの呪いではあるまい? ――

非現実的なものも含めて色々思考するが、どれも得心がいかない。

いや、冗談で脳裏に浮かばせたピエトロの呪いは、ふざけているようで、真実をかすめている感もある。意識を失う前、自らの心を押しやろうとしたあの圧力は、ピエトロそのものであるという感じがしたのだ。

(まさか、奴の善人振りに影響でもされたか?)

マリアはそんなことを思いながらも、ありえないとすぐさま首を横に振った。

何故なら、彼と彼女の心の質は真逆なのだ。

彼女の体術の師匠が、人の心は陰陽太極図によって表されると言っていたが、それは間違いだと彼女は思う。

その図は善の中にも僅かな悪があり、悪の中にも僅かな善があることを示すものだが、それならば、ここに完璧なる善の心を持った男と、完全に悪に染まった心を持つ女がいるのは、どうして説明をつけるというのか。

彼は徹底した善人の犯罪者であり、自分は完全なる悪人の聖職者である。それは一点の染みもない白か黒かの世界。

 そして、彼のことを考えたと同時に、徐々に先の異常の原因を考察することからだいぶ離れていることに気づき、マリアは苦笑した。

――だが、構うまい――

今は何ともないのだから、と彼女は楽観的に考える。

先の現象が今回限りのものなら結構だし、二回目が起きるようならば、ああなる前兆や条件が突き止められる。手がかりもないまま調べるなど、神を見つけるのと同じ程に無意味な行為だ。

唯一、恐ろしい推測としては、母が患った心臓の病が自分にも遺伝的に発症した可能性があることだ。結局それにしてもどうしようもないのだが。

悩む事に飽きた彼女は、先の不可思議な現象にはあっさりと見切りをつけ、ベールをかぶると、母の部屋にあった黒のロングコートを修道服の上から着て、家を出た。

出た直後、シスターマリアは近所ということで付き合いの長い隣家の老夫婦にとある封筒を手渡した。もし想定外の事態になった時の単純な保険だ。昨日はアンジェリカに預けておいたが、変に中身を疑われると面倒なので、定期的に預け先は変えた方が良い。

「これで準備は万端です。……さて、奴はどうしているかな?」

それが済むと、一人呟きながら虫を払う様にベールを脱いで、それをコートのポケットにしまい込んだ。

そして、ピエトロの苦痛に歪んだ表情を見られる期待に胸を膨らませながら、彼の家へと歩を進めた。



「うああッっ……っはっはッ、ふう」

おぞましさからピエトロ=ベレッサは目を覚ました。

全身がぐっしょりと濡れているのは、ワインのせいだけではない。

「くそッ。……夢の中にまで土足で入ってきやがって」

基本的に温厚な彼が起き抜け早々に悪態をつくのは珍しい。しかし、それも仕方のないことと言える。夢の中に出てきたのは、昨夜、人が生きている間に起こすであろう悪事一生分を、ものの数十分でやってのけたあの悪女だった。

その女が唐突に夢に現れた。というよりも、彼女の様なものが自分の中に入り込んでくるという質の悪いものに突如変わったのだ。

嘆きの絶えない馬鹿げた退廃思想。人々が争い、貶めあう裏切りに満ちた愚かな世界。徹底的終末理論。笑いや幸福とは無縁の死に尽くした世界。

それらが漆黒の濁流となって、彼の心に津波の如く押し寄せてきた。

自分の心が彼女のように黒く染まっていった感覚は、夢ではなかったと思える程のリアルな実感として、彼の心に記憶されている。

「あの感覚は……」

忘れもしない。彼がカルロ殺害に当たって体に心を押さえつけられ、彼の意志を掌握された時と同じ感覚だった。思考が薄くなり、意識が霧のようになって、存在自体が消えてしまうような恐怖と、圧倒的な虚無感がそこにあった。

あるいは、それが死ぬという感覚なのかもしれない。

彼はゆっくりと立ち上がって、自分の格好を見た。

「……臭うな」

冷静に自身の現状を把握できた時、彼は、思考が随分落ち着いていることに気がついた。

外を見ると、昨夜、彼女が帰った時と変わらず夜の闇が窓ガラスを黒に染め上げている。頭に水をかけられたような涼しい爽快感と、枷を外されたような体の軽さが無ければ、あの後、丸一日寝続けていたことに気がつかなかっただろう。

とりあえず彼は、バスルームに向かい鼻を刺す様な臭い全て落とし、新しい服に着替えた後、健康食品や栄養剤を胃に押し込んで一息ついた。

「……あぁ、カルロ」

クールダウンした現状でも自らを破壊せんとする衝動は消えてはいないが、その苦しみはだいぶ減じている。少なくとも怒りに支配されることはない。

現在においても彼が絶望の淵を歩いていることに変わりはない。彼女のいやらしい指の一押しで、冷たさに焼かれる地獄へと落とされるだろう。

だが、今は冷静に物事を考える余裕がある。夢の中で臨死のような体験をしたから死への耐性がついたのだろうか?

いや、違う。あの少年のおかげなのだ。

「悲しむな」という言葉は、少年の最後の願いであり、彼にとってはこれ以上ない救いだった。彼の赦しの言葉が無ければ、マリアが突き落とす以前に、彼は自らその地獄へと身を投じていたに違いない。

だが、これはあの少年が自身を殺した相手を知らなかったからこその発言でもある。

――カルロがもし、僕が犯人だと知っていたなら、どんな言葉を残したんだろう? いくら温厚に過ぎる彼でも僕を許しただろうか? いや、善人には手を出さない約束を破ったのだ。流石のあの少年とて――

 ピエトロは頭を横に振って、悲観に傾き始めた考えを振りほどいた。今それを考えて、結論を出すのは危険だ。今はあの女に対する策を考える方が先だ。

当面起こす行動は、マリアから写真を奪うということだ。

だが、あの女が簡単に写真のデータを渡すとは思えない。彼女の家や教会の宿舎に忍び込むのは簡単だが、そこにあるデータを回収して終わりと考えるのは早計だろう。

それに、冷静に考えると、彼女の行動にはいくつか不自然な点がある。

取り乱して病院を飛び出してきた演出をしたと彼女は言っていた。ならば、途中で帰る必要などなかった。そういう言い訳を用意していたのなら、ここで一日を過ごして自身をいびり続けても問題は無かった。なのに、あらかじめ帰る時間が決まっていたような発言していたのはなぜなのか?

これはあくまで予想だが、彼女が時間内に帰らないと、脅迫のネタである写真が警察か法関係者等に送られるという仕掛けが働いていたのではないかと思う。万が一彼女が自分に押さえつけられた時のバックアップとして。

つまり、マリアをすぐに殺すことはできない。あの悪女の息の根を止めるのは、その方法を聞き出して、仕組みを壊した後になってからだ。

時計を見ると、二本の針は九時十分前であることを示していた。

ここにいても解決はしない。いち早く彼女に会い、写真のデータと仕掛けについて吐かせなければならない。

彼女の元へ向かうべくリビングを出たその時だった。

「……来たか。わざわざ向こうから」

ピエトロは、鳴ったインターフォンに反応したというよりも、家の外から憚りなく送られてくるおぞましい気配で気づいた。

昨夜の悲劇を再び引き起こすべく、悪魔のような女がやって来た。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ